第一幕 決死の賭け事
一幕 決死の賭け事
到着した場所は、辺り一面に連なるコンクリートジャングルの一角だった。上を見上げれば橙色の屋根が遠方に見える。適当な石を集めてくっつけたような壁面は冷気を放っており、とても人が満足に暮らせるような場所ではなかった。入口は辛うじて人が出入りできるくらいの大きさで、無理矢理木をはめ込んだような造りだった。内部は閑散としていて、外壁と同じ冷たい石の上に、丸太が幾つか転がっているだけだった。
「この建物に入るのは初めてみたいだな」
帽子を壁の窪みに収納した後、青年と男は丸太の上にどかんと座る。物珍しい屋内を観察していると、青年は隣の丸太を二度叩いて僕の注意を惹いた。
「この丸太が椅子と机の代わりだよ。酷いもんさ。日があるこの時間でも読み書きするには暗すぎる。じめじめしていて負のオーラが漂うこの区域は、挙句の果てに人肉の腐敗臭がする」
青年は悲しそうな笑みを浮かべて、遠くの存在でも見るように僕を眺めていた。それから、腰の後ろで手を縛られている女性の方を向いて何やら目で合図を送る。彼女はその意図を理解したのか、汚いうえにごつごつした石の床に膝を付いた。痛みを堪えているのか、眉間に皺が寄り、歯を食いしばっていた。
「レディーの苦しむ顔は見たくねぇが、リーダーはこいつを殺すのかい」男のその言葉を耳にして、久しぶりに腹が立った。
「お前たちが何者なのか知らないが、彼女は精一杯生きて今の地位を手にしているはずだ。あの体術も、相当な努力を積み重ねて身に付けたはずだ。そんな彼女のことを、銃に頼って殺すだ殺さないだとか言っているのを見てると吐き気がしてくる。お前たちに彼女より誇れるものがあるか?軍ってやつがどれくらい凄いのかは分からないが、簡単に人を殺そうとするような連中よりは立派だよ」僕は卑怯な手を使いながら人を蹴落とす人間が大嫌いだった。親の権力、いじめっ子の子分、可愛い皮を被った性悪女。そんな虎の威を借りているだけの人間が調子に乗っているのを見ると虫唾が走った。年老いてからというもの、そんな感情を抱く余裕など無かったが、若いというのは不便なもので様々なことを考えてしまう。つい勢い任せで罵声を浴びせたが、いよいよ殺されてしまうだろうか。
「勇気のある子だ」
青年は丸太から腰を上げると、僕の方へと歩み寄って目線を合わせた。人の心を透かして見えそうな瞳を凝視して、興奮する心を落ち着かせる。
「君は今の言葉を発するとき、それから発した後に恐怖は感じなかったか」
どうせ怒らせてしまったのなら仕方がないかと、考えることを放棄した。彼女が命を張って助けてくれようとしたことに感謝をしながら、助かりそうにないこの命で最高の皮肉を口にする。
「人前で屁をこいたときくらいヒヤッとしたかな」
「この野郎!」
巻き舌で叫びながら屈強な男が飛び掛かろうとするが、青年がそれを手で制止する。それから高らかと腹を抱えながら笑ったと思うと、今度は僕へ向けて手のひらを見せた。
「坊やなんて呼んで悪かったね。君を拾ったのはラッキーだった」予想外の言葉に困惑しながら差し伸べられた手の意味を考える。
「俺たちに協力してくれという手だ。君は俺を頼って記憶を取り戻す。代わりに俺を手伝う。どうだい?イーブンな話だろう?」
上手い手だった。記憶を取り戻す手伝いをしてくれるのはありがたい。しかし、妙な話の付け方に、裏があるのではないかと勘ぐってしまう。加えて、彼らと共に行動するとなっても、彼らのことを知らなくては裏切られた場合に対処のしようが無い。
「その前に、君たちのことを詳しく知りたい」
甘い話のように聞こえるが、彼らが最初に要求していたことと変わりないということを忘れてはならない。危険な橋を渡らせるのに、脅すことは一旦やめにして諭してみようということだ。
「おいおい本気か?少年は俺たち自信で自分のことを調べろと言っているのに、少年は他力本願なのかよ?」
青年は手を自分の方へ戻して、嫌な笑いを混ぜながら馬鹿にしたように言葉を吐く。勿論、彼の言うことは正しくて、僕は反論する余地もない。
「いいよ。分かったよ」
黙り込んでしまった僕に呆れたのか、大きく溜め息を吐いてから再び丸太に腰を下ろした。
「ヴァンはその女を上に連れていけ。聞かれたら面倒だ」
「了解」
「体を触った瞬間、手首もろともこの糸を引きちぎって噛み殺してやるわ」
男に担がれる前に自ら起立して階段を上がる。その姿を見た青年は小さく笑う。
