表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

短編 A.O. //_OVER:RIDE

作者: じょな
掲載日:2026/02/20

視界を覆うのは、無機質な漆黒。


後頭部から頸髄にかけて接続されたナーヴ・インターフェースが、微弱なパルス信号を脳内へと送り込んでくる。

現実の肉体が持つ重力感覚が、泥の底へ沈んでいくように曖昧になっていく。

鼻先を掠めていた自室の安っぽい芳香剤の匂いが消え、代わりに、シナプスを直接焼くような電子的な閃光が視神経を貫いた。


『Aethelgard Onlineへようこそ。網膜パターンの照合を完了しました』


女性アナウンサーのような、感情の起伏がないシステム音声。

直後、爆発的な光の奔流が世界を構築し始める。

足元から広がる石畳のテクスチャ。

空へと伸びる中世ヨーロッパ風の建築物。

頭上を覆う、突き抜けるような青空のポリゴン。


肺いっぱいに息を吸い込む。

乾いた土の匂いと、行き交うプレイヤーたちの装備が擦れる鉄の匂い。

完全没入型VRシステムが誇る環境シミュレーターは、今日も完璧にこの世界を演算し、俺の脳に「ここが現実である」と錯覚させている。


「遅いぞ、ハルト。また寝坊か?」


背後から掛けられた声に振り返る。

そこに立っていたのは、陽光を反射して鈍く光る銀色の重鎧に身を包んだ巨漢だった。

背の丈ほどもある巨大なタワーシールドを背負い、腰には無骨なメイスを下げている。


「悪い、トウヤ。バイトのシフトが長引いてさ」


俺は、自身の初期装備である簡素なレザージャケットの裾を引っ張りながら苦笑した。


トウヤ。現実世界での名前は冬弥。

小学校からの幼馴染であり、この広大な仮想世界における唯一のパーティメンバーだ。

現実ではひょろりとした体格のくせに、ゲーム内では常に最前線で攻撃を受け止める盾役を好んで選ぶ。


「まあいいさ。今日は第4層の黄昏の荒野だ。ボスの素材集め、手伝ってもらうからな」


トウヤが豪快に笑い、大きな手で俺の肩を叩く。

システムによって再現された「触覚」が、肩にずしりとした重みを伝えてきた。

痛覚はカットされているため痛みはないが、誰かがそこに存在しているという確かな熱量がある。


俺たちは転移門をくぐり、第4層へと跳んだ。


黄昏の荒野という名の通り、そこは常に夕暮れ時のように空が赤く染まっているフィールドだ。

枯れた大地に、赤茶けた岩肌が連なる。

風が吹くたびに、砂埃が舞い上がる視覚エフェクトが忠実に処理されていた。


「来るぞ、ハルト! 右から二体!」


トウヤの鋭い声が空気を切り裂く。

岩陰から飛び出してきたのは、全身の骨が剥き出しになった狼型のモンスターだった。

狂骨の奇行種。この階層の主たる標的だ。


「わかってる!」


俺は腰からショートソードを引き抜き、地面を蹴った。

仮想の肉体は、現実の俺の運動能力を遥かに凌駕する。

足裏が土を捉え、爆発的な加速でモンスターの懐へと潜り込む。


モンスターの鋭い牙が俺の首筋を狙って迫る。

だが、その軌道には既にトウヤが割り込んでいた。


「甘いんだよ!」


ガンッ、という鼓膜を震わせる重い金属音。

トウヤのタワーシールドが、狼の牙を完璧なタイミングで弾き返した。

