七幕 正義と悪
第七幕 正義と悪
リハオユを失って途方に暮れる虎ちゃんを、オリバーが一度協定を結んだものとして激励を送る。ヒントは得られなかったが、僕はベロニカの救出を諦めてはいなかった。その旨をオリバーに伝えると、四時までにこの場所へ来てくれていれば問題は無いと言い残して去って行った。仲間として戦う時間が過ぎ去ってしまえば、僕をめぐって口論が始まるかとも思われたが、オリバーの人間性が良かったことによって要らぬ心配となった。そして、商店区域での騒動もオリバーによって既に解決されていた。オリバーが僕らの元へ駆けつける前、殴られた護馬人に金を渡して騒ぎを治めるようにと指示していたのだ。護馬人は快く承諾したと言っていた。オリバーの口から聞いただけで事実確認はしていないが、ここ二時間で軍と思われる人物は見かけていない。ここが無法地帯の闇市であるからという可能性もあるが、今はオリバーを信じることにした。それから、エクリプスの元へ戻って今後の方針を定めることにした。エクリプスは眠りから覚めており、元気に虎ちゃんを迎えた。それを見た虎ちゃんの表情は少しだけ明るくなる。
「済まない。俺自身、これからどうベロニカを見つけ出して良いのか分からない」先刻と同じように下ばかりを見続ける虎ちゃんに叱咤する。
「そうやってすぐに感情に身を任せるなよ。僕はまだ諦めちゃいない。虎ちゃんがボスへ報告しないという方針を貫くなら、僕は聞き込みでもなんでもやろう。まだやりようは幾
らでもある」
「…ああ。そうだな。ベロニカを諦めるという選択肢は無い」
闇市の時とは異なり、僕の言葉を聞き入れてすぐに呑み込んだようだ。決意が早く、迷いも少なくなっている。一方僕は、暫く歩き続けていたせいで体のあちこちが痛くなったので、首を起こして背伸びをする。無数の星々が遠くの祭りを楽しむように顔を出している。
その星を切り裂くように旋回しながらこちらへ近づく影が一つ。
「虎ちゃん。上見て」
その影は次第にこちらへと降下し、遠くで浮かぶ月よりも大きく視認出来る頃に、ようやくその影が鳥であると理解した。その鳥は虎ちゃんの肩へと着陸し、黒い瞳で僕の眼球を捕らえる。その姿は鳩にも見えるが、翼は闇に紛れる漆黒だ。背には紙が紐で巻き付けられており、虎ちゃんは手際よく解いていく。
「なんだそれ」
「伝書鳩だ。飼い主一人を覚え、その飼い主の指示に従って手紙などの文書を届けるのに用いられている」
鳩か烏かと言われれば確かに鳩であるが、もっと別の名前があっても良いのではないだろうか。知っている鳩とはイメージが違って気持ち悪い。
「虎ちゃんが飼っているの?」
「いいや。飼い主は別人だ。この鳩は一度顔と名前を教えれば、その人物を覚える。覚えさせた人物の名前を伝えるだけで、文書を確実に渡してくれる。厄介なのは、飼い主以外が指示しても、ただの馬鹿鳥になる点だな」その言葉を理解したのか、伝書鳩は虎ちゃんの肩に噛みつく。
「この鳥っ!」
文書を渡し、虎ちゃんに罰をくれてやって満足したのか、伝書鳩は甲高い鳴き声を発しながら月へと帰った。その様子を見届けている間に虎ちゃんは文書を読み進めていた。紙の端へと目が進むに連れて顔が強張る。間違いなくベロニカが絡んでいる内容だろう。
「どうした」
問いかけても返答は無い。
「おい強面くそ旦那」
相変わらず青い顔を固まらせたままだ。気性の荒い彼が無視するとは、ただ事ではないのだろう。その文書を手から引きはがし、内容を読む。
「これは……」
確かに酷な要求だ。午前四時に下記の場所へ訪れ、僕とベロニカを交換するという内容だった。一番の被害者は僕であって、隣で未だ青く染まっている彼ではないように思える。ヒントを失った虎ちゃんにとってはベロニカを失うよりも、僕を引き渡す方が明らかに得策だった。虎ちゃんの組織が僕に限定する理由も不明だが、僕ではない誰かを利用すれば良いだけの話だ。重大ハプニングかと思われたが、至ってシンプルな話である。盗まれたベンツを自転車で取引出来るのだ。何がそんなに問題なのだろうか。浮かび上がる各々の問題に、明確な解決策は出なかった。虎ちゃん側の思惑が不明瞭な現状では、取り敢えず身近な問題を解決し、流れに身を任せるしかないと結論付けた。そのためにはまず、この情けない男に気合を入れてやらねばならないと、脚に力を込める。
