短編 A.O. //_OVER:RIDE
視界を覆うのは、無機質な漆黒。
後頭部から頸髄にかけて接続されたナーヴ・インターフェースが、微弱なパルス信号を脳内へと送り込んでくる。
現実の肉体が持つ重力感覚が、泥の底へ沈んでいくように曖昧になっていく。
鼻先を掠めていた自室の安っぽい芳香剤の匂いが消え、代わりに、シナプスを直接焼くような電子的な閃光が視神経を貫いた。
『Aethelgard Onlineへようこそ。網膜パターンの照合を完了しました』
女性アナウンサーのような、感情の起伏がないシステム音声。
直後、爆発的な光の奔流が世界を構築し始める。
足元から広がる石畳のテクスチャ。
空へと伸びる中世ヨーロッパ風の建築物。
頭上を覆う、突き抜けるような青空のポリゴン。
肺いっぱいに息を吸い込む。
乾いた土の匂いと、行き交うプレイヤーたちの装備が擦れる鉄の匂い。
完全没入型VRシステムが誇る環境シミュレーターは、今日も完璧にこの世界を演算し、俺の脳に「ここが現実である」と錯覚させている。
「遅いぞ、ハルト。また寝坊か?」
背後から掛けられた声に振り返る。
そこに立っていたのは、陽光を反射して鈍く光る銀色の重鎧に身を包んだ巨漢だった。
背の丈ほどもある巨大なタワーシールドを背負い、腰には無骨なメイスを下げている。
「悪い、トウヤ。バイトのシフトが長引いてさ」
俺は、自身の初期装備である簡素なレザージャケットの裾を引っ張りながら苦笑した。
トウヤ。現実世界での名前は冬弥。
小学校からの幼馴染であり、この広大な仮想世界における唯一のパーティメンバーだ。
現実ではひょろりとした体格のくせに、ゲーム内では常に最前線で攻撃を受け止める盾役を好んで選ぶ。
「まあいいさ。今日は第4層の黄昏の荒野だ。ボスの素材集め、手伝ってもらうからな」
トウヤが豪快に笑い、大きな手で俺の肩を叩く。
システムによって再現された「触覚」が、肩にずしりとした重みを伝えてきた。
痛覚はカットされているため痛みはないが、誰かがそこに存在しているという確かな熱量がある。
俺たちは転移門をくぐり、第4層へと跳んだ。
黄昏の荒野という名の通り、そこは常に夕暮れ時のように空が赤く染まっているフィールドだ。
枯れた大地に、赤茶けた岩肌が連なる。
風が吹くたびに、砂埃が舞い上がる視覚エフェクトが忠実に処理されていた。
「来るぞ、ハルト! 右から二体!」
トウヤの鋭い声が空気を切り裂く。
岩陰から飛び出してきたのは、全身の骨が剥き出しになった狼型のモンスターだった。
狂骨の奇行種。この階層の主たる標的だ。
「わかってる!」
俺は腰からショートソードを引き抜き、地面を蹴った。
仮想の肉体は、現実の俺の運動能力を遥かに凌駕する。
足裏が土を捉え、爆発的な加速でモンスターの懐へと潜り込む。
モンスターの鋭い牙が俺の首筋を狙って迫る。
だが、その軌道には既にトウヤが割り込んでいた。
「甘いんだよ!」
ガンッ、という鼓膜を震わせる重い金属音。
トウヤのタワーシールドが、狼の牙を完璧なタイミングで弾き返した。
モンスターの頭上に浮かぶHPバーが僅かに減少し、体勢を崩すシステム上の硬直時間が発生する。
その一瞬の隙を、俺は見逃さない。
「はぁっ!」
ショートソードを水平に薙ぎ払う。
刃が狼の頸椎のポリゴンに食い込み、赤い光のエフェクトが鮮やかに弾け飛んだ。
モンスターのHPバーが一気にゼロへと消失する。
狼の肉体はガラスが割れるような甲高い音とともに砕け散り、光の粒子となって世界に溶けていった。
後には、ドロップアイテムである骨のアイコンと、経験値獲得のシステムメッセージだけが残る。