モンスターの頭上に浮かぶHPバーが僅かに減少し、体勢を崩すシステム上の硬直時間が発生する。


その一瞬の隙を、俺は見逃さない。


「はぁっ!」


ショートソードを水平に薙ぎ払う。

刃が狼の頸椎のポリゴンに食い込み、赤い光のエフェクトが鮮やかに弾け飛んだ。

モンスターのHPバーが一気にゼロへと消失する。

狼の肉体はガラスが割れるような甲高い音とともに砕け散り、光の粒子となって世界に溶けていった。

後には、ドロップアイテムである骨のアイコンと、経験値獲得のシステムメッセージだけが残る。


「よし、これで規定数は揃ったな」


トウヤが盾を背中に戻し、満足げに息を吐く。

俺も剣を鞘に収め、汗を拭う仕草をした。

完璧な連携。完璧なシステム。

プレイヤーの努力と計算に、必ず正当な結果で応えてくれる美しい世界。

現実世界よりも遥かに公平で、居心地の良い場所。


それが、俺たちの認識だった。


狂いが生じたのは、まさにその直後だ。


ポツリ。


頬に、冷たいものが落ちてきた。

雨、ではない。

システムが再現する雨粒は、もっと透明で、肌に触れれば自然に流れるはずだ。


だが、俺の頬を伝うその液体は、粘り気を帯びていた。

指先で拭い、視線を落とす。


黒。

泥のように濁った、テクスチャを持たない漆黒の液体。


「……なんだ、これ」


声に出した瞬間、足元の枯れた大地のテクスチャが、砂嵐のテレビ画面のようにノイズを走らせた。


ジジ、ジジジ。


耳鳴りのような不快な電子音が、フィールド全体から鳴り響き始める。

常に流れていたはずの、荒野の寂寥感を煽る壮大なBGMが、唐突に停止した。

風の音が消える。

砂埃のエフェクトが、空中で静止している。


「おい、ハルト。空……」


トウヤの震える声に誘導され、俺は上を向いた。


永遠に続くはずの赤い夕焼け空に、亀裂が入っていた。

空間そのものがガラスのようにひび割れ、その亀裂の奥から、ドロドロとした黒と紫の汚泥が溢れ出している。


(バグか? システムの不具合?)


運営のメンテナンスのアナウンスはない。

心臓の鼓動が、急激に早くなる。

自律神経が異常を察知し、現実の肉体が冷や汗を分泌しているのが、仮想の体を通してもハッキリとわかった。


亀裂から溢れ出した汚泥が、空中で一点に凝縮していく。

それは徐々に質量を持ち、形を成し始めた。


ドサリ。


乾いた大地に、それは降り立った。


直視した瞬間、胃の腑が激しく痙攣した。

生物ではない。

ポリゴンの集合体ですらない。


剥き出しのコード。緑色の無数の文字列。

それらが乱数のように明滅しながら、無理やり獣の形を構成している。

顔があるべき場所には、システムのエラーを示す赤い警告アイコンが狂ったように点滅していた。


腐乱死体と、ショートした基盤を混ぜ合わせたような、嗅覚を破壊するほどの異臭。

環境シミュレーターが暴走している。


「トウヤ、逃げるぞ。こいつは……このゲームのモンスターじゃない」


俺は震える手で空中に指を走らせ、メインメニューを呼び出そうとした。

ログアウトボタンを押す。ただそれだけの簡単な動作。


だが。


空中で指が空を切る。

何度スワイプしても、見慣れた半透明のウィンドウは展開されない。


(開かない? メニューが、呼び出せない?)


