しあわせ
「頃…」
「…瑞月は?」
「あそこに繋いでる」
停滞したたばこの煙に包まれながら、ひとり君のことを考えていた。今、どんなことを頭に浮かべて、その瞳が映した景色になにを思うのだろうと。
そんなとき、煙をかき分けるように姿を見せたのは深白だった。
「リード?」
「そう、落ち着きないから…」
「ふっ、そっか」
こんなときでも私を笑わせてくれる深白にありがとうと、そう一言伝えると、深白はなにも言わずに微笑んでくれた。
「…春ちゃん、会えた?」
「……二人は?」
「さっきちょっとだけ。結さんと成留美さんも一緒に」
「そっか…」
「頃、会わなくていいの?」
「……わかんない」
「…上のフロアにバーラウンジあったから、行ってみたら?」
「ん、そうする」
「あんまり飲みすぎないように…だよ?」
「うん、ありがとう深白」
それだけ返して、私はまた身体の奥に重くるしい煙を押し込んだ──。
君の結婚の知らせを受けたのは、式から三ヶ月ほど前のこと。
白く整えられた招待状が、立ち止まったままの私に容赦なく現実を突きつけた。
"科木 春"──差出人の位置にあるその名を見て、身体が震えた。それと同時に、連なったもうひとつの名が視覚から脳を刺激して呼吸が乱れていった。普段は意識しないそのリズムが耳にうるさく響き、自分の身体なのにどうすることもできなかった。
春がこっちに戻ってきている。
十数年ぶりに彼女に会える。
それが、まさかこんな機会だなんて。
返信ハガキに丸をつけられないまま、気づくとその日は終わっていた。
春風に揺れた恋は重たい雲を連れて。
ただ、雨の音を聞くだけの恋に変わってしまった──。
*********
「頃、飲みすぎ」
あれから、私は一度も。ほかの誰にも心が吹かれていない。
「返信どうすんの」
それなのに、春には相手がいる。そのことだけで水の底に沈められるような苦しさであるのに。
「あたしと深白は行くよ」
結婚と言われたら、もう藻掻くことすら叶わない。私はどうしたって彼女を、そこまで連れてはいけないのだから。
「成留美さんも結さん連れて行くって」
瑞月が何を言おうと、それが耳に入ることはなかった。ただワンカップを割れてしまいそうなほどに握りしめて、私は残り少ないその中身を見つめるだけ。
「深白、もういい?」
「うーん…お手柔らかに、だよ…?」
二人のそんな会話も聞こえないまま。
「…痛っ…」
気づいたときには、瑞月にぶん殴られていた。
「いい加減にしなよ、頃」
瑞月の目は怒りという感情を持つものではなかった。私を心配して小さく揺れる、顔に似合わないそれ。
殴られたことよりも、その視線が痛かった。
「頃…大丈夫?」
やりきれない気持ちのまま床に転がった私の頬に、深白のひんやりとした手が触れる。
「……ん」
瑞月とはじめて出会った日のことを私は思い出していた。あの日もこんなふうに、頬に手をあててくれた人がいる。あたたかくてやさしい、私の中のどんな気持ちも包み込んでくれたあの手。
「…春ちゃんのこと…わかってあげて…」
「……」
わかりたくても、わかりようがない。
春は私になにも言ってくれなかった。
好きという、その言葉さえも。
それなのに、こんなことになっても私はまだ彼女を──。
「春ちゃんとのこと、後悔してる?」
「……ないよ」
そんなわけ、あるはずもない。
春が居なければ、私はずっとだめなままだった。
あの日"送って"と、春がそう無邪気に声をかけてこなければ、学校も友人も家族も恋も。
そのすべての大切さを知ることなんてできなかったのだから。
「じゃあどう思ってるの」
まっすぐな眼差しが私を突き刺した。こういうとき、私たちの中で一番肝が据わっているのは深白だ。
どう思ってるかなんて──そんなこと、考えるまでもない。
私は、私はあのころがあったから──。
「……春ちゃんの幸せ、一緒にお祝いしてあげよう?」
ごちゃごちゃに散らかった私の心を捕まえるように、深白は静かにその手を取った。
春の幸せ──。
誰よりも春のことを考えているつもりでいたのに、そんなのただの独りよがりだった。彼女を守りたい、大切にしたい。そう思っていながら、私は深白に言われるまで彼女自身の幸せがなんなのか、それに向き合えていなかった。
春の幸せは、春のもの。
私が選べるようなものじゃない。
その幸せがどんな色でどんな形なのか、それを決めるのは春自身なのだ。
それなのに、幸せにするのは自分がいいだなんて、そんな身勝手で欲深い思いを勝手に胸に秘めて。隣に立っていたいなんて、ばかなことを考え続けて。
「深白…」
