四幕 所在の無い少年
第四幕 所在のない少年
微かに、湿った草と土の臭いがする。石のジャングルとは別の臭みだった。部屋の造りも殺風景な石小屋とは違い、鍬や縄、軍手にタオルといった農家を連想させる道具と、藁が山積みになって置いてあった。気絶させられていたために、ここがどこなのか、どれくらい移動してきたのかも分からない。ケイの組織に見つからぬよう、貧民街からは離れてしまっただろう。逃げ出そうにも土地も分からない。動く気力も無い。
心のどこかでこの世界を甘く見てしまっていたのかもしれない。暴力ということに無知だった僕は、その痛みも苦しみも、理解とは程遠い場所にあった。銃を向けられても立ち向かえたし、美女に脱がされたいなどという卑猥な想像をする余裕もあった。しかし、人の恐ろしさを知り、この世界ではこんなことが横行しているという事実に恐怖を覚えた。恐らくケイは、この悲惨な現状を打破するために立ち上がったのだろう。娯楽として画面越しに楽しんでいた頃を思い出し、もしもこれが、娯楽用の作り話であれば、僕は映像に釘付けだっただろう。
静かに揺れるゆりかごのような蝋の火を眺めながら、グロテスクな光景も平気であると自負していた過去を懐かしむ。腹を殴られれば胃液が飛び散るし、銃弾も僕の細胞を根こそぎ破壊してしまう。赤黒く染まった肌の辺りは、燃え盛る炎のように熱が引く様子は無い。対して、吊るされたまま放置された四肢の先は、極寒にさらされているかのように冷たくなっていた。何度も意識が飛びそうになり、死んでしまうと思っても、新しい痛みをもって生を実感する。ぼろ布も剝ぎ取られ、未熟な体を露わにしてしまっているが、恥ずかしさなど感じる余裕はとっくに持ち合わせていなかった。意識を保っているのが嫌になってきて、いっそのこと殺してくれと懇願するほどまでに辛かった。幾度かの休憩を挟む度に、質量に食い殺された細胞は、後になって気付く恥ずかしさのように、痛みをゆっくりと膨れ上がらせている。癌が媒介者に刺激でその存在を示すように、飛び行く意識を何とか保とうと、体は脳に向かって痛み信号を発信し、魂をその場に留まらせる。
「物質は重力に反して移動しない。物事には歯車が必要であり、歯車は動かすものが必要だ。人間が亡骸となるのは至ってシンプルだ。歯車が故障すること。人間には大事な部品が無数に備わっていて、その部品で構築されているのが目視できるその腕や足、胴体や頭だ。これら全てが顕在していて人は本当の自由を手に入れられる。何十年とそれらを酷使して、幸せを掴み取る。どうだ?自分の体を大切にする気にはなれたか?もうその腕には血液が何十分と通っていない。スープが冷めていき、湯気の揺らめきが薄れていくように、その腕と共に生気も無くなっていく。吊るされたまま生涯を終えてもいいのか」
男は饒舌に語りながら僕の顔面を拳が潰れるほど殴る。彼もやや息切れをしており、互いに体力が無くなっていた。血まみれの拳に何度も力を籠め、これでもかと殴る。
「家族は!名前は!金については!」
目に染みるのが涙なのか、汗なのか、血なのか、唾なのかも分からなくなっていた。ありのままを話しても、彼は聞く耳を持たなかった。
「なあ。いい加減、一度死んだなんてホラ話やめにしねえか」
拳の痛みが増してきたのか、彼は何枚目かの純白のタオルを取り出して、顔をしかめながら手に被せた。じわじわと赤色に染まっていくタオルを眺める。既に肉体は限界を迎えていた。水分が失われ乾ききった喉に唾を通そうとも上手く呑み込めずに噎せ返る。朝から何も食べていないため、吐き戻すのは鮮やかな赤色の液体のみだった。
「もう限界だろ。本当に死ぬぞ」彼は気まぐれで優しい声で囁く。これも拷問の戦略なのか、意図は不明だが、その度にふざけるなと血を吹きかけたくなった。彼がタオルを床に捨て、僕の方を睨んだ刹那、扉を叩く音が鳴った。男は僕に眼を飛ばしながら音の方へ向かっていく。扉を開けると、男よりもやや背の高い女性が入ってきた。
「ちょっと!やりすぎなんじゃない!」
彼女は慌ててた声色で叫ぶと、茶色の長髪を揺らしながらこちらへ駆け寄ってくる。男の仲間だろうか。それにしては縄を解く手つきが優しい。薄く青い瞳で僕を心配そうに見つめるその顔立ちは北欧のものだ。彼女の服装はぼろ布なんかではなく、上品な灰色のローブだった。目元にうっすらと見える皺から、二十代後半から三十代前半だろう。
「ほら大丈夫?しっかりして」
腕が重力に従い、真っ逆さまに急降下する。鈍い音を立てながら石畳にぶつかるも、何ら痛みは感じなかった。重りが肩に圧し掛かるように、上手く腕を持ち上げられない。暫くして、ダムから水が放たれるが如く、全身を血液が一気に駆け巡り、鋭い痺れが四肢を襲った。
「君の気持ちも良く理解している。俺だって辛いが、こうしろという命令だった」彼女は男の言い分を無視して僕の怪我を見ている。
「さあ。手当をしなくちゃ」
彼女は小屋の隅から救急箱を取り出し、絆創膏やらガーゼやらを器用に使い、慣れた手つきで処置をしてくれた。その間、男は人が変わったかのように彼女のサポートをしていた。
「時間より早く来て正解だったわ」「ここまでやるつもりは無かった」
一般的な話し方に変化しており、態度や仕草からこれが男の通常なのだろうと察する。「私だって、あなたの気持ちはちゃんと理解しているわ。でもね、気持ちを内に秘めているだけじゃダメなの。考えて実行しなくちゃ、気持ちなんて無いのと同じよ。他に方法が
あったはず」
彼女の口調は、僕に話しかけた時とは打って変わって厳しかった。
「そうか…考えが足りなかった」
男の声色から感じられる焦りや緊張は、何か特別な感情を含んでいるように見受けられた。子分達に見せていた態度とは真逆の、尊敬とは違うかもしれないが、尊重し合っているようだった。
「すぐにお湯を用意するから、その腕、暫く冷たいかもしれないけど我慢してね。血が通って元通りになるから。ああ。つま先も冷えて青白くなってるし、ホント可愛そうに」手当てを終え、大きめのタオルを僕の体に巻き付ける。そして、小屋の奥へと走っていくと、両手一杯の薪と草を抱えて出てきた。
「マッチを用意して頂戴」
「分かったよ」
「坊や、ちょっと動けるかな」
僕はふらつく手足を懸命に動かして、転がるように移動した。僕が吊るされていた場所は、囲炉裏にぶら下がる自在鉤だったようだ。四角く切り抜かれた場所に薪をバラバラと散らし、火のついたマッチを何本か落とし入れる。すると、数分も経たないうちに火花を散らしながら燃え始め、温かな空気が部屋に広がった。そして、僕を縄で吊るしていた出っ張りを少し下げて小さな鍋を引っかける。そのまま火炙りにされなくて良かったと安堵するも、未だ囚われの身という事実に落胆する。
「湯が湧くまで少し待たないとだから、それまで君の話を聞かせてよ」
上手い手だ。僕が純粋無垢な子供の心を持っていたならば、僕を危機から助けてくれた正義のヒーローに包み隠さず話すだろうが、残念ながら実年齢は彼女の二倍以上ある。安直な子供騙しには引っかかるまいと思うも、男には本当のことを話していた。はぐらかそうにも時既に遅しというやつである。
「僕は」
発音しようと舌を動かすと、鋭い痛みに襲われた。鉄の味が口の中に広がり不快感が増す。
「口腔内も酷いことになってそうね。一度うがいをしましょうか」
彼女は鍋に入れていた水をコップに注ぐと、一度自分の口に入れてから渡してくれた。
「まだ熱くなってないから大丈夫」
コップは木製であり、使いまわしているとしたら傷口に菌が入り込むのではないかという心配が脳裏を過る。
「あなた潔癖みたいね。そのコップはつい最近調達して使ってもないから問題ないわよ。賢いのね」
ニコリと微笑む彼女は天使に見えた。若い頃、元の世界で出会えていたらという雑念も一緒に洗い流してしまう。ふと、吐き出そうとして困ったことに直面した。立ち上がれないのだ。外へ出たくとも、足腰に力が入らずに立ち上がることが出来なかった。
「さっさと吐き出せ」
生まれたての小鹿のような僕を目の前にしてなんて冷たいのだろうか。
