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ためらう風に漕いだ季節




「きょうちゃん、授業おわっちゃったよ?」


 

 窓際の席はその時期、放課後まで暖かさが続くものだから、すっかり眠りほうけてしまっていた。

 5限は現代文だったような気がしたが、いつの間にやら6限も、ホームルームすらも終わりを告げているとは。

 成長期といえど、自分の熟睡具合は感心すら覚えてしまう。


 教科書を開くところまではぎりぎり記憶にあったような気もするが、もしかするとそれすら前日のことだったかもしれないのだから、春の陽気とは末恐ろしい。 


 そう、すべてはこの"春"のせいだ。


「ねえ、起きてるでしょ」

「んーん」

「ほら、起きてる」

 後方にあった声が移動し、突っ伏した頭のうえの方から聞こえたかと思うと、それに合わせてしゃがみこんだ彼女からふわりと甘い匂いが漂った。

 入学して数日経ったころ、何の香水を使っているのかと聞いたことがあったが、それらしきものは何も使っていないらしい。

 自然にこんな良い匂いする人いるの?生まれはお花畑かなにか…?と突っ込んでしまったのも、君がそれに吹きだしたことも、今では心を揺らす遠い記憶のひとつ。


「きょうちゃん、起きないとおいてくよ?」

「…おはよ、春」

 花のようにやさしく香る彼女の匂いはスーッと鼻の奥を抜け、私の心の真ん中をきゅっと掴み身体の温度を上げさせる。

 瞼を軽く持ち上げうっすらと視界を広げると、すぐ目の前には匂いの持ち主が同じく持ち合わせた大きな黒目で退屈そうにこちらを覗いていた。

「きょうちゃん、顔にあとついてる」

「ん、どこ」

「ここ」

 春がいたずらに笑いながら私の頬に触れた。

 近づいたことでより一層強く、春の陽の暖かさにより一層深く、その匂いが漂う。

 まるで、教室中を埋め尽くすように。

 陽を受け、目の前で光沢を放つその長い髪。この香りはそこから生じているのだろうか。

 確かめてみたい気持ちはあったが、手近にと、触れてきたその手を取ってスーッと身体いっぱいに押し込んだ。

「…またやってる」

「春の匂い…」

「する?」

「ん。ねむたくなる…」

「なにそれ、じゃあもうだめ」

 そうは言いつつも、軽く口をすぼめた春がその手を引くことはなかった。


 私を落ち着かせる春の匂い。

 いつまでも香っていたくなるそれは、まるで夏の日の木陰のような、冬の朝の毛布のような。


 ずっと抱えていたくなる。

 そんな匂いだった。


「きょうちゃん置いてかれたいの?」

「…チャリ漕ぐの私じゃん」

「一緒に帰れなくてもいいのって聞いてるの」

 校庭から聞こえる運動部のにぎやかな声。向かいの音楽室から響く吹奏楽部の拙い練習音。騒がしいそれらも、春という主役の前では心地よい背景に姿を変えてしまうのだから不思議なものだ。


「帰りお団子食べたい」

「はいはい…」


 ──今思えば、出会って間もないこのころ私はもう、とっくに君を好きになっていたのかもしれない。




 中学の頃の私は、お世辞にも素行の良い生徒とは言えないようなやつだった。勉強はさして嫌いではなかったが、授業という退屈な時間を過ごす気にもなれず、クラスメイトとも戯れる気は起きなかった。

 それに加え、世間から見れば少々複雑な家庭環境が背中を押したのか、ほとんど学校にも行かずじまい。気づけば毎日いつものゲーセンで時間を潰し、授業よりもよっぽどつまらないときを過ごしていた。


 いつのときも恋愛にかまけた母親がそれに怒ることはなく、むしろ学校なんて行ってもしょうがないと、それを推奨すらしていた。

 父親に関しては物心ついたときからいなかった。この世にいないのか、そこらへんで生きているのかすら分からない。母もそれを口にはしなかったし、私もまた、興味もなく知りたいとは思わなかった。


 たまに家に帰っても、年の離れた姉がいるかいないか。いたところであまり会話もなかったが、会えばお互い、なにをしているのかくらいの情報交換は行われていた。

 幸い、幼いころから面倒をみてくれていた姉の友人が「お前はやればできるんだから高校くらいは行っとけ」と。なんの気まぐれか山ほど参考書を押し付けてくれたおかげで私はなんとか受験を通過し、姉たちと同じ"中卒"というレッテルから逃れることができた。


 とはいえ"ここでも行っとけ"と言われるままに願書を出したその高校が、そこそこ偏差値の高い進学校だとはつゆ知らず──。



    *********



「しかも女子校って…」

 成留なるのやつ、やってくれたな──。

 と。まわりが入学式で浮かれている中、私は門の前でその場に相応しくないため息を一つ落とした。

 とりあえず入学式くらいは記念に出ておこう。後のことはそれから考えれば良い。


 そんなふうに適当に足をつっこんだ先で出会った。


「ねえ、これで"きょう"って読むの?」

「…あー、そう。」 

 

 ホームルームが終わり入学式前の空き時間、先に声をかけてきたのは春のほうだった。


──つづり……ころ…けい?さん?

──あ、それで"きょう"っす。頃で、きょう。

──あらぁ~間違えてごめんねぇ。"綴理つづり きょう"さんね!


 ヨミの確認も兼ねた点呼。若い担任が私の名を間違えるのは当然のこと。逆にどう読んだら"きょう"なんだよ。と、こうなるたびに心の中で母親につっこみを入れているのだから。

 幾度となく行われてきたこのやりとりは面倒そのもの。病院など頻繁に会わないような相手には正すことすらしないが、高校初日くらいは──と。そう思ったあのときの行動が春と話す機会をくれたのだから、気まぐれな自分をたまには褒めてやってもいいかもしれない。

「へえ、おもしろいね」

「…それは、どうも?」

「いい名前だなって」

「……どーも」

 会話というには短く、挨拶というにはちょっぴり長い。

 春との出会いは、そんなふうだったように思う。


 自分のような身なりの生徒はいなかったし、すでにクラスから浮いている私に話しかけてくるもの好きなんていないだろうと、教室でひとり高を括って机に突っ伏していた。

 そんな私のところにやってきたのは、規定どおりの制服をきれいに着飾り黒い髪をなびかせた、いかにも優等生といった感じのクラスメイト。可愛いの代名詞のような顔を引っさげ唐突に声をかけてきたのだから、思わず拍子抜けして会話がおぼつかなくなったことは大目に見てほしい。


 まあ、もう話すこともないだろうしどうでもいいか。


 そう思っていたのに。


「ねえ、きょうちゃん一緒に帰ってもいい?」


 入学式が終わると、春はまた私のところに駆け寄ってきたのだ。

 席が近いわけでもなかったのに。


「……なんで?てかきょうちゃん…?」


 春は自然に私をそう呼んだ──まるで今までずっとそうしてきたかのように。

 そのときの春の声を、私は今でも鮮明に覚えている。いつものそれより少し高くて外行きの…木漏れ日にかけまわる明るい子どものような声だった。


「きょうちゃん何通学なにつう?」

「え、話し聞いてる?」

「だめ?」

「…いや別に…」

 人見知りがちな私と違って春は人懐こい子犬のようで、それまで触れてきたことのないタイプ。つまりは苦手の部類だった。

「私、電車」

「あーごめん、チャリ」

「そっか、じゃあ送って?」

「……は?」

 やっと訳のわからない女から解放される。チャリ通でよかった。

 そう安堵したところで耳に飛び込んできた聞き捨てならない発言に、いぶかしげな顔を隠しきることはできなかった。

「だめ?」

「……あんた家、どこ?」

「春」

「あ?」

科木しなき はる。私の名前」

「あー、そ。で、家どこなの」

 まあ二つ隣の駅なら送ってやってもいいか…。なぜかこの日の私はそう思ってしまった。

 断じて春が可愛かったからとか、いい匂いがしたからとか…そういうわけじゃない。いや、こぼれ落ちそうなほど大きな瞳と小ぶりなパーツを兼ね備えた春の顔は誰が見たって可愛いが、私のタイプではなかったし。思春期のちょっとした気まぐれが続いていただけ…きっとそうだ。


 惚れた弱みと言えるのはもう少しあとのことだから、とりあえずはそういうことにさせといてほしい。


「はい、乗って」

「ここに?」

「逆にどこ乗るつもりなの」

 鞄のすみっこでぐしゃぐしゃになっていたひざ掛け。

 それを自転車の荷台に敷いてやったのにも関わらず、一向に座る素振りを見せなかった春はやはり、優等生そのものだった。

「歩いて一緒に帰るのかと思った」

「これ引いて?あほくさ、なんのために送るわけそれ」

「お話しするためでしょ?」

「…いいから乗って」

 トントンと荷台を叩き強引にそこへ誘導すると、どこぞの映画の主人公のように足を揃えてちょこんと横乗りしたものだから、私はつい吹き出してしまった。

「…違うの?」

「んーん、いいよそれで」


 変わっているけど、なんだか無邪気で愛らしい。

 私にとっての春の第一印象はそんなところ。


 突き刺すような眩しい西日。それが並木道の風に吹かれた桜の花びらに反射し、きらきらと舞う。

 その中の一枚が目を掠め、自転車がよろけたそのとき。春の両手がぎゅっと、私の腰を掴んだ。

 ちいさくて、まるでその名前のようにあたたかかった。

「怖い?」

「…大丈夫」

「あっそ」

「これ何個開いてるの?」

「…ちょっ!」

 その指先が急に右耳に触れ、手元が狂った私はブレーキをかけた。

「急に、なに…!」

「きょうちゃんのそれ、気になってたから」

「だからって…びっくりするじゃん…」

「ねえ」

「なに」

「耳、よわいの?」

「…っるさい、もう!」

「ふふっ、きょうちゃん。明日も一緒に帰ろう?」

 くすくすと目を細めるその顔が憎たらしくて、ペダルをめいっぱい漕いで光に紛れた春の日暮れどき。


 これが、君との初めての日だった。


 ぺちゃんこの鞄を肩から背中へぶら下げ、かかとをずって歩く私。

 両手でお行儀よくそれを添え、背筋のスッとした春。


 髪色もスカート丈も、ボタンを留める位置さえも。なにもかも正反対の私たちが今日以降仲良くすることはないだろう。このときはそう思って疑わなかった。

 

