5-6
グライツは裏路地の建物の切れ目から見える細長い灰色を見つめていた。
ああ、とグライツが小さく声をあげる。
どうかしましたか、とアルクが返す。
降ってきそうだ、と肩をすくめながらグライツが言う。
ぽつり、と雫がアルクの鼻を小突いた。
降ってきましたね、とアルクが言う。
ああ、そうだな、とグライツが応える。
あてもなく、二人は歩き出した。
罪の臭いは二人の鼻腔をとらえてはいない。
雨の匂いだけが、二人をとらえている。
こつ、こつ。
こつこつこつこつ。
こつり。
――――
「みぃつけた」
ぞっとするような音色が、グライツとアルクの背に浴びせられた。
血管に氷を流し込まれたような感覚を覚えた二人は反射的に飛びのき、来るであろう攻撃に備えた。
「(来ない……!?)」
「(なんで!?)」
二人を見つめていたのは、緑の眼の女性であった。
燃えるように赤い髪を持った、褐色の肌の女性である。
黒のローブをはおり、豊かな胸元にはみたこともない刺繍を施していた。
雨が降りかかるのも気にせず、女性は二人を見つめたまま髪を指でクルクルともてあそんでいる。
「何の用だ?」
グライツが両手をだらりと下げ、そう尋ねる。
その言葉を吐いたとたん、女性が心底面白そうに笑いだした。
まるで出来の良い芝居をみた、無邪気な少女のような笑みである。
「うふふふふっ! 何のよう!? あなた自分たちの状況がまだわかってないの?」
目元に涙すら浮かべ、女性が言う。
「申しおくれたわね。解放軍、第一四四部隊所属。レイナ・アーウィンよ」
女性、レイナは片目を閉じ、唇に人差し指を当ててそう言った。
ぞくっ、と二人の背筋に悪寒が走った。
てっきり狩る立場だと思っていたグライツは冷や汗さえ流している。
雨と混じっているのが幸いであろうか、心の動揺を見せつければ目の前の女はすぐにでもグライツを狩るであろう。
「これだけ言えばわかるかしら? じゃあ、踊りましょう?」
散歩にでもいきましょうか、というような気楽さで、レイナが言う。
レイナはローブから短い杖を取り出すのとほぼ同時であった。
「御二人さま?」
ふっ、とレイナが笑みを浮かべる。
美しい笑みであった。
にぃっ、とグライツの口元がつりあがる。
「アルク。後ろに一人いるぞ?」
「承知しております、兄上」
互いに視線はレイナに釘付けたまま、そんなやり取りが行われる。
「あらら。ばれてしまったわね」
「至極残念である」
こつん、と杖の音が響く。
同時に投げかけられた金属がこすれるようなきぃきぃとかすれた声に、思わずグライツが振り返った。
「冥王!」
冥王、ティタニア・ウィーケンヘルツ。
「久しぶりである。死神」
アルクの背後、四メートルほど離れた場所に立っていたのは男であろうか。
正確に男というのかは分からない。
なぜならその人物の顔面は醜く焼けただれ、黒いソフト帽を目深にかぶってるからである。
服装は紳士服だが、身長から女性に見えないこともない。
赤黒いケロイドの皮膚の奥に、炭のように真っ黒な瞳が光っている。
「ティタニア……お前どういうつもりだ?」
「どういうつもり、とは?」
こつん、と杖の音が再び響く。
左手の白いグローブには、黒と金の杖が握られていた。
「とぼけるんじゃない! なんでお前がこんな奴らの味方をしてる?」
震えた声がグライツの口から吐き出される。
「ふむ、わかりきったことである。吾輩は貴殿らと戦うために立ち位置を変えたのである」
その言葉に、グライツがぐっと拳を握りしめた。
「良く分かった。ならば問題ないな」
大きく息を吸い込み、グライツがアルクに目配せをする。
