煙に隠れた一輪の夕顔
見覚えのある、知らない天井。
レース越しに入る朝の陽射しで、目が覚めた。
視界に映る雑多な紋様は、少し灰色の混じった白で規則的にも思えるけれど、よく見ると全て違っていた。
天井のシワを数えていればすぐ終わるなんて聞いたことあるが、確かに飽きることはなさそうだ。誰が最初に思いついたかは知らないが、本当によく言ったものだろう。
下らない思考を払いのけ、まだほんのり眠い眼を擦り、上半身を起こしながら軽く伸びをする。
ようやく覚醒してきた脳に視界が映したのは、自分の家ではない誰かの部屋だった。
「あれ? なんでここに……」
そして、同時に肌と毛布が直接触れている感覚に違和感を持ち、視線を落とすと上半身に何も纏っていない姿で寝ていたことに気がつく。咄嗟に毛布を捲り、下半身も確認するが、案の定何も着ていない。
ついでに、何かの痕跡が残っていないかも一瞬のうちに探したが、特に何も見当たらずに少しばかり安堵した。
それでも朝一番からの衝撃は大きい。朧げな記憶の中で、一糸纏わぬ姿で、他人の部屋で、目が覚めたという事実に思考は混乱し果て、無意味な憶測を幾つも立て始める。
記憶がないまま、誰かと一夜を過ごしたのだろうか。
流れに任せて、何かしてしまったのではないか。
それとも、自分の身に何かが起きて助けてもらったのか。
あるいは、誰かに拐かされてしまった恐れもあるか。
そんな慌てふためいている僕を見て、微笑んでいるかのような香りが窓際から聞こえる。
この枯葉が焦げたような、鼻に残る嫌な匂い。ただ同時に、どこか大人びていて、木のニュアンスが残っている落ち着く香り。
「お、やっと起きた。大丈夫? 二日酔いになってない?」
ガラガラっと網戸が開き、ベランダから戻ってきたのは、いつも通り格好をした彼女だった。
「あ、えっと……」
“二日酔い”という言葉、かすかに残るお酒の記憶、そして目覚めたこの部屋とその主人である彼女の姿。
一応、おおよその見当はついたのだが、それでも頭痛と混乱でスムーズな受け答えができるほどには脳が回復していなかった。
「あっははっ。その様子だと、やっぱ記憶飛ばしてるねぇ」
部屋着姿でベッドの端に腰掛ける彼女は、近くの机にライターとタバコの箱を置いて、こっちを見つめた。
そんな彼女の姿に、女性的な曲線のその体に僕の目は釘付けになってしまう。特に、こうして身体の側面を向けられると、足から腰、お腹から胸、首元から顔と、色々気になってしょうがない。
意識的か無意識的か、その姿に見惚れない男はこの世にいないと言っても過言ではないだろう。
「まぁ、安心していいよ。あんたがゲロっちゃって汚れた服を脱がして、今乾かしてやってるから」
彼女は親指で廊下に続く扉を指差す。正確には、その奥の脱衣所を。
そう言われて気がつく、微かに聞こえる水と機械の回る音。ここまでくれば、事の顛末を察することができた。
おおよそ、調子に乗って酒を飲んだ僕が、よくも分からないまま連絡し、心配した彼女が様子を見にきたら潰れていて、仕方なく彼女の部屋にあげようとしたら、道端で吐いてしまい、服を汚したため、汚れた服を洗濯し、顔を綺麗にしてもらって、ベットに寝かしつけてくれた、と。そんなところだろうか。
「大丈夫だって。いくら私でも、あんたに手は出してな——」
そこまで言いかけた彼女は一瞬言葉を止めた。
刹那、僕は思わず、毛布を胸元まで引き、全身を縮こめる。これまでのことを思うと、言い淀んでいる時点で何かあったと疑わざるを得なくなった。
「まぁ、芯がなかったし、ある意味で面白そうではあったかな」
ギョッとした。
確かに、男で遊んでそうな軽い口調と情熱的な過去の話を思い出すと、最低でもしっかり見られていてもおかしくはない。
「あっははっ。冗談だよ、冗談。相変わらず、反応面白いなぁ」
お腹を抱えて笑う彼女に少しムッとしたが、なんだか楽しそうな笑顔を見ているとそんなに悪い気がしないのも不思議だ。
気がつけば、「笑うなよ」と少し拗ねてみたりして、毛布で隠した口元は緩んでいた。
それからいつも通り何があったかの答え合わせをして、再び顔を赤らめているうちに、洗濯と乾燥が終わり、まだ少し機械の暖かさの残る服を着た。
「少しは反省しなさいよ。次はないからね?」
そんな念押しまで喰らった。
「はーい。なんか今度お礼するわ」
そう言って、荷物を持ち、玄関へと向かう。
くたびれた革靴を履き、荷物を背負ってポケットを叩いて、忘れ物がないかを確かめる。