 でも次の日も。また次の日も。春がしつこく話しかけてくるものだから。


「明日も一緒に帰ろう?」

 そう言うものだから。


 私は、心を許すようになってしまった。




 ──ピアスがいっぱいで気になったから?あと、きょうちゃんの声タイプだったし。


 どうしてあんなにしつこく言い寄ってきたのか、いつだが君に聞いたことがある。

 そんなこと?と思いつつも今はあの日、入学式にも関わらず、ばかみたいにピアスを外していかなかった若気の至りには感謝している。


 この一つでもなければ、あの桜並木での景色も君の手のぬくもりも。

 なにひとつ、思い出に残すことはできなかったかもしれないのだから──。




 それから春との距離が近づくまで、意外なことに時間はさほど必要なかった。

 

 性格も容姿も、そのうえ成績まで良い春は、誰とでも親しくなれる女子校の人気者。いつ目にしても誰かに囲まれている姿は私とは大違いだった。こちらから話かけることもなかったが、春は毎日のように私を起こしにきては、そっけない態度を取る私のそばを離れなかった。

 クラスメイトは私には近寄らなかったし、仲良くするだけ春の株は下がる。絡めば絡むほど損だというのに、そんなことはお構いなしに"きょうちゃんきょうちゃん"と。春はこれでもかと私に付きまとった。

 いつしかそれにすっかり慣れてしまいあっちに行けと言うこともなく、気づけば春が隣にいることは私の日常になっていた。

 そのうえ放課後になれば家まで送れと春が私を突きにくるものだから、中学とは打って変わり、高校をさぼることはなくなった。


 春がいたから、私は変われたように思う。


 真面目に授業を受けていたわけではなかったが、それでも学校というくだらない社会の中で過ごす気が起きたのは、春が変わったおもしろいやつだったからだ。

 私と接するとき、春は他の子といるときのそれとは違う顔を見せる。教室のなかでは"いい子"を演じていたのに、なぜか二人になると強気でわがまま。素顔がどちらなのか、最初は不思議なものだった。


 それが後者であると確信を持ったのは、入学式から何日か経った昼休み。

 隠れて屋上でたばこを吸っていたのがバレたときだったように思う。



    *********



「いつもこんなとこにいたんだ」

「まあ…我慢にも限界というものがあるんで…」


 ──カシャッ──


「──え?」

「よし。」

「いや、撮った?」

「うん」

「…なんで?」

「先生に見せようかなって」

「……えー…」

「そしたらきょうちゃんここ使えなくなるし、一緒にお昼食べれるかなぁって」

「おうおう…」

「どう思う?」

「んー、やめて?」

「じゃあ一個お願い聞いてくれる?」

「…なに?」

「明日から一緒にお昼」

「あー、うん。じゃあまあ…」

「あと、そろそろ──」

 春は私に近づいてきたかと思うと、持っていた8ミリショートをさっと奪い取り、戸惑うことなくそれに口をつけた。

「え、ちょっ、はるっ!!」

「なあに、きょうちゃん」

 かと思えばすぐにそれを遠ざけ、満足げな顔。

「や、なに?意味わかんないってまじ…」

「んー?全然名前呼んでくれないなーと思って」

 春は私の手にそれを戻すと、吸ってなくても匂いしちゃうかな?と軽く髪をなびかせながら、ブレザーの肩の部分をつまんで香った。

「でもきょうちゃん、自分は吸ってるのに私が吸ってたらいやなんだ?」

 ほっとして息をついた私とは対照的なその顔。

 口の端をくいっと上げたまま、春はたいそう嬉しそうに屋上を後にしていった。

「いや…こんなの吸えるかよ……」

 返されたそれを見つめながら、私はため息をひとつふたつ。

 春の小悪魔な一面にやりきれない気持ちを抱えながらズッズッと、たばこの火を力任せにかき消した。



 

 ──あのときなんであんなことしたの?

 ──きょうちゃんの写真撮りたかっただけ。

 ──…たばこは?

 ──んー、内緒?


 なんであんなことをしたのか、いくら聞いても君が教えてくれることはなかったが、あのときの写真をお気に入りと言っては眺め、ほほえんでいた姿が懐かしい。


 あんなの、いつだって撮ることはできたのに──。




 さわやかな風がわかばを揺らし、夏がその顔を出しはじめたころ。

 私と春は、さらにその距離を縮めることになる。

 学校以外で一緒に過ごす時間も次第に増えてはいたものの、所詮は帰路の延長線。そこから初めてはみ出したのは、たしかこんな会話がきっかけだったように思う。


「きょうちゃんって、休みの日なにしてるの?」

「寝てるか、たばこ吸ってるか」

「……早死にしたいの?」

「…外も出るよ」

「どこ?」

「ゲーセン」

「……映画とかは?」

「んー…春、好きなの?」

「うん、一緒に行きたいなぁって」

 そんなこんな、はじめて春と出かけた先は映画館。

 たまに見ることもあったが、そこに足を運ぶことはほとんどなかった。映画も小説も音楽も。そういう類のものは一人で消化したい。誰かが近くにいてはそのものに集中することができないし、感情任せに泣くのもなんだか恥ずかしい。

 映画は部屋で、一人で観るものだ。

 春と出会うまで、私はそう思っていた。


 薄手といえど、長袖では昼間の陽が鬱陶しく感じられる春の終わり。すっかり手入れをさぼられた髪は肩をゆうに超え、その気だるさを一層深いものにしていた。


 待ち合わせ場所の駅。

 学校の最寄りからひとつ先のその駅は、都会というほどではないが少々賑わった場所。徒歩数分のところに大きなショッピングモールがあり、その5階にお目当ての映画館は併設されていた。駅近くの路地裏には、たまり場にしていたゲーセンもあったものだから、そこまで自転車を飛ばすのは当時の私には容易なことだった。


 休日の真昼間から外に出るのはいつぶりだったろう。なかなかベッドから出ることができず、鳴り続けるアラームに背中を押されるように慌てて家を飛び出した。

 慣れた手つきでそれをゲーセンの駐輪場に止めながら腕時計をちらっと確認すると、待ち合わせの時間まではあと1分ほど。

 春のことだ。きっともう駅前で待っているだろう。

 そう思い、待ち合わせの南口へ小走りで足を運ぶと、ロータリー脇の葉陰で涼むその姿を見つけた。

 流れる風にそよいでいたのは、いつものストレートと違い、ふんわりと巻かれた髪。手には小さいながらも厚みのある本。どこかのお嬢様のようなその姿に目を奪われ、吸い込まれるように私はそばへ駆け寄っていった。

「あ、きょうちゃん」

「ごめ、ちょっと寝坊した…」

 騒がしい足音に気づいた春が、本を読む手を止める。

 膝に手をつき呼吸を整えていると、小さめの白いポシェットの中から春は何かを取り出した。

「汗かいてる」

「…ありがと」

 屈んだ春が優しい手つきで額の汗を拭ってくれる。慣れない行為がむず痒くて、私はもういいよとその手を遠ざけた。薄黄色のタオルが額から離れ少し空気が揺れると、ふわりとさわやかな香りが鼻を掠める。春の柔軟剤の匂いはいい匂いだけど、本人の甘い香りとは少し違う。

「なに読んでんの」

「きょうちゃん言ってもわからないでしょ?」

「そりゃあそう」

 くすっと笑った春が読み途中のページへしおりを挟むと、それを合図に二人の足は目的地へと歩き出した。


 たった数分の距離。そこでの会話は学校でするそれとたいして変わりはない。あの先生はあーだとか、あの授業はどーだとか。その話のほとんどに共感を持てなかった私は、あのころ本当に春と同じ教室で過ごしていたのか怪しいところだ。普段寝てばかりの私と春とでは、そのくらい見えている世界も違ったということだろう。


 教室ではやや控えめにしている春が、二人のときは子どものようによく喋る姿が私は好きだった──。


「きょうちゃん!早く!」

 映画館に着くなり、春は嬉しそうに私の腕を引っ張り券売機へと急いだ。

「まじで映画すきじゃん」

「すき!きょうちゃんどこの席がいい?」

「どこでもいいよ、春が観たいとこで」

 本当は後ろの通路席がいい。あまり人が気にならないし、出ようと思えばすぐに出れるし。そのあたりを選びたいところだったが、私は春に任せ、横でぼけっと空席が表示されている画面を眺めていた。


 単純に、どんな席が好きなのかを知りたかったから。


「じゃーあー」

 その指が画面の上をくるくると泳ぐ。

「ここっ」

「お」

 止まったのは、一番後ろの通路席。

「だめ?」

「んーん、さいこう」

「へへ」


 春と私は見た目も中身も正反対だったが、ときどきこうしてピタリとはまる部分もあった。はまらないものも、それはそれでおもしろいと思える許容点であったし、なにより二人で過ごす時間は心地がよかった。春が読んでいた本のタイトルすら気にはならないし、選んだ映画も私の趣味ではなかったが、それでもこの日の思い出を"退屈"という名のついた引き出しに入れようとは思わない。

