1-4
街は平和であった。
何日か前に胸部を貫かれ、左肩から右のわき腹までを切り開かれた奇妙な死体のニュースがあったが、それも次第に人々の記憶から忘れ去られていた。つまり孤児院は現在、大変な暇をもてあましているのだ。もちろん、孤児院が暇であることはこの上なく良いことなのだが……。
暇を持て余す孤児院の事務室では、ミハエルとエヴァが昼間から酒を飲んでいた。
「楽しめると思ったら二日だけだったな」
ウォッカを瓶でラッパ飲みし、エヴァが言う。瞳は薄く開けられ、たいそうな色気を放っている。
なんといっても金色の髪に白磁の肌だ。これで流し眼でも送ろうものならたいていの男は陥落するだろう。
「足りないかね?」
ブランデーをちゃんとしたブランデーグラスで飲みながら、ミハエルが言う。
この男、外見こそ老人であるが、雰囲気は狩人のそれである。一瞬でも気を抜こうものならば、その瞬間に狩り殺されてもおかしくはない。
そんな奇妙な状況の中、エヴァは最後の一口を飲み終えると、瓶を机に置いた。ゴトンという鈍い音が響く。
「あぁ、ぜんぜん足りないな。片手で相手をできるような奴らが何人揃おうが満足はしないさ」
にぃっと口元を釣り上げ、エヴァは言う。 その様子に、ミハエルは呆れたような笑みを浮かべた。
外見的には親子、もしくは祖父と孫娘のようにも見える二人だが、実際はエヴァの方が何十倍も年上である。とはいえ、エヴァに軽口を叩けたり、タメ口で話せるのはそう多くはないだろう。吸血鬼のオーラというか、歴戦の経験と言うか、すさまじい気迫がエヴァを包んでいる。根っからのサディスト気質の女王のように、無意識に相手に敬語を使わせるようなオーラだ。
「ところで、あいつらはどうした?」
「グライツ君は自分の家、アルクとエテルは路地の巡回だよ」
ブランデーグラスをそっと机に置き、ミハエルが言う。
「夕方までは二人っきりか。面白くもない」
「そう言ってくれるな。長い付き合いじゃないか」
ミハエルが机から本を取り出そうとしたとき、壁がくるりと回転した。
「やれやれ、久しぶりに自分の足で歩いた。久しぶりだな。ミハエル。ずいぶんかわいいお嬢さんを囲っているな」
現れたのは、老人と女性であった。
白と赤の混じった髪の老人だ。白い口ひげを蓄え、片メガネをかけた老紳士がそう言うと、ミハエルの顔が驚愕に満ちた。
女性の方は二十歳ほどであろうか、カーキ色のシェズナ軍服にその身体を包んでいる。長い茶色の髪が印象的だ。
「これはこれは珍しい奴が……国の仕事は大丈夫なのかね?」
「おいミハエル。こいつら誰だ?」
エヴァとミハエルは座っているが、来訪者の二人は直立不動のまま、老人はやんわりと、女性は厳しいまなざしで、二人を見つめていた。
「申し遅れた。かわいいお嬢さん。元シェズナ公国第一魔法実験歩兵隊、現シェズナ公国陸軍『大将』。アルテュール・リヒターだ」
「シェズナ公国陸軍、ロザリタ・リヒターです」
その言葉に、エヴァはヒュゥッと口笛を吹いた。大国シェズナの軍人、それも、上から五本の指に入るほどの大物がたった一人の女性――おそらくは娘と共に現れたからだ。
「ティンク・アーベルだ。大将殿」
エヴァは慣れ親しんだ偽名を使う。バレバレな偽名であるが、アルテュールは朗らかに笑うと、愉快そうに首を振った。
「ははは。そうか。よろしく。ティンカーベル」
アルテュールが手を差し出し、エヴァと握手をする。
「して、何用かね? わざわざこんなところまで昔話をしに来たわけでもあるまい?」
「いや、今回は顔見せだ。我々の中で動向が掴めないのがお前だけだったからな」
その言葉に、ミハエルは笑う。
「相変わらず予想ができないなぁ。何があるんだ?」
「近日中にシェズナ建国三百年の式典がある。それに出席させようと思ってね」
その言葉に、ミハエルの瞳が輝いた。
「ぜひ出席させてもらいたい」
「よし、決まりだな。連絡はどうすればいい?」
アルテュールも笑みを浮かべる。
「そうだなあ……郵便局で、リゲルという男が働いている。そいつに渡してくれ」
「わかった。そうするよ」
アルテュールは微笑むと、踵を返した。
「――余計なお世話かもしれんが、背中には気を付けろよ?」
「つい最近、狙われていたところだ。当分は安心さ」
その言葉に、アルテュールは微笑み、ロザリタとともに去っていった。エヴァは面白くなさそうに頬杖をついている。
「と、いうわけだ。今度休暇をもらうよ」
「しょうがないな……」
ため息をつき、エヴァが言った。