「おい!どうすんだこれ!」
直立したまま動かない膝を蹴りつけると、彼は痛みと共に我に返ったようだ。
「ちゃんと文章読んでんのか?ベロニカを渡す代わりに僕を渡せって言ってるんだぞ。なんか細かい事情はよく分からないけど、虎ちゃんからしたらお得な話なんじゃないのか。それに、僕らに選択の余地は無いみたいじゃないか」
文の締めに、僕を渡さなければベロニカを殺すとあった。付録として、ベロニカの時計と場所を記載した地図が包まれていた。時刻は二時半丁度。集合場所は山奥。
「お前はそれで良いのか」
「ああ。ベロニカを助けると決めた時から、命を張っている」
僕の生存はベロニカの死を意味する。約八十年の時間を無為に過ごして尚、新しい命を貪るゾンビと、まだ僕の半分も生きていないベロニカ。そしてベロニカの命は、虎ちゃんや彼女の両親、仲間といった数々の命に繋がれている。命を天秤に掛けるのかなどという不毛な問いかけも、この状況では問われた皆が答えを揃えることだろう。当事者の僕でさえも、トロッコが乗るレールに分岐は無いと諦めが付いている。先ほどの覚悟はどこへ行ったのか、虎ちゃんは情けない面持ちで小さく頷いた。不安や焦り、恐怖といった負の感情が、嵐で吹き荒れる海のように押し寄せてきているような顔つきだ。その荒波に呑まれていては旦那失格だ。
「海に出る時は必ず天候を読め。技術を磨け。そうやって人は、神頼みでは無く自力で航海をする。でもそれでも、神の暇つぶしで天が荒れた時、人は神に暇つぶしをやめてくれとせがむのか。神は人がどうやって難を乗り越えるかを楽しみにしているから悪戯をする。培った経験と技術で荒波を乗りこなそう」
自分らしくもない、宗教勧誘の謳い文句なようなセリフを吐いてしまった。これほどまでに人を励ますことの難しさを感じたことは無かった。今日初めて出会った人物に、君は良くやっているだとか、これまでの功績を振り替えろだとか、そういった昔話は出来ない。薄っぺらな見え見えの励ましになってしまうからだ。神の教えや空想の世界をモチーフに話を生み出す宗教は、見知らぬ人を導くことに関しては理にかなっている。
「分った」
元居た世界でならば鼻で笑われていたであろう言葉に返事が届いて安堵する。
「お前には叱られてばかりだ」
口角を上げるも、歯は見せない。その小さな笑顔だけで意を決したことが伝わった。幾度も感情の波を乗り越えて、ようやく騎士たる足取りで奪った馬に乗馬する。続いて僕も、虎ちゃんに手を引っ張られながら一思いで飛び乗る。
「覚悟を決めるんだ。ベロニカを必ず助け出そう」
「ああ。だがその前に、お前に話さなければいけないことがある。馬が違うから多少荒い走りになるかもしれん。振り落とされないように俺の前でしがみ付いてろよ」
馬の首筋によじ登り、その僕を左腕で自身の腹部に固定する。虎ちゃんの姿勢に合わせて前のめりに倒れた。馬から落ちて死んだら天国でベロニカにシバかれてしまうと思い気を引き締める。僕が大勢を整えたのを確認してから、虎ちゃんは足掛けに固定されたライトを点灯させて前を照らす。
「行け!」
合図と共に手綱が空を切る。馬は号令を感知して盛大に走り出した。
「で、その話さなければいけないことってなんだ」
人の声が遠ざかり、山道へ差し掛かる手前で、風の音に負けないように腹から声を出す。この体になってから、無理に筋肉を強張らせても反動が来ない。若い肉体というのはそれだけで素晴らしい財産だ。
「この件はボスには報告しない」
