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二度目の夏に手を伸ばす

作者: ハタ星人
掲載日:2026/08/08

『二度目の夏に手を伸ばす』


◇ 一 ◇


 幾度となくタイムリープを繰り返し、やっと幼馴染みを助けることに成功してから十年。結婚し、子供にも恵まれ、幸せを享受していた俺の目の前で、幼馴染み──最愛の妻が車に撥ねられた。即死だった。


「高二の夏には戻れる……」


 心臓が暴れ、耳鳴りがする。腕に抱く我が子の顔を見ることができない。


 横断歩道の白線の上に、買い物袋から転がったトマトが三つ。ひとつは潰れて、アスファルトに赤を広げていた。妻の──陽菜のスニーカーが片方だけ、妙に行儀よく揃って落ちていた。


 その上で、歩行者信号がまだ青のまま、のんきな電子音を鳴らしていた。ピヨ、ピヨ、と。渡っていいですよ、安全ですよ、と。何も知らない顔で。


 ほんの十秒前まで、俺たちは笑っていた。夕飯はカレーにするか麻婆にするかで揉めて、陽向が「かれー!」と即答して、多数決で俺が負けた。陽菜が「じゃあ勝者はトマト選んでこよっと」と鼻歌まじりに横断歩道へ出て、俺は陽向を抱き直すのに二秒だけ目を離した。


 二秒だ。


 何十回も繰り返したあの夏でさえ、俺は二秒あれば陽菜の腕を掴めた。なのに今日の俺は、油断しきった二十九歳の俺は、その二秒を息子の抱き直しに使った。


 サイレン。誰かの悲鳴。「救急車! 誰か!」という怒鳴り声。世界の音が全部、分厚いガラスの向こうから聞こえてくる。誰かが俺の肩を掴んで何か叫んでいる。ご主人ですか、と聞こえた気がする。しっかり、とも。うるさい、と思った。静かにしてくれ。今、考えてるんだ。大事なことを考えてるんだ。


 俺だけが知っている。救急車は間に合わない。間に合うとか間に合わないとか、そういう次元の話じゃないことを、俺の目は正確に理解してしまっていた。十七歳の夏、同じ光景を何十回も見た目だ。見間違えるはずがなかった。


「……ぱぱ?」


 腕の中で、二歳の息子が身じろぎをした。陽向《ひなた》。陽菜の「陽」を取って、二人で名付けた。


 見られない。この子の顔が、見られない。


 だって俺は今、考えてしまっているから。


 ──高二の夏には、戻れる。


 あの夏に戻れば、陽菜の死を書き換えられる。何十回もやったんだ。やり方は体が覚えている。横断歩道の手前で腕を掴む力加減も、あいつが泣きながら俺を殴る拳の重さも、全部覚えている。


 戻れば、いい。


 戻れば──この腕の中の重さは、どうなる?


 耳鳴りの向こうで、心臓がまだ暴れている。跳べ、跳べ、と急かすように。あるいは、跳ぶな、と縋りつくように。


◇ 二 ◇


 親父が失踪して、五年目の夏だった。


 最初に跳んだのは、高二の七月十九日。目が覚めて日付が巻き戻っていたあの朝、恐怖と一緒に、妙に冷たい納得があったのを覚えている。ああ、あれは本当だったんだ。親父の言っていた体質は、遺伝するんだ、と。


 部活帰りの夕方、開かずの踏切の手前にある、小さな交差点。信号が青に変わって、陽菜は横断歩道を渡り始めた。何も間違っていなかった。青だった。歩行者信号はすぐそこでピヨピヨとのんきに鳴っていて、遠くでは開かずの踏切の警報が、カン、カン、と規則正しく響いていた。


 そこへ、踏切の渋滞にしびれを切らしたらしい車が、抜け道に入ろうと信号を無視して突っ込んできた。


 ただ、それだけだ。運転手に殺す気なんてなかった。急いでいただけだ。信号が青だったことも、渡っていたのが青信号を信じた女子高生だったことも、あいつにとってはただの不運だったんだろう。俺はその時、五メートル後ろでアイスの当たり棒を眺めていた。ブレーキ音を聞いて顔を上げた時には、全部終わっていた。


