シザーズ、ピストル、グルー
某掲示板でお題「はさみ」「拳銃」「のり」で書いたものです。
小木 凡人はこれ以上ないくらいに焦っていた。
人気の一切ない寂れた廃墟の廊下をただひたすらに走る。時々後ろを振り向いては、誰の姿もないことを確認し、だからこそどちらへ逃げてよいのやらわからない。
凡人が廊下の中腹で――ひとまずここならば右から来ても左から来てもすぐにわかるだろう――と足を止めたとき、足元のコンクリートがあり得ない滑らかさの曲線でもって――裂けた。
「下だと!」
凡人は次々と裂け行くコンクリートに足を取られながらも再び駆け出す。どうしても気になって後ろを振り向いたとき、裂けた穴から這い上がってくる長髪の女がちょうどこちらに鬼気迫る目を向けているのが見えた。どうやら奴さん、相当にお怒りらしい。
彼女の名前は立霧はさ美、らしい。それ以外にはほとんど何も、凡人は彼女について知らない。あと他に知っていることと言えば――
あと他に知っていることと言えば、彼女が”能力者”であるということだけ。
凡人が再び後ろを振り返ると、すでに彼女の姿はない。どうやらまた何処からか奇襲をかけてくるつもりらしい。凡人は上がる息の合間に溜息を吐く。
立霧はさ美。彼女は能力を持っている。いや、正確に言うならば、能力を持っているのは彼女の右手に収まるあの銀色に怪しく光る鋏「シザーズ」なのだが、まぁそんなことはどうでもよい。どちらにせよ同じようなものだ。
彼女のシザーズは、なんでも切ることができる。
例えば先ほどコンクリートの床や天井をいとも簡単に「切って」見せたように。
それが彼女の、シザーズの能力。
膝を抱え、今のうちにできるだけ息を整えようとする凡人に、今度は鼓膜を打ち抜く爆音が襲いかかった。
「もう一人……」
そう呟きつつあたりを見回し爆発音の発生源を探しながらも、凡人は先程はさ美に追われていた時ほどの怯えた様子は見せてはいない。
なにしろ、もう一人の”能力者”引鉄拳十郎はそもそも凡人を標的として認めてはいないのである、いまのところは。
彼、引鉄拳十郎の能力は、彼の持つ黒光りする拳銃「ピストル」に宿る「弾丸の軌道を操作する能力」である。
そのあまりに強力すぎる能力を持つ彼にとって、凡人などは敵とはなりえないのである。精々がところただの獲物。拳十郎は、まずはさ美を倒してからゆっくりと凡人をなぶるつもりでいる。
だから今のところは、あのいちいち心臓に響く轟音も、安心なのだ。
凡人はその僥倖を噛み締めながらも、苦笑いする。今あのピストルに襲われているであろうはさ美の無事を、俺は祈るべきだろうか? それとも……と。
凡人、はさ美、拳十郎。3人はいつの間にやら各々能力を持たされ、三つ巴の殺し合いを演じさせられている。この何処とも知れぬ廃墟の中で。
何故こんなことになったのかも全然分かりはしない。生き残った者には10億ほど賞金が与えられるらしいが、果たしてその程度の金額で人が人を殺そうとするのだろうか? と、こう見えて金持ちのボンボンとしての人生を今まで送ってきた凡人にはいまいちピンとこない。
さりとて、何もせずにむざむざ殺されるわけにもいかない。凡人はそう考える。それが小木凡人の偽らざる現状である。
さて、少なくとも一つ、まだ明かされていない事柄がある。それはもちろん凡人の能力である。
この荒唐無稽な殺し合いに参加している以上、当然凡人の手にも、或る能力の宿った或る品が握られている。してその品とは――。
スティックのりである。
「糊て」
凡人は自らの右手に後生大事に握られているスティックのり「グル―」に向かって思わず突っ込みを入れる。
「鋏、拳銃ときて、糊て! おかしいだろ! しょぼすぎるだろ! しょっぱすぎるだろ! 何考えてんの? ねぇ、何考えてんの? こんなので鋏や拳銃に勝てるわけないだろうが!」