「さて、少年よ」
僕の恰好をまじまじと見た後、彼の正面にある丸太を指で差して座るように指示した。
「どうだ。その椅子と呼べるかも分からない丸太は。冷たいか」
断面は鑢で削ってあるのか、木くずが肌に刺さることはなかったが、人が密着する品とは思えない出来栄えであることは確かだった。フィット感も無ければ冷たささえ感じてしまう。
「温もりってやつは一切無いな」
「百点の答えだ」
整えられていない丸太の側面を素肌で撫でたと思えば、木くずで切れた手を見せた。
「この場所は貧民街と呼ばれている。知らないか」
「ああ」
「肉体的にも、精神的にも、人が温かいということを知らずに、血を流しながら働いて朽ちる場所さ」
陰気臭さが漂い、杜撰な建物が並んでいる理由を理解した。貧困層の暮らす場所を改善しようなどという人間はいないだろう。その場所に住む人々を見下し、学を与えず、宝石を掘り出そうともしない。そうやって貧困という層は奥行きを増す。元居た世界でも仕組みは同じだった。貧しい人々は、何とか数で反乱を起こし、革命として終わらせなければ抜け出すことは出来ないのだ。僕は、青年が何をやろうとしているのかを何となく予想してしまう。
「軍に隠れてこそこそと話をしていたのも、何やら怪しい計画を企んでいるのも、もしかして、貧民脱却の革命を成し遂げようとしているのか」青年は驚いたように僕を見つめる。
「少年…本気で言ってるんだよな?」
そんな計画など微塵も立てていなかったら、僕は推理ごっこをしているだけの恥ずかしい人間だ。恥を掻きたくないから推察通りであってくれと祈るが、もしも読みが当たっていれば僕も革命に付き合わなければならなくなってしまうという考えが浮かび、最終的にはどっちでも良いという結論に辿り着いた。
「本気さ」
「俺のこの恰好が…貧民に見えると?」
言われてみれば、見た目はかなり裕福層である。しかし、現に貧民街とやらに居座っているではないか。
「いや…高そうな服だけど…ここを拠点にしてるんじゃないのか…?」
「混乱してそうだね」
「何もわからないからな」
「ふむ」
青年は、親指に顎を乗せて熟考する様子を見せる。そして、二人の間を沈黙が流れ過ぎる。
「ああ済まないね。良し!君は本当に記憶喪失ということで決め打とう!」
何が引き金になったのかは不明だが、この不毛なやり取りを終わらせる一手を決めてくれたのは好都合だった。反乱を宣言している割に、簡単に僕を引き入れたり、軍の人間を拠点へ連れ込んだりと、危機感が足りないような気がした。拠点内を見渡しても、作戦を示した書類や戦闘を想定した武器や防具などは一切存在しない。口調や態度が強いだけで、実際は大した連中では無いのかもしれない。
「まあ。ありがたいかな」
「何かまだ不満そうな顔だな」
「色々と疑問はあるんだけど…そうだな、僕に何をやらせたいのかを聞かなきゃだね」
「まぁ簡単な話さ」
それから彼は淡々と話しを続けた。しかし、序盤からどうにも話が呑み込めない僕は、知らないことに対して一々突っ込みを入れる。彼は鬱陶しいと嘆いていたが、僕の記憶を取り戻すと言った彼の宣言を盾に、丁寧に説明させる。
青年は元々、今回の作戦に別の子供を使う予定だったと言う。家族を捉えたと脅して、その子を強制的に使用する。残酷なやり口だとは思ったが、この世界の情勢を理解してからは納得できる方法だと思った。建前かもしれないが、その子がしくじっても、口止め程度に脅して両親は開放する予定だったそうだ。基本的に彼らは、軍もしくは意図的に組織を邪魔しようとする人間以外は殺さないようにしているらしい。仲間の数は教えてもらえなかったが、作戦の内容を聞く限り二人では無理なものだった。組織の目的は、王政の打倒、貧民の解放の二つ。この世界では、大昔から絶対王政が敷かれているようで、貧民は貧民から上ることは無く、貴族は転落しない。貧民に幸福は無く、貴族に不幸は無い。その間に位置するのが、最も人口が多い中間層の人間だと話していた。貧民は金に目が無く、金を積まれればその通りに行動をするために信用出来ないらしい。従って、その子供と家族には二十四時間の監視を付ける手筈だったようだ。もし、その子が軍へ告げ口をするような動きを見せれば、その場で殺せるようにと。彼らも命懸けなのは承知しているが、純粋に生きている人々を巻き込むのは如何なものかと口出ししてしまった。しかし、ここでは殺す殺されるが当たり前のようで、貧民街に立ち込む異臭は、死体の腐敗臭であると説明された。死は、当然に身近に存在し、つい先日、組織の一人が大量の資金を騙し取られた挙句、殺されてしまった。その資金を取り返すために、今回の作戦を立てたそうだ。 長い前置きを放し終え、ようやく本題に入る。