 近くでは歩行者信号の電子音が、遠くでは踏切の警報が、何事もなかったみたいに鳴り続けていた。


 その夜、死にたいくらい後悔しながら眠って、目が覚めたら七月十九日の朝だった。


 夢だと思った。教室で陽菜が「おはよ、また寝癖ついてる」と笑って、俺は人目もはばからず泣いた。ドン引きされた。


 夢じゃなかったと分かったのは、その日の夕方、また踏切で陽菜が死んだからだ。


 二回目の夜は、眠れなかった。眠るのが怖かった。目が覚めてまた七月十九日だったら、俺はまた見るのかと思った。目が覚めて七月二十日だったら、陽菜の死が確定するのだと思った。どっちも地獄で、どっちの地獄がマシなのか、十七歳の頭では計算できなかった。


 結局、明け方に落ちるように眠って、目が覚めたら七月十九日だった。


 カレンダーを見て、スマホの日付を見て、階下から母さん──じゃない、祖母ちゃんの「朝ごはんできたよ」って声を聞いて、俺は理解した。これはチャンスなんだと。世界がもう一回だけ、俺にやり直しをくれたんだと。


 その認識が甘かったと知るのに、そう時間はかからなかった。もう一回、じゃなかった。何回でも、だった。そして何回でも戻れるということは、何回でも失敗できるということだった。


 俺は覚えている。二回目は、車が来るのは分かっていたのに、腕を引くのが一瞬遅かった。三回目は早すぎて「なに、怖いんだけど」と振り払われ、その拍子に陽菜は一歩前へ、横断歩道へ踏み出した。最悪だった。


 四回目は、そもそもあの交差点に近づかなかった。「今日は電車で帰ろうぜ」と強引に駅へ誘った。名案だと思った。事故現場そのものを消してしまえばいいんだと。


 夕方の駅のホームは、部活帰りと会社帰りでごった返していた。快速の通過待ち。黄色い線の内側。何も問題なかったはずだ。通過アナウンスが流れて、俺が「下がっとこう」と言いかけた瞬間、人混みの奥で誰かがよろけた。酔っ払いだったのか、貧血だったのか、今も分からない。将棋倒しみたいに押された人の波が、一番前にいた陽菜を、線路へ押し出した。


 俺の手は、制服の袖を掠っただけだった。


 通過する快速の風圧と、悲鳴と、非常停止ボタンのブザー。その全部の向こうで、隣のホームの発車メロディが、最後まで綺麗に鳴り終わるのを俺は聞いていた。オルゴールみたいな、のんきな音だった。誰かが死んだ側のホームの電車が止まっても、隣のホームの電車は、定刻通りに出ていくのだ。


 五回目、六回目、七回目。


 八回目だったか、仮病を使って陽菜を保健室に足止めしたことがある。放課後まで付き添って、これで今日は勝ったと思った。帰り道、陽菜は歩道橋の階段で足を滑らせた。九回目は思い切って打ち明けた。「お前は今日死ぬ。俺は未来から来た」。陽菜は俺の額に手を当てて「熱はないね……夏バテ? それとも変な動画の見すぎ?」と真剣に心配してきて、話は一ミリも進まなかった。まあ、当然だ。逆の立場なら俺も信じない。


 運命って言葉を、俺は使いたくない。でも、あの夏の陽菜の死には、明らかに意思みたいなものがあった。交差点を避ければホームから落ちる。駅を避ければ歩道橋の階段で足を滑らせる。まるで世界が「この日、この子は死ぬ」と決めていて、俺の小細工を鼻で笑っているみたいだった。


 そして、どの死の場面でも、必ず何かの音が鳴っていた。


 歩行者信号の電子音と、遠くの踏切の警報。発車メロディ。歩道橋の下を通る救急車のサイレン。コンビニの入店チャイム。陽菜が死ぬ瞬間、世界は一度も黙らなかった。誰かが作った、誰の死とも関係のない音が、いつも近くでのんきに流れていた。何十回目かのループで、俺は音を聞くだけで吐きそうになるようになった。世界は止まらない。あいつが死んでも、音楽ひとつ止めてくれない。それを俺は、十七歳の夏に、嫌というほど思い知らされた。