依然灰色の無味乾燥な廃墟に拳銃の轟音が響き渡る中、凡人は誰とも知れぬこの戦いの主催者に向かって大声で抗議の声を挙げた。スティックのりを握りしめながら。
「しかもなんだこの能力!「なんでもくっつけることができる」これはいいよ、まったくもってスティックのりに似つかわしい能力だし、鋏や拳銃に敵うかどうかはともかくとして「あれ? 案外強いんじゃね?」と思える程度の能力ではあるよ。だけど……だけどさぁ……」
凡人は両掌を上に向け、嘆きを満面に浮かばせ、それからスティックのりのキャップを外し、糊を指先につけ粘着力を確かめるように親指と人差し指につけた糊をねちゃねちゃと弄ぶ。それから叫ぶ。
「粘着力が死ぬほど無いんだよ!」
続けて、凡人は壁に糊を塗り付け、地面に落ちていた手ごろな大きさのコンクリート片をそこにぶちゅっと押し付ける。凡人が手を離すと果たしてコンクリート片は壁にくっついたまま落ちない。「なんでもくっつけることができる」その能力は確かなようだ。しかし、ひとたび凡人がコンクリート片に触れると……。
「落ちるんだよ!」
ひいぃ怖い! と絶叫してから凡人は、落ちて砕けたコンクリート片の破片を避ける。要するに、彼の能力、彼のスティックのり「グル―」、「なんでもくっつける」能力は確かだが、何故だか「人が触れるとすぐにとれてしまう程度の粘着力」という妙な効果が付加されているのだ。のりでくっつけたものにひとたび人が触れると、グルーの特殊能力は一時的にではあるが消滅してしまう。逆に、人さえ触れなければグルーはどんなものでもくっつけることができる。
「なに余計なことしてくれてんだ、馬鹿野郎!」
凡人は誰に向かってというわけでもなく叫ぶ。
すると先程までの凡人の無駄な、そして痛切な絶叫を聞きつけてか、立霧はさ美がどうやら迫った。
天井を為すコンクリートが、歪な四角形でもって切り出され、凡人の頭上に落ちてくる。壁にくっつけたものより一回り大きいコンクリート片を避けながらそれらが先程まで収まっていた筈のスペース――今はぽっかりと空いた穴――に目を向けると、引鉄拳十郎の猛攻を逃れてきたらしい立霧はさ美のぎょろつく片目がこちらを見ていた。
あまりに不気味なその光景に硬直し、凡人がその整った顔を引き攣らせていると、天井右端ギリギリに直線的な切り込みのラインが走り始めた。随分遠くまで走ったかと思うと今度は左端まで渡り、猛烈な速さで引き返してくる。そこでようやく凡人には、一つ上の階の廊下で疾走しているであろう呪いの日本人形のような出で立ちをした彼女が一体何をしようとしているのか理解できた。
そして間もなく、天井が巨大なコンクリート塊となって落下してきた。凡人はその真下で身を伏せる。
コンクリートが砕ける音、床にぶち当たる音は――しなかった。
通常の半分くらいの高さで止まる天井の下で、身を屈めていた凡人は安堵の溜息を吐く。
凡人は、今天井が止まっている高さのあたりの壁に、糊を塗りつけていた。
落下してきたコンクリートはそこで再び壁に接着され、その位置で止まったのだった。
「そう来ると思っていたわ」
立霧はさ美の多少妖艶な感じのある声が、安心し切っていた凡人をぎくりとさせる。
「でも貴方の糊は、人が押せばとれちゃうのでしょ?」
そう言うが早いか、はさ美は中途半端な位置に止まる天井に向かって飛び降りた。
「あら?」
が、天井は依然動きはしなかった。
「間接じゃダメなんだよ。糊でくっつけられたものに直接触れなきゃ俺のグル―の効果は消えない。君は靴を履いてるだろ?」
「あらそう。教えてくれてどうもありがとう」
そう言うなりはさ美は自分の足の下にある天井であり床だった物に指先を触れた。