「よし、これで規定数は揃ったな」
トウヤが盾を背中に戻し、満足げに息を吐く。
俺も剣を鞘に収め、汗を拭う仕草をした。
完璧な連携。完璧なシステム。
プレイヤーの努力と計算に、必ず正当な結果で応えてくれる美しい世界。
現実世界よりも遥かに公平で、居心地の良い場所。
それが、俺たちの認識だった。
狂いが生じたのは、まさにその直後だ。
ポツリ。
頬に、冷たいものが落ちてきた。
雨、ではない。
システムが再現する雨粒は、もっと透明で、肌に触れれば自然に流れるはずだ。
だが、俺の頬を伝うその液体は、粘り気を帯びていた。
指先で拭い、視線を落とす。
黒。
泥のように濁った、テクスチャを持たない漆黒の液体。
「……なんだ、これ」
声に出した瞬間、足元の枯れた大地のテクスチャが、砂嵐のテレビ画面のようにノイズを走らせた。
ジジ、ジジジ。
耳鳴りのような不快な電子音が、フィールド全体から鳴り響き始める。
常に流れていたはずの、荒野の寂寥感を煽る壮大なBGMが、唐突に停止した。
風の音が消える。
砂埃のエフェクトが、空中で静止している。
「おい、ハルト。空……」
トウヤの震える声に誘導され、俺は上を向いた。
永遠に続くはずの赤い夕焼け空に、亀裂が入っていた。
空間そのものがガラスのようにひび割れ、その亀裂の奥から、ドロドロとした黒と紫の汚泥が溢れ出している。
(バグか? システムの不具合?)
運営のメンテナンスのアナウンスはない。
心臓の鼓動が、急激に早くなる。
自律神経が異常を察知し、現実の肉体が冷や汗を分泌しているのが、仮想の体を通してもハッキリとわかった。
亀裂から溢れ出した汚泥が、空中で一点に凝縮していく。
それは徐々に質量を持ち、形を成し始めた。
ドサリ。
乾いた大地に、それは降り立った。
直視した瞬間、胃の腑が激しく痙攣した。
生物ではない。
ポリゴンの集合体ですらない。
剥き出しのコード。緑色の無数の文字列。
それらが乱数のように明滅しながら、無理やり獣の形を構成している。
顔があるべき場所には、システムのエラーを示す赤い警告アイコンが狂ったように点滅していた。
腐乱死体と、ショートした基盤を混ぜ合わせたような、嗅覚を破壊するほどの異臭。
環境シミュレーターが暴走している。
「トウヤ、逃げるぞ。こいつは……このゲームのモンスターじゃない」
俺は震える手で空中に指を走らせ、メインメニューを呼び出そうとした。
ログアウトボタンを押す。ただそれだけの簡単な動作。
だが。
空中で指が空を切る。
何度スワイプしても、見慣れた半透明のウィンドウは展開されない。
(開かない? メニューが、呼び出せない?)
呼吸が浅くなる。
肺に空気が入ってこない。
ログアウトできないということは、この異常な空間に、逃げ場なしで閉じ込められたということだ。
ギギ、ギギギギ。
エラーの獣が、その頭部をこちらに向けた。
点滅する警告アイコンの奥から、明確な悪意が放射される。
データで作られた存在から、魂を凍りつかせるような純粋な殺意が突き刺さってきた。
獣の足元の空間が歪む。
次の瞬間、圧縮されたバネが解放されるような異常な速度で、獣の巨体が宙を舞った。
目標は、俺。
「動け……っ!」
脳が回避を命令するが、筋肉を模倣したプログラムが恐怖で完全にフリーズしている。
巨大なノイズの塊が、俺の顔面を覆い尽くそうとした。
「させるかァッ!!」
横からの激しい体当たり。
トウヤだ。
彼は俺を乱暴に突き飛ばし、自らは大地に両足を踏みしめ、巨大なタワーシールドを正面に構えた。
絶対の防御力を誇る、彼の相棒。
