[011] ころころファンタジー
〔1〕
大森林の奥地に轟音が幾重と鳴っている。土煙も伴いながら。木々が何かとてつもなく力強い重量物によってなぎ倒されているのだ。
それは大熊だった。なんと体高が十七尺(約5m)を超えようかという巨大さだ。四肢を地に着けた状態ですらそれほどの高みにあり、人に対すればはるか頭上から見下ろす威風に溢れることだろう。そして体長であれば倍の三十四尺(約10m)は下るまい。もしも二肢にて立ち上がり、あまつさえ前肢を振り上げて一撃を下したとすれば、家屋の屋根をも軽く踏み潰せるだろうほどの体躯である。その威容はまさに天をつくがごとし。
そんな大熊が、怒り狂って何かを追い回すように移動、いやさ突進を繰り返しているのだ。その度にめきめきと、破壊に巻き込まれた樹木たちの悲鳴が響き渡る。
だがそうした状況下にある大熊の足元脇から、唐突に場違いな笑声が発せられる。
「ははは。ほら、どうしたこっちだ。くまさんくまさん、手の鳴るほうへ!」
実際にも手を叩いて鳴らし、招くように大熊へ向き合う、その男。アルシンであった。
アルシンがここ数日で行っていた手順、それはモンスター相手の実戦練習だった。
山裾に広がる森林はどうやら秘境の一種であったようで、通常の動植物以外にもモンスターの類いが豊富に生息していた。よって、これを利用し、段階を踏んで血しぶき舞う実戦に対する“慣れ”を醸成していく、というアルシンなりの考えである。
この行動を選択した理由は、この地で――あるいは“この世界”でと、そろそろ呼ぶべきか――生きていくならば、どうしたところで暴力沙汰は避けられそうにない、その判断からであった。いざその場に立ってから惑ったりうろたえたりした末にようやく動き出すなどといった無様を晒せば、そうした愚は容易く己の命を途絶えさすだろう。ならば、事前に、余裕のある状況下で、計画的に習熟を図っておく必要があった。
戦闘行動自体には、ゲーム時にさんざん慣れ親しんでいた。今向き合う大熊級の相手なぞいくらでもいたし、その更に三倍も四倍もあろうかという竜種とすら正面切って渡り合ったことが幾度とあった。人の身の丈を超えた巨獣と戦意剥き出しで向かい合うなど、今さらであって、実際に試してみてもアルシンの内に臆するところはなかった。
だが、どこに落とし穴が潜んでいるか、これは一つずつ確かめてみなくては分からない。例えば、「アルシン」の身に備わった能力の行使それ自体は熟練のものだが、ゲーム時に幾万と繰り返していて慣れすぎた感覚が、結果として思わぬズレからの失敗を生じるかもしれない。これも例えば、ゲーム時にはウィンドウ情報表示が多角的にあったため視覚上の邪魔と補助を前提にした立ち回りであったし(邪魔といっても透過処理などもあって完全な邪魔というわけではなかったが情報量も多かったので、差し引きすれば負担の側であったろう)、きらびやかなエフェクトが視線や注意をわずか遮る点などもあった。今はそれらがなく、代わりに吹き散る血煙が視覚を妨げることもあれば、なるべく浴び受けぬためには避け抜ける足運びに工夫が要ったし、また血臭が容赦なく鼻を突くこともあって反射的に身が固まったり注意を持っていかれたりしないよう対処も要した。足元は当然のごとく不整地であり、穴くぼみや石ころ、木の根や下草などに足を取られぬ気払いも肝要だ。もちろん、痛覚や、汗、息、筋肉と骨のしなりきしみ、といった身体性の要素とて把握下に修め直すべきところである。
現実化した実戦に適応する。ただし、そのためには心身への負荷を考慮した段階踏みを経るべきだとアルシンは考える。いっぺんの行いは許容量を超えさせ、破綻を招く。よって、まずはモンスターではない野獣を狩りとって解体するところから始め、小型のモンスター、中型、大型へと、日数をかけて徐々に手順を進めていった。昨日は七尺(約2m)級の灰餓狼の群れを長ごと倒したし(長の体格は一回り大きかった)、その前は単体だが十尺(約3m)はある巨大で悪食な猛進猪を倒していた。