今度こそ落ちる天井。しかし天井はまたもやその落下の中途で止まった。はさ美は予想外の出来事に怪訝な顔をする。
「言っただろ、間接じゃダメなんだ。天井に直接触れて壁と天井を繋ぐグル―の接着力を消しても、その下にあるコンクリートブロックと壁の接着力は消せない」
凡人は、天井が半分の高さで止まっているうちにその少し下あたりの壁面と、その向かいの壁面にコンクリートブロックをいくつかくっつけておいた。天井が再び落ち出した時につっかえとなってくれるように。巨大な天井を支えるにはすこし頼りないそれらだったが、一番弱いであろう壁との接着部分は人間に触れられない限り無限の接着力を発揮する凡人のグル―によって完全に接着されている。数秒の間保たせることは可能だった。
数秒後、天井を支えていたコンクリートブロックは尽く砕け、ついに天井は床に到達した。既に床となった天井の上には立霧はさ美が、天井の範囲よりなんとか抜け出し無事立つことが出来ている凡人を睨むようにして佇んでいる。
「壁に触れる、が正解でした。そうされると本当にどうしようもなかった」
そうおどけたように言ってから
「拳十郎さーん、分かってるとは思いますが彼女はここですよー」
と大声を張り上げるなり凡人は逃げた。舌を打ちあたりを見回すはさ美。少し後に銃声が響いた。
数時間後。凡人はまだ生きている。そしてほかの二人もまた生きていた。
この廃墟、意外に結構広いので一度逃げきってしまえば物音を立てない限り他の二人と鉢合わせないようにするのは結構容易かった。そういう事情もあって、戦いは予想以上に長期戦の様相を呈している。
凡人は分厚いコンクリート片を持ち、歩いている。そして目当ての場所に来るなりそのコンクリート片のすっぽり収まる穴にグル―を塗り付け、コンクリート片をはめた。
なんでも切ることのできる立霧はさ美のシザーズの切り口は、その能力ゆえに完全に滑らかで、凡人のグル―でくっつければその痕跡はまったく分からなくなる。凡人は途中で見つけた油性ペンでその真ん中に印をつけ、立ち去る。
これであのコンクリート片は凡人だけが使える罠だ。触れさえすればすぐに落下する。そんな風にして凡人は立霧はさ美の切った様々なものを元通りにして行った。
例えばもう少し大きい、人間が入るくらいのコンクリート片なら、自分用の落とし穴になる。敵に遭遇した際、床に触れて落ちれば緊急回避の術となる。他には壁が切られたものもある。凡人を追う過程で生まれたものだ。それらをくっつけておいてパンチで押し出せば、完全に滑らかな切り口と一瞬にして消失する粘着力のお蔭で結構な速さでもって壁の向こう側に射出することが出来た。
「彼女の能力、結構俺の能力と相性がいいんだよなあ。仲間になれればいいのに」
そう凡人は呟くものの、もはやそれは不可能事だろう。賞金のこともあるが様々な手練手管を使って翻弄する凡人に、はさ美はどうやら完全に怒りを露わにしていた。今では、憎んでさえいるかもしれない。
溜息を吐きながら凡人はせっせと罠や逃げ道を作る。他の二人と違い能力による直接的な攻撃手段が無い以上、こうやって予め武器や盾を用意しておく必要があった。その大半は結局使われることは無いだろうけど。
ふと、凡人は作業の手を止め息を潜めた。人の気配。を感じた次の瞬間には暗い地下の廊下の先から赤い光点が浮かび上がる。ゆっくりとした足音が聞こえてきた。じりじりとこちらに迫ってくる。
凡人がひとまず隠れようと動き出したところに、銃声が響いた。
「拳十郎さん」
「お前か」
外れだな、と呟きながら拳十郎が再びピストルを掲げ、凡人へ向けたのがおぼろげに見える。
「いい加減お前も鬱陶しいな」気だるげな声と共に赤い光点が地面へ落ち、踏み躙られて消えた。「死ぬか」
