色盲と呼ばれて
「色盲」って何ですか?
「色盲」の人って健常者ですか? 障害者ですか?
この問いは、生涯、私が問い続ける問題です。
一般に「色盲」は健常者に分類され、障害者手帳を受けることができません。調べると、日常生活に支障なく過ごせるからだそうです。ならば、なぜ私はこの『悪魔』に出会ってから、ずっと悩まされ続けているのでしょうか。
この『悪魔』——「色盲」はいったい何者なのか。健常者か、障害者か。私の感覚では、どちらでもありません。あるときは健常者のカテゴリーに入り、あるときは障害者扱いを受けるが、障害者にはなりきれない中途半端な人間。まるでコウモリです。
そんな『悪魔』に取り憑かれた、中途半端な人間の生き様を記してみました。決して面白い人生ではありません。この『悪魔』により、偏屈な考え方や物の見方をするようになった、どこにでもいるおっさんの話です。そして、「色盲」の苦しみや現実を少しでも知っていただければ幸いです。
色盲だから社会的に優遇してほしいと思っているわけではありません。現在、色盲は「個性」だと捉える向きもありますが、個性という言葉だけでは片づけられない苦労が多々あります。現在、学校では色盲検査が行われないことが多いようですが、自分がどのような特徴を持っているかを知ることは、人生の指針になると思います。仕事を選ぶ際、「色盲だから就けない、なりにくい」という現実をきちんと把握しておくほうが、よりベターでしょう。就職しようとしたときに初めて色盲だとわかり、採用されなかったという話も聞きます。自分は色盲だと自覚し、どのような仕事ができ、何ができないのかをしっかり把握すべきだと思うのです。
私がまだ、小学校に上がる前のこと。
「お母さん、このコスモス、水色で綺麗だね.」
母はキョトンとして、呆れたように言いました。
「何言っているの、コスモスはピンクだよ。どうしようもない子だね。色も判らないなんて。」
それから5年が経ち、あれは、約60年前のとある午後から始まりました。
1 『悪魔』との出会い
「おーい、色盲。」
あまり話したことのない、違うクラスの子に言われました。
(何言ってるんだ、あいつ。なんなんだ)
この時代は、今ほどコンプライアンスやハラスメントに厳しくなかったため、その子もただ素直に思った言葉を口にしただけなのでしょう。いや、そう思いたい。
昭和44年、小学4年生のとき、学校から帰る途中の玄関で言われた言葉。これが私にとって、この『悪魔』との初めての出会いでした。この『悪魔』がこれから一生つきまとい、人生に大きく影響してくるとは、このときは思いもしませんでした。
(何言っているんだ、あいつ。色盲って何だ?)
学校を出たときは首を傾げながら歩いていましたが、家に着く頃には忘れていました。
私の名前は大本ワタル。このときまでは、どこにでもいる小学4年生だと思っていました。
家族は、父(五郎)、母(正子)、3歳離れた姉の4人家族。ごく普通の、ありふれた家族でした。
あれから何事もなく、私は5年生になりました。4年生のときのあの出会いもすっかり忘れていました。しかし、『悪魔』は確実に私をロックオンし、意識の中に潜り込もうとしていたのです。
5年生になり、学級担任は若い女性の南條先生に代わりました。あれは確か、4月か5月頃の最後のコマのこと。『悪魔』が私に取り憑く瞬間がやってきました。
「今日の最後の時間は検査をしますので、呼ばれたら先生のところに来るように。それじゃ、相沢くんから。」
南條先生が言いました。当時は男子の五十音順で何事も行われ、その後に女子という順番でした。私は「大本」なので、呼ばれるのは5番目です。
(何の検査なんだろう)
このときはまだ、『悪魔』が自分の後ろで微笑んでいることにも気づいていませんでした。
先生が椅子に座って準備を始めるとクラスがざわつき、「何の検査だ」と声が上がりました。そんな中、相沢くんは「はい」と言って先生のところへ行き、本のようなものを見ながら数字を答えていました。
(何をしているんだろう。変なの)
ぼんやり見ていると、相沢くんの検査が終わり、席に戻っていきました。となりの席の子が相沢くんに尋ねます。
「何してたの?。」
「色のついた点々がいっぱい書いてあって、その中に数字が見えるから、それを答えてたんだ。」
「なんか、面白そうだね。」
そう話している間に2人目が始まり、淡々と順番が進んでいきました。3人目、4人目が終わり、私の番になりました。
先生はページをめくりながら言いました。
「大本くん、見えた数字を言ってね。見えないものもあるから。それじゃ、これから。」
「はい。」
開かれたページを見ると、数字の『2』が見えます。
「2。」
「えっ?。」
少し間があって、先生が確認するように聞きました。
「そう……2に間違いないのね?。」
「はい。」
(こんなの間違えるはずないじゃん)
自信を持って答えました。
「それでは、次のページね。これは?。」