そして今日、満を持して、森の最上位に君臨する大魔熊との戦いの時を迎えていた。
「はっはー! いいぞ、その調子だ。全力でかかって来いっ!」
大熊の繰り出す巨腕の一撃を、あるいは大顎の一噛みを、紙一重でかわしながら、アルシンは【挑発】の声を発する。あえてギリギリまで引きつけての回避を繰り返しているのだ。習練のために。
そして、【挑発】スキル。アルシンはソロ専であったためパーティ組みの者たちのように盾役や壁役といった「敵の注目を引きつける役回り」が必要であったわけではないが、レベリング(キャラクターを鍛えるために意図して行われる連続的なモンスター狩りのこと)の際などに走り回りながら敵をプル(釣り上げること、わざと敵対状態にして自身を追わせて所定のキルポイントまでおびき寄せる行為)したり敵の挙動を誘導したりといった手段として有効であったため、ちょくちょく使っていた。ただし、スキル熟練値は低めだ。今回、なるべく長い時間、密度の濃い戦闘を経験するため、大熊の動きを鈍らせないようアルシンからの攻撃は最小限に抑えつつも敵愾心を最大に喚起する手段として、この【挑発】を活用していた。
また、声かけ自体は当初、【挑発】のためだけであった。だが次第に戦闘の興奮に染まってゆき、凶暴な笑みとともに声音もまた高まりつつあり……何より、アルシン自身がそれを止めようとは思っていなかった。
(これだ、この焼け走る電流のような脳髄の目覚め……。骨肉の芯を打つこの手応え!)
これが戦闘だ。これこそが生きるということだ。この実感を求めたがゆえに《ミグランティス》の舞台に降り立った存在が「アルシン」だったのだ。久しく忘れかけていたが……こうして思い出してみれば明らかなことだった。これ抜きで生きようなどと、そんな考えは冗談にもならない。負傷の激痛? 死する危険? 承知の上だ。それでもなお引き換えに出来ないものだってある。アルシンにとっての数少ないその内の一つこそ、これだったのだ。
「ほらほら、当たらんぞ。もっとよく狙え。その大爪で我が身を切り裂いてみろ!」
大熊の力任せに横振りされる左前肢のなぎ払いを、アルシンはあえて前進することで肢の内側下のわずか間隙に身を潜らせて避け。続くはるか頭上から振り下ろされる鉄槌のごとき大熊の右前肢を、アルシンはうなる豪風を耳そばで感じながら大熊の脇下をすり抜けてかわす。そしてそのかわしざまに、押し出すような蹴りを大熊の脇腹へとくれてやり、蹴りの反動を利用して距離を置く。仕切り直しだ。アルシンのためではない。大熊の呼吸を整えさせてやるためだ。
アルシン自身の体力にはまだまだ余裕があり、このまま何時間とて戦い続けられそうだった。しかし、大熊の方は興奮と苛立ちのせいもあるのだろうが、大いに呼吸が乱れていた。秘境の主であるならばその闘争が一度始まった以上は不退転のものであるはずだったが、さりとて物理的な限界を丸きり無視できるかというとそんなわけもないだろう。もし酸欠から動きを鈍らせ、あまつさえ潰れられでもしたら本来の目的を果たせなくなってしまうし、何より興ざめすること甚だしい。もっと、その力の全てを発揮し尽くすまで、なるべく万全に近い状態を保ちつつ戦闘相手となってもらわなくては。
と、そこで呼吸を多少は整えた大熊が、これまでになく大きく息を吸い込み始めた。
(何かやるつもりだな……。ブレス系の大技か?)
大熊の全身が毛を逆立て、その身の内を奔流する魔力が音を立てんばかりに高まっていく。肺から口顎にかけての強い魔力の圧縮。属性は風か。ならばおそらく。
「衝撃波の類い、か。よし、撃ってみるがいい!」
肺を大きく膨らませたためか上体を立てていた大熊が、ドンッ! と前肢を地に着けて勢いのまま頭部を突き出し、猛々しく大口を開く!