「ちょ、ちょっと待って下さいよ。分かってる筈でしょう、今ここで僕を殺す手はありませんよ。はさ美さんは貴方から逃げ、僕を狙って来てるんですからね。僕を泳がせておけば拳十郎さんははさ美さんの位置を把握しやすくなるんです」
「これ、お前だろ」
そう言ってから拳十郎は何かを放った。喧しげな金属音が冷たく湿った地下の廊下に響く。よく見えなかったが、恐らく拳十郎が放ったのは罠として仕掛けておいた包丁だろう、と凡人はあたりをつけた。グル―によって曲がり角を曲がってすぐのちょうど顔くらいの高さに取り付けておいた簡単な罠だった。
よく目を凝らすと、ほの明かりの中で拳十郎の頬に切り込みが入っているのが見えた。
「あちゃー、拳十郎さんに当たっちゃいましたか。でもそれだってただ運が悪かっただけですよ。逃げる側であるはさ美さんと追う側である拳十郎さんだと、同じ道をはさ美さんが先に通る可能性の方が圧倒的に大きいんですから。そういう意味でも、トラップを簡単に作れる僕を生かしておくことは拳十郎さんの利益になるんです」
「御託はいい、目の前をちょろつかれると目障り、理由はそれだけで十分だ」
先程から凡人に向いている銃口が、いよいよ狙いを付けるようにゆっくりと移動する。
「ま、待って下さいって。あの、取り引きをしましょうよ。僕こう見えて小金持ちなんです。僕を見逃し、はさ美さんを殺すなり懐柔するなりしてくれれば、20億差し上げます」
「無駄だ。この建物に出口が無いことくらい気が付いてるだろう? 俺達は最後の一人になるまでここを出られない。協力は不可能だ」
凡人は渋面を作る。今にも飛びかかってきそうな冷たい銃口を見つめながら。
「……残念です」
「そうだな」
「本当に残念ですよ。できることなら殺したくは無かったし、殺すなら殺すではさ美さんを殺してもらってから死んでもらえると助かったんですけどねえ」
凡人の放った言葉の意味を掴みかねている拳十郎を尻目に、凡人は続ける。
「どうしましたか? 変な顔をして。僕の言ったことの意味が分かりませんでしたか? 僕はさっき、こう言ったんですよ」
凡人はにやりと笑みを浮かべた。
「貴方なんかいつでも殺せる、と」
銃声が鳴り響いた。一つだけ。
拳十郎のピストルには、凡人のグルーの粘着力の消失と同様に、弱点と言うべき効果が付加されている。
――弾丸が、一つしかないのだ。
放たれた弾丸は、凡人の右耳を掠めて折り返して左耳を掠め、それから拳十郎の手の内に戻った。拳十郎は再び弾丸をピストルに装填する。彼のピストルは無限回撃てる代わり、一度に一発しか撃てないのだ。
拳十郎が再び弾丸の装填されたピストルを凡人へ差し向けると、凡人は血がぼたぼたと垂れる両耳をそのままに、屈み込んで地面に触れた。
ピストルが火を拭くと同時に、拳十郎が滑ってバランスを崩した。弾丸はあらぬ方向へ飛んでゆき、天井に突き刺さる。両膝をついた体勢からなんとか体勢を立て直そうとする拳十郎だったが、ぬるぬると滑る床に四苦八苦し、更に凡人が地面から手を離すと動けなくなった。
「僕のグル―は、拳十郎さんのピストル同様、いくらでも使えるんです。つまり――」
凡人は手にしたスティックのりの容器のキャップを外し、口を下へ向ける。そろそろ廊下の暗さに目が慣れてきた拳十郎には、容器の小さい口から明らかにその容量を超えて際限なく糊が流れ出す様が確かに見えた。
「この廊下に大量の糊を撒いておき、乾かしておきました。ふふ、いい格好ですね」
凡人は立ち上がることのできない拳十郎に近付く。凡人は靴下を履かずに直接靴に触れていたので、靴と床は接着しない。
拳十郎は悠々と近付いてくる凡人を睨みつけ、ふいに地面へ手を触れた。地面に満遍なく溜められたグル―の粘着力が解除され、凡人は動きを止めた。ここで不用意に動けば拳十郎の二の舞になりかねない。