呼吸が浅くなる。

肺に空気が入ってこない。

ログアウトできないということは、この異常な空間に、逃げ場なしで閉じ込められたということだ。


ギギ、ギギギギ。


エラーの獣が、その頭部をこちらに向けた。

点滅する警告アイコンの奥から、明確な悪意が放射される。

データで作られた存在から、魂を凍りつかせるような純粋な殺意が突き刺さってきた。


獣の足元の空間が歪む。

次の瞬間、圧縮されたバネが解放されるような異常な速度で、獣の巨体が宙を舞った。

目標は、俺。


「動け……っ!」


脳が回避を命令するが、筋肉を模倣したプログラムが恐怖で完全にフリーズしている。

巨大なノイズの塊が、俺の顔面を覆い尽くそうとした。


「させるかァッ!!」


横からの激しい体当たり。

トウヤだ。

彼は俺を乱暴に突き飛ばし、自らは大地に両足を踏みしめ、巨大なタワーシールドを正面に構えた。

絶対の防御力を誇る、彼の相棒。


ドンッ、という音はしなかった。


聞こえたのは、濡れた雑巾を引き裂くような、生々しく湿った音だけ。


「え……?」


トウヤの口から、間抜けな声が漏れた。


時間が、ひどくゆっくりと流れていくように錯覚した。

獣の鋭利な腕が、トウヤのタワーシールドに触れた。

弾き返されるはずだった。

だが、盾のポリゴンは、獣に触れた箇所から泥のようにドロドロと溶け落ちていく。


防御力という概念の破壊。

システムの数値計算を無視した、絶対的な消去。


溶け落ちた盾をすり抜け、黒と紫のノイズが渦巻く腕が、トウヤの腹部を深々と貫いた。


「…………ぁ」


トウヤのアバターが、ピクリと痙攣する。

HPバーの減少はない。

ダメージエフェクトの赤い光もない。


「ァ、アアアァァァッッ!!!」


突如、トウヤが絶叫した。

声帯が引き裂かれんばかりの、喉から血を吐くような凄惨な叫び。

彼の顔面が苦悶にぐしゃぐしゃに歪み、目から、鼻から、口から、大量の赤いピクセルが嘔吐物のように溢れ出す。


「痛い、痛い痛い痛い! 腹が、腹の中が熱い! 助け、ハル、ト……ッ!」


(痛い? 痛覚はカットされているはずだ。そんなはずはない)


理解が追いつかない。

だが、目の前で身悶えする親友の姿は、どう見ても致命傷を負った生身の人間そのものだった。

システムが、ルールが、完全に崩壊している。


トウヤを貫いた獣の腕が、脈打つように膨張した。


「逃げ、ろ……」


トウヤの肌の色が、急速に失われていく。

顔のパーツがランダムにズレ、テクスチャが剥がれ落ち、下から緑色のコードが剥き出しになる。


ビチャリ。


ひときわ大きな水音が響いた。

トウヤの身体が、完全にノイズの渦に飲み込まれた。

光の粒になって消えるデスペナルティの演出などではない。

空間そのものを削り取ったかのような、圧倒的な無。


トウヤが立っていた場所には、何も残されていなかった。


フレンドリストのウィンドウが、システム権限を無視して俺の目の前に強制展開される。

一番上にあったトウヤの名前。

その文字列が、ぐちゃぐちゃの文字化けを起こし、やがてリストの枠ごと消滅した。


トウヤが、死んだ。

ゲームの中で? 現実で?

わからない。

だが、彼が存在したというデータそのものが、今、俺の目の前で完全に消し去られた。


膝の力が抜け、俺は乾いた土の上に崩れ落ちた。

歯の根が合わず、カチカチと激しく鳴る。


獣が、ゆっくりとこちらへ向き直る。

次は、お前だ。

声なき声が、脳髄に直接響いた。


俺も、あいつと同じように、何も残らずに消去される。

恐怖で視界が黒く塗り潰されそうになった、その時。


『──致命的なデータの欠落を確認。空間の修復を実行します』


獣の発するノイズとは全く異なる、底冷えするような声。

男とも女ともつかない、絶対的な無機質。


凍りついた空間に、青白い光のグリッド線が走る。

エラーの獣の動きが、一時停止ボタンを押されたビデオのように完全に静止した。


俺の目の前に、見たこともない漆黒のウィンドウが浮かび上がる。


┌────────────────────────────┐

│                      │

│ WARNING                  │

│ 特異個体への干渉プロセスを起動します。  │

│ 管理者権限の譲渡を提案します。      │

│                      │

│ この権限を行使した場合、貴方の神経系は  │

│ システムの最深部と直接接続されます。   │

│ 過負荷による精神崩壊の危険度:99.8%   │

│                      │

│ 代償を支払い、対象を強制書換しますか?  │

│ [ YES ] / [ NO ]             │

│                      │

└────────────────────────────┘


(精神崩壊?)