来る! アルシンは極限の集中をもってその瞬間に備える。引きつけて引きつけて……今! 【回避】スキルの基礎技法『サイドステップ』を行使して横跳びに回避を試みる。『サイドステップ』は初級で覚えるテックで単純だが使い勝手が良い。短時間で再使用が可能なことと、ほんの一瞬の0.2秒にも満たない間だが無敵めいた「すり抜け」状態の時間があるのだ。
そうして、身をすりかわしたアルシンのすぐ横を、ゴガォッ! とでも表すべき轟音と圧力が満たして響いた。音よりも早いその衝撃の波は、「通り過ぎる」というような現象の経過を理解させるものではなかったのだ。ただ結果として、それの叩きつけられた先にある大樹たちは砕け折れ、岩であっても割れ散って、地面ですら表層が塵のごとくと化していた。まさに大破壊。秘境の主として君臨する者に相応しき、凄まじい威力であった。
だがアルシンは無傷でかわした。大熊へ告げる。
「威力ばかりでは、当たらなくてはどうということもないぞ。どうした、たったの一発で力の限界ではないだろう。何度でも撃ってみるがいい」
挑発を重ねるアルシン。先ほどの咆哮の衝撃波はなかなか見事であったため、正面から改めて力比べしてみたくなったのだ。むろん、勝機は十分に見込んだ上でのことだ。
アルシンは準備には慎重な男だ。どんなモンスターと戦う前にも、【看破】スキルなどを駆使して入念な観察を行っている。この大熊、主として地脈の魔力を吸収することで魔獣化を果たしていることは分かっていたため仮に「大魔熊」と名称を位置づけていたのだが、先ほどの咆哮の衝撃波を併せて鑑みるならさしづめ「咆衝の大魔熊」といったところか。
【看破】で大熊を見破った限りでは、その力量はアルシンと比べてだいたい三分の一程度。アルシンのゲーム時におけるレベル値は一千であったから、もしこれがそのまま通用するのであれば大熊のレベル値は三百台の前半あたりということになる。これだけのレベル差があればこそ、アルシンはある程度の余裕をもって戦いに臨めているのだ。ただし、レベル差が大きいからといって大熊がザコ扱いかというと、そんなことはない。まず体格と質量が圧倒的に違う。まるで蟻と巨人だ。仮想のゲーム状態ではなく現実の生身化を果たしてしまった現状においては、重大かつ深刻な影響要素である。次いで大熊はボス位持ち(に相当する存在)であって、モンスターとしては特別な大型種だ。そして秘境の主でもあるため地脈からの莫大な力の流入を受けてもいる。もしアルシンが大熊の突進を無防備に食らってしまったなら、あっさりと挽き肉のごとく潰されてしまうかもしれない。その危険は常にあった。また、大熊の全身は隙なく剛毛と分厚い脂肪層に守られ、かつ強靭な魔力防護までまとっている。常人が立ち向かったところでよほど強力な魔導具でも用いない限り、槍も通らず矢も刺さらずと、文字通りに相手にならないであろう。さすがは秘境の主と呼ぶにふさわしい覇者の威容であった。
グォオォォ……、と不満げなうなり声を喉奥で鳴らしながら、にらみ構える大熊。それに対しアルシンは、からかうような声を返す。
「なんだ、来ないのか? ならばこちらから行くぞ?」
瞬転、アルシンは大熊の鼻面に前蹴り一発、さらに素早く身をひるがえして大熊の左脇腹に張り付く。掌底の双撃。【柔術】に【魔力】を乗せた、浸透勁のようなものだ。内臓までは響かせないが骨と筋肉を痛ませる。そうした加減の攻撃だった。目的は痛覚を刺激することだ。大熊をもっと戦意で満たすために。
もちろん大熊は暴れ出す。その巨体をよじって当たり潰さんとし、また剛腕を振り回す。まるで局所的な災害、竜巻が生じたかのごとき破壊の嵐。
だがアルシンはそんな破壊の渦中にすら飛び込んで攻防を交わし続ける。まとわり付くように至近の距離から、脇の裏や関節の内側といった大熊の弱所に対して掌撃蹴撃を重ねていく。
ついに、苛立ちが頂点に達したがごとき咆哮を大熊があげる。その身の魔力が急速に高まり、体毛も逆立ってその巨体がさらに一回り大きく見えるほどだ。まさに暴威の態。