 十三回目くらいから、数えるのをやめた。


 数える代わりに、覚えるようになった。七月十九日という一日を、俺は世界の誰よりも詳しく知っている。三時間目の英語で当てられるのは俺の二つ前の席のやつ。購買の焼きそばパンは十二時三十四分に売り切れる。五時間目の途中でにわか雨が降って、六時間目には止む。下駄箱で陽菜が「アイス食べてこ」と言う確率は十割で、当たり棒が出る確率も十割で、十八時五分に踏切が閉まって県道が渋滞し始めて、十八時七分に交差点の歩行者信号が青になって、その八秒後、あの車が渋滞の列から抜け道へ突っ込んでくる。


 同じ一日を何十回も生きると、変な発見がある。陽菜は笑う前に、必ず一瞬だけ息を吸う。俺はそれを、あの夏に知った。二十九歳になった今でも、あいつが息を吸うと、次に来る笑い声を予測できた。──できて、いた。過去形にしなきゃいけないことが、まだ全然、処理できていない。


 そして、もう一つ。何十回も同じ一日をやり直すうちに、俺は、あの冬の夜に親父が言っていたことの本当の意味に、自力でたどり着いてしまった。


 同じ一日は、二度と再現できないのだ。


 試したことがある。何もかも前のループと同じに動こうとした。同じ時間に起きて、同じ言葉を喋って、同じ角を同じ足で曲がって。無理だった。まばたきの回数から違う。俺が完璧に真似たつもりでも、周りが同じに動かない。陽菜の相槌が一語変われば、俺の返事が変わり、昼休みの話題が変わり、夕方の帰り道の歩幅が変わる。サイコロを同じ手つきで振っても、同じ目は二度と出ない。


 つまり、上書きというのは、そういうことだった。


 跳んだ瞬間、それまでの歴史は消える。そして跳んだ先で、まるっきり同じ選択は誰にもできない。俺にも、陽菜にも、世界の誰にも。やり直した世界で出会い直す人間は、同じ顔をした、少しずつ違う選択を積み重ねていく別人だ。ズレは一日ごとに膨らんで、十年もすれば、もう別の人生になる。


 高二の俺は、それを陽菜一人分の、たった一日のループで学んだ。だから当時は深く考えなかった。俺が上書きしているのは「今日の夕方に死ぬ陽菜」だけで、それは何度上書きしたって構わなかったから。


 この理屈が本当に牙を剥くのは、守りたいものが二つに増えた時だ──なんてことは、十七歳の俺は知りようもなかった。


 感覚が麻痺していく自分が怖かった。陽菜が撥ねられる瞬間に、目を逸らさなくなった。観察するようになった。車の進入速度、ハンドルの切り方、信号の変わり目の秒数、陽菜の立ち位置と足の運び。泣かなくなった。攻略対象のデータを取るゲーマーみたいな目で、幼馴染みの死を採点していた。


 そんな俺を正気に引き戻したのも、陽菜だった。


 何十回目かのループの昼休み、屋上で購買のパンをかじりながら、あいつは唐突に言ったのだ。


「あんたさ、最近ちょっと死んだ魚の目してるよ」


「……そうかよ」


「そうだよ。なんか、諦めてる人の目。うちのお父さんが単身赴任決まった時と同じ目」


 例えが微妙に生々しかった。俺が黙っていると、陽菜は食べかけの焼きそばパンを俺に押し付けて、真顔で続けた。


「よく分かんないけどさ。諦めるくらいなら、あがきなよ。あんた昔からしつこさだけが取り柄でしょ」


「だけって言うな」


「あはは」


 夏の空の下で、あいつは笑った。自分が今日の夕方死ぬなんて欠片も知らずに、何十回も死んでるなんて夢にも思わずに、俺の取り柄はしつこさだと断言して笑った。


 その日の夕方、俺は初めて、小細工をやめた。


 校門を出たところで陽菜の手を握って、「今日はこのまま手ぇ繋いで帰る。理由は聞くな。嫌なら殴れ」と宣言した。陽菜は真っ赤になって俺を二発殴って、それから、殴った手でそのまま俺の手を握り返した。


 手を繋いで歩く歩幅は、一人で歩くより少しだけ遅い。ただそれだけの、作戦とも呼べない時間差。あの交差点に着いた時、歩行者信号はもう青になっていて、俺たちが渡り始めるより二秒早く、あの車が目の前を突っ切っていった。クラクションと怒号。急ブレーキの匂い。横断歩道には、誰もいなかった。


