最後の風呂
ある夜、リカは特に疲れを感じていた。一日中、家の隅々まで掃除していたのだ。まるで、廊下の埃を掃くことで、じっと見つめられているような不快な感覚を拭い去れるかのように。ハジメはまだ町から戻っていなかった。仕事で遅くなるのだ。ナオトは自室で本を読み、ユイは無表情の人形を畳の上で遊ばせていた。
子どもたちを寝かしつけた後、リカは緊張をほぐすために風呂に入ることにした。熱い湯に身を沈め、目を閉じると、ほっと安堵のため息が漏れた。
しかし、その静寂は突如として破られた。
湯が黒く染まり始めたのだ。
タールのように黒く、ねばついた液体が湯船の底から湧き上がり、リカの肌を包み込んだ。心臓が激しく脈打つ。慌てて手で払いのけようとするも、それは生きているかのように彼女の指に絡みつき、離れない。立ち上がろうとしたが、四肢が異様に重く、まるで何かが彼女を見えない深淵へと引きずり込もうとしているようだった。
恐怖に胸を締め付けられながら、彼女は鏡に目を向けた。そして、その瞬間、喉が凍りついた。
鏡に映っていたのは、彼女ではなかった。
そこにいた「リカ」は、目を大きく見開き、無音の悲鳴を上げていた。その肌は膨れ上がり、不気味なほど青白かった。まるで何日も水に沈んでいたかのように。
足元から何かに引き込まれる感覚。
逃げなければ。
だが、体はまるで言うことを聞かなかった。
次の瞬間、暗闇が彼女を飲み込んだ。
翌朝、ハジメは風呂場で彼女を見つけた。
リカの体は冷え切っていた。顔には、この世のものとは思えぬ恐怖の表情が張り付いていた。
リカの死は、家族を絶望へと突き落とした。
ナオトは悪夢に悩まされるようになった。
そして、ユイも変わった。言葉を発することをやめ、ただ庭へと続く戸の前に座り、かすかに何かを呟きながら、ゆっくりと体を揺らしていた。
ある夜、ハジメは彼女を見つけた。壁に額を押し当て、じっと立っていた。
「ユイ… 何をしているんだ?」
ユイはゆっくりと振り向き、虚ろな目で囁いた。
「ママがいるよ」
ハジメの血の気が引いた。
ユイの言葉が、呪われた祈りのように、彼の脳裏で何度も何度も繰り返された。
「ママがいるよ」