 お嬢様のような見た目でコメディホラーをチョイスするところも、ポップコーンではなくナチョスを選ぶところも。

 退屈とはほど遠く、今でもこの日の思い出が私の心くすぐっている──。


 春がお手洗いに行っている間、売店で飲み物とそれを購入した私は、フロアのベンチでぼーっと映画のプロモーションを目にしていた。それを真剣に見ていたわけではなく、こんな時間からこんなところであんな子と私は何しているんだろう、と。ひとりになり、我に返っていたのだ。

 当時、私は自分と同じような見た目をした仲間としかつるんでいなかった。もしあいつらと鉢合わせたら、春をどう紹介すればいいのだろうと、そんなことをぼんやり考えていた。

「クラスメイトで優等生で、育ちがよくて……変わった子…?」


 "急に声をかけてきたおもしろいやつ"──このときの私はまだ、春のことをその程度にしか思っていなかった。


 次に春を目にする、その瞬間までは──。


「……あ。」


 広告を見ている視界の端に映り込んできたのは、春の黒いワンピース姿。


 ──そういえば、私服見るの初めてだ。

  

 この日はじめて遠くから彼女を俯瞰的に見て、私はようやくそのことに気がついた。待ち合わせのときはうす暗い日陰にいたものだから、意識していなかったのだ。

 そのときの私の目に映った春のワンピース姿は、心掴むというより、揺り動かすと表現した方が正しいほどに魅力的だった。普段の制服姿も似合ってはいるが、どこか春を私と同じものとして縛る特有のものがある。だが、目線の先で黒いそれに包まれた春は、年相応ながらも大人びた憂いを帯びて、それでいて可憐で…。


 もう、教室で目にしてきた"変わったおもしろいやつ"ではなかった。


 きっとそれがいつもと違って新鮮だったから。

 しとやかな髪が、ゆるりと巻かれているのを初めて目にしたから。


 ──カシャッ──


「撮ったの?」

 私を探し、少し背伸びがちになった春の後ろ姿にスマホのカメラを向けてしまったのは、たぶんそんなところ。

「あー、」

 振り向いたその顔は、幼い子どもを諭すような表情をしていた。

 その視線を受けて言葉に詰まった私はさながら、いたずらがばれた子どものように春の目には映っていたことだろう。

「それ先生に見せるの?」

「いや、見せないけど…」

 どう言い訳しようかと、首筋のあたりを痒いわけでもないのに擦る私を見て、春がふふっと声をあげた。

「盗撮するほどかわいいって思ってくれたんだ?」

「ばっ、ちがくて!」

「かわいくなかった?」

 春が眉を少しハの字にして私を覗き込む。

「……似合ってる、けど…」

 耐えきれず、その視線から逃げるように私は顔を反らした。

 ニヤニヤという擬音が聞こえてきそうな勢いで頬を緩める春。それがおもしろくなくて、私は振り切るように入場口へ急いだ。

「もう、映画始まるから行くよ」

「きょうちゃんってワンピースが好みなんだ?」

「…春、だまって」

 凝りもせずに後ろから投げかけてくる春に、私は振り返ることなくそう言い放った。

 

 そのあとの映画の内容はまったくもって覚えていない。血まみれのゾンビや幽霊が次々出てくるのに、クスクス笑い声が聞こえるような、おもしろおかしいコメディ映画だったとは思う。


 春がナチョスのソースをこぼさないか心配で、ずっと横目で見張っていたこと。

 案の定、始まってすぐ思いきりソースをぶちまけたこと。

 春が慌ててタオルでそれを拭って、さらに被害を広げたこと。


 ほの暗い館内の中。

 スクリーンの明かりに照らされた春の横顔が、きれいだったこと。


 思い出すことといえば、そのくらい──。




 ──なんであの日、黒いワンピース着てたの?ナチョス対策?

 ──んー、どちらかというときょうちゃん対策かなぁ。

 ──なにそれ…。


 後々、クローゼットに白のそれが多いと知って問いかけたときの君の回答は、今考えてもさっぱり意味が分からない。

 つい撮ってしまったその後ろ姿。見返すことはあまりなかった。

 

 いつでもすぐに思い出せてしまうくらい、あの日の君が、私の心に深く刻まれているから──。




 映画のあとからの私は、少し様子がおかしかった。

 あの日の春がなぜか頭から離れず、教室でその後ろ姿を眺める日々が続いた。


 春の席は廊下側の真ん中より少し前の方。対する私は、窓際の一番後ろ。席を選ぶことができた一年次は最高だった。わりと緩かった担任には今も感謝している。あの先生には、身なりすら注意された記憶はないのだから──あの先生には。

 勤勉な春は最初から前の方の席を選んでいたが、何学期になっても私にそんな気が起きることはなかった。

 よって、私は春に気付かれることなく、その背を眺めることができたのだ。


 あの日の春と教室にいる春は同じ。ただ着ている服が、髪型がほんの少し違うだけ。それなのにどうして、私は授業中に寝ることもせずその背を見つめているのだろう。

 そんなことを考えているうち、終礼が授業の終わりを告げると、その日も春が私の席へと近づいてきてしまう。

「めずらしい、起きてる」

「ね」

「……きょうちゃん」

「ん?」

「授業中なにしてたの?」

「えっ、な、なんで?」

「ノート真っ白」

「あー、なにしてたんだろうね…」

「だいじょうぶ?」

「…じゃ、ないかも」

 ふーっと息をつき、その分だけ大きく吸い込む。

 そこに混じる春の匂いが身体中に広がると、私は途端に眠くなってしまった。

「あれ、寝るの?お昼は?」

「んーいいや。でも眠いから春はとなりにいて」

「なにそれ…」

「おやすみ」

「こんな暑いのによく寝れるね」

「暑いから余計なの」

 春の匂いは暖かいほどよく香る。

 気温か高いからなのか、その体温によるのか。


 君のその秘密を私が知るのは、ここからもう少しあとのこと──。



    *********


 

 窓を通り抜けて響き渡る蝉の鳴き声は、その夏の暑さに比例するほどの鬱陶しさだった。だがそれは単に暑苦しいだけではなく、学生にとっては夏休みが近づいている合図でもある。

 夏休み前ともなれば普通は浮かれ放題といったところだが、そんな雰囲気があの教室になかったのは、学期末テストの返却があったからだろう。中学とは違い、高校のそれは勉強のレベルが異なる──と、皆はよく言っていた。どちらもたいして習得していない私にはよくわからなかったが、空気の重い教室を見るにそうだったのだろう。


 ──別に、補習なんて出なければいいのに。


 そんな風に考えていた私があの夏。

 あんなに勉強する羽目になるとは、誰が思っただろう。


 それも、春の家で──。


 そうなってしまったことの発端は、夏休み前の担任との面談だった。

「綴理ちゃん、このままだとあがれないわよ?」

「こんなに授業でてるのにすか…」

「単位が足りてないってこと。あなたテスト全部白紙で出したでしょ…」

「あー、そうすね」

「とにかく補習はちゃんと出ないと!先生も単位出せないんだから」

「まあ…別にもらえなくても…」

「……先生の気持ちにもなってよ綴理ちゃん…」

 と、両者一歩も引くことのない、お互いが面倒だな、と感じている重い空気にすきま風を通したのは、他でもない学級委員。

「きょうちゃん、まだ終わんない?」

 前の扉をガラガラと開けた春が、その空気を断ち切ったのだ。

「まじ終わり見えない」

「科木ちゃん助けてよ、もぉ~!」

「きょうちゃん、先生困らせないの」

 別に断固として補習に出たくなかったわけではない。朝だって、がんばれば起きることはできた──はず。

「なんで補習いやなの」

「…いやとかじゃなくて……」


 春がいないから──。

 理由はそれだけだった。


 学校が退屈なことに変わりはない。一学期をほとんどさぼることなく通えていたのは春がいたからで、春のいない学校に行く理由がわからない。


 ただ、それだけのことだった。


 しばらく黙り込み、その気まずさから首筋を人差し指で擦っていると、見兼ねた春が口を開いた。

「私の家でやろっか、補習」

「……はい?」

「先生、それならどうですか?毎日レポート書かせますし」

「ちょ、ちょっ──」

「課題も他より多く出してもらっていいです」

「は、春!!」

「きょうちゃん、静かに。」

「だってそんな勝手に!」

「きょうちゃん。私もう帰りたいの。わかる?」

 この訳のわからない提案を担任が渋々呑んだことで、私はあの夏、春の家に通い詰めることになってしまった。

 今考えても、そんなめちゃくちゃな話があるか。

「よかったね、補習なくなって」

「いや、なんなら倍なんすけど…」

「いいじゃん、私にも会えるし」

「は?」

「だってきょうちゃん、それがいやだったんじゃないの?」

「……ちが、」

「そう?」

「……てか春んち知らないし…」

 面談終わりの帰り道、いつものように後ろから小生意気を叩いてくる春。

 この時期の二人乗りは──特に前の私には──暑くてだるい以外のなにものでもなかったが、早く帰りたいからという理由であんな意味不明な提案をする春が、夏になっても電車で帰るわけはなかった。

「うん、だから今日覚えて」

「はい?」

「今日は家まで」

「あ?」

「だめ?」

「……駅からどっち」

「ふふ、あっち」

「春の定期代、半分私にちょうだいよ」

「そしたらきょうちゃん、ずっと家まで送ってくれる?」

「…考えとく」

 ここは右、そこは左。コンビニが見えたら曲がって、とか。そんな風に耳元で説明してくる春の声がくすぐったくて。でも、それがなんだか鳥のさえずりみたいで心地よくて。


 うだる夏の暑さも忘れてしまうような、そんな穏やかな気持ちになれた夏の夕暮れ。今もあのときの心の温度を忘れることはない──。

 



