1-1
バストーク大陸の南方に位置する、サーベルト王国、その中央市街、その場所は、バストーク大陸一番の巨大都市である。日夜を問わず人が行き交い、丁寧に舗装された大通りは常に人であふれている。
そんな街で、一人の青年が、薄暗くじめじめとした路地を歩いていた。
日の光が四角く切り取られる場所、街の中でもとびきり治安の悪いその場所は、滅多なことが無い限りはまっとうな人間は通らない。薬物売買や殺人、恐喝に強盗など、違法行為は当たり前のように行われ、いたるところで死臭や腐臭が漂う。サーベルト中央市街の恥部とも呼ばれている、暗黒空間だ。
青年は漆黒のマントで体を覆っているため、体格はわからない。身長は百八十センチはあるだろうか、太くはない体つきの男で、端正な顔立ちでもある。短く黒い髪が空に向かって立ち上がり、物憂げな黒い瞳が路地の闇と同化している。目を引くのは服装ではなく、肌の色だ、男にしては白い肌、まるで路地の暗闇に浮かび上がる幽霊のような肌である。
青年は入り組んだ路地を、まるで馴れ親しんだ場所であるかのように進んでゆく。
あるところで青年は脚を止めた。
目の前には冷たい雰囲気の、ところどころ錆びついた鉄の扉がある。青年はドアノブを握ることはせず、二本の指で慎重にドアノブをひねると、その瞬間、ノブから一本の鋭い針が突き出した。針からは何か液体が滴っている。単純な、極めて単純なブービートラップだが、侵入者を追い払うには十分であろう。
ギィ、と音の鳴るドアを押し開け、青年は建物の中に入っていく。バタンと言う音とともにドアが閉まると、日の光の消えた内部は薄暗い。天井は二メートルほどであろうか、低い天井の裸電球のみが光源だ。人一人が通れる程度の坑道のような場所である。両脇はコンクリートで覆われ、どこかの防空壕のようでもあった。
青年が身をかがめるようにして一分も歩くと、広い空間が現れた。直径五メートル程の椀を伏せたような、きれいな半球状の空間である。ちょっとしたプラネタリウムが見られそうでもあった。ただ、部屋の真ん中にはプラネタリウムの機械ではなく、二組の机と椅子が無造作におかれている。まるでそこだけ違う空間から切り取られ、もってこられたようだ。
青年はそれらに関心を持つような素振りを見せずに壁の一ヶ所を押す。すると、くるりと壁が回転し、壁が青年を飲み込んだ。
回転扉のような壁の向こう側にも、異質な空間が広がっていた。一見したところ、どこかの事務所のようにも見える。右手側の窓からはさんさんと日の光が降り注ぎ、部屋の四隅には小さな観葉植物が鉢に植えられている。そして、事務用の椅子には四人が座り、青年を八つの瞳で見つめていた。
「ただいま戻りました」
吐き出す息に乗せるように、青年が言う。高くも低くもない声。風を人工声帯に通したら、こんな声がするだろうか。たった数文字を、ひたすらにけだるそうに、青年は言う。
「おかえり、グライツ君」
グライツと呼ばれた青年の目の前にいた、六十代程の男性が朗らかに言う。短い白と金の混じった色の髪に、短く切りそろえられた白いひげ、そして、どこか知性を漂わせるフレームの細い眼鏡をかけている。眼鏡の奥には黄金とも思えるような瞳がグライツを映していた。顔には皺が掘り込まれ、今まで過ごしてきた年月を語っている。そして、汚れが一つもない真っ白な白衣を纏い、銀色の車椅子に腰掛けていた。
孫を可愛がる祖父のような、慈愛に満ちた笑みを浮かべている彼の名は、ミハエル・ハイメロートという。
「随分早かったじゃないか。きっちり回収はしてきたのか?」
ミハエルの隣で足を組んで腰掛けているのは、若い女性であった。二十才ほどであろうか、透き通るような見事な金色の髪をもち、雲ひとつない空のような深い青の瞳、人形のように整った顔立ちに、首から足首までをすっぽりと包む、ところどころ傷ついた漆黒のローブ。
まるで女王のような品格を持つ彼女の名は、エヴァンジェリン・ベルニッツ。
「ええ、依頼主の言葉どおり、下顎と両の眼球を。残りは消去いたしました」
グライツがそう答えると、エヴァは軽く瞳を閉じ、満足そうに頷いた。
「して、アルク、エテル。お前たちは?」
グライツがミハエルとエヴァの向かいの椅子に座っている少年と少女に問い掛ける。十才ほどであろうか、まだ幼い。
「順調に事は運びました」
「ええ、拍子抜けするくらいに順調に」
声の質も、話し方も、外見までそっくりな双子である。異なるのは、性別と服装、髪の質、長さだけだろう。少年、アルクはふわふわとした銀色の髪に、黒い執事服。少女、エテルはサラサラの銀髪に、黒いメイド服である。
瞬きをしているうちに見失いそうなほどの細かい違いしか見当たらない。
「グライツ君はこれからどうするのだね?」
ミハエルが軽く頬杖をつきながらそう尋ねる。
「ええ、今日はそろそろ上がらせていただきます。少々私用が……」
そう返事をして、グライツは黒い箱を机においた。丁度、人間の頭ほどの大きさである。
「お疲れ様。たまにはゆっくり休んでもいいんだぞ?」
黒い箱に一瞬だけ視線を移した後で、ミハエルが言う。
「いえ、ここは私の家ですから。これからも毎日通いますよ」
穏やかな笑みを浮かべてそんな言葉を交わすと、グライツは壁の向こうに消えていった。