そうして、帰ろうとした時、玄関に飾られていた白い花の蕾を見つけた。
「前に来た時、こんなのあったっけ?」
見送りに来た彼女は僕が指差した先を見ると、そっと微笑んだ。
「あぁ、最近買ったの。夕顔の花だよ」
綺麗なその蕾に魅入られそうになったが、ポケットに入っていた携帯が帰りを急かす様に鳴り震える。
彼女はため息をつきながら、それでも笑顔で僕の帰りを見送ってくれた。
「またね」
その言葉を残して。
*
気がつくと、知らない天井。
店内に響く煩い音楽と、寄った人々の大きな五月蝿い声に意識が戻る。
木目調のクロスに、規則的に交差する木材の柱は落ち着く空間を演出している。せめてここが静かだったら良かったのだが、流石に金曜日の夜でそれを居酒屋に求めてはいけないだろう。
目線を落とした手元には空になったグラスが置いてあった。
「あれ? 僕のホッピーは……」
氷も半分以上溶け、十数分放置されていたような結露がテーブルに輪染みを作っている。ほんのり熱い体に耐えきれなかったのか、胸元のボタンは緩められていた。
まだ中身の残っている手元の小瓶を見ると反射的に、「中おかわり」と口が開きそうになるが、限界寸前の身体が抑えにかかる。理性を忘れそうな脳が軽い目眩と吐き気で無理やりブレーキをかけてくるのだ。
流石に耐えきれず、また放心状態にシフトさせた。
そんな僕の姿を見て、呆れたような声色の香りがすぐ隣から聞こえてくる。
メンソールの効いた水蒸気のようで、ベタつきが残る嫌な匂い。けれど、少しフルーティーで、しっかりと煙のニュアンスが残っている香り。
「少しは水でも飲みなよ。ほら、大丈夫? ほんっと弱いんだから」
聞こえてきた言葉に、目を横に向けると、いつも通りのお洒落をした彼女が座っていた。
「店員さーん、お水二つ。あと、伝票も先もらっていいですか?」
軽く身を乗り出し、手を挙げ、大きな声で奥にいる店員に告げる彼女。やっぱり彼女だ。
そんな安心感に、理性はゆっくりと体に力を入れ、口から入った水を武器に、全身に回るアルコールの分解を早めるように肝臓を動かす。
「あれ? なんれ……」
自分では、「あれ? なんでここにいるって分かったの?」なんて言おうとしていた。それもそのはず。今日は一人で飲みに来ていたのだから。
だが、呂律は回らず、言葉もたじたじで最後まで言う気力もなくなっている。
「ふふっ。何年の付き合いだと思ってるのさ。ヤケ酒する場所くらい知ってるよ」
そんな僕の姿でも、いつもと変わらずにお猪口を一口飲んで、頬杖をつきながら彼女はそう言う。あどけなさの残る童顔に負けず劣らずの大人の色気。
あぁ、今なら彼女に惚れてしまうかも、そんな風にも思える。
恋愛感情さえ、あれば。
なんとか体を起こして、机に残っていた白い冷奴を食べる。お腹がぐるぐる回っているようだが、それでもおろし生姜と醤油のさっぱり感が欲しくて仕方なかった。
「さて、じゃ、お会計も済ませたし、そろそろ帰るか。今日は、悪いけどタクシーにぶち込ませてもらうからね」
気がつけば、いつの間にか席を離れ、また気がつけば、今度は上着とバッグを持っていた。そのまま、店内を後にし、夜風にあたる間もなく、店の前のタクシーに乗せられる。
「運転手さん、すみません、この場所まで彼を。お代は……あっ、そうです。じゃあ、すみませんが、お願いします」
慣れたやりとりで、意識が覚束ないまま、タクシーの扉は自動で閉まる。同時くらいで、居酒屋の自動ドアも閉まった。
そして、彼女は見送りだけして、車は動き出す。
「またね」
その言葉だけ残して。
*
見覚えのない、知らない天井。
静かな空間で、掛けられた声で考え事から意識を戻す。
暗くてあまり見えないが、こだわりのありそうなコンクリートの天井は間接照明で程よく店内を照らしている。
ただ、照明が近い部分は照度の高さで色は白飛びし、コンクリートの味が消えているように思えなくもない。
「あれ? ごめん、なんの話だっけ……」
少し気まずそうに隣の人影に聞き返してみる。
机の上に置かれたコースターはゆっくりと中身のなくなっていくグラスによって濡らされており、ランタンが揺れる灯りで艶やかに照らしていた。
そんな目線を下げていた僕の様子に、呆れたような吐息とも取れる香りがすぐ隣から聞こえてくる。
メンソールの効いた水蒸気のようで、ベタつきが残る嫌な匂い。けれど、少しフルーティーで、しっかりと煙のニュアンスが残っている香り。
「全く。私が珍しく真面目な話をしてるってのに、聞いてないなんてひどーい」