「坊や、もしかして外に出て吐き出そうとしているの?」
言葉を発せないので首を縦に振る。彼女はその後、少し考えてから男と目を合わせた。
「適当に床に吐き出して構わないわ」
鉄の味がする水を吐き出す。血溜まりが出来るのを見ながら、胃潰瘍の痛みを思い出した。
今の傷と過去の痛みが重なり、内臓に激痛が走る。
「ちょっと話すのは酷みたいね」
「俺が彼の話を一から話す」
男は埒が明かないと思ったのか、自分から話すと乗り出した。さっきまでの威圧は突然吹き荒れた暴風に攫われてしまったようだ。気味の悪さは一旦置いておき、彼の話に違いが無いか、傾聴することにする。
男は僕の経緯を事細かに話した。彼は僕を殴りながらも、表情や口ぶりを観察しながら聞いていたようだった。彼曰く、僕が嘘を吐いているようには見えなかったようだ。だが、当たり前と言えばそうだが、突っ込みどころ満載でどうしても信じられないとのことだった。この世に輪廻転生があったとして、記憶を保持したまま生まれてきた子供の仰天ニュースがあったとして、中途半端に育った体に魂を宿らせて、全く文明の違う世界に辿り着きましたという禁書目録があったとして、それはエンタメだから面白いのであって、こんな大真面目な舞台では不適切である。しかし僕は文字通り大真面目なのである。
「なるほど…俄かには信じ難いけど、この世には謎があった方が面白いじゃない?彼は神様から私たちへの贈り物かもしれないわ。興味湧くでしょ」
「だが、王の遣いかもしれないし、誰かの手先かもしれない。最悪魔物が生み出した産物かもしれない。何でも首を突っ込みたがるのはよせ」
「ここまで拷問しても発言は同じだったでしょう。それに嘘を言っているようには見えなかったんでしょう?経験を信じなさいよ。あなたはとても立派な人よ。もっと自信を持ってもいいんじゃないかしら」
「そういう話じゃなくて」
「何が気に入らないのかしら。彼の主張が?それとも軍の子役とでも?はたまた謎の勢力の手先だって?どれも何の根拠もないでしょう。それに、彼は売買の方法も、服従の鎖も知らなかったみたいじゃない。それも演技に見えたわけ?あなただけじゃなくてあの人も演技には見えないって言っていたのを聞いていなかったの?」
僕の身の潔白を示す証拠も持ち合わせてはいないが、その点は彼女たちの経験から判断して良いのだろうか。あの人というのは誰なのだろうか。
そんな疑問を抱える中、彼女は僕の顔をまじまじと見る。そして、安心させるためか笑顔を見せた。
「…そうだが、もしこの子供を引き入れたことによって組織崩壊の危機が訪れたらどうするつもりだ」
「その時はその時よ。この子とこの子のボスが強敵過ぎたってことで決着よ。でももしこの話が本当だったらどう?お金もなくて貧民にまっしぐら。加えてここの文化や歴史の何も分かっていない状態で生きていけると思う?軍の一人にも顔を見られているらしいじゃ
ない」
彼女は彼の目を強く見つめ、一呼吸置いて話を続ける。「私たちがこの組織に入ったのは、長く続く王の歴史を終わらせるためだったでしょう」
「こいつがいるんだぞ」
「この目の前の子に誠意を見せるの!私たちはそれぞれの夢のため、自由のために戦っていることを忘れたのかしら!」
きっと彼女たちは信念を持って行動しているのだろう。会話から想像するに彼らもケイ達と同様に、王に立ち向かおうとする人々なのだろう。両者とも王への反逆という点で協力し合えるのではないかと思うのは浅はかなのだろうか。いずれ僕を助け出すため、ケイの組織とこの二人が所属する組織がぶつかる時が来るはずだ。僕が安全に戦地から抜け出すためには、第一にこれ以上血を流さないようにすることだ。
「手を…組めば……いい…」
どうしても彼女に賛同出来ずにいた男は、彼女の叫びに答えること無く、こちらへ歩み寄る。喧嘩中の友達の間に割って入るような気まずさがあった。口の中が痛んで話すのもやっとであるというのに、空気を読んでなどいられない。何より自分の命がかかっているのだ。彼らには話を聞いてもらわないと困る。
「大事なことを話す気にでもなったのか」
「目的…は…同じ……」
痛む体を抑えながら、血を吐きながら、懸命に訴える。
「ねぇこの子にハクヤクを打つべきよ」気がかりな単語が唐突に出現した。
「駄目だ。あんな高価なものを使ったら組織を追い出される」再び二人の口論が始まる。また僕は置いてきぼりだ。
「慎重なのは分かるけど、今は賭ける時よ!時間が無いのよ。彼の傷が治るまで待つなんて言ったら一週間はかかるわ!誰がこんな目に合わせたと思っているの!?」
「…ああ。動ける程度には加減するつもりだった。だが、この胡散臭い子供じゃなくたって良いだろう!まだ他の子供でも代用できる!」
どういうことだ。彼らも僕を利用しようとしているのだろうか。何か急ぎの作戦で僕が必要なのだろうか。何にせよ、結局の目的が同じならば、尚のこと彼ら二つの組織は協力すべきだ。どうにかして彼らをケイの組織と合併させたい。僕も両組織で取り合われなくて済むし、王に対抗する力も膨れ上がるということだ。
「話を…聞いて…!」
「分ったわ。何か大切なことを話したいんでしょう。痛みを堪えながらも話さなければいけないことなんでしょう。今薬を打つからね。体の傷が癒えてすぐ話せるようになるわ」
「おいおい!」
「黙ってなさい!」彼女は今までで一番の声を張り上げて男を黙らせた。これまで出会った人物の誰よりも迫力があったかもしれない。芯が強い女性だとは思っていたがこれほどまでとはと感心した。
「さあ腕を出して。少し痛むからね」
彼女は懐から緑色の液体が入ったシリンジを取り出す。得体の知れないモノを血液にぶち込まれると思うと不安と恐怖に駆られた。しかし、今は彼女を信頼しよう。喧嘩をするほど大切な薬なのだ。さぞかし素晴らしい秘薬なのであろう。
「動いたら痺れるからね」
注射針を取り付ける頃には既に覚悟が出来ており、腰に腕を当てて肘を出していた。
「ハクヤクを打ったことがあるの?」
「前世で」
彼女はふーんと言うだけで特に追及してくることは無かった。男も口を挟んでこなかった。沈黙のまま処置は進んだ。彼女は医療の知識があるようで、肘から肩にかけて三分割し、しっかりと注射部位を測っていた。三角筋にアルコールを塗り、肉を少々摘まみ、針を挿す。アルコールが乾ききっていないことには目を瞑ろう。その後何の声掛けも無かったので、シリンジに血液が逆流していないかを自分で確認する。この世界の医療レベルはどの程度なのだろうかと、自ら捨てたはずの医学に少し興味が湧いてしまった。もしもあの時、看護大学を中退せずに卒業していたのならば、この世界で医療の知識を用いて真っ当に生活することが出来たのだろうか。きっと前世でもそれなりに良い仲間を持って、家庭を持つことが出来ていたのかもしれない。
「おい。ボケっとしている時間は無いぞ」
「坊やごめんね。この薬はしばらく頭に靄がかかったような眠くなる感覚に襲われるけど、今は我慢して私たちに君が伝えたいことを話してほしいの」
「あ…ああ。分かったよ」
返事をした後、痛みが薄れていることに気付いた。舌を動かしても鉄の味はしなくなっており、両手足の流血は終了して自由に動くようになっていた。ただ少し、酒に酔ったように視界が眩む。歩けなくなる程ではなく、風邪をひいた時に、歩くのが苦になるような感覚に似ていた。会話をこなせる程度にまで回復したと理解し、ようやく正当な発言権を手に入れた。
「君たちが襲った人たちも君らと同じことを目的としている。君たちも組織として活動しているなら、彼らと協力することで戦力は大きく向上するんじゃないのか」
正論のはずだが彼女は困ったような表情で苦笑いをする。男は依然顰め面で僕を睨んだままだ。
「それは無理なのよ」
「どうしてさ」
「色々あるのよ。毎日が戦争だからね」
彼女は僕の頭を撫でてから体の傷を観察した。
「良い感じね。もう十分くらいでふらつきも収まるだろうから我慢してね」
「分ったよ」
「他に聞きたいことは?」