数字が見えない……。そういえば先生は、見えないのもあると言っていたっけ。
「数字は見えません。」
「そう……。」
先生の声のトーンが低くなったことに、私は気づいていませんでした。このとき、『悪魔』は完全に私に取り憑いていたのです。
「これは?。」
3ページ目を開いて尋ねられました。
「6です。」
4ページ目、5ページ目、6ページ目と進み、検査は終わりました。
「これで検査は終わりです。それから……大本くん、放課後、先生のところに来てね。お話があるから。」
「うん? はい。」
自分の背中に『悪魔』が取り憑いていることなど知る由もなく、クラスの子たちに見えるはずもなく、私はいつものように席に戻りました。すると、先に終わっていた前の席の子が振り返りました。
「大本、3ページ目、数字見えなかったよね。何なんだろうね。」
(えっ! 俺、見えたけど……)
「そ、そうだね。は」
とりあえず、取り繕った返事をしました。
検査が終わった子が増えてくると、あちこちから声が聞こえてきました。
「3ページ目、見えないよな。」
「何の検査だー?。」
(あれっ! みんな見えなかったの? えっ、俺だけ見えたの? えっ……)
やがてチャイムが鳴りました。
「今日の授業はこれで終わります。特に連絡事項はないので気をつけて帰るように。」
「はい。」
「起立、礼。ありがとうございました。」
日直の号令で全員が礼を交わし、先生が職員室へ戻っていきました。そのとき、誰かが『悪魔』の名前を口にしました。
「あの検査、色盲検査だわ。兄ちゃんから聞いたことあるよ。」
その瞬間、ふと思い出しました。4年生のときのあの言葉。
『おーい、色盲』
(でも、なんであいつは、俺のことを色盲って呼んだんだろう?)
それを知る術は、生涯ないでしょう。
(俺って『色盲』なのだろうか? みんなと違うのか?)
頭の中を「色盲」という言葉が駆け巡りました。帰る準備をしながら、(とりあえず、先生のところへ行くか)と立ち上がりました。
一番仲の良い渡辺くんが近寄ってきました。
「大本、一緒に帰ろう。」
「ごめん。ちょっと先生に用事があるから、先に帰ってて。」
「そっか、それじゃまた明日ね。」
渡辺くんが帰った後、私はランドセルを背負ったまま職員室の前へ向かいました。トントンとドアをノックして開けます。
「5年、大本、入ります。」
南條先生の机へ向かいました。南條先生は、5年生から担任になった気の強そうな女性で、射抜くような視線で私を見つめました。
「先生、来ました。」
「大本くん、ここに座って。」
「はい。」
「今日の検査のことで、大本くんにお話があります。よく聞いてね。」
「はい。」
不安が押し寄せてきました。先生の重苦しい態度、そしてみんなが見えなかったページの数字が自分だけ見えていたこと。
「今日の検査は色盲検査といってね、大本くんには色盲の疑いがあります。色盲というのは、色がよく見えない人のことを言います。検査でみんなが見えない数字が見えたり、みんなが見える数字が見えなかったりするの。だから、お母さんと一緒に病院に行って、詳しく検査をしてもらってください。」
「色盲……?。」
(やっぱり、そうだったんだ。色盲! 色盲!! 色盲!!!)
頭の中で『悪魔』の名前がこだまのように響き渡りました。
「色盲の人は、検査で数字の見え方が違うから、ちゃんとお医者さんに見てもらってください。お母さんにもちゃんと話して病院に行ってね。いい?。」
「わかりました。先生、色盲だとどうなるんでするか?。」
「そうね……色盲の人には、なれない仕事があったりするの。だから、ちゃんと調べてもらいたいのです。いい?。は」
「はい。」
このときはまだ、深刻には考えていませんでした。だって、まだ小学5年生だから。『悪魔』についての知識など、何ひとつ持っていなかったのです。
これが、私と『悪魔』との本当の出会いでした。
2 『悪魔』と向き合う
家に帰った私は、母に今日の出来事を話しました。母は驚いた様子でした。
「明日、南條先生に母さんも話を聞いてくるわ。それから病院に行きましょう。父さんにも話してみるから。」
「わかった。」
その日の夜、母は父に話をしたようですが、どのような会話だったかは知りようもありません。ただ、後になって「うちの家系にはいない」だの「そんなの知らない。」だのという話があったようです。
次の日、母は南條先生と面談し、色盲検査の様子を聞いてきました。正常なら見える数字が見えず、見えない数字が見えたこと、ほぼ色盲が疑われるため専門医の診察を受けてほしいことなどを説明されたそうです。
学校から帰ると、母はすでに家にいました。
「ワタル。明日学校は休んで、病院に行くよ。」
(やっぱり、みんなと違うんだ)
「……わかった。」
私はそれだけ答えました。
翌日、母と一緒に市内の総合病院の眼科を訪れました。受付を済ませ、待合室で順番を待つ間、私はぼんやりと周囲の人たちを眺めていました。
(この中で、俺みたいに『色盲』の検査で来ている人はいるのかな……)