「うっわ、あぶな。……ね、今の見た?」


 見た、と俺は答えた。何十回も見た、とは言わなかった。繋いだ手が震えていたのは、たぶんバレていたと思う。


 俺たちは次の青で横断歩道を渡った。近くで歩行者信号がピヨピヨと鳴って、遠くで踏切の警報が鳴って、その二つの音の間を、陽菜は生きて歩いて渡り切った。


 陽菜は、死ななかった。


 何が正解だったのか、今でも理屈は分からない。ただ、翌朝目が覚めたら七月二十日で、俺は布団の中で声を殺して泣いた。しつこさだけが取り柄の俺の、人生でいちばん長い一日が、やっと終わった朝だった。


◇ 三 ◇


 それから十年は、拍子抜けするほど普通に流れた。


 普通というのは、つまり、奇跡が空気みたいに透明になっていく過程のことだ。


 手を繋いで帰った日から、俺たちは付き合った。大学は別々だったけど、なんだかんだ続いた。喧嘩も普通にした。俺が記念日を忘れて三日口をきいてもらえなかったこともあるし、陽菜から送られてきた長文お怒りLINEをスクショして友達に泣きついて、それがバレて更に三日延長されたこともある。そういう、死とも運命とも無縁の、くだらない揉め事ができることが、俺にはたまらなく嬉しかった。


 プロポーズは俺からした。例の交差点の、横断歩道の前で。「縁起でもない場所選ぶなあ」と陽菜は笑って、それから泣いた。あいつは何も知らないままだったけど、たぶん何かは伝わったんだと思う。二十四で結婚した。式で陽菜の親父さん──単身赴任から戻っていた──が号泣して、陽菜が「お父さんが泣いてどうすんの」と笑って、つられて俺も泣いた。


 二十六で陽向が生まれた。


 名前を決める夜、候補を二十個くらい書き出して、最後に陽菜が「あんたが決めて」と言った。「私の『陽』、入れてくれるんでしょ、どうせ」「……なんで分かるんだよ」「十年以上幼馴染みやってると思ってんの」。かなわないな、と思いながら、俺は「陽向」と書いた。陽の当たる方へ向かっていく子になるように。誰かの死をやり直すためじゃなく、ただ明日のために生きる子になるように──とまでは、あの時は言語化していなかったけど、たぶんそういう祈りだった。


 産院で初めて抱いた時、軽さに驚いた。三千グラムって数字で聞くのと、腕に乗るのとでは全然違う。ふにゃふにゃで、温かくて、壊れそうで。陽菜が汗だくの顔で「落とさないでよ」と笑って、俺は「落とすか」と返しながら、内心一ミリも動けなかった。


 夜泣きで交代で起きて、初めて「ぱぱ」と呼ばれた日に浮かれて同じ動画を五十回撮って、公園の滑り台の下で腰を痛めて。どこにでもある、教科書みたいな幸せだった。


 一度だけ、陽菜に聞かれたことがある。陽向を寝かしつけた後、ベランダで缶ビールを分け合っていた夜だ。


「あんたさ、高二の夏あたりから、急に大人になったよね。何かあった?」


「……なんで今その話」


「んー、なんとなく? 手ぇ繋いで帰るって言い出した日のあんた、今思い出しても変だったから。幽霊でも見たみたいな顔してた」


 鋭いやつ。俺は少し迷って、結局こう答えた。


「大事なもんを失くす夢を見た。すげえ長い夢。だから起きてから、失くさないようにしようと思った」


「なにそれ」と陽菜は笑って、それから缶を俺の缶にこつんと当てた。「じゃあその夢に感謝だ」


 夢じゃないんだよ、とは言わなかった。言う必要がなかった。夢でも現実でも、あの夏はもう終わったことで、俺たちの残りの人生には関係のないことだったから。


 時々、思い出すことはあった。あの夏のこと。何十回も繰り返した七月十九日のこと。


 でも、それはもう「終わった話」だった。俺はもう跳ばない。跳ぶ必要がない。守りたいものは全部、この日常の中にあって、日常は明日も勝手に続いていく。そう思っていた。


 ──もう戻らなくていいんだ、って。


 あの力のことを、俺は幸せの中で、ほとんど忘れかけていた。


◇ 四 ◇


 最初にこの力のことを教えたのは、親父だった。


 俺が十二歳の、冬の夜だ。


 祖母ちゃんの家に預けられて二年目。親父が前触れもなく訪ねてきて、俺を近所の公園に連れ出した。ブランコに並んで座って、缶のコーンポタージュを一本ずつ持って。何の話だろうと思っていたら、親父は白い息と一緒に、世間話みたいなトーンでこう言った。