彼女は優しく質問を促してくれる。安易な行動だと危惧したのか、男が彼女の発言を撤回しようとするが、彼女の気迫に再び押し負けて黙り込む。そんなやり取りから昔の情景を思い返した。暴力を振るう父に、母が彼女のように威圧していれば僕の人生も変わっていたのだろうかと考える。
「大丈夫?」
彼女の声にはっとして、ないものねだりはよそうと気持ちを切り替える。
過去を振り返る時間は終わっており、今は未来を見据えることができる。
「まず確認したいんだけど、どうして僕を攫って拷問したんだ。金が目当てなら僕にこだわる必要もないだろう。さっきの会話から察するに、金髪の男よりも僕が重要そうじゃないか」
「それは…そうだな…」
男は言葉に詰まり、上手いことを言おうと言葉を探しているようだった。秘密にしておきたい何かがあることは間違いなさそうだ。
「まぁ僕は人に攻撃しようとするとなぜか体が固まるし、君たちに無理矢理秘密を吐かせることは出来ない。ただ」
「ちょっと待ってくれ」
全て言い終わらないうちに男が口を挟んだ。
「やっぱりお前は服従の鎖を知らないんだな?」
「なんだそれ。お姉さんも知っているの?」
「私はベロニカ・セリオルドっていうの。ベロニカって呼んで」
彼女は僕の前にしゃがみ込むと満面の笑みを見せた。なんて心安らぐ女性なのだろうか。
もし結婚しているのならば、素敵な旦那さんに違いない。
「二十七歳で、そこにいるぶっきらぼうな男は旦那」
衝撃だった。僕の心と共鳴するように鍋が水を吹き出し始める。
「いけない!熱しすぎたわ!」
彼女が鍋に駆け寄ろうと腰を上げるが、既に男が下ろしていた。単語一つで人のイメージはがらりと変わるということを理解した。つい一分前までは野蛮で不衛生な男という認識だったが、今では紳士に見えてしまうほどだ。口は災いの元とはよく言ったものだ。口は人をも助けるというのも広めてはどうだろうか。「ほら。温かいタオルだ。これで体を温めろ」
男は僕にタオルを渡すと地面に尻を着いた。凍りそうだった手足にタオルを当てると、病院での清拭を思い出した。牢獄だと思っていた病院も、今思えば身動きの取れない老いぼれでも生きていけるように手を尽くしてくれる素晴らしい楽園だ。誰も僕を殺そうとはしない。故意に命を奪わないという点で、人を信頼できるというのは凄いことなのではないかと思う。
「さて、話の続きをしようか!」
ベロニカは自然な笑顔を見せて僕に話しかける。ケイのように何か企んでいそうな雰囲気は無く、この男のように無理矢理吐かせようとする気配もない。彼女とは変な心の読み合いなどせずに会話をしたいと思えた。僕は分かったと返事をする。
「銃を構えた時に、体が金縛りにあったような感じがしたんだよね」
「そうだね。人を撃つのが怖かったとかそういうのじゃなくて、誰かというか、何かという方が正しいのかな。うん。何かにがっちり固められて動かなくなったんだ」
「私の旦那を撃とうとした時だよね?」
ストレートすぎる質問に、少し申し訳なさを感じながら返答する。
「そうだよ」
「固まった後、どうやって動けるようになったの?」
「頭から段々と動けるようになっていったかな。動かせていても、うーんと、激しい運動をした後みたいに、ちょっと体が重い感じがしたな」
「そうなのね。それは間違いなく服従の鎖に縛られていたのよ」
「その服従の鎖っていうのは何?」
「ちょっと右腕を見せてみろ」
男は僕の腕を乱暴に掴む。ベロニカが傍に居るお陰か不安や恐怖は感じなかった。
「ちょっとあなた」
「あ、ああ分かったよ」
どうしても僕が気に入らないみたいだ。まあ無理もないだろう。人は信頼ならない人間に恐怖心や警戒心を抱く。何なら男の方が正常な状態と言えるだろう。
「君たちにとって僕が利用価値のある人間ということはよく分かった。利用するのに信頼が欲しいことも。力で僕を従えようとしないのにも何か理由があるんだろう。ちゃんと考えて理解しようとしているさ。だからこうして質問を重ねて、僕が普通な人間だと証明しようとしているんだ。宇宙人からしたら地球人が宇宙人なように、僕にとっては君たちも
異質な存在だ」
ここが地球という名で通っているならば今の例えは上手かっただろう。
「そうよ。お互いオープンでいなくちゃ」通じたようで良かった。しかし、この世界も元居た世界と同じように宇宙の概念があり、地球という名称も同じなのも僕を混乱させる要素の一つだった。
「分かった。分かったよ!お互い突っ込みなしで行こう」
男は不貞腐れながら胡坐を組み直す。ベロニカは近くにあった丸太に腰を掛け、膝の上で手を組んだ。僕の分の丸太は無かった。
「あ、ごめんなさい。座りたかった?」
「いやぁいいんだ。それより服従の鎖について教えてよ」
「そうね。鎖なんて呼んでるけど、実際鎖が目に見えるわけじゃない。それは君も分かるでしょ」
「そうだね」
「あれは、所持金が十万以上の差があると発生する自然現象よ。テクノロジーで開発した
ものとかではないわ」
「というと、体の構造がそうさせているとか?心臓が自ら活動するように」
「まあそんなところだけど、心臓とは違って自分の生命を維持させるものとはちょっと違うの。あの鎖は他人を生き永らえさせるものよ」
「いまひとつ読み込めないな」
「お前の腕に刻まれている100の数字。それはお前の所持金であり、階級を示すものに使われている」
タオルを捲って右腕を見てみる。焼き印のように100と刻まれているが、何ら痛みは感じない。
「さっきお前のボロ服を金髪の男に百円で売り、その百円がお前の腕に刻まれた」
「なるほど」
「そして、その百円がお前の価値だ」
何という侮辱だ。僕は最低賃金以下の人間だということか。生涯かけて何千万という金を稼いできた僕がこの世界では百円しか持ち合わせていないのだ。
「百円ってのはつまり」
「五枚揃ったら五百円。十枚なら千円だ」
昔の日本のように一銭という概念はなさそうだ。ならば僕は、正真正銘の貧乏人ということだ。
「坊やは彼に危害を加えようとしたけど、その鎖によって阻止されたのよ」
「ということは、僕とは十万円以上の差があると」
「そうだ。さっきの会話を聞いていなかったのか?」
「さっきの会話?」
「もう一度言うが、俺の所持金は十万三百だ」確かに、ケイとの会話でそう言っていたような気がする。冷静なつもりでいたが、大事な言葉を聞き逃していたようだ。というより、その会話についていけなかった為か、右から左へと流してしまったのだろう。
「お前がどんな場所から来たのかは知らないが、ここでは金が命だ。数字が出たら出来るだけ覚えておくようにしておけ」
「アドバイスをどうも」
男は低く唸る。うっかりしていたようだ。
「あなたもまだ甘いところがあるのね」
ベロニカは嬉しそうに微笑む。僕を殺そうとしていたぞという突っ込みは胸にしまっておくことにしよう。
「だから他人を生き永らえさせるものだということか」
「そうね」
「でも、彼は僕をぶん殴っていたけど?」皮肉を込めて言ってやる。
「差があっても、上の人間は鎖が発動しないの」
合点が付いた。だから絶対王政を取っており、貧富の差が顕著に表れていたのだと理解する。しかし、この仕組みに疑問は持たないのだろうか。下の階級の人間は必ず下にいる。
どんなに努力をしても、這い上がれないのだ。
「だからか」
彼らが王に反逆しているのは上を求めているからなのだ。上に昇りたければ犯罪者となるのは必然の答えだった。
「状況が読めてきた。君たちや君たちが襲った組織は貧困層を抜け出すために、王に追われることになっても、この苦しいサイクルを終わらせるために動いているのか」すると彼女は少し考えてから、そうねと答えた。
「俺たちの目的は詳しくは話せない。まだお前を信頼していないからな」
「ん、なるほど」
深く溜め息を吐いて、どうしたものかと思考を巡らせる。真実を言っても信頼してもらえていない。これでは八方塞がりだ。僕が選べる選択肢は二つしかない。一人で隠れながら生活をするか、彼らにどうにかして仲間に加えてもらうかだ。前者の場合、僕は生涯貧しい生活をしながら朽ちて行くのを待つだけだ。後者は危険と承知で仲間と共に金を追い求め、良ければ一発逆転の裕福人生を送れる。選択肢は一つである。