診察室に呼ばれ、母と一緒に入りました。医師が母に向かって言いました。
「今日は色盲の検査をご希望ですね。」
「はい、学校の検査で先生から疑いがあると言われまして……。」
「そうですか。では、ワタル君だったね。この本の見えた数字や文字を答えてください。」
学校と同じような検査でしたが、本の厚みが違いました。数字の読み取りだけでなく、線をなぞるものやアルファベットなど、時間をかけた精密な検査でした。
「はい、これで終了です。待合室で待っていてください。」
学校の検査とはだいぶ違いました。判らない数字や文字、線が多かったです。
しばらくして再び診察室に呼ばれました。医師は厳かな口調で、『悪魔』の正体を告げました。
「お子さんは、第二赤緑色盲です。色覚異常には色弱、第三色盲、第二色盲、第一色盲といった段階があり、お子さんの場合は中程度の色盲となります」
「色盲ですか……? 色弱ではないのですか?。」
母が険しい表情で尋ねました。
(色盲と色弱の違いって何なんだろう……)
「色弱ではないですね。」
「そうですか……。」
「色盲の場合、将来的に色々と制約を受けることがあります。ご家族で話し合い、学校の先生とも相談しながら進路を考えていってください。診察は以上です。」
「わかりました。ありがとうございました……。ワタル、帰るよ。」
私は母に促され、とぼとぼと後をついて病院をあとにしました。
家に戻ったあと、私は自分で「色盲」について調べることにしました。開いたのは、父が小学3年生のときに買ってくれた『ジャポニカ百科事典』です。今まで飾りになっていた事典が、皮肉にもここで初めて活用されることになりました。手に取ったのは「シ」の巻です。
(色盲、色盲……)
ページをめくり、ついにその項目を見つけました。こう書いてあったと記憶しています。
【色覚異常】
色盲には全色盲、青色色盲、赤緑色盲、色弱などがあり、色の判別が十分にできない状態をいう。日本では男性の約20人に1人、女性の約500人に1人の割合で存在する。
(へぇー、そうなんだ)
他人事のように感心しました。新しい知識を得たことへの、一種の高揚感すらありました。
しかし、次の行を読んで愕然としました。
色盲は以下の職業に就くことができない。
医師、警察官、教員、電気関係など色の判別を伴う職業。運転免許が取得できない場合もある。また、遺伝傾向があり男性に発現しやすい。
(先生が言っていた『なれない仕事がある』って、こういうことか……。警察官とかかっこいいと思ってたけど、俺はなれないんだ)
小学5年生にして、将来の選択肢を狭められた瞬間でした。
「そっかー……警察官になれないんだ。俺は何の仕事ができるんだろう。つつじ姉さんも色盲なのかな。」
独り言を言いながら、ぼんやりと考え込みました。男子の20人に1人なら、クラスに1〜2人はいる計算です。(俺の他に誰かいるのかな……)
その日の夕食後、家族4人で話し合いが行われました。母が父に診察結果を報告します。第二色盲であること、将来の進路に制限があることなどを話しました。
「この子、小さい頃にコスモスを見て『水色の花、綺麗だね』と言っていたのよね。まだ幼いから色の名前を覚えていないだけだと思っていたわ。」
母が思い出すように言いました。
「大本の家系にはそんなのはいないぞ。お前の方じゃないのか? そういえば、中塚の友介は色弱じゃなかったか?。」
父がそう言った瞬間、私の中で何かが崩れ落ちる感覚がありました。
(えっ……何それ。俺の心配じゃないの? そういう反応なの?)
胸の中に冷ややかな感覚が広がっていきました。さっき事典を読んだときとは違う、冷めた感情です。その冷めた感覚は、成長するにつれて強くなっていったと思います。
「そんなこと言われたって私にはわからないわよ。でも、友介が色弱だとは聞いたことがあるわ。……それより父さん、これからどうすればいいでしょうかね。」
「俺にだってわからないよ。先生や色々な人に聞きながら、ワタルの進路を考えていくしかないだろう。ワタルもゆっくり考えればいい。」
私は口を開きました。
「さっき事典で調べたけど、色盲は警察官、先生、医者、電気関係の仕事ができないんだって。運転免許も取れないかもしれないってさ。選択肢が少なくなっただけだから、かえって迷わなくていいんじゃないかな。」
「お姉ちゃんはちゃんと(色が)わかるの?。」
「わかるよ、私も検査受けたことあるから。」と姉。
「運転免許なんて父さんだって持ってないし、困らないさ。それにこれからは、免許がなくても自動で運転できる車ができる時代になる。」と父。
(そんなのいつの話だよ……。それに、これは俺のせいじゃない。なのに責任のなすり合いか。これからは自分で何とかするしかないんだな)
このときから、私の屈折した考え方が身についていったのだと思います。
その夜、私は自室で考え続けました。
(どうすれば他の人と対等になれるだろう? 対等になるためにはどうすればいい?)