「実はな、父さん、時間を遡れるんだ」


「……は?」


「タイムリープって言うんだと。何度も戻れる。父さんはそういう体質で──もしかしたら、お前もかもしれん」


 十二歳の俺は、質の悪い冗談だと思った。二年ぶりに会いに来て言うことがそれかよ、と。でも親父の目は笑っていなくて、缶を握る手が小刻みに震えていて、冗談を言っている人間の手じゃなかった。


 そして親父は、ブランコの鎖を握ったまま、俺に頭を下げた。


「母さんを、助けに行こうと思う」


 母さんは、俺が十歳の時に死んだ。病気だった。進行が分かってから半年もたなかった。最後の入院の日、母さんは俺の頭を撫でて「お父さんのこと、よろしくね」と言った。逆だろ、と今なら思う。でも母さんは分かってたんだと思う。あの人が、俺よりずっと脆いことを。


 実際、親父はその頃から抜け殻みたいになった。仕事は辞めなかったけど、家では何もしゃべらず、母さんの遺影の前から動かない夜が増えて、そのうち俺は祖母ちゃんの家に預けられた。「少しの間だけ」は一年になり、二年になった。捨てられた、と言っていいと思う。少なくとも子供の俺はそう感じていた。


「戻るって……いつに」


「発見が早ければ助かる病気だった。五年前に戻る。今度は、見逃さない」


「……戻ったら、こっちはどうなるんだよ」


「こっちの父さんは、いなくなる。時間ごと、上書きされるから」


 親父は淡々と説明した。この力は、やり直しじゃなくて上書きなんだ、と。戻った瞬間、そこから先の歴史は白紙になって、二度と戻ってこられない、と。


「じゃあ、俺は」


「……すまん」


 十二歳の俺は、正直、半分も理解できていなかった。上書きとか、世界線とか。ただ一つだけ、はっきり分かったことがある。この人は、俺を置いていく。母さんのために、二回目の「置いていく」をやる。それだけ分かれば、十二歳には十分だった。


「勝手なことを言ってるのは分かってる。お前を、もう一度捨てることになるのも」


「…………」


「それでも父さんは、母さんに会いたい」


 俺はコーンポタージュを一口も飲まずにブランコを降りた。公園を出る時、振り返って、人生で一番冷たい声が出た。


「その世界線では、全部上手くいってるんだろうな」


 親父は何も言わなかった。街灯の下で、ただ頭を下げたままだった。


 ──この世界線では親なしになる俺を、ほっぽって。


 翌週、親父は消えた。アパートは引き払われていて、荷物もなかった。俺は正式に祖母ちゃんの家の子になった。捜索願は出さなかった。出したところで、この世界のどこを捜しても、あの人はもういないと知っていたから。


 厳密に言えば、それも正確じゃないのかもしれない。上書きが起きたなら、この世界ごと消えているはずだ。でも俺はこうしてまだここにいる。ということは、親父の跳んだ先は「ここ」とは別の場所だったのか、それとも上書きには時間差があるのか、あるいは──跳んだ先で親父は失敗して、母さんをまた見送って、それでもこっちに戻る顔がなくて、どこかの世界線で一人で生きているのか。


 確かめる方法はない。残されるというのは、そういうことだ。答え合わせの権利すら、置いていってもらえない。


 一つだけ、後から見つけたものがある。引き払われたアパートの郵便受けに、俺宛の封筒が一通だけ残っていた。中身は現金と、母さんと三人で撮った古い写真と、メモが一枚。


『しつこさだけが取り柄の家系だ。すまん』


 くしゃくしゃに丸めて捨てて、その夜、ゴミ箱から拾って伸ばした。写真は今も、うちの引き出しの奥にある。陽菜には「昔の家族写真」とだけ言ってあった。嘘は、ついていない。