「で、どうするんです? 動けないのはそちらも同じでしょう」
拳十郎はにやりと笑い、右手に握った小さい金属を見せた。弾丸だった。見当違いの方向へ飛んで行った弾丸を、それまでの内に密かに回収していたのだった。
拳十郎は転げないように注意しながら、靴下を脱ぐ。それから床についていた手を離し、立ち上がる。すかさず凡人は床に手をついて再び地面をずるずるにしたが、拳十郎はなんとか持ちこたえ、ピストルに弾丸を装填した。
銃口は凡人へ向かってはいない。銃口は壁へ向かっていた。銃声が響き、壁が破壊される。拳十郎は崩れた壁に腰を落ち着けて、再び弾丸を装填し、今度こそ凡人に狙いを定めた。良い具合に崩れた壁は格好の支えとなった。
凡人は相手を滑らせる作戦を諦め、拳十郎とは反対側の壁に手を触れた。壁に綺麗な四角の穴が開く。はさ美によって切られた壁をグル―により復元したものだった。凡人は穴の奥に手を突っ込み、棒状の何かを取り出す。
それは剣の形をしていた。
「粉砕したコンクリートをグル―で固めた物です」
見ると凡人はいつの間にやらその両手に手袋を嵌めている。これで、剣の柄を握っても剣を形作る接着力を消去させることは無い。
「それを武器にするつもりか? 人に触れた瞬間崩れるそれを?」
「そうですね、崩れちゃいます。だからこれは武器ではありません、盾です」
「盾?」
「僕のグルーは、人間が触れない限り無限の接着力を発揮します。つまり、少なくともグルーによる接着面は、人が触れる以外の何があっても壊れない。ある意味無限の強度を持っているのと同じなんです」
凡人はそう言うなり剣を壁に叩きつけた。コンクリートの壁が、いとも容易く崩れ去る。
「こうやって剣を構成するコンクリートを砕けば、即座にグルーによって再び接着される。そうやって限り無くコンクリートを砕いて行けば、最終的に剣は接着面に埋め尽くされる。無限の硬度に、埋め尽くされ、構成される」凡人は剣を拳十郎に差し向ける。「この剣は、最強の盾です」
「だから何だ。仮にその剣で俺の弾丸を止められたとしても、弾丸の速度を追いきれないのでは意味が無いだろう」
「弾丸の軌道を操る、とは言ってもそもそも拳十郎さん自身が軌道を把握できなければ操るも何もないでしょう。であるなら、拳十郎さんのピストルは通常のピストルよりは随分弾丸の速度が遅い筈です」
「普通のピストルよりはな」そう言って拳十郎は凡人へ狙いを定める。「まぁ、頑張るこった」
銃火が閃き、銃声が轟いた。
凡人は脳天を狙ってくると読み、頭部を剣で防御した。果たして弾丸は凡人の脳天への軌道上を阻む剣へと迫ったが、当たる寸前で軌道を変えた。そのまま弧を描き、ガラ空きの背中から心臓を狙った。
凡人は、立っている。剣を前へ掲げたまま。弾丸を追って背中を防御することなど、到底不可能だった。
「まぁその必要は」凡人は剣を掲げたまま笑っている「無いんですけどね」
背中を打たれる前、凡人はその頬で、剣を掲げるために上げた上着の肩の部分に触れていた。そして上着は、しとどに濡れていた。もちろん彼のグル―で。
弾丸は背中で止まっている。凡人の心臓の目と鼻の先まで迫りながら、薄い上着に接着されている。
「本命の盾はこっちです。グル―を染み込ませ、乾かした上着。定期的に触れておくことでどんな攻撃も防いでくれる最強の鎧です。剣は衣服で被えない頭を怪しげなく守る為の苦肉の策に過ぎません。いやあ本当に、危うい賭けでしたよ」
そう言いながら凡人は呆然と佇む拳十郎を尻目に落ちていた包丁を拾い、斬りかかった。
「例えばこの包丁で斬りかかられたら、どうしようもなかったんですけどね」
凡人は血に塗れた拳十郎の亡骸に語りかける。