「どうすれば僕を仲間に加えてもらえる」
「大事なことを忘れているようだが、お前は仲間に加えるために攫ったんじゃない」そうだ。僕は何かに使われるために拉致されたのだ。結局、貧乏だ何だという悠長な話ではない。どのみち僕は下僕人生を送るのだ。社会や会社に囚われていた方が幾分か良い。
「で、どうしろと」
「まずはお前のことを知るのが先だ」
再び拷問をするのかと身構えるも、ベロニカは僕を抱え上げて楽しそうに叫んだ。
「街に出るのよ!」
何だか妙な展開だ。何をやらされるにしても、十万円以上の差がある限り、こちらは彼らに危害を加えられない。奴隷と同じなのだ。何のために僕を知る必要があるのだろうか。「僕はちゃんと命令をこなすさ。僕は本当にどこからともなくやって来た少年だ。逃げたところで行く当ても無い。一々信頼なんてものを確立させなくてもいいじゃないか」
「念のためだよ。ごめんね」
彼女は再度小屋の奥へ行くと僕の鞄を持って出てくる。
「ローブを着て。中間街へ行くのよ」
「中間街?」
「ここは貧民街で、さっき坊やが軍にちょっかいかけた場所が中間街と呼ばれる場所よ。その奥が城下町で、その少し先が貴族の住む街になってるの。まあ詳しくは街に出れば地図があるからそれを見ましょう」
ケイ一行に見つからぬように貧民街からは離れたと思っていたが、ここはまだ貧民街のようだ。各区画がどれくらい広いのか、逸れた時に目印になるものがあるかどうかという情報は手に入れておきたい。
「地図はあるの?」
彼女は高そうな革製のバッグから新聞見開きほどの大きさの地図を取り出して、自分が座っていた丸太の上に広げた。
「ここが私たちのいる貧民街」
地図の一番下で闇に覆われている部分を指で刺す。暗闇の広さは地図の約四分の一を占めており、地形を示すというよりか、適当に塗り潰したと言ったほうが正しい。
「なんだこれ」
「軍が納品指定作物を取りに来る時期以外はここに立ち入らないからね。それに、納品保管庫も中間街のすぐ近くだから地図なんて必要ないのよ」ベロニカが話し終えると、男が悲しそうな声色で呟く。
「お前は水を地面に吐き出さなかったな。貧民街は清潔の概念が存在しない。だから、普通のやつは、そこが自分の家だとしても床に吐き出す。床で排尿もする」酷いことを聞いてしまった。
「最悪だよ」
床に座っていた僕はその場から立ち上がり、砂埃を取り払うように尻を叩いた。「ここは大丈夫よ。私たちが寝泊まりする程度に使っているだけだから。トイレもシンクも別室にあるわ」
尿まみれの服にならなくて良かったと胸を撫で下ろすも、そういえば全員土足であることを思い出して再び気が沈む。
「まあいいや…」
ローブが床に着かない程度に腰を落として地図を見る。それから、暗闇の上に地図として記載されている部分を指でなぞって質問する。
「ここからは中間街ってことだよね」
「そうね」
「ここかは、住宅地?」
「正解」
小さな正方形が密集している地帯が住宅地のようだ。その上には縦長に三つの大通りが伸びており、周囲は緑色で塗り潰されている。ここは商店区域と呼ばれており、人々が自由に物を売買できる区域だそうだ。そのまた上には横長の建物が密集していて、各建物が紫に塗られている。ここは繁華街らしい。中間街の中でも一際目立つ肌色の建物が役所だそうだ。僕らはここを目指すみたいだ。地図の半分より上へ指を滑らせる。ここからは貴族街に入るようで、大きな建物が赤色で塗られており、中間街よりも規則正しく並んでおり、碁盤の目のような配列だった。地図の最上部にはでかでかと城が描かれており、黄金に塗り潰されている。気になったのは城の周りが岩で囲われているということだ。
「城を抜けた先は何があるの?」
「さあね。噂では魔物の世界が広がっているとか」
「なんだそりゃ」
「城は渓谷に聳え立っていて、そもそも一般人が出入りするのは不可能なのよ。王やその遣いがどうやって城から街へ出入りしているのかは不明。貴族街も広大で、三級から一級までの区画に区別されているの。一級の区画には特に厳しい検問がされていて、入ることは疎か出ることさえ難しいのよ。その先にある城なんて未知の世界だわ」
「それなのに渓谷にあるということは分かるのか」
「ええ。この世界を示す地図は昔から世に出回っているの。きっと地図で示さないと流通が困難になるからよ」
疑問になることが増えてさらに質問を続ける。
「出回ってるって…これと全く同じものが?」
ここの世界の技術はどうなっているのだろうか。建築物や着物を見る限り、前世の世界ほどの技術までは到底及んでいない。それなのにも関わらず、フルカラーの地図が出回っているなどおかしな話だ。そもそも昔は紙でさえも貴重だったはずなのだが、こういった点はファンタジーの世界観として処理して良いのだろうか。
「ええ。何か気になる?」
「あ、いや、長くなりそうだからまた今度でいいかな」
そこまで説明し終えると、ベロニカは僕にローブを着るように促した。キッズサイズにとなってしまった僕のイチモツを見られるのは少々気が引けたが、キノコを食べれば大きくなるということは無いだろう。諦めて着替えることにした。
「さて、じゃあ移動しながら説明するわよ」
「ちょっと待って。ベロニカたちは軍に逆らう立場なんでしょ?素顔丸出しで街にでていいのかよ」
「勿論。顔を見られていないからね。それとお話はまた後でね。軍の女が坊やを探し人として手配しているかもしれないから、念のためこのお面でも被っていて」彼女は自分の持ち物の中から烏天狗の面を取り出した。
「まさかこれを付けろと…」
子供が付ける面にしてはやたらと気迫を感じられる。作り手はかなり手を込めているだろう。触れてみて分かったが、面は漆黒の絹で出来ており、うっかり滑り落としそうだった。人で言う白目の部分は黄金に塗られ、まさに眼光を放っていた。勿論、黒目の部分は刳り抜かれている。鼻腔も金色に塗られており、総合して面は二色で飾られていた。被ってみると自分の口と嘴が、瞳と眼球が丁度フィットするように作られていた。まるで呪いの仮面のように、一寸の隙間なく顔に密着する。薄気味悪さと、嘴による視界の悪さを訴えながら外に出る。
「黙ってその面をつけていろ。絶対に外すなよ」
「寧ろ目立つんじゃないか」
男は僕の鋭い指摘を無視して僕を担いだ。僕が面を付けている間に着替えたらしく、彼はヴァンと同じような灰色のパーカーを着ていた。なぜこの世界にはファンタジックなローブと、現実世界のような部屋着感満載のパーカーが混在しているのだろうか。疑問を投げかけようとするも、次の瞬間、僕の体は宙を舞っていた。
「痛っ!」
先ほどまでの石の感触とは違い、どこか懐かしがあった。暗がりの中目を凝らすと木目が見えた。天井があり、小さな窓もある。籠の中にいるのだと理解した。
「そこで大人しくしていろ」
「ごめんね。ちょっと揺れるからね」
そう言いながら扉を閉めたベロニカの顔は、僕の視線の高さと同じ位置にあった。窓から微かに入ってくる、草を毟る音。続いて二人が腰を掛ける音。空気を切り裂くような、弾くような響き。刹那、甲高い鳴き声。最後にウッドブロックの音色。そして確信する。僕は馬車に乗せられたのだ。馬車が貧民街を走って良いのだろうか。街の人々は皆徒歩か這って移動していたのは見間違いだったのだろうか。馬は僕の不安を取り残して颯爽と走る。 小窓からは月明かりが差し込み、少しばかり神秘的な雰囲気を感じた。前の世界では街灯や店、住居の明かりでどこもかしこも照らされており、月光に身を委ねることなど一切無かった。不格好な農地に、地元の景色を重ねながら奇麗な満月と並走する。荒れ地を無理矢理農地に開拓したのか、クレーターのような地面に苗木が植えられている。ここの食べ物は美味しくなさそうだ。ふと思い返せば朝から何も食べていない。一難去ってまた一難と、難を跨ぎ続けていた為に、空腹を感じる余裕さえ無かったが、こうやって暇になると胃が鳴き出す。男に頼んでも結果は見えているのでベロニカに飯を食わせてもらおう。睡眠も摂っていないが、張りつめる緊張からか、幸い眠気には襲われなかった。やることもないので、土地を覚えようと過行く景色に集中するが、永遠と農地が続くだけだった。時折小さな小屋が見えたが、どれも造りは同じで退屈だ。今頃は妹や大甥達が僕の遺体を見て悲しんでいるのだろうか。いや、それは無いだろう。形式的に済ませるはずだ。何せ年に一度会うか会わないかの間柄だ。妹とはいえ、十代の頃からほとんど会話はしてこなかった。僕に家族はいないも同然だ。病院の先生や看護師も、飲食店の客みたく、次の客を着かせるためにバッシングをするように遺体を片付けるのだろうか。僕の人生もそうだった。関わる人間は入れ代わり立ち代わりで長い付き合いの人物など思い当たらない。目先の欲を満たそうとした間抜けな振る舞いが招いた結果だ。