小学生にしては過酷な葛藤でした。誰も助けてくれないし、色盲が治るわけでもない。自分で解決するしかなかったのです。恥ずかしくて誰にも相談できませんでした。
その後、私は色盲の遺伝の仕組みを調べることにしました。なぜ自分が色盲になったのか、父の言う「大本家」には本当に要因がないのか。『ジャポニカ百科事典』で遺伝の項目を読みあさりました。
分かったことは以下の通りです。
色盲の遺伝は男性に現れやすい。
男性(XY)は、X染色体に色盲の遺伝子があると発現する。
女性(XX)は、片方のX染色体に遺伝子があっても保因者となるだけで発現しない。両方のX染色体に遺伝子揃って初めて発現する。
また、血液型の遺伝(A、B、O、AB)についても調べ、当時の私は自分なりに家族に当てはめて考察してみました。
1. 父: O型 / 色盲ではない(XY)
2. 母: AB型 / 色盲ではない(XX)
3. 姉: A型 / 色盲ではない(XX)
4. 私: B型 / 色盲(XY)
(※当時の小学生なりの結論として、「母親のB型由来のX染色体に色盲の遺伝子があった。つまり母方の祖父が色盲だったのだ。俺もA型だったら色盲じゃなかったのかな……」とため息をつきました。
なお、後に知ったことですが、血液型遺伝子と色盲遺伝子は別個のものであり、血液型Bだから色盲になったわけではありません。母の卵子のうち、たまたま色盲遺伝子を持つものと父の精子が受精した結果だったと理解するのは、ずっと後のことです。)
それにしても、小学生がここまで調べるものでしょうか。やはり私は、当時から相当な偏屈者だったのでしょう。
3 『悪魔』と共に生きる方法を考える
この頃から、「どうすればみんなと対等になれるか」を本気で考え始めました。
今思えば単純な思考でした。
(色盲の人もそうでない人も、同じ学歴なら色盲の負けだ。色盲の人間が普通の人に勝つには、より上の学歴に行くしかない)
当時はまだ大学進学率がそれほど高くない時代でした。
(大学へ行くとして、まず何の仕事になれるかだ。医者、警察官、教員、電気関係はダメ……。なんで電気関係がダメなんだ? あ、配線だ。電線に色がついているからか。……待てよ、じゃあ信号も見えてないのか? いや、信号は見えている気がする。点滅する位置で認識していたのかな? 赤と青(緑)の区別がつきにくいのなら、車の運転もダメなのか? 免許も取れないとしたら、何ができる? 普通の事務職か?)
(高卒の色盲より、大卒の色盲のほうが良いに決まっている。大卒の色盲なら、高卒の健常者と対等になれるんじゃないか? それなら、ひとまず大学に入らないとダメだ)
小学5年生にして、強制的に将来の現実を突きつけられました。
(事務職で安定しているところといえば……そうだ、公務員だ。公務員になれば、色盲でも普通の人と対等に扱われるはずだ)
こうして小学5年生の段階で、私の将来の進路は「公務員」に決まりました。
これが良いことなのか悪いことなのかはわかりません。普通の小学生ならスポーツ選手、警察官、消防士、パイロットなどを夢見る頃です。しかし私にとって、それらは選択肢から除外された職業でした。唯一残されたスポーツ選手も、自分には才能がないと分かっていました。
一時期、将棋が好きになり棋士を目指そうかと考えたこともありましたが、地方の天才少年たちが集まる研修会の厳しさを知り断念しました。中学で始めたソフトテニスも夢中になり、一瞬「プロになれるか?」と妄想しましたが、バックハンドとサーブがどうしても上達せず諦めました。
しかし、「勉強を頑張って何が何でも良い大学に入るぞ。」という熱血タイプになれたわけではありません。そこはごく普通の小中高生でした。