「部下のミス一つも許さない奴なのかそいつは」
「寧ろその逆だ。部下のミスは何としてもボスが体を張ってカバーする」「それなら協力を仰いだ方が良いだろう」
「いいや、どうして手紙の相手が俺たちにこれだけの時間をくれたのか考えろ」
「目的地まで一時間半掛かるから…ならそんな含んだ言い方はしないよな」
「まず今回の作戦」
虎ちゃんが言い終える前に、地が抜けたような感覚に襲われた。刹那、首と体が真逆に飛ぶ衝撃を食らう。
「大丈夫か!?」
自分の身に何が起きたのか理解できずとも、先ほどまで真後ろにいたはずの男が離れたとこから叫んでいることは分かった。それと同時に激しい痛みが年老いた精神を逆撫でする。癌を麻薬で黙らせていた分が一気に押し寄せるような全神経の主張。それは、未だ自分が生きていることの証明だった。
「生きてる!」
拷問で感じた波打つ痛みとは違い、一瞬の痛みを堪え切ればあとはアドレナリンが僕を助けるだろう。
「虎さん!敵襲です!」
僕の後方から聞き覚えのある声と、二頭の馬が近づいてくる音が聞こえた。状況を理解しようと、先に自分の体を確認する。
「何だよ…!」
イライラしたら声に出る癖は健在だ。首筋に痛みが残るが、首は正常に動いている。出会った人物はケイ、ヴァン、サモス兄弟、リハオユ、虎ちゃん、ベロニカ。そして後方を駆ける虎ちゃんの取り巻き二人組。出っ歯で小柄なおっさんと、長細い体にしゃくれ顎の青年だ。脳もきっと異常は無い。
目線の高さは地面とほとんど平衡で、体は大の字に倒れている。多少切り傷はあるが出血は多くないことを確認してひとまず安堵する。右を見ると、崖に落ちそうな馬を引き上げる虎ちゃんの姿があった。馬とライトは共に無傷だ。ゆっくりと起き上がろうと膝を着き、ふと左を見て、僕が軽傷だった理由が分かった。田舎のバス停にある待合所のような建物があり、びっしりと土袋が収納されていた。バス一台は止められそうな横長の建物に敷き詰められた土袋は、道へ転がらないようロープで固定されている。奇跡的にここに衝突したお陰で大事には至らなかったのだろう。
「次が来るぞ!」
全て聞き終える前に、僕の体は宙に浮いており、あっという間に数メートル前へ進んだ。
「大丈夫か!?」
虎ちゃんの取り巻きが僕を担いだのだ。馬と横に並ぶ僕の後ろで、大人の頭一つ分くらいある岩石が砕け散った。この男が数秒遅れていたら、今頃粉々だった。一瞬の怯みも許すまいと、立て続けに崖から岩石が降り注ぐ。
「俺が前を走ります!虎さんと則さんはがきんちょさんを守りながら反撃の準備をお願いします!」
無造作に立ち並ぶ木々の間を、人を殺さんと石を持ったかのような流星が流れる。その星々を避けながら細身の青年が僕らの前へ出る。三頭の馬が先頭から順に雄叫びを上げて勇猛果敢に突き進む。僕が地に投げ出されてからのほんの数秒で、張り巡らされた死線を何度も潜り抜けた。どこで死んでも不思議では無かった。人は誰しもが死ぬ準備をして死ぬのではないと悟る。その漠然とした未知なる世界が僕の思考を妨げる。
「聞いてるか小僧!」
爆音が一瞬だけ鳴り止んだ時、微かに僕を呼ぶ声が聞こえてようやく我に返った。いつの間にか馬の背に腰を付け、背中は男の胸に密着していた。
「お前のことは則が守ってくれる!でもなぁ!一から十まで世話はしてやれないぞ!」再び隕石が落下してくるが、今度は驚くほどの轟音では無かった。つまり、位置エネルギーから運動エネルギーに変換される値が少ないということだ。上り坂は曲線を描き、今度は僕の右手に山が来ようとしている。
「この先に敵がいる!」
「そうだ!ここからは銃撃戦だ!」
銃の撃ち合いが始まる。その人が積み上げてきた全てが簡単に失われる場面。映画で何度も興奮したシーンだ。非現実だと思って観ていたやり取りだ。僕の人生には起こり得ないはずだったスクリーン上の出来事だ。でも、どこかの時代で、世界のどこかで、どこかの知らない誰かが、本当に体験したことだ。