前世の自分を憐れんでいるうちに、人の声や他の馬車の音が聞こえ始めた。馬車の速度はそれらの音と反比例する。どうやら目的地に到着したようだ。パンクした自転車に乗っているかのような揺れは収まり、小窓を見ると、辺りには人口の明かりがちらほらと灯されていた。しかし、電灯の光とは違い、温かくも少し薄暗い灯だった。商店街のようで、未だ眠らない人々と商談をしている。見渡す限り、電球の輝きは見つからなかった。懐中電灯は存在しているというのに蝋燭やランタンを頼りに辺りを照らしているようだ。貧民街とは異なり、背の高い建物は見えなかった。大通りよりもう少し細い道が、自分の位置を中心に、左右三方向に伸びている。地図記号で言う森林管理所が丁度良い。その道路沿いには地味なテントが立ち並び、夏祭りの如く賑わっている。
「ほら、出てこい」
男の声と共に扉が開く。入る時は、面で狭まった視界に慣れていなかった為に分からなかったが、馬という乗り物は子供では乗り降りできないほどに背が高い。飛び降りたら捻挫は確実だ。
「降ろしてあげないと」
ベロニカの一声で男は渋々僕を担いだ。完全に尻に敷かれている。
「ここは?」「ここは中間街の中の商店区域で、申請すれば娯楽や食べ物が自由に売買できるの」
「へぇー。僕は結構この雰囲気好きだな」
蝋が燃える匂いや、活気に満ちた人々、行き交う馬車。それらは貧民街とは異なり、人間のエネルギーを感じられる。
「呑気で羨ましい奴だな」
事あるごとに嫌味を言わなければ気が済まないのだろうか。
「今回ばかりは旦那の意見に賛成ね」
ベロニカは苦笑いをする。一体何が不満なのだろうか。
「まあ歩いてみればわかる」
「旦那様方!ようこそ商店区画へ!いやぁ素敵な馬車で御見それ致しました」
後方から深緑色のとんがり帽子を被り、紺色のトレンチコートを着た中年の男が大声を上げて寄ってくる。顔立ちは日本人寄りだが、どことなく違和感がある。眉まで届く丸眼鏡に上唇にこびりつくちょび髭は、胡散臭さを物語っていた。小柄なその男は、彼とは対照的な男に握手を求める。
「私は李浩宇と申します」
身なりのせいか、すぐに中国人とは分からなかった。元居た世界では、アメリカ人、中国人、韓国人、フィリピン人しか見たことが無かった。ネットの可愛い人ランキングか何かにロシアや台湾の人を見たことがあるくらいだ。異世界転生ものなら言語から人物まで日本人寄りにしてくれると顔が覚えやすくて助かるのだが、海外の映画で誰が誰か分からなくなるように、韓国アイドルのメンバーを覚えるのに苦労するように、顔と名前を一致させるのが難しい。
「私の顔に何か付いてますでしょうか?」
「あ、いえ。ただ顔を覚えようと思ってまじまじ見ちゃいました」
彼の作り笑いが消え失せ、心の底から嬉しそうな笑顔を見せた。男はハオユに握手を返そうとしていたが、リハオユはタイミング良くその手を帽子に移して脱帽する。ベロニカがくすりと笑い、男は恥ずかしそうに手を引いた。リハオユは一連の出来事には気づいていないようだ。
「これはこれはありがたきお言葉!こんな私奴の顔を覚えようとしてくださるなんて!いやぁ教育の方もさぞ素晴らしいものなのでしょう!」
やけに謙っているが、彼からしたら僕らは格上の存在なのだろうか。
「一体どんな用件で?」
見慣れない風景や僕らを敬うような対応に心が躍り、警戒心が薄まってしまっていた。ふと浮かんだ疑問を純粋に投げかけてしまった。この質問は確実に失言だったようで、リハオユは少し戸惑った表情を見せる。鼻の頭を掻きながら徐に喋りだす。「えっとー…私は馬車の預かり人で、旦那様方の大事な荷物や馬が盗難に遭わないように警護する者です」
それからリハオユはベロニカたちの顔色を窺っているようで、彼女らの厳しい目付きに気付いたのか彼の顔は再び作り笑いに戻った。
「ま、まだ坊ちゃんですものね!馬護人を見るのが初めてでも不思議ではありません!馬に乗れる年になってからお勉強される方もいらっしゃいますから!」
なるほど、普通この歳ならば馬護人とやらを知っているのが当たり前のようだ。教育が行き届いていると持ち上げてしまったために、無知な小僧の対処に困ってしまったという所か。
「それにしても顔に出やすいですね」
ちょっとばかり虐めてやるのも悪くないだろう。こんなに丁寧に接待されたのは初めてだ。
調子に乗っても罰は当たらないさ。
「黙っていろ」
いかにも不快そうな顔をしたリハオユに代わって、ハゲ男にどやされる。
「ほんの冗談さ」
「まー冗談がお上手で」
リハオユは一本調子に言葉を発する。
「立木虎三郎だ。失礼を詫びる」
「格好良い名前だな」
心で呟いたつもりだったが声に出てしまっていたようだ。リハオユが不審者を見る目を僕らに向ける。
「ふざけるのもいい加減にしたらどうだ」
今にも殴りかかってきそうな面でこちらを睨む。これ以上怪しい真似をすれば、子供を誘拐した夫婦と間違えられてしまいかねない。ただでさえ人を殺していそうな、いや、僕を殺したそうな顔をしているのだ。通報される前にフォローしなくてはならない。
「ごめんなさいお父様」
虎三郎は不意を突かれたのか、言葉に詰まり恥ずかしそうな表情を見せる。これにベロニカはくしゃみのような声を上げる。口元は抑えているが肩が震えている。何とか笑いを殺し切ったベロニカは僕に続いく。
「ほらあなた。子供の冗談にムキになっちゃだめよ。漢字の勉強中はいつもあなたの名前を羨ましがっているじゃない」
事情を知っているこちらからしたら無茶なカバーだと思ったがリハオユは納得したように頷いていた。
「そうでしたか。羨ましい限りです旦那様。ささ。こうしているうちに屋台の売り物が無くなっちゃいますよ!お坊ちゃまの仮面もこの日のための特注に見えますし気合を入れて来てくださったとお見受けします。南北一周歩くだけでも一時間は要しますから、お急ぎなさって下さい」
リハオユは僕らの前で片膝を着いて手を前に出す。それを見たベロニカは、馬の手綱をリハオユの手に握らせた。すると、ベロニカの項から、一本に束ねた長髪を貫く光が放たれる。
「私たちの愛馬。エクリプスをよろしくね」
「では責務を果たします。お気をつけて」
僕は子役を演じるためにバイバイと無邪気に手を振った。
リハオユに見送られて少し経過した頃、突然ベロニカが僕の頭を撫でた。何事かとベロニカを見ると、彼女は遠くの星を見つめながら朗らかな表情を浮かべていた。虎三郎はその様子に気付きながらも前を向いたまま黙っている。幼い頃の家族を思い出してしまい、懐かしさや切なさ、寂しさが途端に押し寄せてくる。思い出補正というものはとてつもなく強力な麻薬で、当時は辛かった思い出も今になれば良い思い出となる。愛情など無かったであろう父親は、遠くの記憶の輝きを見つめてみれば、もしかしたら僕を愛していたのではないかと思わせてしまう。
「僕にちゃんと自己紹介してくれたっていいんじゃない」
家族を思い出すのに耐え兼ねて話題を振る。ベロニカは虎三郎が自発的に言葉を発するのを待っているように、彼の顔を見つめるだけだ。
「ほんの数分話すだけの人に自己紹介しておいて、重役の僕には挨拶無し?」
「余計なことを喋るな。あれは取引上名乗るのが当然だからだ。物に価値を付けて金と交換する売買契約であれば、その場ですぐに物が自分に渡るから何も問題は無い。しかし、物の取引ではないサービスにお金を払う場合、両者の名前や身分が信頼の証になる。互いに顔を見せ合ったのもその信頼を提示するためだ」