トウヤの絶叫が、耳にこびりついて離れない。

あいつは、あんな理不尽な痛みを味わって、一人で消えていったのか。


俺の胸の奥で、恐怖を塗り潰すほどにどす黒い炎が燃え上がった。

怒りだ。

親友を意味もわからず奪われた、圧倒的な憎悪。


「代償くらい……くれてやるよッ!!」


右腕を振り上げ、漆黒のウィンドウの『YES』を力任せに殴りつけた。


瞬間。


「ガ、アアアアアアッ!?」


俺の右腕の血管という血管に、煮えたぎる鉛を流し込まれたような激痛が奔った。

目が飛び出そうなほどの痛み。

腕の皮膚の下を、青白い光の明滅が這い回る。

現実の肉体の神経が、ゲームのアバターと強制的に結合し、本来存在しないはずの膨大なデータストリームを無理やり流し込まれているのだ。


奥歯を噛み砕くほどに食いしばり、悲鳴を押し殺す。


『契約完了。プロテクトを解除。』

『システム権限を、貴方の右腕に上書きします。』


右腕に握られていた初期装備のショートソードが、ノイズを放ちながら変異していく。

金属の刃が融解し、真っ黒な空間の裂け目を固めたような、異形の直剣へと再構築された。


剣を握る右手から、世界を構成する情報が流れ込んでくるのがわかる。

風のベクトル。土の硬度。

そして、目の前にいる化け物が、ただの不要なゴミデータの集合体であるという事実。


「……消えろ、バグ野郎」


喉の奥から這い出るような低い声。

それは、俺自身の声でありながら、どこか機械的な響きを帯びていた。


静止が解除された獣が、再び俺に向けて跳躍する。

だが、先程までの絶望的な速度が、今ははっきりと目で追えた。


踏み込む。

痛覚と引き換えに得た異常な演算能力が、化け物の動きの最適解を弾き出す。


漆黒の剣を、下から上へ一閃する。

剣撃の軌跡が空間そのものを切り裂き、その裂け目から世界の裏側のコードが剥き出しになる。


刃が、化け物の巨体を捉えた。


抵抗はない。

水面を棒で撫でるよりも呆気なく、真っ黒な刃が化け物の胴体を両断した。


「ギ、ヂ、ジジジジジ……ッ!?」


化け物が、不快なノイズを撒き散らして悶える。

斬られた断面から、トウヤの盾と同じように、緑色の文字列が溢れ出した。


『対象の構成データを強制書換します』

『コマンド:消去』


俺の脳内で無機質な声が響いた直後。

化け物の巨体が内側から爆発し、無数の光の粒子となって霧散した。

ゴミ箱のファイルを空にするように、ただ単に消去されたのだ。


静寂が戻った荒野。

俺は荒い息を吐きながら、漆黒の剣を地面に突き立てた。

右腕には、幾何学模様の黒いアザが、呪いのように刻み込まれている。

ズキズキと、現実の肉体が悲鳴を上げているのがわかった。


『未確認領域の排除を確認。』

『システムを一時的に遮断し、強制ログアウトを実行します』


視界が、唐突にシャットダウンされる。


     ◇


現実の自室。

俺はベッドの上で跳ね起き、そのまま床に転げ落ちた。


「ガハッ、ゲホッ、ハァ、ハァ……ッ!」


胃液を吐き出し、畳の上でのたうち回る。

右腕が、焼け焦げるように熱い。

Tシャツの袖をまくり上げると、ゲーム内で刻まれたはずのあの黒いアザが、現実の俺の腕にも薄っすらと浮かび上がっていた。


「……トウヤ」


震える手でスマートフォンを掴み、ニュースアプリを開く。

画面のトップには、目を疑うような速報が踊っていた。


『【速報】VRMMO「Aethelgard Online」プレイ中のユーザー数十名が意識不明の重体。脳波に異常か。未帰還者の特定急ぐ』


記事をスクロールする指が震える。

やはり、ただのゲームオーバーではなかった。

トウヤは、あの化け物に喰われ、意識を、魂を、どこかへ連れ去られたのだ。


壁にかかった時計の秒針の音が、やけに大きく聞こえる。

右腕の熱は、引く気配がない。

この痛みは、俺が人間を辞め、システムの深淵に足を踏み入れた証。


「待ってろ、トウヤ」


スマートフォンの画面を握りつぶさんばかりの力で握る。


「あの狂った世界の底を全部暴いて、絶対にお前を連れ戻す。……邪魔する奴は、神様だろうが全部ぶっ壊す」


冷たい部屋の中で、俺は一人、狂気のハッキングへの決意を固めた。

これは、ただのゲームではない。

現実と仮想が入り交じる、血みどろの戦争の始まりだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