「残念でしたね拳十郎さん。貴方の能力は決して弱いわけではなかったけど、僕の能力との相性は、最悪でした」
冷たい暗闇の中で血糊をグル―で洗い流しながら、凡人は冷たく微笑んだ。
「さて、あとひとり」
暗い闇の中に呟きが生まれ、ほどなくして消失した。
数十時間後、凡人ははさ美を追い詰めていた。
凡人の持つ剣はコンクリート程度なら簡単に砕くことが出来る。砕いたコンクリートのかけらをグルーで固め、布かなにかで包めば容易に好きな形のコンクリートブロックを作ることが出来た。それらを使って壁を作り、地下の廊下を細分化し、できた無数の部屋の内一つを残して他の全ての部屋に無限に発生するグル―を注ぎ、満たす。残しておいた一つの部屋に落とし穴ではさ美を落とせば、あとは何もしなくてもはさ美は壁を切り裂き、隣の部屋を満たしていたグルーを呼び込み、自滅する。上階へ上がる階段から一番遠いその部屋からグル―の海に溺れ死なずに脱出するのは不可能――。
――な、はずだった。
はさ美を落とした穴を塞ぎ終え、一息吐いて「彼女の死にゆく様を見守ることが出来ないのは残念だなあ」などと思いつつ更に保険の為に今いる階もグル―で満たすべくスティックのりの容器を傾けていると、何やらびちゃびちゃと音が聞こえた。
何の音かと音のする方向へ振り返ったとき凡人の目に映ったのは、しょんべん小僧の男性器から放出される聖水よろしく綺麗な放物線を描いて何もない空から際限なく流れ出す液体だった。
ちょうど凡人の肩くらいの高さの何もないただの空間から、大量の液体が流れ出していた。
そしてその光景を解釈する暇もなく、びちゃびちゃという不快な音は重なって聞こえ出した。見ると凡人の膝くらいの高さのこれまた何もない空間から、同じように液体が流れ出していた。凡人が呆然としていると、今度は頭の上から液体が降り注いできた。
慌てて液体の降り注いでくる範囲から離脱し、自分を濡らすその液体を観察してみると、それは紛れもなく凡人のグル―だった。
直後に今までにない大きさの濁流が空中に発生し、その中から何やら大きいものが流れ出てきた。
真っ黒いそれは地面に転がるや否や激しく咳き込み身を震わせた。
それは、はさ美だった。
全身グルーでびしょ濡れになり、呼吸もままならないほど咳き込みながらも、こちらを激しく睨んでいる。彼女が現れた時点で全ての濁流は止まっていた。彼女はふいに空中でシザーズをちょきんと鳴らす。シザーズが切ったあたりの空に手を突っ込むと、彼女の腕が消えた。まるで自身のシザーズで切り取ったように、肘から先が綺麗に消失していた。
何か異様な予感を感じ、凡人が後ずさった瞬間、凡人の胸が「内側から」切り裂かれた。胸から突き出す銀色のハサミの先端と、滲み流れ出す血を見ながら凡人はようやく事態を理解する。
――能力を進化させやがった。「空間を切り裂く」能力に――。
凡人は脱兎の如く逃げ出す。とにかく動かなければならない、動き続けなければならない。はさ美の視界にいる限りどれだけ離れていようと標的にされるのだ。ひとまずできるだけ離れて――。
いや、違う。離れ過ぎてはならない。一度彼女を見失えば、気付かぬ内に後ろに回られて、気付かぬ内に殺されかねない。彼女の動向は常に見守らなければならない。
そう思った次の瞬間には、はさ美は空間を大きく切り裂き、その中に消えて行った。消えたあたりの空を手探ってみてもそこはやはり何もないただの空間だった。完全に見失ってしまった。
その時からずっと、凡人は部屋の隅に腰掛け、絶えずあたりを注意深く見張っている。一瞬たりとも警戒を怠るわけにはいかない。しかしそれは明らかに無茶だった。長時間にわたる無理な警戒に、凡人の精神は極度に摩耗した。