 そして夏休みが始まり三日目。

 私はこの日も汗をたらしながら、春の家までの道を漕ぎ進んでいた。

 自転車を飛ばせば15分。それが私の家から、春の家までの距離だった。うるさい夏の日差しを受けてそれを漕ぐには少ししんどい、そんな距離。


 昼間の蒸した暑さを潜り抜け、やっとの思いでたどり着いたころにはすっかり息もあがりきっていた。

 すでに聞き慣れてしまった春の家のチャイムを鳴らすと、乱れた呼吸を整える。低めに髪を結ってきたのは正解だった。そこまで距離がないとはいえ、三十度を超える暑さのなかではその疲れもいつもの倍。今すぐにでもエアコンの効いた春の部屋で涼みたい──そんな私の願いが叶うには、思ったよりも時間がかかっていた。前日まではすぐに玄関を開けていた春が、この日に限ってはそうではなかったのだ。

「……あっつ…」

 しばらく様子を覗いながらも、一向に出てくる気配はない。

「…ねてる…?」

 照り付ける太陽に痺れを切らした私は、連続でチャイムを鳴らした。

 起きろ──と、そう念を送りながら。


 しばらくするとドタドタと玄関の奥から騒がしい音が聞こえ、やっと春がドアから顔を出した。

「きょうちゃんごめん…いまおきた…」

「……」

「きょうちゃん…?」

「あ、あぁ…おはよ、春」

 思いもよらないタイミングで初めて見ることになった春のパジャマ姿に、私はなぜか固まっていた。ちいさなボタンがついた、いかにもな。うすい春色のパジャマは、あれから何度目にしたことだろう。

「春も寝坊とかするんだ」

「あさ、よわいから……ふぁ…」

「ふっ、寝ぐせついてる」

「どこ?」

「ここ」

 よれた寝巻に、ぼさついた髪の毛。本当にさっきまで寝ていたんだなと思える無防備な姿。いつもの春とは、全然違った。

 寝ぐせを直してやると猫のように目を細め、春はまたあくびをこぼす。

「なんか…」

「ん?」

「いつもと逆でちょっと…」

「いつもこうならかわいいのに」

「いつもはかわいくないって言いたいの?」

 鋭い目つきをした《《いつもの》》春が現れたところで、早く中に入れてくれと、それをかわしながら私はドアの隙間に割り入った。


 三階建ての大きな一軒家。それが当時の春の家。

 駅から少し離れたその辺りは、名所の地主も住んでいると噂されるほどの高級住宅街。まわりにも大きな家はいくつかあったが、春の家はそれと比べても格別に立派だった。

 春の部屋は、一番上の階。

 すでに疲れぎみの足をもうひと踏ん張りと持ち上げ、階段を上がる。さわがしい蝉しぐれに混じるのは、そんな二人の足音だけだった。

「今日も春だけ?」

「いる方が珍しいから。夏休みはほとんど一人暮らし」

 だだ広い家の中に、春以外の気配を感じる日はあまりなかった。

「ふーん、うちみたい」

「きょうちゃんちもお母さんたち忙しいの?」

「うーん…春の家とは違う感じで?」

 なにそれ、と笑った春が部屋のドアを開け、一気にもれ出した冷気が体の熱を奪うと、やっと生きた心地がかえってくる。廊下もそれなりに涼しかったが、エアコンの風がどこにも逃げない個室とはわけが違う。

「生き返るー。部屋でけー。」

「きょうちゃんおおげさ」

 三階のワンフロアをすべて使った春の部屋は、もはやマンションの一室と呼べるほどの広さだった。

「この暑さのなかチャリ漕いでみなって」

「そのうち…ね」

「あ、実は乗れないとか?」

「……着替えてくるから、先にはじめてて!」

 それ以上聞くなといわんばかりの目力に押され、私はしっぽりと頷いた。


 後から知ったことだが、幼少期からほとんど自転車に乗る機会のなかった春に、この発言は痛恨の一撃だったらしい。


 ひとり取り残され、春の部屋を見渡した。

 すっきりしているというよりも、雑貨やインテリアの多い洒落た部屋だった。私では手に取らないようなかわいい小物があるかと思えば、レトロな鏡があったり、ぬいぐるみが敷き詰められていたり。ひとつひとつはバラバラなのに、どこかまとまりのあるその部屋は、春のセンスの高さを象徴しているようだった。


「……はぁ…」


 一人になり、私はあらためて感じていた。

 春の部屋に、いるのだと。


 仲間の家に行くことはそれまでも多かった。多かったというよりも、自分の家にいることの方が少なかったのだから、いまさら人の家にあがる程度のことで緊張することはない。

 それなのに三日目にもなったこの日、私は妙にソワソワとして。それが一人で部屋に取り残されたからなのか、気の抜けた春のパジャマ姿を目にしてしまったからなのか──分かりきった原因に白黒つけるのはやめにして、少し落ち着こうと深呼吸をした。

「……意味な…」

 教室よりも強く香る春の匂い。それを身体いっぱいに吸い込んで身体の芯がぎゅっとなり、むしろ悪化するだけだった。

「なにが?」

 ぼやいていたところに戻ってきたのは、いつものその姿。

「あ、春だ」

「さっきまで春じゃなかったみたいに言わないの」

 もちろん変わったというほどではないが、うすい化粧をして髪をまっすぐに整えた春の姿は見慣れたもの──着飾ったいつもの春も好きだけど、朝日に照らされても隣でぐっすり眠る、子猫のような幼い顔はもっと好きだった。

「いや見慣れてるなって」

「そう?どっちがかわいかった?」

「……。」

「あ、どっちもなんだ」

「…早くやるよばか」

 だがこのときの私はまだ、その選択問題に答えを出せるほど自分の気持ちを整理できてはいなかった。

「はい、これ今日の分」

「…またこれやんの?」

「仕方ないでしょ、先生が用意してなかったんだから」

 やるとは言っても、担任から出された課題のプリントは二日目のうちにすべてやり終え、この日からは予備のプリントをひたすら解くという地獄だった。

「きょうちゃんが頭いいのしらなかった」

「別によくないけど…」

「なんでいつもやらないの?」

「目的ないし」

 勉強をがんばったところで、何になるわけでもない。将来の目標なんてこのときの私には微塵もなかったし、成績がよかったところでどうなるわけでもない。

 母や姉を見て、どうせこうなるんだったら無駄なことはやめようと、そうとしか思っていなかったのだ。

「ちゃんとやれば私よりできそうなのに」

「春の方ができるっしょ」

「じゃあ私がきょうちゃんに、勉強する目的あげよっか」

「は?」

 プリントを解いていた手を止め顔を上げると、両手で頬杖をつき、にんまりといたずらな笑みを浮かべた春と目が合ってしまった。


「卒業式も送って?きょうちゃん」


 このときの春の言葉が、私は嬉しかった。

 まるでずっと一緒にいてほしいと、そう言われているみたいだったから──。


「……一人でチャリ漕げないから?」

「きょうちゃん生意気!」

 頭を少し傾けてねだる春を直視してしまい、私はほとんど瀕死状態。それでもなんとかぎりぎりのところでかました反撃は思った以上に春にヒットしたのか、普段澄ましているその顔が慌てふためくのは子どものようでおかしかった。

「いつか春の後ろに乗れるの楽しみにしてる」

「やだ、きょうちゃん重そうだもん」

「…てかこれ毎日くる必要ある?家でやればよくない?」

「いいけど、きょうちゃんが困るでしょ」

「なんで?」

「私に会えないから」

 このあとの春の反撃は留まることを知らなかった。一本取られたことがよほど気に食わなかったのか、私の言葉を詰まらせ続け、インターバルなど与えてはくれなかった。


 そんなこんな戯れているうち、カーテンを通り抜けていた日差しもすっかり落ち着き、その姿を赤く変えようとしていた。

 課題のプリントもあと数枚で予備すら終わってしまう。ゆっくり解くべきか否か。いつもは問題を確認してからそれに当てはまりそうな部分を探すが、文章をすべて読んでみるかと、古典の長たらしい文に目を通していたときだった。

「ねえ」

「わっ、なに…」

 いつの間に移動していたのか、さっきまで机を挟んで向かいに座っていた春が隣りから声をかけてきたものだから、反射的に身を反らしてしまった。

「それ、痛い?」

 春が私の耳を指差す。

「痛くないけど」

「何個あいてるの?」

「いちにーさん…こっちは7?…春もあけたいの?」

「んーん」

 じゃあなんの質問だよと思いつつ、プリントへと目線を戻したところで、その指先が私の耳に触れた。

「ちょ、だから!急に触るのなし!」

「じゃあ触ってもいい?」

「……まあ…どうぞ…」

 別に拒むことでもないか…とそれを受け入れると、再びその手が耳元へと伸びる。来ると分かっていても、どうしてか身体に力が入ってしまう。

 あたたかい指が触れ、ふにふにと耳たぶを弄ぶと、次は二本の指がつまむようにしてその感触を楽しみだした。

「は、はる……そろそろ…あっ──」

 春の指が軟骨のそれを確かめようと、耳輪の淵を滑るようになぞったとき。そのくすぐったさに耐えきれず、私は声をこぼしてしまった。

「きょうちゃん、耳まっか」

「春が触るからでしょ…もうおしまい」

「ねえきょうちゃん」

「なに」

「今日泊まっていく?」


 今でもときどき頭のなかに浮かべてしまう。

 そのときの春の、甘いまなざしを──。


 少し前まで戯れていた空気が、その一言で一瞬にして変わってしまったように思う。

 なにこの空気…と、当時の私は初めて感じる春との甘やかな空気感に、つい。

「………や、バイトあるし」

 と逃げる選択肢を選んでしまった。我ながら心底どうしようもない。

「きょうちゃんバイトしてるの?」

「うん」

「どこで?」

「駅前のライブハウス」

 夕方からバイトがあったのは本当のこと。

 それに、急に泊まらないかと言われても困る──春が相手では。

「じゃあ、明日は?」

「……明日なら、まあ」

 春は身を乗り出して近づくと、二度と私を逃がしてはくれなかった。

「じゃあ今日は許してあげようかな」

「なにを…?」

「なんでもないっ」

 そう言って飄々と机の向かいへ戻っていった春の心が何を思っていたのか、このときの私にはわからなかった。

 さっきまでの空気はなんだったんだよ…と、文句のひとつでも言いたいところだったが、行き場のない思いは言葉ではなく鼓動へと姿を変えて、その日が終わりを告げるときまでずっと私の身体を鳴らし続けていた。