ドンッ、という音はしなかった。
聞こえたのは、濡れた雑巾を引き裂くような、生々しく湿った音だけ。
「え……?」
トウヤの口から、間抜けな声が漏れた。
時間が、ひどくゆっくりと流れていくように錯覚した。
獣の鋭利な腕が、トウヤのタワーシールドに触れた。
弾き返されるはずだった。
だが、盾のポリゴンは、獣に触れた箇所から泥のようにドロドロと溶け落ちていく。
防御力という概念の破壊。
システムの数値計算を無視した、絶対的な消去。
溶け落ちた盾をすり抜け、黒と紫のノイズが渦巻く腕が、トウヤの腹部を深々と貫いた。
「…………ぁ」
トウヤのアバターが、ピクリと痙攣する。
HPバーの減少はない。
ダメージエフェクトの赤い光もない。
「ァ、アアアァァァッッ!!!」
突如、トウヤが絶叫した。
声帯が引き裂かれんばかりの、喉から血を吐くような凄惨な叫び。
彼の顔面が苦悶にぐしゃぐしゃに歪み、目から、鼻から、口から、大量の赤いピクセルが嘔吐物のように溢れ出す。
「痛い、痛い痛い痛い! 腹が、腹の中が熱い! 助け、ハル、ト……ッ!」
(痛い? 痛覚はカットされているはずだ。そんなはずはない)
理解が追いつかない。
だが、目の前で身悶えする親友の姿は、どう見ても致命傷を負った生身の人間そのものだった。
システムが、ルールが、完全に崩壊している。
トウヤを貫いた獣の腕が、脈打つように膨張した。
「逃げ、ろ……」
トウヤの肌の色が、急速に失われていく。
顔のパーツがランダムにズレ、テクスチャが剥がれ落ち、下から緑色のコードが剥き出しになる。
ビチャリ。
ひときわ大きな水音が響いた。
トウヤの身体が、完全にノイズの渦に飲み込まれた。
光の粒になって消えるデスペナルティの演出などではない。
空間そのものを削り取ったかのような、圧倒的な無。
トウヤが立っていた場所には、何も残されていなかった。
フレンドリストのウィンドウが、システム権限を無視して俺の目の前に強制展開される。
一番上にあったトウヤの名前。
その文字列が、ぐちゃぐちゃの文字化けを起こし、やがてリストの枠ごと消滅した。
トウヤが、死んだ。
ゲームの中で? 現実で?
わからない。
だが、彼が存在したというデータそのものが、今、俺の目の前で完全に消し去られた。
膝の力が抜け、俺は乾いた土の上に崩れ落ちた。
歯の根が合わず、カチカチと激しく鳴る。
獣が、ゆっくりとこちらへ向き直る。
次は、お前だ。
声なき声が、脳髄に直接響いた。
俺も、あいつと同じように、何も残らずに消去される。
恐怖で視界が黒く塗り潰されそうになった、その時。
『──致命的なデータの欠落を確認。空間の修復を実行します』
獣の発するノイズとは全く異なる、底冷えするような声。
男とも女ともつかない、絶対的な無機質。
凍りついた空間に、青白い光のグリッド線が走る。
エラーの獣の動きが、一時停止ボタンを押されたビデオのように完全に静止した。
俺の目の前に、見たこともない漆黒のウィンドウが浮かび上がる。
┌────────────────────────────┐
│ │
│ WARNING │
│ 特異個体への干渉プロセスを起動します。 │
│ 管理者権限の譲渡を提案します。 │
│ │
│ この権限を行使した場合、貴方の神経系は │
│ システムの最深部と直接接続されます。 │
│ 過負荷による精神崩壊の危険度:99.8% │
│ │
│ 代償を支払い、対象を強制書換しますか? │
│ [ YES ] / [ NO ] │
│ │
└────────────────────────────┘
(精神崩壊?)