だから凡人がそれを思いつくのも随分時間が過ぎてからだった。長期戦の覚悟を決めたらしくたまに凡人の前に姿を現しては消えるはさ美の出現がしばらく途絶えたその時、凡人は突然立ち上がった。ふらふらとした足取りで向かった先は拳十郎を殺したその場所だった。凡人はそこに転がっていた包丁を手に取り、スティックのりの容器に小さい切り込みを入れた。
思った通りだった。切り込みからはグルーが勢いよく流れだす。容器を手袋をした方の手に持ちかえると、切り込みはグルーによって塞がれた。
今度はもっと大きな切り込みを入れてみる。するとやはり、切り込みの大きさの分だけ多くのグルーが流れ出した。凡人はその調子で容器にいくつも切り込みを入れ、またキャップを解放した。大量のグルーが流れ出した。
そのとき近くにはさ美が現れたので、彼女を警戒しつつ動き回りながら凡人はグルーを撒いた。
そうやってなるべく死角が無いように壁を背負って移動しつつ最地下の階をグル―で満たしたときのようにグルーを撒いて周った。穴を開けたことで流れ出るグルーの量は格段に向上したので、一つの階をグルーで満たす時間はあの時より随分短く済んだが、それでもはさ美からの攻撃を凡人は何度も受け、一つの階をグルーで満たすたび凡人の負傷具合はどんどんひどくなった。
最上階を残した全ての階をグルーで満たしたとき、凡人は既に満身創痍だったが「ついに追い詰めた」と心の底から思った。
はさ美が目の前に現れたとき、動きを読まれないように様々な方向へ身を躍らしはするものの、基本的にははさ美へ近づく方向へ走っていた。どうせどの方向に動いても襲われるのだからはさ美へ近づいて殺しに向かうのが最善だと判断したからだ。だけど今までは攻撃できる範囲に入る前にはさ美はどこへやら姿を消し、結局傷一つ付けることはできなかった。
だがもうそうはいかない。最上階は一つの部屋だった。この下のどの階もグルーで満たされている以上、この部屋以外に逃げ場は無かった。
「もう逃げ場はないよ」
そう言って凡人ははさ美にピストルを向ける。それはもちろん、拳十郎のピストルだった。
凡人はピストルの持ち主ではないので弾丸の軌道を操ることはできない。しかし「無限に撃つことが出来る」能力は弾丸の方に宿る性質だったようで、撃った後の弾丸を回収することさえできれば、無限に撃つことが出来た。
とはいえ例えば弾丸をはさ美に奪われたり失くしてしまうともう撃てなくなるので実際に撃つことは凡人は極力控えていた。それでも銃口を向ければはさ美は姿を消したのでグルーで下の階を満たすまでの時間稼ぎには大いに役に立った。
今、凡人とはさ美の二人は絶えず動き回っていた。
凡人はもちろんどこから空間を裂いて迫るか分からないシザーズの狙いを定められないために動きまわったし、はさ美にしてもいくら空間を切り裂き一瞬のうちにワープする能力を持っていたところで、止まっていてはピストルをかわし切れないのは明白だった。凡人は走り回り、はさ美は次々と空間を切り裂いてはワープした。
凡人が強くバックステップを踏んだ瞬間、目の前にシザーズを持ったはさ美の腕が現れた。凡人は咄嗟にその腕をピストルで撃ち抜いた。
腕が引き抜かれ、元の位置――はさ美の肩の下――に戻る。ぶらんと垂れ下がった腕からは血が流れていた。はさ美は苦り切った顔でシザーズを持ちかえる。凡人ははっとした。もう一本の腕も殺せば、相手の攻撃の手は無くなる。
凡人はピストルを地面に開いた小さな穴からグルーの溜池へ落とした。弾丸がはさ美の腕にある以上、もうピストルはこの場に無い方がいい。
それから再び攻防が始まった。二人ともどんどん疲弊した。満身創痍の上に動き続けなければならなかった凡人はもちろんだが、空間を切り裂く能力を連発したはさ美にもかなり疲労が溜まっていた。