「お前は考えろ!何も知らない自分が、自分のことを何も知らない奴に守られるんだ!だから突破口を考えろ!俺たちの仲間に加わりたいなら、俺たちのリーダーの作戦を遂行して見せろ!」
その一言で、今日一日に起きた一連の騒動に引っかかりを感じた。ケイの作戦目的は売人を捕らえること。そのために僕のような少年が必要だった。急遽ターゲットを変更し、得体の知れない僕を作戦に加えようとする。僕は赤い髪の女に詰め寄られ、ケイが隠し持っていた銃で脅して形勢逆転する。二組に分かれ、それぞれのアジトへ向かう。
「位置を絞れ!」
虎ちゃんの合図と同時に則が発砲する。岩石の轟音で耳が慣れたのか、銃声に驚きはしたものの思考が麻痺することは無かった。銃口は左手側、つまり崖側に向かって発砲された。木の葉が赤い飛沫を上げて重力に逆らう。間髪入れずもう一発放たれ、弾は葉が散ったことで露わになった枝の根元に食い込んだ。その枝には重いものを支えるためなのか、何重もの紐が括り付けられていた。その支えの部分は、銃弾が撃ち込まれて脆くなったことで、耐え切れず不格好に両断された。するとその位置から横一列に、大量の岩石が落下する。敵はこの場所に予めトラップを仕掛けていたのだと理解した。太めの枝にロープを結び、その先端に岩石を括り付けていた。それを切って落とすことで、僕らの頭上に、簡単に流星群を降り注ぐことが出来たということだ。
「確実に、正確に僕らを殺すためのトラップ…!」
「元は前を狙って!」
先頭を走る元は、則の号令で前方の木々を狙って三発撃ち込む。葉と木の陰で人は見えない。一体何を頼って狙いを付けているのだろうか。しかし、則の時とは異なり人の血液は紛れていなかった。
「小僧!俺たちは撃つので精一杯だ!お前が指揮を取らなきゃ数で負ける……!長年生きてきたんなら、この場の誰よりも物事の判断は上手だろう!」斜め後方から再び無茶な要求をされる。
「さっきから考えろだの判断しろだの馬鹿言うな!僕の生きていた世界とこっちじゃまるでちがう!」
暗闇を照らす小さなライト。光の輪は外に行くほどぼんやりとしてしまい、まるで視界が狭まったかのような感覚に陥る。円の外側は見えていないかのように認識してしまう。先ほど引っかかった何かが、視界には入っているはずなのに見えていない状態と同じように感じる。視野の広さは選択の幅だと誰かが言っていた言葉が脳裏を過る。暗がりに転がり落ちる何かの正体が分かれば、現状が打破出来るような気がした。襲撃を乗り越えるだけではなく、僕が奴隷として働かされることも逃れられると直感が囁いている。見逃しているのはほんの些細なことだと思った。
「それでもお前なら出来る!根拠は無いが、きっとまた助けてくれるって気がする!」幾度も聞いた大声によって、ライトはシャットアウトされてしまう。しかし、彼の言葉によって昔の記憶が蘇る。
中学生の頃から、人を観察し続ける癖が出来た。父親の足音や声色は然り。虐めていた奴らの表情、登校時の声色、こちらへ近づこうとする足の動き、周りの女子の囁き声。生活の全ての物音が、自分を守るための情報だった。早朝で不機嫌だと分かったらトイレへ隠れてチャイムが鳴るのを待った。僕の席へ近づく人間が誰なのか足音で判断し、漫画本やノートを盗られないように隠した。女子が集まり始めたら、奴らが力を見せつけようと僕に絡む合図だ。そういう時は決まって隣の女子に助け舟を求めた。僕を庇ってくれと。負けず嫌いな僕は悔しくて、どう仕返ししてやろうかなんてことばかり考えていた。人の痛みも分からない馬鹿な奴らに、こんなに苦しくても頑張っている自分を理解しない親に、将来負けてなるものかと勉強し続けた。しかし、人はそう馬鹿じゃないと気づいたのは、体が言うことを聞かなくなってからだった。ベッドの上で、あの不良男子が卒業式間際に僕に謝罪した場面を何度も思い出していた。彼の周りには、いつの間にか誰もいなくなっていた。