「クッ……はは。そうだ、それを待っていたぞ! さぁ来い!」
待ち構えるアルシン。今度は避けずに正面から打ち破るつもりなのだ。コォォ……と、「武息」とも呼ばれる特殊な呼吸法とともに、その身の魔力を太く強く練り上げていく……
そして再度の、大熊の咆衝モーション。突き出された口顎から膨大な圧力とともに魔力が解き放たれて衝撃波を発する、その瞬間に。
「カァアアア――――ッッ!!!」
喝破の声をアルシンもまた発する。【武声】に【威圧】と【魔力】、そして【風術】までも組み合わせた思いつきの複合技だ。それぞれ、【魔力】以外のスキル値は大して高くはない。しかし根本たる魔力が強大であることと、レベル、各種ステータスの値もまた桁違いの高能力を誇ることが、この喝破の声に激烈な衝撃力の上乗せを実現せしめていた。
二方向からの衝撃波がぶつかり合う。
挟まれた空気が極限まで圧迫され、もはや固体の壁のごとくと化す。もしそのきしむ音を聞けたなら、キンキンと金音のようであったろう。音が、波が、押し進む圧力が、そして魔力がせめぎ合っている。わずかにして永劫にも似た数瞬間。アルシンの勝利を見据えた凶暴な笑みと、大熊の猛るにらみ付けが、それぞれに交錯する。そして――
バンッ! と、それは破裂音を伴って。ほとんど相殺されながらもなお突き抜けた衝撃は、大熊の巨体を地面に押し付け、その四肢を屈させるだけの圧力があった。
アルシンの競り勝ちだ。
この結果を受けてアルシンは、腹の底から背骨を駆け上がるような闘争の快楽を実感していた。――この技はいいものだ、咆殺衝とでも名付けておくか。そんな冗談めいた思考すら脳裏を過ぎてゆく。
「――ハッ、吠え比べ大会は、俺の勝ちだ。さぁ次はどうする? くまさん。腕力比べ勝負でもするかい? お?」
必殺の奥の手であったはずの大技を正面から打ち破られ、屈辱と憤怒にわなないているらしき大熊へ、アルシンは容赦なく次を催促する。秘境の主に逃走の二字なし。ならばどこまでも立ち向かって来いと、その挑発だ。
クゴォォッ! と威嚇の咆哮とともに力強く立ち上がり、構え直す大熊。対するアルシンは嬉しそうに応える。
「そうこなくっちゃ……なぁ!」
そして二匹の獣は暴威のままに戦い続け……。その舞踏は、日の暮れるまで続いたのだった。
決着は、一発の投石だった。
この大熊相手の戦闘習練を十分にやり尽くせたと判断したアルシンは、戦いながら適当に拾い上げた握り拳大の石に極限まで圧縮した魔力を込めて、大熊が噛みつかんと開けた口腔の奥へと叩き込んでやったのだ。
結果、喉の内部から脳幹と頚椎を爆散である。外から見える損傷は一切ないままに、即座の絶命をもたらす一撃だった。いかな剛体を誇る怪獣であっても、五体備えた脊椎動物である以上はここを破壊されたらひとたまりもない。首から上と下を繋ぎ機能させている全ての神経が走っている中枢経路であって、断たれては四肢どころか心臓を動かすことからして不能となるのだから。生命力溢れる大魔獣の身にとっては、下手に頭蓋の一部を吹き飛ばされるよりも致命的であった。また、投石による魔力爆裂はアルシン本来の主力たる攻撃方法の一つであり、その威力も制御も超絶の域にあるため魔法現象的にも大熊が抵抗できる余地などなかった。
この仕留め方は始めからアルシンの想定していたものである。理由は、死骸の生産素材としての価値を極力損なわせないためだ。毛皮や爪牙に限らず、力ある魔獣の死骸はその内臓から時に血液に至るまで霊薬や武具などの貴重な材料となることがあって、傷が少ないほどに価値が高い。今後の活用先を考えた場合に、アルシンとしてはなるべく完全な形を保ったままで取り置いておきたかったのだ。
なお、アイテムストレージに収納しておく限りは腐敗の進行は極端に遅くなり、また収納に際して『保存』や『停滞』といった術法付与にも万全を期す。そのため、血抜きや解体は先んじて必要ではなく、後から利用先の形態に応じて行えば良い。今回の大熊に限らずこれまで倒した大型モンスターたちは、たいてい同じ理屈から死骸を丸ごと保存してあった。