「ありがたい説明ついでに聞くけど、それじゃあ偽名でやり取りした場合はどうなる」ぎくりとした顔をする虎三郎は、面倒くさそうに僕の質問に答える。
「そいつは偽名が判明するか、提示したサービスを怠った時点で犯罪者として似顔絵や顔、人物像が世に出回る。軍だけじゃなく、各役所の人間にも知れ渡り、終いには俺たちみたいに貧民街に身を潜めることになる。あそこは汚い上に負の感情が漂っていて、気味悪がって人が寄り付かない」
その発言でようやく理解が出来た。ケイが言っていた、自分が貧民に見えるのかという台詞はこういうことだったのだ。ケイや虎三郎たちは貧民としてあの場所で生活しているのとは違うのだ。地図で示されておらず捜索が困難な上、汚くて軍も寄り付かないという理由から貧民街を選択したのだ。それから、僕が唯一彼らに縛られず公正に関係を持つ方法を思いつく。
「じゃあ僕が君たちに協力するからその分お金を払ってよ」
「この手で殺してもいいんだぞ。それに、そういう物が相手に渡らないような取引は出来ない」
「どういうこと?」
「あそこを見て」
ややこしいと思ったのを察したのか、ベロニカはテントで大きな荷物を抱えているダッフルコートの夫婦に指を指し、その夫婦とテントの主とのやり取りに合わせて話を続けた。
「あの夫婦はテントの主に荷物を預けようとしようとしているところよ。さっき私は私の馬を一旦リハオユに売ったのよ。売るって言っても、再びリハオユから売られることで所有権が私に返ってくるのよ。私はその所有権をリハオユに渡すため、一円で馬を売った。私たちが用を終えて戻ったら、リハオユは馬護人としてのサービス料で私に売る。料金は馬護人間の協会や、個人で違うけど、だいたい二千円ってところかしらね。簡単に言うと、一円でリハオユに所有権を渡し、リハオユが二千円で私に所有権を返す。これでリハオユは約二千円の儲けよね。あの夫婦も同じことよ。一円で荷物を預けて、テントの主はサービス料分の値を付けて返すってわけ」
単に物を売る時に、その物は相手に所有権が一時的に渡るだけで、貸しているのと同義なのだろう。しかし、貸す側は相手に貸している間の料金を払う。パーキングエリアで料金を取られると考えるのが簡単だろう。金が全てのこの世界で、当事者間の信頼は、互いに金と名前で得るという点は元居た世界とほとんど同じだ。そもそも、前の世界も金が全て。 そこまで考えて頭を左右に振る。その考え方は死を目前に控えた自分が否定したことだと思い出す。
「難しかった?」
「いいや」
「そう。それと、無償でのやり取りは服従の鎖みたいに体が硬直して、その物が自分に渡るのを妨げられるの。だから必ずお金を払って買い戻すのよ」
「でもリハオユが僕らから金を巻き上げることも可能じゃないのか。示される金額が莫大だった可能性もあっただろうに」
「だから顔と名前を晒して信頼を示すのよ。詐欺が行われれば、私たちは顔と名前を役所に提出して軍に捜索させるってわけ。因みに今みたいに物と物の有償取り引きでないとお金は勿論、物もその持ち主から動かないの。人から盗んだものは売れないってことよ」
「それじゃあそれじゃあって一々質疑応答しないといけないのか」
虎三郎はぶつぶつと文句を言いながら歩き始めた。ベロニカと僕は丸まった背を追いかける。
「逸れないように手を繋いでおきましょ!」
子供の僕に教育を施し母性を感じたのか、唐突に恥ずかしいことを言い放った。
照れくさくも手を差し出すと、ベロニカは嬉しそうにその手を握った。その姿は子供と買い物を楽しむ母親のようだった。彼女はきっと、僕が好きというより子供が好きなのだろう。悪くない気分だった。
「おいおい。そいつの言うことが真実なら、立派なジジィだぞ」
老人を馬鹿にしているとプリウスロケットで粉砕されるぞと言いたくなるが、そんな不謹慎ジョークは胸の中で押し殺す。
「そろそろ商店街を抜ける。小僧は絶対に面を外すなよ」ベロニカの手に汗が滲むのを感じる。
「商店街を抜けたら右手に半円の屋根が見えるはずだ。祭りだから人が多いだろうがその分役所の人間も多い。役所には小僧の顔が出回っているはずだから、何が起きても」
「面は外すなでしょ」
面で隠れているからと得意げな顔をするが、声色で分かったのか頭を打たれる。ところで役所というのは元居た世界の市役所という認識で正解なのだろうか。
「役所ってのは、各階級区域に存在していて、中間街では貴族に近い人間たちが、警備から迷子探しまでやる言わば万事屋だ」
「どうやら互いのことを理解し始めたようだね虎三郎君よ」
「忙しい時にあれこれ質問されないためだ」
テントの列に終わりが見え、今度は背丈の高い燭台が立ち並んでいた。燭台は根元から触手のようなものが何本も枝分かれしており、触手にはクリスマスツリーに飾るペッパーランプのように蝋燭が絡みついていた。
「うえっ、何だあれ」
「一々気にすんな」
近づいてみて分かったが、触手は内側から微かに紫色の光を漏らしていた。今にも動き出しそうなほど生物の気配を感じるが、触れてもプラスチック製品のような硬さで冷たく、生きている様子は見受けられなかった。
「離れるんじゃない!」
「ごめんごめん」
きっとこの世界には自分の知らない物が多くあるだろうが、それはまた追々理解していくとしよう。生きるために最優先なのは、僕にとっても好都合な条件を出してくれたケイの元へ戻ることだ。彼らとの会話を多く試みてきたが、ベロニカも虎三郎も結局、自分のことは話したがらない。二人は同じ組織に所属しているようだが、どうにも意見が食い違っている。自由に意見できる職場と言えばホワイト企業なのだろうが、命を懸けた仕事で統率が取れていないのは些か不安である。小屋で感じた二人が放つ妙な空気が、本当に夫婦仲から来るものだったのかということも確証がない。それに彼らの組織はボスが不明だ。対してケイの組織はボス直々に僕と対面した。それが利益のためだったとはいえ、僕を連れ去らずとも、元々計画してくれていた子供を連れ去ったほうが安全だったはずだ。今のところ、ケイに信頼を置くのが妥当であることは間違いないだろう。さらに、ケイと金額差が少ない彼ら二人を囲い込めれば、ケイの組織はより大きくなることだろう。どちらの組織も最終目的は恐らく王政の打倒であると見て良い。僕の成すべきは虎三郎たちとケイの組織を合併させ、虎三郎たちの反感を買うこと無く、ケイの組織に戻ることだ。
気を引き締め直してベロニカと手を結び直す。商店街と違い、白、黒、茶色のどれか二色で構成された建物が不規則に建てられている。右を見ると他とは一線を画す大きさの建造物が見えた。半円の屋根は肌色で、中央は円形に切り抜かれており、青い炎が宿っていた。外壁は真っ白く、装飾の類は一切無い。ここからでは役所の全貌は見えないが、見積もって総合病院くらいの敷地は有していそうだ。
「付いてこい」
建物の並びに規則性が無いため、二階の窓に面する橋を渡ったり、人が横行するバルコニーを通ったりと、歩いているだけで目が回った。中でも驚いたのは、一階に厨房、二階に通行用の橋、三階に客席が用意されている飲食店だ。なぜ通路をそこに敷いたのか理解不能である。すれ違う人々は、半分が膝まで伸びる渋めのコートに無地のブーツ、もう半分が灰色か茶色のパーカーにブーツ、時折ベロニカや僕と同じようなローブと言った具合に、だいたい三種類の服装だった。この場所の雰囲気にパーカーはどう見てもミスマッチだが、誰も突っ込まないということは、それが当たり前の恰好ということだろう。気になる点はそれだけでなく、お祭りという割に子供の数が少ないことも挙げられる。さらに、子供は皆、僕と同じような面を付けており、親は必ずローブを着ていた。