ゆっくりと真正面に目線を上げると、そこにはいつも通りのお洒落をした彼女が、お洒落なグラスを片手に拗ねた顔をして座っていた。
「少しは雰囲気のいい店に連れてきてくれたってのに、肝心のあんたがぼーっとして、どうすんのよっ」
空いた左手でおでこに一発。なかなかに痛いデコピンを貰ってしまった。お陰で、少しは目も覚めたのだが。
どうも最近は不幸が続いている。商談の失敗に、納期の遅れ、決算書の報告ミスに、確認漏れの会議資料。どれも自分で防げたミスならこうして鬱々とした気持ちになることはないのだが、急遽再編されたチームで起こり、それも全て当日に発覚した上司のミスともあれば、どうもやるせない。
それで、仕事に疲れた様子に見兼ねて「デートの予行練習だ」なんて突然彼女は言ってきた。とはいえ、気を遣ってくれたのだから少しはお礼をしようと、前々から目をつけていたお洒落なバーに来たのだが、どうもまだ上の空だったのが戻っていないらしい。
「最近はまた、大変そうね。けど、女の子の前でそんなんだと、モテるものもモテないわよ」
グラスを置き、大きく一つ吸って、ふぅーっと吐き出した煙は雲のように立ち上っていった。
「ごめんごめん。でも、こうして誘ってくれて嬉しいよ。うん。ちょっとは気晴らしになったかも」
ロックグラスに入っているウイスキーを一息に飲み干す。
高いお酒だと、なんとなく酔い方が違う気がするのだ。こう、ほんのり身体が軽くなり、なんでもできてしまいそうな感覚に。
今なら、その場の流れと雰囲気で、勢いに任せてしまえそうに。
「まっ、たまには女の子と遊ばないと、デートの仕方さえも忘れてしまいそうだからね」
とは言っても、案の定、そう上手くいくはずもない。自分の中にあった「もしかしたら」と思う気持ちは、彼女の悪戯心に溢れる一言でかき消されてしまった。
自分の気持ちは分からない。
いつも誘われるがままになってしまっている。
だけれど、たまには自分で誘ってみてもいいのかもしれない。
そんなことをふと思った。そう、思ってしまったのだ。
これが間違いだとも知らずに。
「前飲んだ時はタクシー代まで私が出したんだから、ここは持ってくれるんでしょうね?」
不穏に溶ける氷を他所に、チェックをして、地下からいつもの帰り道に上がる階段を軽い足取りで登る。
そして、路線の異なる駅に向かって、互いに背を向けて重い足取りで歩き出した。
「またね」
その言葉を残して。
*
この場限りの、知らない天井だ。
枕元に置いたスマートフォンのアラーム音に体を起こす。
豪華にも見せるような照明が備え付けられた暖色系のクロスを貼られた安物の材質は意識するものなんていないだろうと言わんばかりに所々燻んでいる。
シャンデリア風に飾られてはいるが、電気がつかなければただの置き物にしか思えない。
「あれ? もう時間に……」
今夜、過ちを犯した。
一夜だけの過ちで、一生に一度の大切な経験。それなのに、終わってみると期待以上の高揚感はなく、肩透かしを食らったようになる。
多くの人が通るとはいえ、あまりの呆気なさで気持ちの整理がつかなかった。
言葉にならない実感のなさに、呆然としていた僕の様子に、知らん顔して一人涼むような香りが少し奥のソファーから聞こえてくる。
この紙が焦げたような、重く息苦しくなる嫌な匂い。ただ同時に、どこか儚げで、自然な葉のニュアンスが残っている不思議な香り。
「どう? 初めてって言っても、大したことはなかったでしょ?」
透かした表情で、ソファーに深く腰掛けたまま、こちらを見ているのは、いつもとは全く違う格好をした彼女だった。
「練習って言っても、楽しませてもらうもんは楽しませてもらったし、私は満足だよ」
そう思ってもないだろうに。
言葉と違うことを思っている時は大抵、いつもよりペースが速くなる。きっと、さっきは不慣れな僕に合わせてくれたのかもしれない。
いや、間違いなく、合わせてくれていたのだろう。そうとしか思えなかった。
「あ、その……ありがとう」
キングサイズのベットから起き上がって、真っ白なシーツの上に散らかった下着と足元に畳まれた服を手に取り、着替え始める。調整できない照明は、いきなり明るくなり、軽く目が眩んだ。
「ありがとうって……なんだかそう言われると恥ずかしいな。って、そうじゃないでしょ? 一肌脱いでくれた女の子にかける言葉は」
よく見ると、吸って吐くペースはいつもより気持ち早い程度ではなく、間違いなく早い。