相手が私である必要なんて、はじめからずっとなかったのに。
「深白…私──…」
きっと、その人なら。
冷たい私の手が届かない場所に、彼女を連れていくその人なら。
春のぬくもりを絶やすことなく、その人生を灯していけるだろう。
「答え、決まったね」
「……ん…」
春が幸せでいられるなら、相手が誰であろうと構わない。
たとえそれが私でなくとも、彼女の幸せを誰よりも喜べる自分でありたい。
だって、私は彼女とのあの日々がたまらなく幸せで。
私にそれを教えてくれたのは、彼女だから──。
「大丈夫、瑞月も私もいるよ」
「……ん」
春以外の前で泣いたのは、このときがはじめてだった。なんの涙なのかはわからない。ただ、あふれたそれが止まらなかった。
「今出してきな、ポスト」
瑞月にそう言われ私はボールペンを手に取ると、それを拙い丸で囲った。滲む線の始まりと終わりを、ゆっくりと繋いで。
「今日泊まってきなよ、そんな情けない顔で帰せない」
瑞月が私の頭を軽く叩いて。
私はまた、少し泣いた。
*********
白いドレスを身に纏い、赤い道の真ん中を歩いた君はやさしい光に満ち溢れていた。
久しぶりに目にするその姿は少し大人びて、でも、年の割に幼い表情はあのころとなにひとつ変わらないままだった。広告では見えなかったそんな些細なことがわかって、うれしくて。私は思っていたよりも穏やかな気持ちで挙式を終えた。
君が誰かと愛を誓っても、胸の奥底にあるこの気持ちが消えることはきっとないだろうけど、それでも私は少しずつ、前に進まなければいけないのかもしれない。
幸せに包まれたその空間に、私はそう思わされた。
お相手はずいぶんと背の高い、どこかで見かけたことがあるような顔だった。きっと同業の人だろう。悔しいけれど、私よりも君の隣がよく似合う。彼は私よりもずっと、君を守るのに相応しい。心からそう思えた。
だから私は微笑んだ。
そのとき、春と目が合ったような気がした。
有名なホテルの大きな会場。地主や経営者、よくわからない海外の金持ちそうな人たち。数え切れないほどの関係者に溢れたその空間で、春がこんなちっぽけな私を見つけるわけはない。なんなら来ていることすら、知らない可能性だってあるのだから。
だからきっと気のせいなのに。
勝手に心が反応して、苦しくなった──。
挙式のあとの披露宴では、形式どおりに乾杯が行われていた。ひと通りのスケジュールが落ち着くと、それぞれが記念撮影などで挨拶にまわりはじめる。私は普段飲まない白ワインをグッと押し込んで眩しすぎる君から目をそらすと、式が始まる前のように喫煙所へと逃げ返ってしまったのだった。
様子を見にきた深白には悪いが、春と顔を合わせる勇気はまだ持ち合わせていない。みんなは春となにを話したのだろう。私はなにを話せばいいのだろう。まだ心にその気持ちを残したままの私が、今の春に会ってどんな顔をしたら──。
「……酒飲むか…」
会いたかった気持ちをたばこの火とともにそっと消し去って、私は深白の教えてくれたバーラウンジへ向かうことにした。
なかなか来ないエレベーターに痺れを切らし、階段でいいか、と。とても客が使うようなものではなさそうな隅っこにあったそれを上った。
非常用でもなさそうだし、まあ使っても大丈夫だろ。たしかこのすぐ上くらいの位置にあったはずだし──と呑気にそれを上りきって、目的のフロアに足をおろしたときだった。
「きょうちゃん…?」
後ろから、その声が聞こえたのは。
振り向かなくてもわかる。
私をそう呼ぶ人は、君しかいない。
名前を呼ばれただけなのに、私の心は荒波を立てるように揺れ動いた。
どうしたって忘れられないあのころがまた、身体中を駆けめぐっていく。
返事もできないまま、まるで身体が固まったように立ちすくむ私の頬には、ひたひたと静かに涙が伝っていた。
もう、振り向くことも、できなくなった。
「……来てくれたんだ…」
「…ん」
それがばれないように、口を閉じて返したのは声というよりも音に近いなにか。久しぶりなのに、情けのない。
もし、春にまた会えたらなにを伝えよう。
そんなふうに考えては夜な夜な浮かんできたその言葉を、今日の彼女にだけは言ってはいけない。
大人になれ──と両手をぐっと握りしめ、私は助走のように浅く息を吸い込んだ。
「おめでとう」
許されるのは、その言葉だけだった。
ありがとう──と。
春がそう返してこの会話は終わる。
それでいい。それができれば上出来だ。きっとみんなも褒めてくれる。
そう思っていたのに、しばらく待っても後ろから春の声が返ってくることはなかった。
もういなくなった──…?
