4-2 ここから
きしむ木の扉を開けると、むっとするような酒の匂いが漂ってきた。
案外広いその酒場の中央には一段高い場所が作られている。
五四方ほどの木製のその場所ではガントレットをつけた男と木刀を持った女が勝負を繰り広げていた。
両方とも青いシェズナの軍服を身にまとっている。
五十歳ほどの酒場のマスターは入ってきたミハエルとエヴァを見るなり笑みを浮かべた。
彼は軍服ではなく、黒の燕尾服を着ている。
「久しぶりだな、ミハエル」
その言葉に酒場の視線が二人に注がれる。
ミハエルも笑みを浮かべ、懐かしげに周囲を眺める。
喧騒は飛び交っているが、視線はエヴァとミハエルに集中していた。
「本当に久しぶりだ。元気か?」
視線を気にするでもなくミハエルが立ち上がり、杖を付いてカウンターに寄る。
「ああ、まだまだ若い奴らには負けんよ。そちらのお嬢さんは?」
「友人さ」
マスターがエヴァに視線を移すと、エヴァが口を開くよりも早くミハエルが言う。
「っふふ。そうか。それならば安心だ。お前は人を見る眼がある。俺の親友だからな」
「ははっ、違いない」
二人が笑みを浮かべ、なにやら語り合っている。
エヴァは戦っていた二人の成り行きを眺めていた。
木刀を全力で振りかぶる女性も、拳でいなしている男性も見事な動きをしている。
距離を詰めれば拳が打たれ、開けば木刀が打ち込む。
既に二人とも汗だくである。
観客は酒を片手に勝負を見つめている。
最後は男が木刀を圧し折って勝負が決まったのだが、エヴァは凶悪な笑みを浮かべていた。
血が騒いでいるのだ。
そうしていると、エヴァの肩がぽんと叩かれる。
服の上からでもわかる逞しい筋肉の男が背後に立っていた。
「どうだいお嬢さん、参加してみるか?」
その言葉にエヴァはさらに笑みを浮かべ、深くうなづいた。
――――
数分後、高台の上ではエヴァと男が向かい合っていた。
男は上半身の軍服をはだけ、拳を構えている。
引きしまった体の男。
「ルールは簡単だ、相手をこの台から落とすか十カウント背中を付けさせれば勝ち。眼突き以外なら何をしてもいいぞ!」
男が言う。
「おいおい、ハインツの野郎本気かぁ!?」
「おいデカブツ! お嬢さんに怪我させんなよ!?」
エヴァは左手を軽く前に突き出し、右手を下げた体制で構えている。
ミハエルはカウンター席に腰掛けて成り行きを見つめている。
「あの男は?」
「ああ、ハインツか? ここのナンバー5だ。結構な成績を残している」
それだけ短くつぶやくと、ミハエルとマスターは注目した。
水を打ったような静寂が訪れる。
ホイッスルが吹かれ、勝負が始まった。
軽いステップでハインツが踏み込むが、エヴァは微動だにしない。
大きく拳を引いての右フックがエヴァの顔面を襲う。
すさまじい迫力だが、打ち込めない速度ではない。
エヴァが突き出した左手をカウンターで腹に打とうとすると、鈍い痛みと共に左足が地面からはなれた。
ハインツの槌のようなローキックがエヴァの左足を打ちぬいていたのだ。
フックはフェイントだった。
「くぅぅっ!?」
喉から苦悶の声が漏れる。
攻撃にまるで容赦が無い。
ひるんだ一瞬の間に三発の拳がエヴァをとらえていた。
肩と顎と大腿部に砲弾のような拳がめり込む。
先ほどのものとは違う攻撃にたまらずエヴァは倒れこんだ。
周囲から歓声が沸く。
ミハエルが冷や汗を浮かべている。
「どうだミハエル? 血が沸いたか?」
「いや……五体満足で帰れれば良いのだが……」
主が疑問符を浮かべた瞬間、ハインツがエヴァに手を伸ばした。
場外に放るつもりなのだ。
「あぁ……」
ため息を付いた瞬間には既に手遅れだった。