 そのあとの私はたったの一問も問題を解くことができず、ただ解いているふりだけをしながら時計の針が早く進むことをひたすらに祈った。

 そろそろ行かなきゃ──と足早に春の家をあとにすると、まだ早くなる鼓動をごまかすように、いつもより強めにペダルを漕いだ。


 沈みかけの夕日はやけに濃く、その頬を赤く染めていた──。


「あれ、ころ?お前今日19時からだろ?」

「……ちょっと、たばこ吸わせて…」

「いや、家で吸えよ」

 息のあがったバイトが夏休みに一時間半も早く扉を開ければ、店長が顔を歪めるのも当たり前──そのうえ、訳の分からない言い訳を並べていたのだから。

 裏の喫煙所でしゃがみこんだ私の頭には、あの眼差しと、その少し前に解いていた百人一首の内容がいったりきたりしていた。

 

 あれはたしか、十四番歌──。




 ──自転車、本当は乗れなかったくせに。

 ──…きょうちゃんだって、あのあとプリント解いてるふりしてたくせに。

 ──え、気づいてたの?

 ──気づかれてないと思ってたの?

 ──……。

 ──すぐ逃げるし。次の日だって──。

 ──すみません…。

 ──私は八十五だったなぁ。

 ──85?


 それからも君が自転車に乗っている姿を見ることはなかったし、私が君に勝てることもなかった。


 八十五の意味を知るのは、この会話からもう少し後のこと──。




 あくる日、前日の気まずさを残したままの私をよそに、春はなんとないような顔をしていた。

 自分が考えすぎだったのかもしれない。育ちの良い春はただ、今まで触れてくる機会のなかったピアスに興味が湧いて、友人とお泊りをしたかっただけ。きっとそうだ。それより、私と春は友人なのだろうか?たしかに毎日春を後ろに乗せて、時間があれば寄り道をして帰る。休みの日も一緒に過ごす時間は増えているし、こうして夏休みに入ってからもなぜか毎日顔を合わせている。とはいえ、校内で常に同じ時間を過ごしているかといえばそうでもない。私以外のクラスメイトとも春はそれなりにうまくやっているし、面倒な委員会にも参加して他学年との絡みも少々。


 送ってと、お昼を一緒にと。春はなぜそう言ったのだろう。

 どうしてこうも私につっかかってくるのだろう。

「その問題、むずかしい?」

「あ、いや」

 次々に浮かびあがる疑問になにひとつ答えを出せないまま、机の上のプリントをただ見つめているうちにその日もまた日は暮れてしまった。



    *********



「ど?」

「──おいしい!」

「でしょ」

 初めて春の手料理を──というわけにはいかず、春がこのときおいしいと言ったのは私が勧めたカップ麺。トマト味のそれを慣れない手つきでゆっくりと啜りながら、無邪気な笑顔をこぼしていた。

 夕食どうしようか?という春の問いかけに、カップ麺でもなんでもいいよ、と。適当に答えたそれがまさか採用されるとは思わなかったが、ちょうどたばこも吸いたいところだしまあいいかと、二人でコンビニ行ったのがこの少し前。

 即席麺コーナーの前で目を輝かせる人なんて、後にも先にも私は春しか知らない。

「まじで食べたことないの?」

「うん」

「どこのお嬢様?」

「どちらかというとお姫様?」

「…はいはい…」

 お母さんがちょっと過保護なだけ──。

 そう言って春はそのあとも美味しそうにそれを味わっていた。

「あっ…」

「ゆっくり食べないとやけどするよ?」

 ふーっと、湯気の立ったそれを冷ましながら片耳に髪をのけるその姿。

 

 私の箸は宙で置き去りになっていた。


 その仕草に、目を奪われてしまったから──。


「きょうちゃん聞いてる?ねえ」

「え、あぁ…ごめ、なに?」

「明日バイト何時から?」

 その声でハッと現実に引き戻され、ごまかすように慌ててスマホを取り出した。

「明日はー、昼過ぎから」

「じゃあお昼食べに出かけない?」

「なんか食べたいものでもあんの?」

「オムライス」


 のちに痛いほど聞くことになる春の「オムライス」が初めて私の耳に届いたのは、きっとこの日。

 なに食べたい?と聞けば、毎回返ってくるのは決まってオムライスかナポリタン。まるで小学生の男の子のような食の好みがかわいくて。


 そんなところも、好きだった。


「ガキっぽ」

「きょうちゃんだってハンバーグ好きでしょ」

「…なんで知ってんの?」

「お弁当に入ってるといつもちょうだいっていうから」

「ほーん…」

「ねえ、だめ?」

「春が起きれるならいいけど」

「きょうちゃんが起こしてくれるんでしょ?」

「……」

 いつもどおり二人で軽口を叩いているうちに、私のカップ麺の底は顔を覗かせていた──春のそれは、麺が伸びきっていたけど。

 

 夕食の後はあーだこーだとくだらない会話を続けながら、各々自分の時間を過ごした。春は本を読んでいたし、私はスマホで適当なゲームを触ったり外に出て一服したり。活字に向かう春の横顔を覗き見たりと、そんなところ。


 先に入ってという春の言葉に甘え、お風呂を借りたのは23時を過ぎたころだったか。あまりの浴槽の大きさに、温泉かよ…とひとりつっこんでしまったのも懐かしい。

 早々に済ませてお風呂からあがると、持ってきたパーカーへと適当に着替えを済ませた。春の家に私が借りれるような部屋着があるとは思えなかったし、案の定ジャージなど一枚も持っていなかったのだから、家を出るとき床に落ちていたそれを鞄につっこんだのは正解だった。

 入れ替わりで浴室に向かった春を見送ると、私は部屋に戻り本棚から適当に取ったそれを読みながら時間を潰した。

 難しい漢字の並ぶその小説の中身はあまり覚えていない。恋愛を題材としたその物語。タイトルぐらいは私でも見かけたことがあった。恋だの愛だの、こんなものを好んで読むなんてなんとも春らしい。

 そう思った。


 恋愛──それは当時の私には経験のないもの。


 かといって、それらしいことがなかったわけではない。

 不真面目ではあったが、傍から見ればそれなりに賑やかな交友関係はいつもすぐそばにあって、その誘いに乗ることも少なくはなかった。ただ、私の中には恋愛そのものに対する興味がこれっぽっちもなく、そこに特別な感情が生まることは当たり前になかったのだ。

 かわるがわる相手を変える母のように。報われないとわかっていながら、その関係にすがりつく姉のように。

 そう、なりたくはなかったから。


 春が埋めてくれるまでは気がつかなかった。

 当時、自分が空虚感を感じていたことにも、それをごまかすために誘いに乗っていたことにも。


 読んでも読んでも終わりの見えない文字の羅列に目が疲れてきたころ、部屋のドアが開いた。

「ただいま」

「……あ、おかえり」

「なに読んでたの?」

「なんかそこにあった見たことあるやつ」

 本棚を指差し、手の中の本の背を春の方へと傾けた。

「シェイクスピア?きょうちゃん読めた?」

「…なんとなく?」

 ふーん、と。

 どちらでも良さそうな返事をして春はドレッサーに腰をかけると、頭を少し傾けながらドライヤーのスイッチを入れた。


 平然を装っていたが、このときの私に平常心というものは《《へ》》の字も存在していない。


 見惚れていたのだ。春の姿に。

 ドアの隙間から見えた、その瞬間から。


 胸元に小さなリボンのついた短めの白いワンピース。パフスリーブのそれを着たお風呂あがりの春が、どうしようもなく眩しかった。


 ドライヤーの風にそよいだ髪の匂いが部屋中を埋めていく。その香りは自分が浴室で使ったものとは少し違うように思えた。それはきっと、春の甘い匂いがその中に混じっていたからだろう。

 まじまじ見てはいけないと思いつつ、春を見ていたい。そんな相反する気持ちが二つ私の中には存在していた。前者は後者に負け、私は気づかれないよう、髪を揺らすその姿をこっそりと本の隙間から見つめていた。

 潤んだお風呂あがりの彼女がいつもより大人びていたからなのか、その部屋着が心を揺らしたからなのか。

 何に惹かれていたのか、このときの私が理解できるわけもなかった──。


 しばらくしてブォンという音とともにそれが風を止めると、春がふぅっと息をついてこちらへ振り向いた。

 急にその大きな瞳が自分に向けられ、胸がとくりと跳ねる。

「乾かしてないの?」

「伸びたからだるい」

「きょうちゃんせっかく髪きれいなのに」

「こうやってれば乾くっしょ」

 その視線をごまかすように、肩にかけていたタオルを手に取り、雑に髪を拭ってみせた。

「だめ、やったげる」

「い、いいよ…」

 近づいてくる春に必死で抵抗していた私の姿はきっと、超がつくほど滑稽だったことだろう。

「いいからおとなしくして」

「……」

 願いも虚しく、膝立ちで近寄ってきた春に捕まったその図は、さながら飼い主とペットといったところ。

 柔らかい春の手が、そっと髪に触れる。どんな顔をしていればいいか分からず、視線だけを本に戻しながら、私はそれが終わるのをひたすら待った。

「いつから──の?」

「ん?」

 ドライヤーの音で春の声が遮られる。

 頭を少し傾けて"もう一回"と促すと、頬に触れてしまいそうなほど春がその距離を縮めてきた。


「髪、いつから染めてるの」


 耳を撫でたその声に、身体中の熱が中心に集まっていく。


「……小3、とか…」

「ふふっ」

「…なに?」

「きょうちゃんは期待をうらぎらないなーって」

「いや、姉が勝手に…」

「お姉さんいるんだ?」

「まあ…」

「でも黒髪のきょうちゃんも見てみたいなぁ」

「似合わないって」

 なんとか応えないと。

 そうぎりぎりのラインで自然に振るまえていたであろう私が、そこから一気にバランスを崩したのはこのすぐあと。

「──ッ」

「ごめん、痛かった?」

「いや、だい、じょうぶ…」

 それは髪を乾かしていた春の手が、私の耳を掠めたせい。

 別にどうというわけじゃない。触れたわけでなく、軽く当たっただけなのだから。痛いわけでもくすぐったいわけでもない。


 それなのに、私は思い出してしまった。

 前日の春を。その手の感触を──。


「赤くなってるけど」

「…あ、あぁ…暑いから…」

「じゃあ飲み物もってきてあげる」

 また昨日みたいな時間が迫ってくるかもしれない。そう思ったが、春はスッとその場を離れると、颯爽と部屋を出ていってしまった。私の異変に気づいた春が、何かしらからかってくると思っていたのに──。