人混みを掻き分けて進んでいると、次第に周囲の建物は触手の燭台に変化しており、百はある炎の下に立っていた。眼前には日本赤十字病院級の巨大な建物が広がっていて、大量の触手も相まって魔王城のように見えた。しかし、人の活動は盛んで、酔っぱらっていた大人たちはいなくなり、若い人がほとんどを占めていた。皆忙しなく動いており、手には大量の書類を抱えている。大人の腰に顔が来ている僕は、広場の奥の様子を人々の隙間から伺うことしか出来ない。夕刻に見た軍服と同じ柄を着る人物が何人か見えるが、黄色で染色されている。黄色の軍服を着る人は一人を除いて、基本的に腕を組んで突っ立っているだけで、欠伸を掻いている者もいた。
「要件のある人はここで資産確認をさせていたただきますので、順に並んでお待ちください!」
真っ当に職務をこなしているであろう男は、人の群れをあたふたと整えていた。「書類を持って動き回っている人間は役所の雑務係だから声をかけるな。黄色の服は見た通り軍の下っ端だ。役所の警備をしているが、注目される行動をしない限り、奴らは何もしてこない。特に、ローブを着ているお前たちには絶対に関わろうとしない。それ以外は一般人だ。たまに店の売り込みのために声をかけてくる連中もいるが、無視して構わない」
「分ったけど、あの叫んでいる人に身分を確認されるんじゃないかな」
「いいや。俺たちは役所の中には入らない。この広間の左手に大きな掲示板が見えるだろう」
確かに、教室の黒板二つ分くらいの大きさの木材板があった。大量に張り紙がしてあり、中にはびりびりに引き裂かれているものもあった。
「まさかあの中から何か探すんじゃないだろうな」
「そのまさかだ」
虎三郎は周囲を見渡してベロニカに頷く。
「水色の軍服を見たらすぐに言え。一番警戒しなければならないのはそいつらだ」
「了解」
人を避けながら掲示板に歩を進める。途中で通行人の腰とぶつかり面が剝がれそうになるが、空いている左手で何とか抑える。右手はベロニカに繋がれたままだ。店の宣伝にベロニカと話そうとする輩もいたが、虎三郎の強面によって撃退されていた。掲示板までもう少しだ。
「ちょっとそこのローブの女性と灰色のパーカーを着た男性!止まってください!」
一行の足がぴたりと止まる。虎三郎は懐に手を入れて身構え、ベロニカは声の方へと振り向き右手を上げる。聞こえたという合図なのだろう。僕の背丈では、陳列する人々で見えないが、先ほど聞いた叫び声と同じだった。
「すみません!今日は掲示板の閲覧も資産確認をしてからでお願いします!」
「分ったわ!」
ベロニカが同じように大声で答え、列へ向かう。
「不味いわね。坊やの金額を見られたらアウトよ」
「俺の資産を分けるしかあるまい」
「いいえ。私のを渡す。少しくらい減ったって問題ないわ」
「それが確かに正解かもしれないが」
「言い争っている時間は無いわ」
「そうだな…」
女性からお金を借りるのは気が引けると感じているのか、紳士的な対応を見せる虎三郎を抑えたベロニカはポーチからイヤリングを取り出すと、それを僕に渡す。
「説明している時間は無いから質問は無し。坊やの金額はたった百円しかない。これはこの世界では異常なことよ。普通は、生まれた時に父か母の資産の少しを持っているの。それは両親の資産が多ければ多いほど、生まれつきの所持金が多くなる。今は私たちの子供で通すのが自然なんだから、坊やは十万程度の金額を持つのが普通。だから今だけ私の金額を坊やに渡すわ」
貧富の差が顕著な理由の一つだ。生まれた時から平等など、どの世界でもでたらめなのだ。
生まれた子供の人生は親で決まる。それにしても、十万だと虎三郎とほとんど同じ金額だ。ベロニカは世間では大金を持っている人物という認識をされるのだろうか。確かに服装は高貴な感じがする。
「受け取って」
イヤリングを掴むとローブの隙間から光が零れた。これで僕の金額は十万百円となり、虎三郎に銃を向けられるようになったわけだ。
「おい小僧。お前が銃を握るような場面があったとして、俺に向けてみろ。迷うことなく俺はお前を殺す」
「そんなことしないよ。僕は銃の扱い方も知らない」
彼らは本場の戦場を駆け抜けてきた言わばプロだ。そんな人間にド素人の僕が敵うはずない。従って、金を持ったからと調子に乗らず、彼らと共に行動しておくのが吉である。きっとベロニカもそれを理解していての行為だろう。
「すみません呼び止めてしまって」
男が列を放置してこちらへ駆け寄ってくる。
「掲示板を見るだけなのにどうしてチェックが必要なのかしら」ベロニカは穏やかに質問する。
「今日は王の生誕祭ということで上がカリカリしてましてね。警備が厳しくなっているの
ですよ」
「あら。それは大変ね。悪人がもしこのお祭りに乗じてまた何かしでかしたら困るわね」
「ええ。そうなんです。なので申し訳ないですが、列に並んでお待ちいただけますか」
「そう。私は私と、私に近い人物が安全なら何の問題もないわ。だから通してちょうだい」
「ちょっと待ってください」
無理矢理通ろうとするベロニカを全身で止める。男の右腕とベロニカの方が接触し、ベロニカは悪女の笑いを浮かべる。
「良かったわね。今その体が胸にでも当たっていたら叫んでいたところよ」
女が使う最悪の手段だ。こう言われると男は何もできなくなってしまう。と、思われたが黄色の軍服を着た男は怯まなかった。
「叫んでもらっても構いませんが、同時にあなた方は軍を敵に回すことになりますよ」彼の強気の発言から、軍はかなりの権力を有していることが分かった。しかし、ベロニカも果敢に食い下がる。
「それは王の命令なのかしら」
「はい。王直々の命令です。了解してくださったなら列へ並んでいただけますか」「なるほど。良く分かったわ。それなら従うしかないわね。ただ、時間が無いの」一仕事終えたサラリーマンのように疲れた表情でベロニカを諭す。
「それなら問題ないです。貴族の方々は優先して通しておりますので、もう十分ほどで順が回ってきます。皆さんを待たせていますので、ここで口論をしている時間はありません。そちらも時間が有限と理解していのでしたら、列へ並ばれるのが得策です。今すぐに」ベロニカはローブのポケットから手持ちの時計を出して時刻を確認した。映画で頻繁に見かけた縁が分厚いゴールドの時計だ。
「もう十二時を回る頃よ」
ベロニカは虎三郎と顔を見合わせる。何か待ち合わせの時間でもあるのだろうか。これから彼らが何をするつもりなのかは聞いていない。ベロニカが付いているからといって、安全なわけでは無い。拷問の役割が旦那だから中断してくれたのであって、組織のボスが僕を殺すと指示を出したら、ベロニカはそれに従うだろう。軍の男に怪しまれない程度に探りを入れるべきだ。
「何か約束があるんだっけ」
ベロニカは焦ったような表情をする。僕に言えない何かをしようとしていることに間違いは無かった。
「ちょっと待ち合わせがあるのよ」
「深くは聞きませんが、まだ貴族の方々をお待たせしてますので」
ベロニカの表情菌は次第に固まっていく。近所付き合いの良い奥様から、旦那を尻に敷く鬼嫁へと変貌していた。
「ちょっとあなた!だから仕事を先に終わらせるべきだと言ったのよ!」
突然の怒鳴り声に、黄色い服の男は後退りする。鬼嫁に叱咤される強面男、虎三郎も口をあんぐり開けていた。周囲の人々も何事かとざわつき始める。状況を上手く読めない僕は、黙って見物しているしかない。
「もうあと一時間もしたら父上との約束の時間よ!三級貴族も来るというのに、父上に恥をかかせるつもり!?二級貴族なのにまだ仕事が終わっていませんと下の人間に許しを請うつもり!?祭りを楽しんでいたあなたのせいで父が恥をかくのよ!?掲示板のチェックをするだけの仕事がまだ終わっていませんってね!!」
「あ…あぁ。本当に申し訳ないよ」
虎三郎は、視線を気にしながら大きめに言葉を返した。状況を理解したようだ。一方、黄色い服の男も何かを察したようで、ベロニカに向けて姿勢を正した。「こ、これは二級以上の貴族様でしたか!職務の深くは存じておりませんが、最優先で、大変無礼だと承知しておりますが、資産の確認をさせていただきます!」それを聞いたベロニカは、朗らかな奥様へと早変わりする。
「結婚って怖い」
「何か言ったかしら?」
独り言のつもりだったが、高級鬼嫁ベロニカ様の耳に届いてしまっていた。