「ええ。その通りです」
言葉を発せずとも、アルクは理解したようだ。
「では、始めよう」
「仰せのままに」
グライツがティタニアに向き直り、アルクがレイナに向けて槍を構える。
「お待たせしました。お嬢様」
無邪気な笑みで、アルクがほほ笑む。
「焦らされるのもたまには良いわね」
レイナもほほ笑む。
「いくつか聞きたいことがある」
グライツが震えた声でティタニアに言う。
「応えられる限りは」
ティタニアはソフト帽を手で押さえ、応えた。
ピシャン、と雷が空気を切り裂いた瞬間、四人は動いていた。
――
「ユークス・エウラ・アグア」
「シリエ・ラ・ウィクテム」
アルクとレイナが同時に小さく唱えると、裏路地が炎と水に包まれた。
すさまじい水蒸気が霧のように周囲を覆い、水蒸気を切り裂いて雨粒が二人を優しくたたく。
ぱしゃっ、とアルクが足元の水を踏みつけ、足場を安定させる。
「やるじゃない。初手で終わらせるつもりだったけどプランが狂っちゃったわ」
まっ白な霧の向こう側から、レイナが笑いながら言葉を投げかける。
「ぼくも驚きですよ。まさか水魔法とは」
「っふふっ。火属性かとおもったかしら? よく間違われるのよね。この髪の色で」
たわいもない話だが、アルクとレイナの間にはすでに殺しの準備が出来上がっていた。
気を抜けば、やられる。
そんな状況が出来上がっている。
「さて。あなたのもう一つの間違いも訂正しなくちゃ」
アルクが頭に疑問符を浮かべたとき、突然周囲の水蒸気が凍りついた。
皮膚、髪、眼球を問わずに容赦のない冷気が襲いかかる。
両目を押さえ、アルクが体を丸めた。
「っっあぁぁ!!」
「私、水と氷の二属性魔法使い(デュアルスペル)なの」
蒸発しきれなかった先ほどの水が、がっちりとアルクの両足を固定している。
さらに水蒸気に触れたアルクの全身に薄い氷の膜が張っている。
「氷人形の世界へようこそ。お坊ちゃん」
心から楽しそうに、歌でも歌うような調子でレイナが言った。
――
「向こうもなかなか激しいようである」
「同感だ」
爆発音とともに霧に包まれた裏路地を歩きながら、二人が語り合っていた。
「俺たちと戦うためだけに解放軍なんかに?」
霧の蒸気を吸い込みながら、グライツが尋ねる。
「戦いたいから、である。吾輩とて無名のチンピラではない。冥王。この名を持つ以上、争いは避けられぬのである」
ひゅうっ、と風が舞いあがった。
そよ風のような勢いのそれは霧を流し、グライツとティタニアの視線を結ばせた。
「お前は罪を作ってはいない。孤児院の……少なくとも俺は管轄じゃない」
グライツが首を横に振りながら言う。
「貴殿は戦争が起こってもそのようなことを言うつもりであるか?」
その言葉に、グライツの眉がつりあがる。
「おい、もしかして……」
ぴきっ、という音とともに、周囲が冷気に包まれた。
「あの娘も罪人ではないのであるが、それでは解放軍を打破できないのではないか?」
黒の瞳が天を見上げる。
「吾輩は信用されていないようでな、あまり大きな任務には就かせてもらっていない。気がすんだら、そちらにお邪魔することになるかもしれんな。さて、吾輩はこれにて」
こつっ、と音を立てて、ティタニアの姿が消え去った。
融けるように姿が消え、後には一つの痕跡も残ってはいない。
「……何をしに来たんだ、あいつ」
一人小さくもらし、グライツは背後を向いた。
視線の先でかすむ場所では、氷人形が一つ出来上がりかけているところであった。
――
「あら、あの人もう帰っちゃったの? 命令に忠実なのね」