「その金を奪ったやつは、貧民街の中でも金があるやつに麻薬を売りつけ、金を蓄えている。俺の天才的作戦でそこを突くのさ」
自慢気に言いながら僕の胸をつついてくる。君の方こそ鬱陶しいよと呟きながらその手を払い、続きを簡潔に話すように促す。
「麻薬の依存性は大人なら周知の事実さ。しかし、子供はそういったことを理解していない。だから子供のうちから麻薬漬けにして、生涯そいつらから稼ごうっていう算段なんだ
ろうね」
「なるほど。だからその子供役を買ってくれと」
「そういうこと」
指を鳴らしながら頷く青年に容赦なく苦言を呈す。
「そんな都合良く売人からお声が掛かると思えない。それに、こっちから麻薬をくれなんて怪しすぎて警戒されるぞ。一悶着あった後なら尚更じゃん」
「俺がそんな馬鹿に見えるか?」
表情を急変させ、不快であるとその目が語っていた。
「ただ聞いただけ」
「そうかそうか」
特有の不敵な笑みを浮かべた顔に戻った。今後、狂気を纏った青年と付き合っていくことになるのかと思うと嫌気がさした。
「他のメンバーの動きはまた説明するけど、その前に。どうする?やるかい?」
「野暮なことは聞くな」
「はっは。少年も賢いね」
最初に脅された時点で、彼らの作戦に介入せざる負えない状況になっていた。きっとこれも彼の天才的な作戦というやつらしい。ここまでの流れは即興で行っていると唐突に語り始めた。彼の巧みな言葉遣いや、人に有無を言わせない狂気な態度で、僕が作戦の内容を聞くであろう状況をセッティングしたと。基本的に殺さないというのが本当ならば、最初は僕を脅しはしても、殺すつもりではなかったと話す。しかし、彼の態度や彼女を連行する様子を見た僕は、彼の狙い通り恐怖に支配された。吹っ切れたのは予想外だったらしいが、その心情を利用して、自然な流れで僕の記憶を取り戻すという条件を付ける。これで、殺さないというモットーを守り、逃がすというリスクをも背負わないという完璧な流れが出来上がった。僕の記憶喪失が本当なのかという点が定かではなかった為、補強として貧民街の腐敗臭から死体を連想させ、死への恐怖を煽ったと言った。
「何となく、断ったら殺されそうだと思ったよ。基本的に殺さないがモットーなんて言われても、あれだけ恐怖を植え付けられたら…ね」「まあこんなこと、後付けでそれっぽいこと言えば何となくそうだったような気がするってだけで、あれなんだけどもね」
「語彙力よ」
完璧な作戦にはまったと感心したこの気持ちを返して欲しいと苛立ちを見せるも、バレバレの作り笑いで誤魔化された。
「おーい。終わったよー」
青年はヴァンを呼び戻し、赤髪の女性と行動を共にするようにと指示を出す。
「考えが纏まった。ヴァンいいか」
「俺はリーダーに付いていく」
「僕もヴァンって呼んでいいかな」
共に行動する仲として、友好を深めておくことは大切だろう。それに、初対面時に何と呼ぶか決めておくことは、後々になって、互いに今更何て呼べばいいですかとか聞けない、というもどかしさを生じさせないために大切なことだ。
「バッドマナーだ。まずは名乗るんだ」
男にそう言われ、無意識に名前を名乗ろうとするも、寸出のところで堪えた。ここで名前を名乗ってしまえば、自分のことも知らないという設定が崩壊しかねないからだ。
「名前…」
「ああ。記憶喪失ってのは面倒だな」
男は腹立たしそうにパーカーの上から頭を掻く。
「まあいいや。ヴァンと呼んでくれ」
「ありがとう。よろしくね。ヴァン」
「よし」
青年は両手をパチンと叩いて立ち上がる。
「不思議な少年よ!逃がしはしない!俺と闘い終わるまでな!」
八十年という生に幕を下ろしたはずの僕だったが、今度は異世界の尋ね者として命を吹き返した。未知の世界で、常識に反する行いを強要される。しかし、どうしてか不安や恐怖は薄れていた。年下を相手にしているからだろうか。クリア後のボーナスステージと捉えているのだろうか。それとも、好奇心が勝ってしまっているのだろうか。この世界では懸命に生きよう。僕は幼い子供だ。希望のある、無限の可能性を秘めている年代だ。後悔に蝕まれるだけの大人にならないよう、必死に生きるのだ。