 俺は親父を軽蔑した。母さんへの愛の分だけ、俺への愛が軽かった人。天秤に息子を乗せて、迷わず反対側を選んだ人。ああはならない、と誓った。俺は絶対に、ああはならない、と。


◇ 五 ◇


 通夜の晩、俺は陽向と二人で、式場の控え室にいた。


 この三日間の記憶は、ところどころ千切れている。警察の事情聴取。葬儀屋との打ち合わせ。「喪主様」と呼ばれるたびに、誰のことだと思った。義母さんが陽向を預かると言ってくれたのを、断ったのは覚えている。理由は言えなかった。この子から目を離したら、俺はその場で跳んでしまう気がしたからだ。


 義父さんも義母さんも、俺の祖母ちゃんも、みんな帰った。線香の匂いが染みた部屋で、陽向は畳の上に敷いた布団で眠っている。昼間はずっと「まま、ねんね?」と棺を指差していた。ねんねだよ、と俺は答えた。それ以外の語彙が、俺にはなかった。


 テーブルの上には、陽菜の写真。去年の陽向の誕生日に撮ったやつで、口の周りをケーキまみれにした陽向を抱えて、陽菜がのけぞって笑っている。


 跳べば、この写真は消える。


 俺はもう三日間、ずっと同じ計算をしている。


 三日前の朝に戻れたら、と何度も思った。あの交差点に近づかなければ、陽菜は死なない。今回の死に、あの夏みたいな「意思」の気配はなかった。ただの信号無視の車。ただの最悪の偶然。たった三日巻き戻して、散歩のルートを一本変えるだけ。それで済む話の、はずだった。


 でも、できない。


 この力は、行き先を選ばせてくれない。三日前を思い浮かべて目を閉じても、意識が引かれていく先は、いつも同じ場所だ。蝉の声。アイスの当たり棒。開かずの踏切の、あの交差点。


 戻れるのは、十七歳のあの夏にしか戻れない。


 なぜだか、分かる。分かってしまう。


 あの七月十九日が、俺が世界に逆らった場所だからだ。あそこから先の十二年は、正規の歴史じゃない。俺が何十回も上書きして、無理やり書き足したページだ。書き足した分を消したいなら、綴じ目まで戻ってやり直せ──世界はそう言っている。十二年経って、死に方まで同じだったのはそういうことだ。あの夏に俺が踏み倒したものを、世界は一日も忘れていなかった。


 それでも、できる。跳ぶことは、俺には、できてしまう。


 それが一番、たちが悪い。


 もしこの力がなかったら、俺はただ泣けばよかった。世界を呪って、酒に逃げて、時間をかけて立ち直ればよかった。人間はそういうふうにできてる。でも俺の手の中には「なかったことにする」ボタンがあって、ボタンがある限り、押さないことは毎秒の選択になる。今この瞬間も、俺は陽菜を見殺しにし続けている。跳ばないという形で。


 ──でも、十七歳の夏に戻った俺は、この十二年を丸ごと「上書き」する。


 陽菜との十年を。陽向の二年を。いや、二年じゃない。存在ごと、だ。


 もう一度あの夏で陽菜を救うことは、たぶんできる。やり方は覚えている。もう一度付き合って、もう一度結婚して、もう一度子供が生まれることだって、あるかもしれない。でも、まるっきり同じ選択は、二度とできない。まばたきの回数から違うんだ。名前を決めるあの夜、書き出す候補が一つ違えば。授かる月が、一月ズレれば。生まれてくるのは、昨日俺の袖を掴んで離さなかった陽向じゃない。今朝「ままは?」と聞いて、俺が答えられずにいたら、なぜか俺の頭を小さい手でよしよししてきた、この陽向じゃない。似た顔をした、別の子だ。


 俺はそれを、誰に教わったわけでもない。十七歳の夏に、この手で何十回も検証して、自分で証明してしまった理屈だ。だから逃げ場がない。「もしかしたら同じ子が生まれるかも」なんて希望に、すがることすらできない。