 今思うと、ここで少し残念なんて思ってしまった私は、このころからすでにもう、春の手のひらのうえに足をおろしていたのだろう。


 なにはともあれ助かった。そう思い、春が持っていたそれを手に取ると、生乾きの髪を自分で乾かした。また耳元で囁かれたら困るし…と、私は寝坊した朝のように必死になって髪をゆすった。


 数分経ってすっかり髪も身体の熱も落ち着いたころ、春がどたばたと部屋へ戻ってきた。

「おっそ」

「待っててくれた?」

「春じゃなくて、お茶をね?」

「きょうちゃんかわいくない」

「…いいから早くちょうだい」

 いつもどおりの二人の距離感に安心しながら手渡されたグラスに口をつけると、思っていたのとは少し違う舌へのアプローチに私は顔を歪めた。

「……これなにちゃ?」

「こぶちゃ」

「…なんで?」

「なんでとかある?」

 常設のお茶の相場といえば麦茶か緑茶だろ。そうじゃなくてもせいぜい烏龍茶あたり。春の見た目なら、ジャスミン茶でもまあ許すのに──突然のこぶ茶は反則だろ…と吹き出した私に春が渋い顔を向けた。

「なに、おいしいでしょ。」

「おいしいけどおもろい」

「どういうこと!」

「どーどー……ふぁ…」

 じゃじゃ馬をなだめるように春をあやすと、そこまでの感情の疲れからかあくびがもれた。

 時計を見ると、時刻は25時になろうとしていた。

「ねむい?」

「うーん、ちょっと…布団敷くのてつだう」

「布団?」

「え?」

「ないよ?」

「…床で寝ろって?」

 自分から誘ったくせに夏とはいえ床で寝かせるつもりなのかと、私は乾いた笑いを吐いた。

 冗談やめてと笑っていると、春が真顔でベッドに指を向ける。

「……なに」

「あるじゃん」

「え、一緒にねんの?」

「だってダブルだし」

「……まじ?」

「きょうちゃん寝相わるいの?」

 そういうことじゃ…と言いかけて春の方を見ると、別に普通でしょと言わんばかりの澄まし顔。提案した相手に助けを求めたのが間違いだったのだ。

「床がよければ床でもいいよ?」

「………ベッドで寝ます…」

 選択肢など、あってないようなものだった。


 人と寝ることに抵抗があったわけじゃない。相手が春だということに問題があったのだ。なぜそう思っていたのかはわからない。いや、分かってはいけないと、きっと無意識に自分をごまかしていた。


 このときには私はもうたぶん、春を。

 そういう意味で意識していたから。



    *********



「ねえ」

「なに」

「いつまでそっち向いてるの?」

「…こっち向きが寝やすい、から…」

 ダブルとはいえ、その距離で顔を合わせて寝るのは相当なあいだ柄でも容易いことではない。

 きょうちゃん奥側ねと、春に言われるまま逃げ場を失ってしまった私は、反対側の窓を見つめながら頼むから早く寝てくれとひたすら願っていた。

「そうなんだ」

 春が納得するなんて珍しい。そう思ったとき。

「痛って!ちょ、はるっ」

 その手が私の左頬をつねりあげた。

 反射的に振り向いてしまった私に、春は満足そうに《《したり》》顔。

「暴君かよ…」

「そういえばきょうちゃんのすっぴんって初めて見る」

 ヒリヒリと痛む頬を大げさに擦っていると、次は指の背がそれを撫ではじめた。

 いったりきたり、何度も何度も。細く長い春の指が、頬のうえを泳ぐように。

「…そんな変わらないっしょ」

「でもちょっと」


 ──幼くてかわいい。

 

 春に他意はなかっただろう。

 でもその言葉に、すでに落ち着きを失くしていた私の胸がとくっと跳ねた。

 ありがたいことにクールだのなんだのと容姿を褒められることはあっても、かわいいと表現する人はいなかった。だから少し照れただけ。ただそれだけと、私は往生際の悪さでまた自分をごまかした。


 パーカーでよかった。

 なんの気ないその発言に染まってしまった頬も、大きめのフードで隠せていただろうから。


「ね、腕枕して」

「は?やだよ」

「いいから」

 強引な君主は私の左腕を引っ張ると、そのまま頭をすり寄せてきた。

 なんてわがままなんだと思いつつ、凝りもせずに私は顔を背けつづけた。

 左腕から伝わる春のあたたかい体温とその匂い。いつもなら眠くなるはずのそれも、この日ばかり逆効果だった。

「…重い…」

 そうぼやく私を無視したまま、春はそこに居つづけ数分は経っていただったろうか。左腕が少し痺れを覚えはじめたころ、その気配が落ち着いた。

 やっと寝たか──と、息をついたとき。

「ねえ」

 春がさらにその身を寄せてきた。

「耳、触ってもいい?」

 私の耳元で、そう囁いて。

「……」

「だめ?」


 春はずるい。

 何かを求めるとき、きまってそう問いかけてくる。

 その疑問形の聞き方は許しを問っているように見えても、結局はどうしたいかを私自身に選ばせるのだ。


「……好きにしたら」

 まるで、私が春を求めているかのように。


 こんなことになるなら、あのとき急に触るななんて言わなければよかった。許可を取られるほうがよっぽど恥ずかしい。


 そう思ってももう、あとの祭り。


 冷房で少し冷たくなった春の指先が、私の耳を撫でたその感触。今でも思い出すたびに胸がうるさくなってしまう。

 

 冷えた指との温度差に、きっと春は気づいていただろう。

 このときの私の頭の中が、春でいっぱいだったということに──。


 熱を持った耳は春の指が今どこにあるのか、知りたくもないことをより詳細に私へと伝えていた。耳たぶから上に向かいゆっくりとその淵をなぞったかと思えば、内側の丸い壁を優しくつまんだり。好き勝手するその指に呼吸が乱れはじめたころ、人差し指が迷いもなく耳孔の中に入り込んできた。


 それはもう、ピアスに興味があるというには、あまりにも道を外れすぎていた。


 春の指が穴の形を確かめるようにくるくると動きまわるたび、音圧が直に響き、どうにかなってしまいそうだった。私の身体から熱を吸い取った春の人差し指とは別に、冷たいままの中指もそこに混じると、もう自分が声を我慢できているのかも分からなかった。

「…は、はるっ…」

「……」

 その指がどちらも同じ熱を持ちはじめ、動きまわっているのが何指なのかもわからなくなったとき、それがゆっくりと私の外へ出ていった。


 息のあがりきった私は、判断力というものがからっきし底をついていた。


 でなければ、きっと思わない。

 横でそしらぬ顔をしている春に、自分も触れたいなんて。


 春に私を、意識させたいなんて──。


「きょう、ちゃん…?」

 まるで長距離走のあとのように浅い息を繰り返したままの私は、くるりと身体を半回転させ、暇を持て余していた右手を支えに春に覆い被さった。


「春だけ、ずるい」

 さすがの春もこの展開を予想してはいなかったようで、突然のことに丸くなった瞳が私を下から見上げていた。この日初めて、まともに目を合わせたような気がした。


 出会ってからその大きな瞳をあんなにも強く見つめたのは、きっとこのときが初めてだった。

 それに──。


「…かわいい」


 そう思ったことも。


 長い一瞬だった。

 勢い任せのその言葉がまるで二人の時間を止めたように沈黙が続く。暗い部屋で音を立てるのは、時計の針と私の浅い呼吸。それに二人の鼓動だけ。


 春に意識させようと、そう思っていたのに。

 意識してしまったのは私の方だった。


 春に触れたい──。

 気づけば私は春の耳に手を伸ばしていた。

「……ん…」

 こぼれ落ちたそのちいさな声。

 私の思考を鈍らせるには、それで十分だった。


 少し熱くなった春の耳に嬉しさのようなものを覚えながら、それ以上に熱い自分の指を滑らせた。むこう側が透けて見えるほどに薄くやわらかいそれ。触れているのは自分の方なのに、まるで触れられているかのように胸の奥が疼いていく。


 けして大きくはないのに、控えめにもピンと立った春の耳が私は好きだった。

 はじめて触れたこの日の感触は、春に小言を言われても忘れることはできなかった。


 私の指先が、ずっと覚えている。

 荒々しく漂うその熱い体温さえも──。


 暗闇におおよそ目が慣れてきたころ、春の様子を覗ってしまったのは失敗だった。私の腕の中でちいさくなって、両手をきゅっと握り締めしながら固く目をつぶり、一生懸命それに耐える春の姿。