普段は色盲のことなど忘れようとしていましたが、図工の絵描き、教科書のグラフ、社会科の地図を使う授業などでは人知れず苦労しました。そして、「知られたくない」という恥ずかしさから、周囲に悟られないよう必死に隠して生きるのが精一杯でした。
4 『悪魔』と生きる
『悪魔』との出会いから5年が経ち、私は高校生になっていました。地元のそこそこの進学校です。
高校では「部活は受験勉強の邪魔になる。」という偏屈な理由で帰宅部を通しました。中学のテニス部の先輩から硬式テニス部に誘われましたが断りました。その甲斐あってか、数学や物理、化学といった理数系科目の成績は良好でした。
高校2年でのコース選択時、私は文系コースを選びました。私からすれば当然の選択です。「色盲」は理系の職業に就けないからです。
しかし、周囲からは不思議がられました。
「大本、なんで理系に行かないの? 成績良いのに。」と仲の良い友人に聞かれても、
「まあ、いろいろあってね……。」と誤魔化すしかありませんでした。
(色盲だから、理系に行っても理系職には就けないんだよ……)
心の中でつぶやきました。
しかし、文系を選択する上で致命的な問題がありました。英語です。私の英語の成績は壊滅的で、小テストは赤点ばかり、定期テストでも50点を取るのがやっとでした。そんな状態で文系に進んだのですから苦労は目に見えていました。
当然、東大や地元の難関国立大には遠く及びません。狙えそうな国立大として隣県のH大学人文学部がありましたが、入試の英語配点が高く、私には極めて不利でした。
進路に頭を悩ませていた高校3年の健康診断で、私は再び『悪魔』の恐怖と恥ずかしさを味わうことになります。
小・中学校でも色盲検査のたびに、先生へ「自分は赤緑色盲です」と小声で自己申告してやり過ごしてきました。しかし高校3年のときは、検査を受ける生徒のすぐ後ろに次の生徒が並ぶ形式でした。私のすぐ後ろには、友人の石川くんが立っていました。
順番が来、椅子に座った私は、いつものように小さな声で申し出ました。
「自分、赤緑色盲なので……。」
先生は一瞬戸惑ったあと、「わかりました。」と事務的に検査を始めました。
「これ、わかりますか?。」
「6……です。」
すると、後ろにいた石川くんが声を上げました。
「大本、それ違うよ! 先生、大本は目が悪いのに普段メガネかけてないから見えてないんですよ。メガネかけてやればいいのに。」
(えっ……バレた!?)
ヒヤリとしましたが、先生がすかさず注意してくれました。
「石川くん、覗かない。少し後ろに下がって。」
「はーい。」
検査は何事もなく終わりました。帰りがけ、石川くんが言いました。
「大本、普段からメガネかけたほうがいいって。よく見えてないんだよ。」
「あ、ああ……そうだな。」
(知られてなかった……良かったー。焦ったな。でも石川、違うんだよ……)
その後、担任との進路相談がありました。
「大本くん、君は色盲だったね。」
「はい、そうです。」
「自分の進路について、どう考えている?。」
「色盲というハンデがあるので、大学までは行きたいと思っています。将来の仕事は漠然とですが、公務員を目指しています。国立は隣県のH大か地元の私立大を受験しようかと……。」
先生は少し考え込んだ後、こう言いました。
「そうか。先生としてはね、大本くんの色盲というハンデを考えると、社会福祉や介護の道が良いんじゃないかと思っているんだ。地方の国立商科短大に福祉系の学科があるし、地元の私立大にもある。一度検討してみないか? これからは絶対に需要が増える分野だから。」
「福祉の……短大ですか?。は」
「そうだ」
「……わかりました。考えてみます。」
返事こそそう答えましたが、心の中はモヤモヤでいっぱいでした。
(短大? 社会福祉? 今まで考えていたことと全然違うじゃないか! 色盲の俺が短大を出て、4年制大学を出た健常者と対等に渡り合えるのか……?)