「では私からしてちょうだい」
ベロニカは自ら前に出て、男に背を向けると、束ねた髪を横へ退かして項を見せる。男は恐る恐るベロニカの項を拝見している。チェックをしている最中、ベロニカは僕にウィンクを飛ばした。推測だが、お芝居だよという意味だろう。王に反逆している人間が、国のために職務を全うするとは思えない。しかし、金額を確認される上で、身分を偽るとは考えにくい。この男が問題ないと判断した場合、ベロニカは王から二つ下の階級、二級貴族であるとうことが確定する。
「四十万……も、問題ありません。確かに二級貴族と同程度の所持金です」
ケイと彼らを結ぶという計画は破綻に終わるかもしれない。彼が驚きのあまり金額を口に出してくれたおかげで、僕やケイの無力さを知ることが出来た。ケイとベロニカでは二十万の差が開いている。それも、僕にお金を分け与えた後だ。そして、そのベロニカを従えている人物は、ベロニカと十万円以上の差があるという考えで当たっているだろう。これはいよいよ僕の未来は危ういかもしれない。
「では、旦那様は…あれ…十万三百ですね」
虎三郎の数値を見ると、今度は違った驚き方をした。
「彼とは仕事柄顔を合わせることが多くてね。寛大な父上が許可を下さったのよ」
「そうでしたか。失礼致しました」
「いいの。貴族と中間街の民衆との結婚は珍しいものね」
そうだったのか。ならば、僕たちが家族であると通すことは不自然である。ベロニカはなぜこの形が自然であると言ったのだろうか。
「ではお子様を見せていただきます」
「まさか。面を取るわけじゃないでしょうね」
「出来れば外していただきたいのですが…」
「まさか中間街の人間は、祭りの時は仮面に神様が宿るという教えを知らないのかしら。その日の夜から次の日の朝方まで付けていないと神様は逃げて行ってしまうのよ」
ベロニカの目が鋭く尖るのをみた男は、悪魔の再来を恐れて面はそのままにしておくと誓った。
僕は彼の人生に支障をきたしてしまうのだ。もしも、この男が犯罪者を通したことが知れ渡れば、彼は重い罪に問われかねない。絶対王政のこの世界ならば、王の一声で文字通り首が飛ぶ。僕らがここへ来たということは、墓場まで持っていこう。
面の神様と約束を交わし、腕を彼に突き出した。100100と刻まれた腕を見ると、彼は納得したように僕らへ敬礼をすると列へと戻った。難を乗り越えた僕らは掲示板へと進む。大量の張り紙の前に立つと、ベロニカと虎三郎はしらみつぶしに目を通した。最後の一枚を二人で読み終えた後、黙ってその様子を見ていた僕を凝視する。
「どうしたんだ」
「掲示板に失踪した子供の捜索願は無い。その他に、犯罪者名簿も見たがお前と一致する
特徴のものは無い」
「僕自身名前が不明なのに、犯罪者名簿を見ても分かるわけないだろう」
「名簿にはそいつの特徴や略歴、似顔絵が書いてある。お前みたいな子供の犯罪者がいたらすぐに見つけられる。しかし、掲示板に子供の名前は無い。お前の両親が犯罪を犯して追われる身になり、お前を逃がしていたとしても、軍はすぐにその情報を掴むだろう。仮に、お前やお前の両親が、何かしらの理由で存在諸共揉み消せる組織があるのだとしたら、そいつらは王政を裏から操れるほどの規模だ。しかし、そんな大規模組織の話は表に出ていないし、王の権力は一級貴族でもどうにもならないほどに強大だ。整理すると、お前は本当に所在の無い少年ということだ」
「街に来たのはこの掲示板で、僕が何か指名手配されるような事件を起こしていないかを確かめるためか」
「そういうことだ。この掲示板には、一級貴族から貧民街の犯罪、依頼、時には商売の話を掲載している万事板だ」
「でも僕が犯罪者でなく、ごく普通に暮らす民ならその掲示板に載ることは有り得ないでしょ」
「お前が普通に暮らしている子供ならば、親の目から離れた時点で捜索願が出されているはずだ。身なりを見るに貴族の育ちだしな。反逆者に捕らえられる前に親の元へと返される」
虎三郎はベロニカを見ながら呟いた。やはりベロニカは貴族の出身なのだろう。膨大な資金源はそこから出るものだろう。ベロニカが反逆行為をしている理由は不明だが、仮に貴族がベロニカの背後にいるのならば、僕やケイは足元にも及ばないだろう。仮に、ベロニカの親族までが加担しているのだとしたら、僕が想像しているよりも大規模な組織だろう。
「それに、所持金が一切なかったこともおかしい」
「僕が山で寝ているうちに誰かが持って行ったとか」
「いいや。さっきも言っただろう。金だけの強奪は不可能だ。必ず物を差し出す必要がある」「そうじゃなくて、誰かが自分の靴下なんかを僕の限界金額で売りつけて逃げたとか」「無理だ。お前も体感していると思うが、何かを売るには、それを所有している人間が価値を吹き込む必要がある。強奪は不可能だ」
「そういう仕組みなのか」
「さらに、所持金が無くなった時点で人は死ぬ」
何ということか。僕は先ほどまでたった百円しか持ち合わせていなかった。このことを知らずにそのお金で食べ物なんかを買っていたら、生き延びるための食べ物を受け取って死ぬという本末転倒な珍事件が起きていた。
「非道な世の中で……」
はははと苦笑いをしながら、死の境界線を実感して身震いする。寿命で死んだときは、死んだと気づけないくらい簡単だった。あっという間に人の命は朽ちる。二度も死を実感して、人の呆気なさが分かったような気がした。
「お前には謎が多すぎるが、とにかく現状やることは一つだ」ベロニカは母のような笑顔をすると、再び僕に手を差し伸べた。
「要は、あなたを信じるということなのよ」
得体の知れない少年を心の底から慕うような優しい声色だった。ベロニカは本当に心の優しい人間なのだという、根拠の無い信頼感が湧き出ていた。僕が彼女くらいの年齢ならば迷わず嫁に貰っていたところだ。彼女の魅力は、お金や容姿や体ではなく、彼女の奥底から芽生えている人としての温かな心である。虎三郎は良き妻を持てたことを誇りに思うべきだ。
「よろしく頼むよ。ベロニカと虎ちゃん」
虎三郎とは打ち解けるのが難しそうだったので、あだ名をつけることにした。彼はむずがゆそうに体を震わせると、低い声で唸った。
「死んだ曽祖父のあだ名だぞ。大好きだった人の名を受け継いだのだ。ありがたく思ってほしいよ」
「調子に乗るなクソガキ」
楽しそうに笑うベロニカの手を握りしめる。ベロニカは右を、虎ちゃんは左を歩く。認められたとは言え、これから僕が何をさせられるのかは未だ分かっていない。ケイの安否も不明だ。そして、僕はケイの組織とベロニカの組織の両陣営と関係を持ってしまっている。しかし、心は決まっていた。ケイではベロニカの組織に負けてしまう。協定を結ぶどころか、ケイは支配下に置かれる。つまり、僕の進むべき道は自然と一つに導かれていた。拷問されたことは水に流して彼らに協力する。いいや、既に僕自身が子分として働かされる立場に立っている。いつの間にか誰かの言いなりに働いている。生前となんら変わらない人生の一歩を踏み出してしまっていた。結局、人の敷いたレールを外れても、レールの外側には誰かが敷いたレールが存在している。何回脱線しても、何回自分で道を作り出したと思っていても、現実は他人に導かれている。そうして僕は、いや、ほとんどの人間はその事実に目を瞑って、整った道を荒野だと勘違いして進む。
そんな考えを振り払って、元来た道を引き返した。躓くことも、靴に砂利が入ることもなく、雰囲気を楽しみながら当然に歩いた。馬車へと辿り着く少し前に、ベロニカは服が並ぶテントの主人に引き止められ、僕と虎ちゃんは向かいのテントの主人に呼ばれた。珍しい書籍があるから見ていけとの話だった。ベロニカと僕らはその一瞬、互いに背を向ける体制になった。首を回して、僕らは少しだけ見ようと言って、商品を眺めていた。陽気に宣伝する主人を見ると、貧富の差が激しいこんな世界でも、頑張る人は頑張っているのだと元気を貰えた。虎ちゃんに共感を求めるも、作り笑いが溢れているこの場所に嫌悪を感じると、真っ向から否定された。そして、次にベロニカの方を振り返った時には、そこにベロニカの姿は無かった。