僕は嬉しくて仕方が無かった。だが、どういうわけか、彼と話す機会は少なくなかった。ペア学習で、昼休みで、放課後で、彼は僕に絡んでいた。僕が弱い人間だという認識で、舐められていたからだと思っていた。しかし、卒業式のあの日、彼は確かに、本当は友達になりたかったと言ったのだ。僕は驚きの余り、返事を返すことなく惚けていた。その出来事の直後、友人が僕を取り囲んで彼を遮った。子供だった僕は深く考えていなかった。体が衰え、何も行動することが出来なくなってから、彼は僕に助けを求め、僕は友人に助けられていたのだと理解した。不良男子よりも、心優しい僕に人が集まることが自然の摂理ではないことを理解した。ありがとうも、友達になろうも言えずに終わったあの頃を悔いた。肉体が健在ならば、会いにでも行けただろうかと妄想を膨らませていた。
今も昔も、周りには僕を守ろうとする人がいた。そして今、僕の体は老いていない。視力も良く、頭の回転も速度を取り戻した。僕を痛めつけた挙句、助けを乞う人間がいる。あの場面と同じだ。ベロニカを助けるために励ましていたが、今は彼の命も救って見せよう。これも何かの縁なのかもしれない。
「虎ちゃん!後ろのカーブに向かって発砲しろ!」
読みが正しければ、敵は後ろだ。僕らへ向けて岩を落としたのは間違いなく今いる地点だ。彼らは崖に生える木々を利用して身を隠していた。則もそれを理解しており、木の葉や枝に人為的な跡が無いか目を光らせていたのだろう。それを見逃さない動体視力と、一撃で仕留める射撃の腕は相当なものだ。元は単に外してしまっただけなのか、それとも敵は崖の下へ降りたのか。あの時、僕が衝突した土袋の山は表面しか見ていない。その土袋の奥に、人や馬が待機できるスペースがあるのだとしたら、奴らは僕らを挟み撃ちにしようと息を潜めているだろう。
「当たった!」
則が歓喜の声を上げる。読み通り、敵は馬に跨って列をなして坂を駆け上がってきた。その先頭に運良く命中したのだ。当然ながら後列は追撃を警戒し、飼い主を失って右往左往する馬と落下する人間をかわすことに気を取られ、僕らを追う速度は遅くなる。さらにもう一発放つ隙が生じる。
「もう一発だ!」
僕の号令より早く銃声が聞こえた。今度は人間へ直撃はしなかったものの、馬の脚を貫通したようで、ライダーは暴れ馬によって振り落とされ、再び後続が躓いた。
「元!木に隠れていたのは後ろの奴らか!?」則が速度を上げて元の隣へ並ぶ。
「間違いない。俺が撃った時には人影は消えていたからな」
「そうか。ただ、敵の数も分からない現状じゃ、どのみち殺されてしまうぞ」八方塞がりと言いたげな二人に虎ちゃんが追いつく。
「お前たちは何をやっていた!」
二人は僕をちらちら見ながら虎ちゃんに返答をする。
「すいません。商店街へ入った時点で人混みに呑まれてしまいました」
則が申し訳なさそうに謝る。彼らはオリバー共々、僕らを付けていたのだ。
「何かあった時の為にってことだったのに意味無いだろ」
「すみません。とりあえず今はこの峠を越えることを考えましょう」
則が右カーブを外側から大きく曲がる。則に代わって今度は元が返答した。
「これからは七曲がりの道が続いて移動が困難になる。敵はそこで決着を付けようとするだろう。さっきのように状況を見て舵を切れ」
「虎ちゃんって僕を信じているのかいないのか分かんないよな」
「黙っていろ」
直線の道へ入ると、五百メートル進んだところで先ほどとは比にならない急カーブが見えた。速度を落とさなければ横転は必然と思えた。敵に挟まれた場合、減速しているところを抑えられてしまうと危惧する。岩石を回避したときのように強行突破が成功するとは思えなかった。
ふと、ベロニカから受け取った十万円を思い出す。ベロニカのお金は攫われた時点で四十万円だった。犯人がベロニカと十万円の差があるのだとしたら、そいつの持ち金は最低で五十万円だ。またはベロニカの五十万円を知っており、六十万円を用意している。五、六十万円もあってなぜ僕を直接捕まえようとしないのだろうか。わざわざ敵を増やしてまで交換という形を摂ったのだろうか。
