二度と眠ることはなかった
あの夜以来、ハジメにとって眠りは贅沢なものになった。目を閉じることなく横たわり、緊張した体で「それ」を待ち続ける。しかし「それ」は決して来ることはなく… そう思った瞬間、やって来るのだった。説明はできない。ただ、暗闇の中で何者かの視線が自分を捉えているのを感じた。
明かりをつけても、戸を鍵で閉めても、その感覚は決して消えなかった。
そして、ついに聞こえ始めた。
囁き声。
最初はかすかなものだった。遠く風に紛れる微かな呟きのように。しかし、夜を重ねるごとに、その声は次第にはっきりとしていった。
リカだった。
「…ハジメ… ハジメ…」
最初の本能的な反応は、耳を塞ぐことだった。これは疲れのせいだ、ストレスのせいだ、喪失の痛みが生み出した幻聴に違いない、と自分に言い聞かせた。しかし、その声は決して止まらなかった。
どこに逃げようとも、どんなに耳を塞ごうとも——
彼女は必ず見つける。
絶望したハジメはある夜、家の祭壇へと駆け込み、線香を灯し、手を合わせた。
「頼む… もしそこにいるなら… 何が望みなんだ…?」
返事はなかった。
静寂の中で、ロウソクの炎だけが淡く揺れ、彼の荒い息遣いがそれを乱していた。
—— その時だった。
冷たい風が部屋を駆け抜け、ロウソクの火を吹き消した。
そして闇の中、不気味な音が響いた。
ポタ… ポタ… ポタ…
ハジメは目を上げた。
—— 彼女がいた。
月明かりに縁取られ、ぼんやりと浮かぶ姿。
濡れた髪がぼそぼそと肩に張り付き、青白く変色した肌を覆っている。着物はずぶ濡れで、黒ずんだ液体を床に滴らせていた。窪んだ目が、異様なほど大きく開かれ、執拗な愛を湛えながらハジメを見つめていた。
ハジメの心臓が締めつけられる。
—— これは妻ではない。
これは家だ。
リカの体があり得ない角度にねじれ、不自然な動きで近づいてくる。ハジメは後ずさるが、足元が沈むような感覚に襲われた。
暗闇が彼を包む。
空気が重く、息が詰まる。
逃げようとするが、足が動かない。
冷たい指が顔をつかんだ。
「ハジメ… 一緒に来て…」
リカの唇が不自然に歪み、ゆっくりと笑みを浮かべる。その口元から黒い液体が垂れ、ハジメの顔に滴り落ちた。
鼻を突く悪臭が広がる。
よどんだ水と、腐った肉の匂い。
息ができない。
溺れている。
水の中にいるわけでもないのに——
叫びたいのに、喉は黒い液体で塞がれていた。
視界が歪む。世界がぐるぐると回る。体の力が抜けていく。
そして、最後に見たのは——
愛したはずのリカの笑顔。
だが、それはもう笑顔ではなかった。
飢えに歪んだ、獲物を喰らう者の顔だった。
三日後の朝、彼の遺体は森の中で見つかった。
木に吊るされた状態で。
目は血走り、見開かれたまま。
口は半開きで、最後の叫びを残そうとしたようだった。
これは一体、どういうことなのか?
その日の夕方、ハジメの遺体発見の知らせを聞いた近隣の人々は、悲劇に見舞われた黒沢家の子どもたちを救い出そうと家へと向かった。
家の前に集まり、ナオトとユイの名を呼ぶ。
扉を何度も叩く。
—— だが、返事はなかった。
勇気ある者たちが中へ入ろうとした。
だが、何かがおかしい。
どれだけ叫ぼうと、どれだけ戸を揺すろうと、子どもたちは出てこなかった。
まるで、こちらの声が届かないかのように——
まるで、別の世界にいるかのように。
ある者は言った。
「ナオトが台所に立っていた。だが… 何も見ていないような目をしていた。ただの影のようだった。」
また、別の者はこう証言した。
「ユイがカーテンの隙間からこちらを見ていた。口をぱくぱく動かしていたが、何を言っているのかは分からなかった。」
ただ一つ、確かなことがある。
—— 家は空っぽだった。
本当に… 空っぽだったのだろうか?