一番の懸念は「4年制大学を出て対等になりたい」ということであり、職種そのものではありませんでした。当時の私には福祉に対する理解もなく、「そんなのが仕事になるわけない」と突っぱねてしまったのです。今思えば、このとき視野を広げて手に職をつける選択をしていれば、人生は変わっていたかもしれません。
両親にも進路の話をしました。大学へ行くのは当然の権利であり、色盲に生まれた以上、親の責任として大学まで行かせるべきだという傲慢な思いもありました。
しかし、両親の反応は違いました。
「ワタルが大学に行きたいのは分かったけどね、つつじ(姉)も短大に行きたいと言っているのよ。」
それを聞いて、私はカッとなりました。
「姉さんは成績も良くないんだから行っても意味ないだろ! 俺は色盲なんだから、大学に行かなきゃ他人と対等になれないんだよ! 行くべきなのは俺のほうだ!。」
両親は黙り込みました。今思えば、なんと身勝手で偏屈な言いぐさだったことか。
結局、先生の短大案は断り、4年制の国立・私立大学を受験しました。しかし勉強不足がたたり、隣県のH大学は不合格。地元の私立大学経済学部へ進学することになりました。
高校では帰宅部でしたが、大学では「何か新しいことをしたい。」と、未経験の武道系部活に入部。4年間、部活とそこそこの勉強に明け暮れました。大学生活の最初の3年間は、色盲であることを意識せずに済む穏やかな日々でした。
5 『悪魔』と向き合う(就職活動)
穏やかな大学生活も終わりを告げ、嫌でも『悪魔』と向き合わざるを得ない時期が来ました。就職活動です。
第一希望は公務員、第二希望は金融機関でした。
国家公務員、地方公務員、市役所試験を受けつつ、民間企業の訪問も始めました。しかし公務員試験は全滅。そして民間企業の面接で、私は色盲のハンデという現実に痛烈な打撃を受けることになります。
ある信用金庫の企業訪問でのこと。人事担当者との手応えは悪くありませんでした。そこで、念のため自分から確認してみたのです。
「あの……私は色盲なのですが、御行の業務に支障はありますでしょうか?。」
担当者は不意をつかれたような顔をしました。
「えっ、色盲ですか……?。」
少し思案したあと、こう告げられました。
「当金庫では、入金伝票と出金伝票を『色』で識別しております。もし色の区別がつかないとなると、伝票の処理ミスにつながる恐れがありますので……難しいかもしれません。それだけで不合格にするわけではありませんが。」
(……色盲というだけで、最終的には落とすと言われたようなものだ)
次に、ある小売業者との面談でも同じ質問をしました。
「当社は衣服や日用品を扱うため、商品の色が分からないとなるとお客様に間違ったご案内をする危険があります。業務適性として厳しいと言わざるを得ません。」
さらに、ある大手スーパーの面接では、あえて色盲であることを伏せて臨みました。すると順調に最終面接まで進み、「バイヤー候補」として合格内定が出たのです。そこで正直に「実は私、色盲なんです」と明かしたところ、面接官の表情が一変しました。
「それは困りましたね……。精肉、鮮魚、生鮮野菜の色が見分けられないと、品質管理上の事故につながりますから。」
プツン、と自分の中で何かが切れました。
「……やっぱりそうですか。分かりました。採用は辞退させていただきます。」
「そうですか。では採用取り消しの手続きをとりますので受領してください。」
就職活動は全敗でした。
「色盲だと正直に言えば落とされ、隠せば合格する。だが明かせば内定を取り消される。」という地獄のような現実を突きつけられたのです。
(これからどうしよう……)
立ち尽くしていたある日、従兄から電話がかかってきました。
「もしもし、ワタルか。就職どうなった?。」
「全然ダメだ……。」
「そうか。……お前さえ良ければ、郵便局の配達(外務員)の試験を受けてみないか?。」
「でも、俺は車の免許持ってないよ。」
「免許は必要に応じて郵便局で取らせてくれる。受ける気があるなら、うちの局長や組合に話をしてみるけど、どうだ?。」
「……行くあてもないし、受けてみるよ。」
その日のうちに郵便局へ行き、外務員試験の申込用紙をもらってきました。高卒程度の試験内容だったため、一次の筆記試験は無事に合格。二次の面接では、色盲のことは一切口にせず乗り切りました。
結果、採用候補者名簿に載った旨の合格通知が届きました。
(これでようやく就職できる……!)
胸を撫で下ろしましたが、当時の国家公務員(郵政)試験は「名簿登載後に各郵便局から面接の呼び出しを受け、そこで採用が決まる」という仕組みでした。
最初に面接通知が来たのは、K郵便局でした。受検者は20人ほどいました。
面接室に入ると、開口一番こう聞かれました。
「大本ワタルさんですね。まず確認ですが、普通免許はお持ちですか?。」
「持っていません。」
「持っていない……それは厳しいですね。免許がないとすぐに現場に出てもらえないので。うちは即戦力が欲しいんですよ。」
「免許がない場合は、採用後に取らせてもらえると聞いたのですが……。」
「制度としてはそうですが、今回は厳しいと思います。……まあ、今後のためにも、他の局を受ける前に免許を取っておくことをお勧めしますよ。」
結果は不合格。
(色盲だから免許が取れない……だから郵便局にも採用されないのか……)
次に面接を受けたF郵便局でも、まったく同じ理由で落とされました。
3つ目の鉄道郵便局は免許不要だったため期待して受けましたが、こちらも不合格。
そうこうしているうちに、大学の卒業式を迎えてしまいました。内定のないまま無職で卒業したのです。
(人生の負け組だな……色盲のせいで)
実家へ戻った私に、父・五郎が声をかけてきました。
「ワタル、郵便局の面接はどうなんだ?。」
「どこも田舎の局ばかりだし、免許がないとダメみたいだ。」
「何もすることがないなら、自動車学校に行って免許を取ってくればいいじゃないか。」
「色盲だから免許なんて取れないよ!。」
「やってみなきゃ分からないだろ。適性試験でダメだと言われたら諦めればいい。免許が取れれば合格率も上がるはずだ。金は出してやるから行ってこい。」
父の言葉に押し切られ、私は翌日、近くの自動車学校へ向かいました。期間の短い「小型自動二輪(125cc以下)」の教習を申し込むことにしました。
入校にあたっての適性検査。色盲検査(石原式など)ではなく、スコープの中の信号機の色を見分ける検査でした。心臓が飛び出るほど緊張しました。
(黄色ならすぐ分かる。最初に出してくれ、頼む……!)