「僕が必要なら敵はどうして直接僕を攫わなかったんだ」
「そんなこと俺たちに聞くな」
敵の目的を考える材料になり得ると思って質問したが、虎ちゃんはあっさりと流してしまう。則や元も反応しないので、その疑問は一旦置いておくことにした。思考が一向に纏まらず、マルチタスクをしているような気分の悪さを感じる。
「じゃあ先に目の前の危機を回避することに専念しよう。虎ちゃんと子分たちのお金を全部合わせると幾らになる」
「五十万だ」
「五十万!?」
確か、虎ちゃんの持ち金が約十万円なはずだ。なぜ子分たちの方が金を持っているのだろうか。
「富豪は誰だ?」
「二人とも二十万ずつ持ってんだよ」
「おいおい…虎ちゃんが子分じゃないか…」
「色々あんだよ」
この話をするのは少し嫌そうだ。これ以上追求しないでくれと顔に書いてある。彼らの関係は色々と気になる部分があるが、何にせよ幸運だった。
「俺の分も合わせて六十万か…。よし。作戦があるんだけど、捨て身の策だ。下手したら反撃出来ずに一方的に殺されることになる」
後ろから則が僕の方に手を置いた。振り返ると、握り拳に親指を立てて笑っていた。元もこちらを向いて同じポーズを取った。
「打開策を講じなければどの道屍になる。満場一致だな」
最期に虎ちゃんの許可と思える発言があり、作戦を端的に説明した。話し終えると同時に、馬は最低限の減速をして頭を左に振る。今度の直線にも敵の姿は無かった。上から岩石も振ってこないし、木々の中から発砲してくる様子も無い。
予想通り敵は峠道の折り返し地点で待ち伏せているのだろう。山の頂上に出来るだけ近い場所で待ち構えていれば、僕たちの援護にも地の利を生かせるからだ。基本的に上から撃ち下ろした方が強いのだ。僕の推測が正しければ、敵は下から攻撃してくることはない。「ここで待機だ。下からじゃこちらの動きは木と葉で遮られて見えないはずだ。このカーブを曲がり切られる前に誰か一人でも抑えるぞ。問題は誰がやるかだ」
覚悟のある人間はいるだろうかと三人を見るが、全員が決意に満ちた顔をしていた。誰一人として怖気づいてはいなかった。これから死ぬのかもしれないと感じさせることの無い、堂々たる表情だ。皆、ベロニカと同様に僕の半分も生きていない。人生これからだろうに、どうして恐怖を感じていないのだろうかと考えてしまう。
「何をそんな不思議そうな顔をしてるんだよ」元が僕の頭に手を乗せる。
「がきんちょさんは透けるやつ使って逃げてくれや」
彼はそう言い告げると手を離す。そして、自分のポケットから、小さく丸いフォトフレームに入れられた写真を取り出して僕に渡した。小さな女の子を両手に抱いた元の姿と、その後ろで三人を包む男女が映っていた。
「俺の妹と両親だ。もしも失敗したときは、そいつらの所へ赴いてくれ」
「…分かった」
「大丈夫だ。俺とお前は一心同体。それに虎さんも付いてるぜ」
「ああ。心配はいらない。小僧、お前だけは生き延びろ」
則にはホルスターを渡し、虎ちゃんには余分なマガジンを渡した。元の前腕から光が放たれ、黒い無地のパーカーから光が漏れる。
「ライトは消すんだ。待ち伏せがばれる」自身の光を見て気付いたのか、三頭の馬に付けられたライトを消すように指示を出す。元が気付いていなければ僕らは死んでいた。一つのミスで死に直結するということを実感して冷汗が流れた。
「安心しろって」
元は僕の背中を叩いた。
「俺は組織のみんなを信じている。お前も…もうその一人だ」
虎ちゃんは、僕の瞳を強い眼差しで真っ直ぐ捉えながら右手を差し出した。僕はその手を力を込めて握り返す。数多の苦労を搔い潜った跡をこの身に刻み、希望ある若者たちが後悔に苛まれぬよう努めることを誓った。