 親父の顔が浮かぶ。冬の公園の街灯の下で頭を下げた、あの後ろめたさと決意がごちゃ混ぜになった顔。


 ああはならないと誓った顔と、今の俺は、たぶん同じ顔をしている。


 なあ、親父。あんたもこうだったのか。


 天秤なんかじゃなかったんだな。愛の重さを比べて、重い方を選んだんじゃない。ただ、死んだ人にもう一度会える力を持って、会えると知りながら会いに行かないことが、できなかっただけなんだな。


 軽蔑してごめん、とは思わない。今でもあんたのしたことは間違ってると思う。でも、間違ってると分かることと、やらずにいられることは、別なんだと知った。あの冬の夜から十七年経って、最悪の形で。


 母さんに会えたか、親父。


 その世界線では、全部上手くいってるか。


 ……上手くいっててくれよ、頼むから。じゃなきゃあんまりだろ、こっちも、そっちも。


◇ 六 ◇


 布団の中で、陽向が寝返りを打った。


 俺は、三日ぶりに、まともに息子の顔を見た。


 事故の瞬間からずっと見られなかった顔。見たら決められなくなると分かっていた顔。閉じたまぶた、陽菜そっくりの長い睫毛、少しだけ開いた口。頬に畳の跡がついている。


 初めて抱いた日と同じだと思った。温かくて、壊れそうで、俺の腕の中にいる。


「……陽向」


 声に出して呼んだ。起きない。すう、すう、と規則正しい寝息。


 この子は明日も、「ままは?」と聞くだろう。明後日も、その先も、何百回も聞くだろう。俺はそのたびに答えられなくて、この子はそのたびに、小さい手で俺の頭をよしよしするんだろうか。


 そんな人生を、この子に。


 それとも──ままのいる朝を、この子に似た誰かに。


 どっちを選んでも、俺は何かを見殺しにする。跳ばなければ陽菜を。跳べば陽向を。天秤なんかじゃないと親父を理解したくせに、結局俺の前にあるのは、天秤の形をした何かだった。


 陽菜なら何て言うだろう、と考えて、すぐに答えが出て、笑いそうになった。あいつは絶対こう言う。「諦めるくらいなら、あがきなよ」。……ずるいだろ、それは。どっちに転んでも、あがいたことになっちまうんだよ、陽菜。跳ぶのも、跳ばずに明日を生きるのも、俺には同じくらい、あがきなんだ。


 心臓が暴れている。三日前からずっと。耳鳴りの奥で、あの歩行者信号の電子音が鳴っている。ピヨ、ピヨ。青のまま、いつまでも鳴り止まない。渡っていいですよ。安全ですよ。──嘘つけ。


 あの夏と同じだ。歩行者信号の電子音と、遠くの踏切の警報。隣のホームの発車メロディ。そして十二年後の三日前も、同じ電子音。陽菜が死ぬ時、世界はいつも、何かの音をのんきに鳴らしている。十二年経っても、世界は一ミリも反省していない。


 俺は知っている。跳び方は体が覚えている。目を閉じて、あの夏に、手を伸ばすだけでいい。


 俺は、陽向の頬に触れた。


 温かかった。三千グラムだった重さは、もう十二キロになった。抱き上げると腕が痺れるくらいの、ちゃんとした重さになった。この重さは二年分の毎日でできている。夜泣きと、初めての「ぱぱ」と、滑り台と、カレーの多数決と、今朝の小さな「よしよし」でできている。世界のどこにも保存されていない。俺が上書きすれば、それきりのデータだ。


 なあ、陽菜。


 俺はあの夏、お前を助けた。世界に何十回逆らっても助けた。あれは間違ってなかったって、今でも思ってる。お前と過ごした十年と、この子の二年が、その証拠だ。


 だから──だからこそ、教えてくれよ。


 もう一回だけ世界に逆らうことと、この子の二年を守ることの、どっちがお前の言う「あがく」なんだ。


 ピヨ、ピヨ。頭の中で、青信号が鳴り続けている。あの音の向こうに、十七歳の夏がある。蝉の声と、アイスの当たり棒と、まだ何も書き足されていない七月十九日がある。制服のまま、息を吸って、笑い出す直前のお前がいる。


 俺は、眠る息子の額に、そっと唇を当てた。


 ごめん、と言った。それが誰への、何に対する「ごめん」なのか、自分でも分からないまま。


 目を、閉じた。


(了)


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