「大本さん、スコープを覗いて見えた色を答えてください。……これは何色ですか?。」
(黄色じゃない……! 赤に見えるけど、緑か……? くそっ、悩んでも始まらない!)
「赤です!。」
「では、これは?。」
(あれ? さっきのより少し暗く見える。……こっちが赤だ!)
「こちらが赤です!。」
「では、これは?。」
「緑です!。」
「緑ではなく青ですね。はい、OKです。」
胸を撫で下ろしました。何とかクリアできたのです。
騙したような後ろたさもありましたが、背に腹は代えられません。
2週間後、バイクの実技・学科試験ともに合格し、無事に免許を取得しました。
そんな折、実家から列車で1時間ほど離れた田舎のM郵便局から面接の通知が届きました。
「免許も取れたし、受けてみるか。」
ウキウキしながらM町の駅に降り立ちましたが、そこは驚くほどの田舎町でした。商店が数件並ぶだけのメインストリートを歩き、M郵便局へ向かいました。裏口から入るとトイレの臭いが漂ってきます。
控え室には他に2人の受検者がいました。そのうちの1人が話しかけてきました。
「あの……あなたも面接ですか? 実は私、ここはちょっと無理そうで……あなたにお譲りしますよ。」
(この人、田舎すぎて辞退したいから俺に押し付けようとしてるな……)
「いやいや、私も無理です。どうぞどうぞ。」
そんなやり取りの末に面接が始まりました。免許を取得した旨(交付は1週間後)を伝えると、面接官の反応は好感触でした。
「受かるかもしれない」という手応えと、「こんな田舎で働くのか。」という複雑な思いが交錯しました。
1週間後、M郵便局から採用合格通知が届きました。
こうして、色盲の私の社会人生活が、田舎の郵便局の配達員として始まることになったのです。
6 『悪魔』と共に生きる
働き始めてしまえば、「色盲」であるかどうかなど関係ありませんでした。目の前にある大量の郵便物を道順に組み立て、バイクで配達する——ただそれだけの日常が過ぎていきました。
(今まで悩んで苦しんできたのは何だったんだろう。正直に色盲だと言って信用金庫を落とされたのは何だったんだ……。もっとうまく立ち回れば良かったのか?)
ふと、高校の倫理社会の先生が「自分は色盲であることを隠して教員採用試験に合格した」と話していたのを思い出しました。人間、もっとズル賢く生きなければ損をするのかもしれない……そんな考えが頭をよぎるようになりました。
職場では、労組(労働組合)の運動が盛んでした。しかし、私の偏屈な考え方はここでも周囲と衝突しました。
「労働者は経営者に搾取されている。」「社会は不平等だ。」と被害者意識を募らせる組合運動に、私はどうしても共感できなかったのです。
(障害者にもなれず、健常者にもなりきれない色盲の俺からすれば、健常者が『被害者ぶってる』ようにしか見えない。色盲のほうがよっぽど被害を被っているだろ)
そう思った私は組合の勧誘を突っぱね続け、過激な組合員と口論を繰り返すようになりました。対立を深めた私は、既存の組合に対抗して別の組合を立ち上げるまでに至りました。
しかし、この狭いM郵便局で一生配達員として対立しながら生きていくのは限界があると感じ始めていました。
採用から2年が経った頃、私は現場の配達員(外務職)から、窓口や事務を扱う「内務職」への職種変更試験を受けることにしました。運良く試験には一発合格。
(やった! これでこの局から出られるかもしれない!)
喜んだのも束の間、翌日、局長から自宅に呼び出されました。
夕食をご馳走になりながら、局長が切り出しました。
「大本くん、内務試験合格おめでとう。さすが大卒だな。」
「ありがとうございます。」
「それで、これからのことだが……君はどう考えているんだ?。」
「できれば、隣の市の大きな郵便局(無特定局)に異動して、スキルアップを図りたいと考えています。」
その瞬間、局長の顔色が変わり、烈火のごとく怒り出しました。
「何だと!? そんなことを考えていたのか! 採用してやった恩を忘れて、うちの局で内務員になる気はないのか!? 無特になんか行かせんぞ! このままうちの局で飼い殺しにしてもいいんだからな!。」
(……これはまずい!)