虎ちゃん含め、彼らは信頼できるだろう。お金のやり取りで得たものではない。単なる個人の感情としての信頼だった。しかし、互いに金を挟んでいないからこそ意味がるのだと感じた。そして、暗かった視界は全てを見通せるほどに明るく、鮮明になっていた。ライトの中の隅から隅まで良く見えた。
赤い髪の女があっさり形勢逆転されたのも、貧民街で歩くための着替え四着も、尾行が無いことを確認したのにも関わらず虎ちゃんたちがあの場所へ辿り着いたのも、ボスの指示で僕の情報を聞き出そうとしたのも、ベロニカと虎ちゃんが色々教えてくれたのも、そのほか諸々、一貫してあの男の仕込みだったのだ。強面で体格の良い彼だからこそ、僕を問い詰めるという任務に良い効果をもたらすと考えた。案の定、何をされるか分からない、いつ殺されてもおかしくないという恐怖に耐えきれず本音で話した。
この世界で生きる人間は、とてつもなく恐ろしい。恐ろしく賢く、慎重で、味方になれば頼もしい。そんな頼もしい彼らのリーダーは、この世界の裏側に引っ張り込んだケイなのだ。ただ、残念なこともある。犯罪者として顔の出回っていないベロニカの所持金を知っていて、商店区域へ向かうと知っていたのは組織内の人物しかいない。
「じゃあ虎さんたちは隠れていてください」
元以外の生き物はこの駆け引きに無関係であると言うように息を殺す。少しの風でもうるさく靡いていた草木も沈黙する。状況を理解しているのか馬三頭も鼻息一つ立てない。そして、物音は下段から聞こえる敵の進行のみとなる。僕らは馬と共に、山側に生える雑草に身を隠す。そして、次に瞬きをし終える時、三人は一斉に単発銃の引き金を引いていた。 敵一人が持っている金はそんなに多くは無いはずだ。とは言っても、僕らの一人分の持ち金よりはずっと多いだろう。敵の推定金額は四十万円から五十万円である。僕らは一人が最大二十万と少しの余り。個人では歯が立たないが、全員分を一人に集めれば六十万円となり、奴らは服従の鎖に繋がれることだろう。先ほど虎ちゃんが敵に弾を当てたのは、敵に危害を加えようとしたからではなく、何もないところに撃ったのがたまたま当たってしまったという判定になるからだと三人は説明してくれた。では、この世界の法則に従って敵を撃退しよう。まずは、物に価値を吹き込み、所持金がゼロにならないよう注意しながら、元にほとんどの財産を渡す。次に、危害を加えようとしなければ、事故は起こるという定めを利用する。持ち金を失った虎ちゃんと則が偏差撃ちで二人倒す。そして、相手と十万円以内の差で収まる者、もしくは相手より所持金が多い者は、問答無用で危害を加えることが出来る。元が殺意を持って発砲する。敵の数が不明なのが一番の難点だ。しかし、それを補うのがこの世界の法則の最後の砦、服従の鎖だ。たとえ生き残った者がいたとしても、彼らは元に手出し不可能である。ただし、推測通りの場合に限る。
九人と九頭の絶叫が入り交り、静寂は瞬く間に切り裂かれる。さらにもう一発、もう一撃と銃を撃ち放つ。狙いを変えて追撃する。全弾命中することは無く、同じ馬が盾にされたり、絶命させることが出来ず、地を這って銃を抜く人間もいた。次に敵へ狙いを定める時には、相手の方が早く元に銃を向けていた。
「撃ってみろおおおおお!!」
どでかい雄叫びを上げると、それに怯んだかのように敵は体を硬直させて動かなくなった。彼の背中は頼もしく、とてつもなく大きく見えた。僕の半分以上も若い男が、自身の進むべき道を見つけ、生きる導を辿り、懸命に走っている。元が真っ先に虎ちゃんの顔を見た時、彼ら三人の関係が見えたような気がした。厳しくとも、基本は仲間を思いやり、逞しく勇気ある行動を起こせる人物。それが虎三郎という人間なのだ。動機はどうあれ、彼に憧れを抱くのも理解出来る。
「乗り越えたぞおおおお!!」
虎ちゃんの驚喜の声を筆頭に、僕らは茂みの中から歓声を上げて飛び出した。皆で元の勇気を称