その疲労が、凡人に先に出た。凡人ははさ美の猛攻を避ける際、今や唯一の武器となった包丁を取り落としてしまった。すぐに拾おうとしたがはさ美のシザーズが迫った。包丁は真っ二つに切られた。しかも結局その後の攻撃を避けるのに精一杯で、凡人は床に転がる二つに折れた包丁を拾うことさえできなかった。そこからは凡人はただ避け続けるだけだった。
あるとき、凡人は動かなくなった。はさ美は怪訝に思い、一度攻撃の手を休めたが、すぐについに諦めたのだと解釈し直し、最後の攻撃に打って出た。
凡人の足元に現れるシザーズ、はさ美の手。避ける間もなく凡人の足はシザーズによって切り取られた。勝った――はさ美はそう思った。
その時、凡人は倒れつつも引き返そうとするはさ美の手を掴んだ。だがもうその手を攻撃する武器は無い筈だ――はさ美がそう思った時、凡人は黙ってにやりと笑い、はさ美の服の袖を掴んだ。
「……なんでも切る能力は空間さえ切る能力へ進化した。では、なんでもくっつける能力はどう進化するんだろうね?」
凡人は掴んでいたはさ美の腕を離す。はさ美は切り裂いた空間の裂け目から手を引き抜こうとした。
が――動かなかった。
一ミリたりとも動かなかった。何もない空間から飛び出したはさ美の腕も、何もない空間でその先が消えているはさ美の肩も。
「君の服には僕のグル―が染み込んでいた。だけど渇いていた。そして俺がこの袖に触れて離した時、再び接着力が回復した。「空間にあいた穴さえくっつける」能力、進化した能力を伴って」
はさ美が切り裂いた空間は、凡人のグルーによって修復されていた。もう空間に裂け目は無い。一切の隙間なくはさ美の腕と接着され、そうすることによって塞がれていた。
凡人は空間に接着され動くことのできないはさ美の手からシザーズを奪い取り。なんとか立ち上がり、よろよろと頼りない足取りではさ美の本体へ近づく。はさ美は動くことが出来ない。ただただ恐怖に顔を引き攣らせ、かなりゆっくり迫る凡人を待つより他に無かった。
凡人はシザーズを、泣き叫び許しを乞うはさ美の胸に突き刺した。
深夜、凡人は目を覚ました。
その身体には様々なチューブが繋がれ、すぐ近くの計器は暗闇と静寂の中にほのかな光と小さく規則的な音を与えている。
近くの大きい窓からは川が見え、その向こうに綺麗な夜景が広がっていた。部屋を見渡すとかなり大きな部屋であることが分かり、また暗いながらもその部屋が白を基調に構成されていることが分かった。
そこは病室だった。
凡人はそのときようやく思い出した。自分が、癌に侵されていたことを。
さっきまでの戦いは……
「夢……だったのか」
呼吸を手助ける装置の中で凡人は呟く。一体、なぜあのような夢を見ていたのか……?
そのとき、ふと、頭の中を単語が走った。
――シザーズ――ピストル――
それから徐々に単語はその姿を変えて行く。
――はさみ――拳銃――
――クラブ――ガン――
――キャンサー――
「……癌……いや、まさかな」
凡人は苦笑する。あまりにも、下らな過ぎる発想だ。
だいたいそれなら、グルーは、のりは何だというのだ。
そう思った時、両手になにやら感触があることに気が付いた。目を覚ます前からずっとあったので、今まで気付かなかった。
仰向けになったまま動けない凡人には両手の先にそれぞれ何があるのか見ることはできない。しかしそれが誰かの手だということは感触から分かったし、記憶を取り戻した凡人にはその手が誰のものなのか分かる気がした。
親友――引鉄拳十郎と、妻――立霧はさ美。
「グルー……か……」
グルー――のり――接着剤――ボンド――
――絆――
「……」
凡人はふと辛気臭い顔になった。それから、にやっと笑った。
「まさかな」
そう言って笑う凡人だったが、その時凡人の心の奥には、なんだか癌に勝てそうな予感が確かにあった。