下処理を終えた大熊の死骸に対し、ストレージへの収納にかかりながら、アルシンは感慨を込めて別れの言葉を告げた。
「見事な戦いだった……強敵よ。お前のことはきっと忘れまい」
唯一の心残りがあるとすれば、それは狩り取った命に対して敬意を表する晩餐が行えないことだろうか。ぜひ熊鍋などに調理して食してやりたかったのだが……。今の段階で半端に手を付けるわけにもいかず、ただ両の掌を合わせて成仏を祈るばかりであった。
さて、秘境の主たる大魔熊を倒した。ならば、主の支配から外れた「地脈の要」を確認しなくてはならない。
元々大熊が縄張りとしていた範囲で最も魔力の濃いところに、それはあった。大森林最奥地に湧き出づる、静謐の霊泉である。濃密な魔力、大地の精髄が力強く湧き溢れる、まさに土地の要たる場所だ。
現在、既に日は沈み。夜闇の中、泉と周囲は満ち満ちる魔力の余剰光がおぼろげに照らし出しており、なんとも幻想的な光景を醸していた。
アルシンは、泉に歩み寄ると片手を浸し、その魔力の波動と構成を探っていく。
(この感触と反応……。やはり、ゲーム時の仕組みと似ている……)
試しに掌握術式を施してみる。条件は「中立」の「開放」だ。
秘境の支配権をモンスターから奪取した場合の「開拓」には、二軸の選択がある。条件の一方が「理性・獣性・霊性・魔性」からの性質選択(未選択で中立となる)、もう一方が「開放・閉鎖」の指向性選択(初期状態だと閉鎖)であった。この選択次第で、秘境とその周辺地域一帯がどのような変貌を遂げていくか決定付けられるため、非常に重要な選択である。しかも、一度決定すると容易には変更が利かなくなる。このため、予め特定の目的があるのでなければ(例えば、あえて「魔性」の「閉鎖」とすることで混沌の大迷宮と化さしめ、高難度のレベリング狩場や特殊素材の産出地とすることを望むなど)、中立で開放しておくのが無難であった。
なお、この秘境と開拓に関する事柄は、探索冒険者組合の存在意義にも関わってくる世界情勢を形作る骨子であったのだが……。まだ現地の事実情報が不足しておりゲーム時のそればかりであるため比較考察する意味も薄く、人里に接触するまでは一旦置いておくことにする。
そして、考えながらも行使していた掌握術式が…………通用した。果たしてこれの意味するところは何か。
(世界の……環境的な面ほど、ゲーム時の舞台とよく似ている。そういうことか? それで“中身”として生きている人類の言葉や文化は違うとなると、これは……)
まるで、辿った歴史の経緯が異なるかのようだった。“器”とその法則は同等で。とはいえ、ゲーム時の「アリアテラ」におけるそれなぞ所詮は“設定”に過ぎないものだったのだから(そのはずだ)、比較するだけ詮無いことであるのだろうが。
「いずれにせよ、判断するには情報が足りない。今はそれより、目先のことだ」
地脈の要に対する掌握術式を完了する。これで後は、時間の経過に伴って地域一帯の地脈に術式が徐々に組み込まれてゆき、その影響を及ぼすはずだ。
ただし、これだけでは地脈の要は無防備となってしまう。アルシン自身がこの場所に新たな主として陣取り続けるつもりはないし、かといってゲーム時の開拓のように現地民の組織に管理運営を任せるわけにもいかない(現時点ではまだ接触すら果たしていないのだから早計だろう)。また、アルシンが開放したという事実を余人に把握されたくもない。この事実を世に知らせるとしたら、しかるべきタイミングをよく図った上で、アルシンの側から任意に知らしめられる優位を保っておきたい。