いくら細いものとは言え、それくらいの変化なら分かる。相当早いということは、一体どれだけ機嫌が悪いのか。
それにしては、少し嬉しそうなのが気がかりでもある。
恋愛感情が分からない僕でも、彼女の温かさは、しっかり記憶に残った。
あの柔らかさと温もりと、まっすぐな目線は、忘れられない。言葉にならない不思議な感情と共に。
「やばっ。ほら、ゆっくりしてないで、時間時間」
夜もいい時間に、休憩程度で入ったせいで、話でもしようとしたのだが、あまりゆっくりできなかった。
急いで帰りの身支度を終わらせると、入口の精算機で会計を済ませる。そのままフロントに鍵を返すと、そそくさと後にする。
「しゅ、終電は……ま、まだ間に合いそう、だね」
早足で歩いていたお陰か、無事に駅までたどり着いて、「最終」と書かれた時刻が電光掲示板に表示される前に改札を通れた。
ただ、運動の後の運動で息が上がっていたこともあり、途切れ途切れになりながら喋ってしまう。それだけではない。自分では平然としていたつもりが、いざ終わって冷静になると、今度は動揺が隠しきれなくなっていた。
そんな姿はもちろん、格好の笑いの材料で、彼女は爆笑していた。無論、彼女は息一つ上げずに。
「ふぅ、面白かった。それじゃ、私はこっちからの方が早いから」
そして、ホームに上がるエスカレーターは別々のものを使う。
「またね」
その言葉を残して。
*
いつも通りの、知らない天井。
シャッターの隙間から入る南からの陽光に目を覚ます。
毎日見ているのにも、何故かこう新鮮に感じる時があるのは、きっと誰かが共感してくれるだろう。オフホワイトで、隅にはよくわからないシールが貼られているのはよく知っているのだが、浮かび上がるしわはいつも違って見えた。
「あれ? もうお昼……」
そう呟きながら、すぐ横に置いてあるスマートフォンの画面を二回タップして表示されたのは、十二時四十三分の文字。一瞬の焦りが全身に鳥肌を立たせるが、日付の横にある“(日)”という文字で落ち着き、また目を閉じる。
そんな僕の姿を見て、バカにするかのような優しい香りがキッチンから聞こえてくる。
「二度寝じゃ飽き足らず、三度寝でもする気?」
寝室の扉を開けて、早々に罵倒を繰り出したのは、もういつも通りになってしまった格好をしている彼女だった。
「ほら、起きて。せっかくいい天気なんだから、出かけるよ」
手を引っ張られ、起こされる。せっかくの休日だというのに。
ベットでのんびりできずに、少しお洒落な服を選んで着替えて、普段は使わない準備をしてから、外へ遊びに出る。本当に、とても嬉しい。
「歩くの早いって。ちょっと待ってってば」
追いかける僕。
「ヤなこった」
にやけ顔で先を歩く彼女。
「荷物重いんだからさ」
大荷物の僕。
「男なんだから、頑張りなさい」
ポーチ一つと、帽子一つの彼女。
「全く……」
少し呆れて、とても楽しい僕。
「後もうちょいで着くから」
とても楽しくて、少し呆れている彼女。
あぁ、もしかしたら、これが幸せなのかも。
恋愛感情はあまりよく分からない。けれど、友人ではなく、パートナーとして彼女が隣にいてくれたら。そう考えてしまう。
きっと、僕には彼女しかいないのかもしれない。
ピンクに染まる道と、淡く澄んだ空と、青々しく飾る低木たちと、自由に飛び回る鳥や虫たちと、美しく舞い散る桜。
いつしか、忘れていた。
仕事の辛さも、日々の憂鬱も、人間としての自信のなさも、独りの日常も。
あっという間だった。
あれほど職場で暇を持て余して、一生にも感じた四時間も、彼女と話して歩いて、公園で遅めのランチを食べて、帰りの道を歩いているうちに、とっくに過ぎてしまう。
恋、なのだろうか。
親の愛情なんて知らない僕が、誰かの優しさを愛情と見紛えたのか。
それとも、これが恋愛というのだろうか。
遊びにしては楽しい。
彼女の香りがとても好きで、記憶に残る。とても聞いていて幸せな音楽のように。
道端に咲く、白い夕顔のように。
*
キキーッ、ドンッ。
「誰か、救急車を」
「早く車を退けて」
「おい、さっき男の人と女の人の二人が確か……」
「とりあえず、警察にも」
「大丈夫ですか? 意識はありますか?」
「バイタルチェックします」
「搬送先はまだ見つからないのか」
「はい、到着後、すぐにオペ室に向かわせます」
*
知らない天井だ。
真っ白な、知らない天井だ。
隣には、誰もいなかった。
誰もいなくなっていた。
冷たくて、悲しい、記憶と香りだけを残して。