5-3
チリン、とコップの中の氷が鳴る。
コップには水滴が付き、コップを曇らせていた。
ここはコレットの部屋だ。
木製のクローゼットの前には木の椅子にグライツが座り、その前の小さなテーブルの中身をちびちびと飲んでいる。
テーブルの反対側、ベッドに腰かけているのはコレットである。
「いつの間にか俺はこの部屋がずいぶんと居心地が良くなった。お前のおかげかな」
「あなたねぇ……そんな言葉、リエイアちゃん以外には言わない方がいいわよ」
あきれたようにコレットが言う。
二人とも、これから起こることへの恐怖も、不安もない。
「やめるなら、今のうちだぞ。話の途中では終われない。足を突っ込んだら最後まで聞いてもらう」
「ええ。わかってる。私たち、家族でしょ? 隠し事はナシにしましょうよ」
にっこりとコレットがほほ笑む。
年齢にふさわしい笑みである。
「は、は、は、家族か……そう、だな。だが、今から話すのはひとりごとだ。俺は眼をつむっているから、誰が聞いているのかはわからん。相槌も、質問も受け付けない」
グライツが椅子に腰かけ、眼を閉じてコップの中身を口に含んだ。
チリン、と氷が鳴る。
「あれは十四年前、俺が六歳のころの夏の日だった」
どこかで聞いた文句だな、とコレットが心でデジャブを覚えた。
――――
そういえばまだ話していなかったか。
俺の生まれはサーベルト南部、そうだな、中央市街から南に二百キロ程の小さな村だったんだ。
クラスター・マインという小さな村でな、名前の通り大規模な鉱山が集まってた。
戦後のエネルギー革命で発見された燃料が大量に埋蔵されてる土地で――今も山ほどの燃料が埋まってる。
俺はまだ活気があったころの故郷しか知らないんだ。
小さな村だったが、みんな良い人たちだった。
顔を見れば名前はわかったし、俺も良く知られていた。
父は堅実な……決して愛想が良いとは言えないが頼もしい人で……母は優しい人だった。
あの頃は俺もやんちゃでなぁ、仲の良い友達と探検ごっこで汗を流してたもんだ。
父のような鉱夫になることが将来の夢だったし、それを話すと父は珍しく目元にしわを寄せて喜んでいたよ。
将来はそんな生活を送るんだろうと思っていた。
……十四年前、あれは7月の終わりだった。
七月二十八日、忘れもしない日だ。
クラスターマイン事件、今は緘口令が敷かれているらしい……図書館でも歴史書でも、わが故郷の字を見たことはあれ以来なかった。
それも無理はないことだろうさ、何せたった一人の男が……六百人を一日で殺したんだからな。
――――
バサッ、という空気を切る旗のような音とともに、一つの物が地面へと崩れ落ちた。
手が二つ、足が二つ――人間であった。
例えるならば、魚の開きというのだろうか、腹からまっすぐに切られ、股間でちょうど半分にされている人間の女の開きであった。
「キィアッッハハハハハハ!! 張り合いのねェことだなァおイィ!?」
狂ったような男の笑い声が響く。
周囲に生き物の気配はなく炎が燃え盛るゴウゴウという音しか聞こえない。
奇妙な格好の男であった。
ところどころ切り取られたように穴のあいた白い服を纏い、その上から神官のように金の刺繍入りの ローブをまとっている。
ローブはフードですらもべったりと血をかぶり、元の純白はほんのところどころしか見つけ出せない。
炎のように赤い髪を真上に立たせ、同じく赤い瞳が狂気をたたえて周囲をなめまわすように見つめている。
彼の名は、アドラー・シャレイオットという。
「そんじゃア、調理開始とイこうかァ!」
アドラーは足元の「人間だったもの」に掌を向ける。
とたんにそれが燃え上がり、鼻を切り落としたくなるような「肉の焼けるにおい」を放った。
「おォっと! ちィっとばかし焼きすぎちまったかァ?」
焼いたことによりこぼれだした体液をもったいなそうに見つめた後、アドラーは「肉」に歯を立てた。
顔面である。
鼻に歯を立て、頬の肉を引きちぎり、咀嚼してゆく。
彼は禁忌を犯していた。
こういう男なのだ。
自らの快楽の為に人を殺し、純粋な食欲のままに行動する。
もはや彼は人間ではなかった。
鬼、畜生にも劣る存在であった。
「キィィィアッッッハハハ!! やっぱ若ェオンナの肉はヤワラかくッて美味ェや!」
鬼畜の瞳にはただあらゆる「悪」がかすみそうな「邪悪」だけが渦巻いていた。
――――
「……あのとき見たことは生涯忘れないだろうなぁ……人間が人間を焼いて……喰っていた」
コレットが顔を押さえ、短く悲鳴を上げる。
「俺はその時は死に掛けていたよ。あいつに……アドラーに肋骨をブチ抜かれて、胸から骨が突き出ていた」
グライツが親指で胸をトンと指さし、言う。
「……事はこんな感じだ。言葉にすればなんとたやすい。だが……俺は断言できる。あの空間は地獄だった」
グライツが悲しそうに言う。
コレットが何か言おうと口をパクパクとあけるが、言葉を紡ぐことはできなかった。
「まあ、そのあとは苦労したよ。俺はすぐ意識を失って……気が付いたら孤児院にいたんだ。それからは特に話して面白いこともない。そのあとで俺よりもひどい地獄を味わった二人を見たがな」
つう、とグライツの頬に一筋のしずくが伝った。
「あれ? 俺――」
「ウォル……」
蚊のようにか細い声でコレットが言う。
「同情は要らない。お前も、似たような事を経験しているんだろう?」
涙をぬぐうこともせずに、グライツは言う。
「世界にはこういう奴らを許しておきたくない奴がいる。俺は人の痛みをわかるし、アイツの全身を完膚なきまでにたたきつぶしたいから孤児院にいる。だから、俺は――」
「やめて……」
コレットがグライツの肩に手を置いた。
「ごめんなさい……興味本位で聞くようなことじゃなかったわね……」
「構わんさ。もうアルクとエテルにも話した。これで全員が俺の過去を知ることになった」
くく、とグライツが喉を鳴らす。
「――復讐をなしとげて、どうするの?」
コレットが眼を真っ赤にして聞く。
「どうする? どうもしないさ。アイツをブッ殺したら俺は孤児院で一生を終える。むなしくもないし、きれい事は言わないつもりだ」
「でも――」
「復讐を愚かな行為だというのは漫画やテレビの中の世界だけだ。俺は俺の自己満足の為にあいつを殺さずにはいれないし、俺はあいつの姿を見つけたらリエイアの目の前だろうが警官の前だろうがあいつを殺す確信がある。少なくとも、殺そうとはするだろうな」
グライツが大きく息を吐いた。
「話は終わりだ。こんな天気の良い日に暗い話をするものじゃないな。雨が降っていたなら、きっと俺は今頃啼いていたよ」
グライツが立ち上がり、コップを持って部屋から出ていく。
コレットは後を追うこともできずに、ただベッドに腰かけていた。
木製のフローリングの床には何粒ものしずくがこぼれおちていた。