よって、対策として、要の泉の周囲には隠蔽法や防衛陣などを入念に敷いておくこととした。これで、森全体の気配が「開放」に切り替わったこと自体は遠からず察知されるだろうが、その原因を辿って要の泉にまで行き着くことは難しくなる。また併せて、元の主であった大魔熊の子孫だか近縁種だか知らないが似た大熊種のモンスターを数頭ほど見つけ出し、地脈の要のガーディアン(守護役)に指定しておく。地脈から湧く魔力の経路を各個体に繋げてやり、少しずつ力を分け与える代わりに守護の任を本能に刻むという、掌握術式の一端だった。と言っても、アルシンはテイマー系のスキル(【使獣】や【従魔】など)はあまり習熟していないため、特段の何か言うことを聞かせられるといったわけでもないのだが。この状態をもし獣達の側から見たなら、縄張り意識を少し誘導されているようなものだろうか。なお念のため、大熊種とは別に、先日倒した灰餓狼の群れの生き残りも見つけ出し、そちらについてもガーディアン化しておくこととした。(要の泉がある中核部を大熊種、その更に外周一帯を灰餓狼たちという分担である)
これらの処置を、全てひそやかに進めていく。
「今はただ……深く静かに浸潤せよ」
アルシンは、地脈に潜みゆく術式を眺めながら、その言葉をささやいた。
そうして今日も一日が終わる。
一晩中あれこれ動き回っていたため、もはや夜明けも近いだろう時分であったが。
この日の主題であった大魔熊との戦闘を振り返ってみる。実戦の具合は十分確かめられた。この身の高速運動能力に振り回されるといったこともない。まさに「アルシン」は、まごうことなき超人の闘法を体現せしめる。モンスターなぞ恐るるに足らず。と、そう言えた。
それらのことに関しては、僥倖であった。だが……
「我ながら……大した戦闘適応ぶりじゃないか」
ここ数日の戦闘行動を通しても疑念であったが、今日の激闘をもってなおさら実感した。
適応が早すぎる。それも、言語の学習のような知識の定着などだけであったならまだしも、戦闘に関わる心身の感性までもが急速に適応しつつあるのだ。感性が変われば、思考の組み立ても変わる。それはつまり、人格もまた変容することを意味していた。誰もが歳月をかけてそうではあるのだが、いくらなんでも急速すぎた。
そう、急速に「アルシン」と化しつつあるのだ。身体だけでなく、頭と心までも。そして、そのことに恐怖を覚えることもわずかでしかないほどに、既にしてアルシンとして「なじんで」いた。もはや、かつて日本で暮らしていた頃の性質など、残滓としていかほど残っているかも定かではなかった。(そもアルシンの地球における身体はさほど頑丈ではなく、戦闘衝動があったとしてもそれほど弾けて表わすといったことは稀だった。好きではあっても疲れてしまって後が続かないからだ。だからこそ頭脳だけの活動である仮想領域を好んでいたが、それとて根本的な疲労と無縁でいられたわけでもなく、やはり加減を手放せない日々であったのだ)
また、各スキルや、その下位に位置づく個々の動作能力、すなわち技法や術法についてもそうだ。もはや個々の行使をいちいち区別して意識する必要がなくなってきている。心身の自然な動作の中に溶け込みつつあるとでも言おうか。自由に、自在に、己が能力として振るえるようになってきている。この分だと、いずれはテックやスペルだけでなくスキルの大枠ですら解体されていきそうだった。もしそうなった時、果たしていかなる境地にまで至るものであろうか……
ともあれ、戦闘能力に関しては、とても優れていることが確認できた。これならば今後、荒事に関わることがあっても、あまり心配いるまい。
ただし、身体を動かし能力を発揮させる主体は、どこまで行ってもアルシンの心だ。もし心が動揺を受けて十全に働けない状態に陥ったなら、どうなるかは分からない。そして、現状のアルシンであってもなおそうした事態に陥るとしたら、それは人間を相手にした時だろう。
人間を相手にしても、どんな言葉や敵意、悪意に晒されても、己を見失わずに戦い抜けるだけの下地を築いておく必要がある。それには経験を積むしかない。
だとすれば、何を。次に決断すべきはそこであった。それは、この地で目覚めてより、最も重大な選択となる。
2013年06月13日、作中描写の展開に伴い検索タグ(作品キーワード)を追加致しました。
2013年06月17日、トドメの一撃のシーンが説明不足であったため文言を追加させて頂きました。(著者の脳内イメージを言葉に表しきれていませんでしたごめんなさい。もしまだ足らない点がありましたらご指摘賜れますと助かります。)