 私の頭はもう、使いものにならなかった。


「春」

「……」

「ちゅーしてもいい?」


 気づけばそう口に出していた。

 いいや、口に出したあとも気づいていなかったかもしれない。

 

 私はもう、春のこと以外は考えられなかったのだから。


 私を見つめるその瞳はあまり驚いていなかった。

 まるでそうなることが分かっていたかのように、やさしく目を細めて。

「だめ?」

 春の口癖を真似てそう聞いた私に微笑みながら、そっと瞼を下ろした。


 それを合図に。吸い込まれるように。


 桜の咲く四月。"じゃあ送って"と言った春と出会ってから、たった三か月ほどの夏の夜。

 

 私は気づかないうちに自分の中に芽生えた整理のつかない想いを、それがなにかもわからないままに唇から春へと伝えた。


 はじめて触れた春のそれは何にも表現できないほど柔く、私のすべてを溶かしてしまいそうなほどにやさしいものだった。


 そして私はその感触にやっと気づいた。

 女の子と、しているのだと。

 今までのそれとは違う感触が、潤んだその瞳が、今も私の心に沁みついて離れることはない。


 春の甘い匂いが意識を鈍くして、あふれる吐息も揺れる鼓動もどちらのものかなにひとつわからないまま、月のない暗い夏の夜が二人を包んでいった。


 春に恋をしている──私のそんな想いすらも。

 


 "恋が盲目というのなら、暗い夜こそふさわしい。"



 溶け落ちてしまいそうな淡い意識の中で頭をよぎったのは、春の本にあったそんな一編だった──。




 ──ドライヤーしてるときこっち見てたでしょ。

 ──……。

 ──きょうちゃん鏡でバレバレ。

 ──…じゃあ春だってこっち見てたってことじゃん。

 ──だってきょうちゃん、ずっとソワソワしてるんだもん。

 ──それはっ…。

 ──急にスイッチ入るし。

 ──いや、春があおりすぎなんだってば…。

 ──そこがぼんやりしてるからでしょ。

 ──どこ?

 ──こーこーろ。

 ──…なにそれ?

 ──きょうちゃんもちょっとは本読もうね?


 お茶を取りに行った君が、ドアの前で顔を赤く染めていたことを知るのは、ここからもっと時間が経ってからのお話──。




 翌日、二人の様子はそれまでとは打って変わる──ということは存外なかった。

 夕べの熱帯夜が嘘のように、すがすがしい朝日に照らし出された私と春は、まるで二人の間になにごともなかったかのように同じベッドで目を覚ました。

 おはようと言葉を交わすと、春はまだ寝ぼけていたのか目をこすりながらあくびを一つ。

 すべて夢だったのかもしれない。そう思ってしまうくらいにいつもどおりだった私たちは、家を出るまでのあいだ春の淹れてくれたこぶ茶を飲みながらゆったりと過ごした。


 今思い返しても、もう少し気まづい空気があってもよかったと思う。


 そのまま春がご所望だったオムライスの店へ、電車に揺られること15分ほど。ひんやりとした車内で春の好きな映画の話しをしたり、お店のメニューを見ながらハンバーグもあると騒いだり。そんなふうに窓の外の景色は次々と流れていった。


 私たちよりもはるかに先輩であろう昔ながらの洋食屋──これから幾度も行くことになるとは、このときの私は思ってもいない。

 春はお目当てのオムライスを、私はナポリタンを。ハンバーグもあったけど、なんとなく春が好きそうだと思ったから。

 案の定、出されたそれを目で追いかけ、一口ちょうだいと予想どおりのことを言う春に私は吹き出した。


 そこまではよかった。


「きょうちゃん食べさせて?」

 空気が変わったのは、春のこの一言から。

「…自分で食べたらいいじゃん」

「スプーンしかないもん」

「あー…」

 まあそれならと、適当にフォークに巻き付けたそれを春の口元へ持っていったとき、淡く染まるそれが視界に入り私の手は止まってしまった。

「きょうちゃん?」

「……」

「食べたいなあ?」

「あ、ごめ」

 固まる私に早く食べさせろと圧をかけた春は、ひな鳥のようにナポリタンを一口でぱくり。

 見るなと思いながらも、私はどうしてもそのうすい唇から目をそらすことができなかった。

「ねえ」

「へ?」

「見すぎ」

「あぁ…あー、なにを?」

「全然ごまかせてないし」

「あー、あぁ?」

「…でも、おぼえてるならいい」

 そう呟き目線をオムライスに戻した春を見て、私はやっと昨夜のことが現実だったのだと思い知った。


 いきなり覆い被さったうえにキス?それってやらかしてない?春はいいっていったけど…いや、言ってはないか…え、なにしてんの…?


 そんなふうに心の中で自問自答を繰り広げながら、出会って日の浅いクラスメイトに、そのうえ同性のお嬢様のような子に手を出してしまったことを認識したせいで、私の頭は容易くパンクした。

 とにかくなにか、なにか春に言わないと。

「あの…昨日、えーっと」

「うん、私はおぼえてる」

「えーっと……忘れてもらえたり、する…?」

 焦りながら絞り出した私の"なにか"は、まったく話にならない赤点以下のゴミ回答だった。

 過去に戻れるというなら、私は迷わずこのときを選ぶだろう。いいや、必ず選べ。

「忘れてほしいの?」

「でき、れば…?」

「…いいよ、忘れてあげる」

「…ごめん」

 春の顔をまっすぐ見れないまま、すっかり味のしなくなった赤いそれをかっこんで、バイトのため春とはそこで別れた。別れ際も春はいつもと変わらない様子だったから私もそれ以上なにも言わず、不安定な空気感が二人を包み込んでいた。

「あ、そうだきょうちゃん」

「ん?」

「明日から一週間くらい来なくていいから」

「んえ?…なんで?」

 距離を取られたのかと身体がこわばった。

「おばあちゃんのとこに顔出すの」

「あー…、そっか。」

「じゃあまたね」

「ん」


 いつもの春なら寂しい?とか、聞いてきそうなものなのに…まあとにかく春が忘れてくれると言ったんだから私も忘れることにして、今日来るバンドのことでも考えよう。そうやってつっかえたものを水で無理やり流し込むように、私は気持ちをバイトへシフトした。



    *********



「ころ、今日めっちゃやる気あんじゃん」

「ころじゃねーっての…時給あげてよ」

「ほんっと生意気なくそがきだわ。ねーちゃんそっくり」

 普段やらないような雑務に手を出すことで忙しさを飾り、バイト先ではひたすら気を紛らわせた。同世代の昔馴染みや、やんちゃな先輩、いつまで経っても私の名前を覚えようとしない店長。

 

 春以外の人と久しぶりにくだらない時間を過ごし、私は思った。

 そうだ、こんなんだった──と。

 

 春に出会うまでは適当な人と適当に過ごしながらこうして一日を潰していたのに。近頃の私はどうも春のことばかりを考えすぎで、それがきっとよくなかった。明日からしばらく会えない時間が続く。その間、春のことを考えるのはやめよう。そうすれば、この胸のよくわからない靄だってきっと消える。そう自分に言い聞かせた。

 

 今思えば会わない日ではなく、会えない時間──そう感じている時点で、私の心はすでに自分の気持ちに気づいていたのだろう。



 定刻より10分ほど押して、その日のライブは幕を開けた。

 ライブハウスでバイトをしていた理由は、規則が緩かったのもあるが、一番の理由はバンドの演奏を無料タダで見れるということだった──幼いころから私を"ころ"と呼びつづける店長が、受験を勧めてきた姉の友人ということもあったけど。

 名前があってないようなバンドが多い中、この日のバンドは大当たり。割と名の知れた曲も多く、客足が落ち着いてきた3曲目の途中、私もその重い扉を身体で押し開けた。

 まるで別の世界に入り込んだかのように、一瞬で熱気と爆音に襲われるその"始まりの瞬間"が私は好きだった。重たい扉を一枚押すだけで、自分のいた世界を置いて自由になれる。まるで生まれ変わるようなその瞬間はいくつになってもたまらないもので、大人になった今も私は子どものように胸を躍らせながらその瞬間を楽しんでいる。


 適当に開いている端のスペースに身を置いて、ほらよと店長に渡された緑の瓶に口を付けた。

 ──あの人、私がいくつなのか分かってんのかな。まあ、分かっててもやるんだろうけど。

 そんなことを考えていると、ドライブぎみに歪みを効かせたギターのイントロが聴けよと言わんばかりに鳴り響いて私の意識を戻す。しっとりとした前の曲から雰囲気の異なるそれは、まるでこじ開けるように4曲目をかき鳴らした。耳によく馴染んだその曲に夢中になって、ギターのフレーズやドラムのリズムキープに目を奪われる。


 いつもの私なら、そのはずだった。

 

 だがこの日は何曲目を迎えてもその傾向が見られることはなく、うす暗いそこで一人になった私の頭に浮かんでくるのは、たったひとつ。


 ──春、今どうしてるかな。


 麺を啜るのが苦手で一生懸命にカップ麺と格闘していたその姿。お風呂あがりの艶めいた白い肌に、しなやかな髪。こぶ茶を笑ったことに膨れたその顔、耳を撫でた指の感触。熱い息づかいも濡れた瞳も、首もとから香る引き込まれそうな甘い匂いも。


 胸の奥底にこびりついて、離れなかった。


 耳が痛くなるほど唸る爆音も私の心には響かず、ライブに集中することは叶わなかった。そんな経験、このときが初めてで、この先もきっと起きえないだろう。

 

 私は目の前の演奏をぼーっと見つめ、それをただの風景にしながら考えていた。

 

 このまま何もなかったかのように、春と元の関係に戻るのか──と。

 でも、じゃあ。元の関係って、一体なんだろう。私と春は、どこに戻れるというのだろう。春はどうして私につっかかって。私は春とどうなりたくて──。


 見えそうな答えまであと少し。立ち込める靄がそれを邪魔していた。

 