トウヤの絶叫が、耳にこびりついて離れない。
あいつは、あんな理不尽な痛みを味わって、一人で消えていったのか。
俺の胸の奥で、恐怖を塗り潰すほどにどす黒い炎が燃え上がった。
怒りだ。
親友を意味もわからず奪われた、圧倒的な憎悪。
「代償くらい……くれてやるよッ!!」
右腕を振り上げ、漆黒のウィンドウの『YES』を力任せに殴りつけた。
瞬間。
「ガ、アアアアアアッ!?」
俺の右腕の血管という血管に、煮えたぎる鉛を流し込まれたような激痛が奔った。
目が飛び出そうなほどの痛み。
腕の皮膚の下を、青白い光の明滅が這い回る。
現実の肉体の神経が、ゲームのアバターと強制的に結合し、本来存在しないはずの膨大なデータストリームを無理やり流し込まれているのだ。
奥歯を噛み砕くほどに食いしばり、悲鳴を押し殺す。
『契約完了。プロテクトを解除。』
『システム権限を、貴方の右腕に上書きします。』
右腕に握られていた初期装備のショートソードが、ノイズを放ちながら変異していく。
金属の刃が融解し、真っ黒な空間の裂け目を固めたような、異形の直剣へと再構築された。
剣を握る右手から、世界を構成する情報が流れ込んでくるのがわかる。
風のベクトル。土の硬度。
そして、目の前にいる化け物が、ただの不要なゴミデータの集合体であるという事実。
「……消えろ、バグ野郎」
喉の奥から這い出るような低い声。
それは、俺自身の声でありながら、どこか機械的な響きを帯びていた。
静止が解除された獣が、再び俺に向けて跳躍する。
だが、先程までの絶望的な速度が、今ははっきりと目で追えた。
踏み込む。
痛覚と引き換えに得た異常な演算能力が、化け物の動きの最適解を弾き出す。
漆黒の剣を、下から上へ一閃する。
剣撃の軌跡が空間そのものを切り裂き、その裂け目から世界の裏側のコードが剥き出しになる。
刃が、化け物の巨体を捉えた。
抵抗はない。
水面を棒で撫でるよりも呆気なく、真っ黒な刃が化け物の胴体を両断した。
「ギ、ヂ、ジジジジジ……ッ!?」
化け物が、不快なノイズを撒き散らして悶える。
斬られた断面から、トウヤの盾と同じように、緑色の文字列が溢れ出した。
『対象の構成データを強制書換します』
『コマンド:消去』
俺の脳内で無機質な声が響いた直後。
化け物の巨体が内側から爆発し、無数の光の粒子となって霧散した。
ゴミ箱のファイルを空にするように、ただ単に消去されたのだ。
静寂が戻った荒野。
俺は荒い息を吐きながら、漆黒の剣を地面に突き立てた。
右腕には、幾何学模様の黒いアザが、呪いのように刻み込まれている。
ズキズキと、現実の肉体が悲鳴を上げているのがわかった。
『未確認領域の排除を確認。』
『システムを一時的に遮断し、強制ログアウトを実行します』
視界が、唐突にシャットダウンされる。
◇
現実の自室。
俺はベッドの上で跳ね起き、そのまま床に転げ落ちた。
「ガハッ、ゲホッ、ハァ、ハァ……ッ!」
胃液を吐き出し、畳の上でのたうち回る。
右腕が、焼け焦げるように熱い。
Tシャツの袖をまくり上げると、ゲーム内で刻まれたはずのあの黒いアザが、現実の俺の腕にも薄っすらと浮かび上がっていた。
「……トウヤ」
震える手でスマートフォンを掴み、ニュースアプリを開く。
画面のトップには、目を疑うような速報が踊っていた。
『【速報】VRMMO「Aethelgard Online」プレイ中のユーザー数十名が意識不明の重体。脳波に異常か。未帰還者の特定急ぐ』
記事をスクロールする指が震える。
やはり、ただのゲームオーバーではなかった。
トウヤは、あの化け物に喰われ、意識を、魂を、どこかへ連れ去られたのだ。
壁にかかった時計の秒針の音が、やけに大きく聞こえる。
右腕の熱は、引く気配がない。
この痛みは、俺が人間を辞め、システムの深淵に足を踏み入れた証。
「待ってろ、トウヤ」
スマートフォンの画面を握りつぶさんばかりの力で握る。
「あの狂った世界の底を全部暴いて、絶対にお前を連れ戻す。……邪魔する奴は、神様だろうが全部ぶっ壊す」
冷たい部屋の中で、俺は一人、狂気のハッキングへの決意を固めた。
これは、ただのゲームではない。
現実と仮想が入り交じる、血みどろの戦争の始まりだった。