咄嗟に取り繕いました。
「い、いえ! 滅相もありません! 大きな局のほうが経験になるかと思っただけで……この局で内務になれるなら、それが一番です!。」
「……そうか。わかればいいんだ。」
何とかその場は収めましたが、激しい危機感が襲いました。
(このままじゃM局に閉じ込められる。何としてでも合法的に脱出する方法を考えないと……)
数日後、局内の広報誌で「中等部訓練生選抜試験」の募集を見つけました。
合格すれば1年間、全寮制の研修所(郵政研修所)に入所して中堅幹部養成の訓練を受け、修了後は別の郵便局へ異動・配属されるという制度でした。
(これだ……! これなら局長も文句を言えず、堂々とこの局を出られる!)
私はすぐに参考書を取り寄せ、猛勉強を始めました。試験は半年後。高校受験以来の集中力でした。局長に受験を申し出ると、「我が局から受検者が出るのは誇らしい。」と意外にも大喜びで応援してくれました。
この猛勉強の時期、私の人生に思いがけない出来事がありました。初めての恋でした。
相手は、街から離れた山あいの農家の長女で、父親は町議会議員を務める地元の名士の娘・松山さんでした。
それまでの私は、「色盲の自分は結婚なんてできるはずがない。自分と同じ苦しみ味わう子供を生み出してはいけないから、好きな人も作らないでおこう。」と決めていました。
しかし、彼女を好きになってしまったのです。色盲かどうかなど関係なく、ただ純粋に惹かれました。仲間たちと一緒に遊び、2人で飲みに行き、少しずつ距離を縮めていきました。
(試験に合格したら、彼女に告白しよう。OKをもらえたら、自分が色盲であることを打ち明けて、判断してもらおう)
自分の将来と恋の行方に胸を躍らせ、私は必死で勉強に励みました。
翌年の1月中旬、見事に「中等部訓練選抜試験」の合格通知が届きました。
(やった……! これでM局を出られる! あとは告白だけだ!)
局長も自分のことのように喜んでくれました。
「大本くん、おめでとう! まさか合格するとは思わなかったよ。私の鼻も高い。4月からの研修、頑張りなさい。」
「ありがとうございます。局長のおかげです」
心にもないお世辞が滑らかに出てきました。
その日の夕方、私は彼女の職場へ向かい、「今夜、少し話がしたい。」と食事に誘いました。
少しおしゃれなレストランで彼女を迎えました。パスタとピザを頼み、ワインで乾杯しました。
「まずは、新しい年に乾杯。」
「乾杯。」
グラスを合わせ、一口飲んだときの幸福感。こんな日々が続けばいいと心から願いました。
「それで大本さん、お話って……?。」
彼女が尋ねました。
私は緊張しながら切り出しました。
「前に話していた試験……中等部訓練選抜試験に合格しました。それで4月からS市で1年間の研修を受けることになりました。研修が終わったら、この街ではない別の郵便局へ異動になります。……松山さん、私と結婚を前提にお付き合いしてください。」
彼女は顔を伏せ、長い沈黙が流れました。
「……ありがとう。そう言ってもらえるのは、すごく嬉しい。……でもね、私、長女なの。家を継がなきゃいけないから、この街を出ていく人とは結婚できないの。……大本さんが研修を終えて、またこの街に戻ってきてくれるなら話は別だけど……。」
(そうか……そういうことか)
色盲の話をする以前の、家柄と土地の問題でした。
「……私は研修が終わっても、この郵便局に戻るつもりはないよ。この局を出たくて試験を受けたんだから。」
自分の素直な気持ちをぶつけました。
「そうなんだ……。それなら、このお話はここでおしまいにしましょう。大本さん、身体に気をつけて、研修がんばってね。……さようなら。」
彼女はそう言って立ち上がり、静かに店を去っていきました。
残された私は、お店の席でしばらく呆然と座り込んでいました。
色盲であることを理由に断られる覚悟はしていましたが、それ以外の理由でフラれることは想定していませんでした。ショックで頭が真っ白になりました。
(……『告白の壁』と『色盲の壁』、二段構えを乗り越えてお付き合いをするなんて、俺にはハードルが高すぎるのかな。やっぱり、色盲の自分に結婚なんて無理なのかな……)
トボトボと夜道を歩いて帰りながら、そう呟きました。
人生初の告白は、こうして見事に砕け散りました。
その後、彼女に会うこともないまま、3月となり、バタバタと研修の準備を整えて、ついにM郵便局最後の出勤日を迎えました。
「局長、大変お世話になりました。ありがとうございました」
「大本くんも身体に気をつけて。偉くなってM局を支援してくれよ。」
「皆さん、大変、お世話になりました。ありがとうございました。」
一礼をして、私は思い出の詰まったM郵便局をあとにしました。
これからどんな研修が待っているのだろう。良い出会いはあるだろうか。色盲の自分でも、これからもやっていけるだろうか——。
様々な思いを胸に抱きながら、私は人生初の就職と、人生初の恋を経験した思い出の町をあとにしました。
つづく