伸ばされた太い右腕を両手で掴み、それと同時に両足をハインツの首に絡める。
一呼吸をしてぐっと力を入れるとハインツが崩れ落ちた。
両足で気道と血管を閉め上げる技、三角締めである。
こともなげにエヴァが立ち上がり、軽くハインツを場外に蹴り出した。
一瞬の静寂の後、拍手と歓声がとどろいた。
「一体何者だい? あのお嬢さん」
「吸血鬼だよ。それもベテランの」
声を潜めてミハエルが言う。
「本当かい? そりゃあ道理で……」
ミハエルとマスターのひそひそ話は喧騒にかき消されて聞こえない。
そこにエヴァが近寄る。
「もっと強い奴を出せ」
エヴァが凶悪な笑みをたたえている。
ミハエルとマスターが顔を見合わせる。
「ナンバー3で良ければいるが?」
マスターの言葉にミハエルがうろたえた。
「おい、まさか……」
マスターがメガホンを取り出すと、酒場に向けて叫んだ。
「さあさあ皆さんご注目! 本日のスペシャルマッチだ! 方やハインツを締め落としたお嬢さん! お名前は!?」
「ティンク・アーベルだ」
テンションに付いていけず、すこし戸惑ったようにエヴァが言う。
「かわいらしいお名前! ティンカーベルだ!」
その言葉に笑いがまき起こる。
慣れたようにエヴァがふん、と鼻を鳴らした。
「そしてもう一人は! 元第一魔法実験歩兵隊! ミハエル"キッド"ハイメロートだ!!」
爆発したかのような歓声がとどろいた。
「おい、その愛称はやめろと――」
「さあ張った張った! 十分後に試合開始だ!!」
ミハエルの訴えを完全に無視したまま、マスターは商売魂むきだしでそう宣言したのだった。
――――
きっかり十分後、試合場にはエヴァとミハエルが立っていた。
ミハエルは杖をついている。
徐々に周囲が静まり返ってゆく。
誰かが言いふらしたのか、酒場の中に入りきれ無い人々が窓から様子を覗いていた。
「ルールは?」
ミハエルが問う。
「飛び道具と目ン玉と金玉以外は何でもあり! 獲物は好きなの使いな!」
意気揚々とマスターが答える。
その言葉にミハエルがうなづく。
「こうして向かい会うのも久しいな」
微笑んだまま、ミハエルが切り出す。
「全くだ。『あの時』はついに勝負が付かなかったな」
笑みを浮かべ、エヴァが言う。
「『あのとき』ほどのものにはならんさ。お互いもはや人間の域ではない。一発か二発で終わるだろう?」
ミハエルが杖を左手に持ち、しっかりと両足で立った。
エヴァが凶悪な笑みを浮かべる。
「良きかな、良きかな。長生きはするものだな」
ぴぃん、と緊張の糸が張られる。
ホイッスルが吹かれた。
エヴァが口元を吊り上げ、駆け寄りながら蹴りの体制を作る。
ミハエルが笑みを浮かべたまま杖の先端をエヴァの喉に向ける。
おおよそ表現できない音とともに二人が同時に場外に吹き飛んだ。
エヴァはのどを押さえてのた打ち回り、ミハエルは腹を押さえて冷や汗を流していた。
「ドロぉぉぉぉー!!?」
そんな叫びが酒場の周囲にこだました。
――――
周囲がうっすらと赤く染まってくる。
石灰石の町が夕日を反射して輝いている。
夕日の光をいっぱいに受けながらミハエルとエヴァが歩いていた。
「楽しかったぞ、ミハエル」
「ああ、久しぶりにいいものをくらった」
酒場で互いに一撃を繰り出した後に酒と昼飯を食べ、後腐れもなく二人はシェズナ・ポートにむかっていた。
ゲートを出ようとすると、門番が敬礼をしながら前をふさいだ。
「ミハエル准将、我らが君がお呼びです、お連れの方も」
その言葉にミハエルは驚いたようにひげをなでた。
「わかった、ありがとう。エヴァ、頼む」
エヴァを振り返り、ミハエルが言った。