不思議に思いわずかに振り向いたその先で、視線は触れてしまった。
声を殺して、私と同じものを流す君に──。
あのころとなにも変わらないその泣き顔が、私の胸を痛いほどに締めつける。
やっと、春に会えた──不謹慎にも、私はその顔を見てそう思ってしまった。
どうしてここにいるのか。
なぜ頬を濡らすのか。
そんなことはどうでもよかった。
ただ、その陽だまりのような眼差しに刺されたことがうれしくて。あのころの君にまた会えたことがうれしくて。私は頬を伝うその数を静かに増やし続けることしかできなかった。
届く距離にいるのに、それを拭うことすらできずに見つめ合い、二人の時間が流れていく。
何秒かもしれないし、何時間かもわからないその曖昧な時に、息をすることすら忘れたころ。春が私から視線を解いて、俯きがちに口を開いた。
「……あの日のワンピースと、どっちが好き…?」
「……」
「きれいだよ、春──」
大人になるというのは、どうしてこんなにも苦しいのだろう。
あの日の君に、決まっているのに。
まだ君が好きだと、そう言いたいだけなのに。
私は春と逆の方向を向いてその場を立ち去った。
その質問の意図も、正解がなんだったのかも。
なにひとつはっきりとさせないまま。
もうその涙に触れていいのは、私ではなかったから──。
*********
「会ったの?春に?」
「……会ったっていうか、鉢合わせたっていうか…」
式の翌日、めずらしく私は姉と夕食をともにしていた。
ひとりでいたい気分だったが、職場に押しかけてきて連行されては、拒否権などあったものではない。成留のいないところを見ると、姉なりに多少は心配してのことなのだろう。私はそのおせっかいをありがたく受け取ることにした。
「なんか話したの?」
「まあ…」
あのあと適当に時間を潰してお開きになるころに戻った私は、ホテルの廊下で過ごした春との時間を誰にも言いはしなかった。話したところでなにがどうなるわけでもないし、わざわざ伝えるような会話もしていない。
ただ、最後にああして言葉を交わせたことはよかったのかもしれないと、いつもより少しばかり晴れやかな気持ちで仕事に向かった。
姉はそんな私の些細な変化を知ってか知らずか、ズカズカと踏み荒らすように私を質問攻めにした。気が利くんだか、効かないんだか。昔からこういうとこあるよな、と私は姉にだけ春と交わした内容をぼそぼそと告げた。
「…それで?」
「いやそれだけだけど」
「は?あんたそのあとどうしたの」
「下の階のスロットで時間潰してた」
「は?春は?」
「さあ…」
「あんた、もしかして置いてったの?」
「いや、まあ……そのまま、別れたから…」
はぁぁぁ、と姉がため息を大げさについて頭を抱える。
私にとっては最善の行動だったのだから、そこまでしなくてもいいだろ、と私はビールをグイッと飲み干した。
「あんたって、んっとにどうしようもないばかだね…」
でも、がんばったじゃん──。
そう言って姉がわしゃわしゃと頭を撫でてくるものだから、私は痒くもないのに首のあたりをポリポリと掻いた。
「結」
「ん?」
「飯、ありがと」
「ん。」
姉がいるのもわるくない。
私はこの日、うまれて初めてそう思えた──。