目の前の氷人形を、正確にはその向こうを見つめながら、レイナが言う。
「……めい……れい……?」
体の内部まで凍りついているであろうアルクだが、気丈にも質問を行っている。
「そ、命令。孤児院メンバーを発見し次第報告を行え。交戦は回避せよ。バカバカしいと思わない? お腹をすかせたライオンの目の前にウサギがいるのよ?」
レイナが杖を掲げ、アルクの足元に杖先を向ける。
氷がさらに厚く、アルクの足を包んでゆく。
さらにアルクに触れた雨粒が凍り、さらにアルクを包んでゆく。
「知っているかしら? 凍傷っていうのは体の末端部で一番起こりやすいの。なんでだかわかるかしら?」
クルクルと指先で髪をもてあそびながら、レイナが尋ねる。
一瞬の間を開け、レイナが回答を話す。
「血管が収縮して体の隅まで温かい血が通わないからよ。だから細胞が壊死してしまうの。自分の足がそうなってるの、気づいてるかしら?」
アルクが呼吸をするごとに水蒸気で口が凍結している。
既に眼は閉じられ、ぴったりとまつ毛が張り付いていた。
「体温が低下するから、当然脳の血管も収縮するわけ。そうなると生命維持にかかわる機能も破壊されるの。でも、氷人形は皆安らかな顔をしてるわ。眠るのと同じだもの」
無邪気な笑みで、レイナが言う。
数秒後、その表情がこわばるとは、彼女自身まだ気づいてはいない。
「もう一分もしたら、コレクションにくわえてあげる。あなたはそうねぇ……今日から私の弟になるの」
突然周囲の空間が燃え上がった。
冷気の渦巻いていた裏路地では、真っ赤な炎が踊っている。
氷人形は水を滴らせながら口元を釣り上げて邪悪な笑みを浮かべていた。
「な……!? なんで!?」
炎を背負っているアルクを見つめ、レイナがつぶやく。
「さて、問題です。温度の下限はいくつでしょうか?」
質問には触れずに、アルクが尋ねる。
回答を待つことなく、アルクが答えを導く。
「正解は、マイナス二百七十三度。それに対してぼくが操れる炎の温度は何度だと思います?」
槍の先端をレイナに向け、再びアルクが尋ねる。
「答えは、七千度。魔導鉱石を除いた純鉱石、タングステンの沸点が約五千度ですから……あはっ! 完璧に"蒸発"しちゃいますね」
いまだわけがわからない、というようなレイナを銀色の二つの瞳でとらえアルクが続ける。
「ちなみに、人間の体は水とたんぱく質とカルシウムですから、そのような高温にさらせば十分蒸発させられると思いますよ? ご存じのとおり、水は百度で沸騰しますし、たんぱく質の燃焼、炭化における最終生成物の炭素は三千六百度で気体になり、カルシウムに至ってはたった千四百度で『沸騰』しますから。試してみます?」
その言葉を聞いて、がたがたとレイナが震え、足に力を込めた。
「ああ、そうそう。ちなみに温度というのは分子の振動ですから、犠牲を考えなければこの周囲くらいは消し炭にできるんですよ。それに、膨張した空気と浸透圧の変化で内臓はグジャグジャにできますし」
無邪気な笑みを浮かべ、アルクが言う。
レイナが杖を捨てて地面にへたりこんだ。
「参りました……!」
無理もない。
属性間の相性は最悪であり、錬度でも負けている。
凍った時に始末できなかったことが敗因であろう。
「ええ、ご理解のあるお方で良かった。ご同行願えますか?」
こつ、と靴音を立て、グライツが戻ってくる。
「兄上、何とか情報入手です」
アルクの周囲にできた焦げ跡に、グライツが頭を押さえた。
「働きにはもろ手を挙げて喜びたいが、人がいないとはいえ石壁を焼くのはやめてくれ。昔は民家だったんだぞ?」
パシャ、と薄い水を踏み、グライツが言った。