 "ここにいてもなにひとつ変わらない、きみに届きたい"



 そのときステージから聞こえてきたその歌詞が、私の霞んだ思考を晴らした。

 

 なにがどうとか、理由なんてどうでもいい。

 そんなこと、後からだってどうにでもできる。だから、だから今はただ。


 春に会いたい──。

 

 それを、それだけを背負って、私は気づけば箱の重い扉をこじ開けていた。

 まるで自身の心をそうするかのように。


「ころ?おまっ、何して──」

「ごめ!チャリ貸して!」

「あぁ?…ったく、時給さげっからな?ほれ」

「ありがとう成留なる!!」

「呼び捨てすんなくそがき」

 雑に投げられたその鍵を受け取ると、明日埋め合わせるから!と、つい昔馴染みの呼び方をしてしまった店長に頭を下げて私は必死で車輪を転がした。


 昨日の春を、忘れたくない──。


 かるい風が吹き抜ける夏の夜。その気持ちをペダルに乗せるように、無我夢中で自転車を漕いだ。

 ちりぢりとした雲を風が洗い流して、降りそそぐ月あかりが照らしたのは私のたしかな恋ごころ。

 

 高校一年の夏、私ははじめて恋を知った。



 ──キーッ──


 通り越してしまいそうな勢いで春の家に着くと、急にかけられたブレーキが不満そうに声をあげた。それを無視してスタンドに足をかけると、一本足のそれは錆ついていたのかうまく言うことを聞かなかった。

 ──成留のやつ、こんなときにオンボロよこすなよ…。

 私は春に会いたい気持ちを焦らすそれに、同じくチッと不満を返してやった。


 自転車との格闘にも決着がついたところで、馴染んだインターフォンに手をかけた。

 春に会ったらなにを伝えよう──そんなことも考えていないまま勢いでそれを鳴らした私の耳に、プツッ─とスピーカーの切り替わる音が届いた。

『はい?』

「あ、春、急にごめん。ちょっと昨日のこと話したくて…」

『ええっと、春ちゃんのお友だち?』

「あっ、えっ?」

 春の声とその母の声。

 今の私でもそれを聞き分けることは難しいのだから、このときの私がそれをできないのは当たり前。スピーカー越しではなおのこと。

「春あの、ごめん、私その──」

「きょうちゃんストップ!!」

 春がふざけているだけ。そう思い込み話し続ける私を止めたのは、玄関のドアを乱雑に開けた他でもない春本人だった。

「あれ、春…?」

「はぁ…きょうちゃん、なにしてるの…」

 階段を駆け下りてきた様子の春は、息を整えながら呆れた表情で私を睨みつけた。

「え、だって、今」

「それ、お母さんだから…」

「……へ?」

『こんばんはっ』

「……あ…こんばんは…」

 これが私と春の母との、初めての会話。

「お母さん、もういいから…ちょっと出てくる」

 遅くならないようにね?というその声から逃げるように、春が私の手を引いてスタスタと歩き出した。

 その背中が何を思っているのか分かりそうで分からないまま、私は春のあとをただ着いて歩いた。


 春の家から少し歩いた場所。2分ほどの距離にある路地裏の小さな公園は、そうと呼べるのかも分からないほど遊具もなにもないところだった。あったのはベンチと、もうしわけ程度の砂場だけ。

 今でもたまに訪れてみたくなるほどよく通ったそこで春は足を止めると、振り向いて口を開いた。

「くるなら電話して」

 引き続き、私を睨んだまま。

「親いると思わなくて…ごめん」

「明日からでかけるから、戻ってきてるの」

「……気をつけます」

「それで、なにしにきたの」

「あーえっと……」

「…長くなるならそこ座って」

 ライブの開演は20時。そこから考えると、そのときの時刻はたぶん21時を過ぎたくらい。お風呂を済ませていたのか、春の格好は短いショートパンツにゆったりめのカーディガン。足元は急いで出てきたのが分かるサンダル。ため息をこぼされても、私には責める資格なんてありはしなかった。

 言われるままにベンチへ腰を下ろすと、隣に座った春が少し屈んで私の顔を覗き込んだ。

「で、きょうちゃんはなんできたの?」

「……会いたくて…」

「だれに?」

「…春に」

 春は顎の下に手をつきながら頭を傾け、私に一つずつ答えを探させた。

 まるで、毎日の補習の時間のように。

「それはどうして?」

「……それは…」

 春と離れた数時間、頭の中に浮かんできたことは山ほどあったのに、いざその大きな瞳に見つめられると私はうまく言葉を紡げなかった。ここまできても、自信がなかったのだ。自分の心が痛いほどに揺れ動くこの想いが、本当にそれなのかどうか。

「…答えられないならいい、私明日早いから」

 うじうじとした私に痺れを切らした春がベンチを立つ。

「春──!」

 私は咄嗟にその手を掴んだ。

 ここでまた別れたら、きっと後悔する。

 そう思ったから。

「きょうちゃんと話すことない」

「私はある…昨日のこと、忘れられない」

「……忘れてって言ったくせに…」

 ぼそっと呟いた春が足を止めた。

 振り向かないその背はかすかに震え、壊れてしまいそうなほどにちいさかった。きゅっと結ばれた手に、風に揺らいだ長い髪に、そのすべてにまた心が揺り動かされる。





「春」





 私は夜風にそっとためらいを手放すと、春に向かって一歩、その想いを踏みだした。













「──彼女になってほしい」










 口から出ていったその言葉は、なんとも格好つかずなガキのそれ。

 でも、やり直せると言われても、私は同じ台詞を言ってしまうだろう。


「…どうして?」


「好きだから」


「…だれを?」


 振り向いた春の目に溜まった涙が、苦しいほどにきれいだったから。

 こぼれ落ちた小さなしずくが、月あかりに輝いて見えたから。




「春が好き」




 だから私は何度やり直せるとしても、きっとこのだらしのない告白をしてしまうだろう。 

 たとえ春にやめてと言われても、そのいとおしい顔を見逃すことなんてできるわけがない。



「……ばか」

「ごめん」

 春は答えるの代わりに私の胸に飛び込んで顔を埋めた。 

「キスしたくせに…」

「うん」

「忘れられるわけないでしょ…」

「うん、私も」

 泣きながら私の胸をポカポカと叩く春がかわいくて、私はされるがままにそれを受け入れていた。

 こんなに嬉しい痛みは、うまれて初めてだった。

「ヘタレだし、気づくのおそいし…」

「うん…ん?春いつから私のこと好きだったの?」

「……きょうちゃんなんかきらい…」

 月が赤くなったその耳を照らして、素直じゃない春に私はもう一度。

「春、彼女になってくれる?」

「……私、付き合ったらめんどくさいかもよ…?」

「いや、もう十分…」

「なに?」

「なんでもないです…」

 春がいたずらにクスっと笑い、私もそれに応えるように微笑みかけた。


 私より背の低い春が、丸い瞳で私を見上げ、頬を伝う涙をそのままにはにかむ姿。


 それはもう、言葉にしようもない。



「ねえ、春」

「うん?」

「ちゅーしてもいい?」



 まるでお互い答えなんてわかりきっているように、見つめ合って瞳をかよわせて。



「だめっていったらきょうちゃん我慢できるの?」

「──…できない」

 


 私はまた、その甘い匂いに誘われ吸い込まれていった。

 そのちいさな存在が腕の中に在るのを確かめるように、月が照らす私と春の影が重なった。


 照らされた恋ごころを両手に抱えて、好きという気持ちをそこから注ぐように。

 その心に、私の想いが届くように──。



    *********



「きょうちゃん大丈夫?」

「なにが?」

 どのくらいそのやさしい時間が過ぎていったのか。短かったのか長かったのかも曖昧なその時間が過ぎていくと、公園の砂利を黒く染める影は徐々に二つに戻っていった。

「明日から私に会えなくて」

「……まあ、だめなんじゃない」

「…今のもう一回言って」

「やだ」

 家まで送る途中の道で、少しくらいは素直になろうと、私が返したその言葉。それに春はめずらしく動揺していたように思う。

 聞こえなかった!と駄々をこねるその手を取ると、離れてしまわないようにぎゅっと手繰り寄せた。


 二人の想いが、夏の夜風に流されてしまわないように──。



 ──きょうちゃんなにで帰ったの?



 春を家まで送り届け緊張の糸がすっかり解けた私は、届いたそのチャットを見るまで自分が自転車を置いてきたことにも気づいていなかった。

「あんた成留美なるみのチャリどこほっぽって……て、けむっ。窓開けて吸えばか」

「痛っ…叩くなよ…」

「明日ちゃんとチャリ返しなよ、おやすみー」

 ただうす暗い部屋の中で、震える手と心をその煙でごまかすように燃えかすを増やし続けていた。


 窓の奥に見えた月は、今まで見るどんなそれよりも大きく、まぶしかった──。


 


 ──忘れてって言ったの、一生忘れてあげない。

 ──あぁー…。

 ──ほんときょうちゃんって

 ──わかった!きょうは夕飯いいとこ連れていくから!

 ──ほんと?じゃあオムライスがいい。

 ──また…?

 ──なんか言った?

 ──いーえ。


 翌朝、寝る前のこと覚えてる?と連絡した私に"きょうちゃんじゃないんだから忘れるわけない"と。

 そう返した君が寝不足だったことを知るのは、また別のお話──。







 たいていの物語にはプロローグというものが存在する。

 日本語でいえば序章であるそれは、本編の前置きともいえる重要な部分──そう君はよく言っていた。


 きっと、私と君とを物語にするのなら、つまらない世界が色づき始めたこの日までをそう呼ぶのだろう。


 夕暮れの温度も、空の匂いも、月の静けさも。


 君のせいでそのすべてが愛おしくなってしまった、ここまでをきっと──。

 

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