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苦手な方はご注意ください。

乱れ咲く華々~百合短編集~

ゼフィランサスの愛

作者: an-coromochi

毎週土曜日の夜、1万文字以上、2万文字以内程度の百合短編を挙げさせていただこうかなと考えております。


今回は、少しだけホラーテイストな社会人百合となっています。


拙い文章にはなりますが、週末の暇つぶしにでもどうぞ!

(1)


 人間、求めたように求められるとは限らない。


 片思いなんて今更面白くもなんともない話だし、テレビを点ければ、至るところで一方的な愛を注がれて有名になっていく人々を見ることもできる。


 人が人を想う気持ちのベクトルは、東京の路線図みたいに複雑なのだ。


 そう考えると、これもまたその一つなのかもしれない。


 大竹三咲は仕事を終え、弱々しい月に見守られながら自分のアパートに戻って来ると、自室の前で一度足を止めた。


 備え付けられたポストの脇に置いてあるカラフルな物体に視線が吸い寄せられる。


 ふわりと香る匂い。


 ピンク色のリボンがあしらわれている赤い包装紙。


 その間に包まれているのは、十本程の白い花だ。


 数秒迷ってから、三咲は自然な手付きで花束を片手に掴んだ。空いた左手をバックの取手にくぐらせ、鍵を開けてドアノブを回転させる。


 築年数が比較的若いこのアパートの扉は、田舎の実家の玄関扉が鳴らしていたような甲高い悲鳴は決して漏らさない。


 玄関のシューズボックスの上に、籐かごの小さな小物入れがある。そこに家の鍵を放る。何に使うかも分からない鍵とぶつかり、カチャリと音を立てた。


 自分の顔のすぐそばから、花特有の何とも言えない匂いが漂ってくる。


 白い数枚の花弁が規則的に並んでいる様を見て、可愛らしいと思う一方、不気味だとも思ってしまう。


 三咲は一つため息を吐いてから、その白い花束をキッチン台の上に置いた。

 鍵を置いたときのような粗雑な仕草ではなく、丁寧に、そっと。


 可愛らしい花だったが、一つだけ難点があった。

 それは差出人が不明であったということだ。


 そう、いくら可憐な花でも、不気味さが混じれば、素直に楽しむことなど出来ない。当然だ。


 部屋の電気を点けて、荷物を机の上に置くと、シワにならないよう気をつけながらスーツを脱ぐ。そうしてラフなジャージに着替えると、出窓のほうに足を向けた。


 月の光と、外の街灯の光に照らされた出窓の縁には、厚い硝子で作られた花瓶がぽつんと乗せられている。


 加工された表面が外の光を反射してキラキラと輝いており、その中には、ほとんど萎れかけの花が十本ほど入っていた。


 哀れむように目を半分ほど伏せると、三咲はその萎びた花を束にして抜き取った。その拍子にすっかり水分を失っていた葉がカサカサと床に落ちる。

 それからキッチンにある新しい花束と入れ替えて、古いほうはゴミ箱の中に捨てる。


 私の家に、差出人不明の花束が届くようになったのは、もう半年近く前からのことである。


 最初のうちは誰かが間違って置いたのだと思って放置していたのだが、次の月も、そのまた次の月も、決まって第一週の土曜日か日曜日になると花束が送られてきていた。


 いつも、赤い包装紙とピンクのリボンで白の花を包んであり、三度目あたりから、これはどうやら異常なことが起こっているらしいとようやく気が付いた。


 いわゆるストーカーというヤツなのだろうか、警察に連絡するべきだろうか、そうして悩んでいるうちに、既に半年が経過しようとしていたというわけだ。


 郵送ではなく、誰かが直接持ってきているらしいというのも気味が悪い。

 つまり相手は、その気になれば、今こうして仕事帰りで疲れ切っている私の元を訪れることもできるというわけなのだから。


 …だが、その一方で私は何となくこの白い花束が届くのを毎月待っていた。


 もちろん、無償の好意を向けて来る相手に興味があるわけではない。

 ただ、贈られてくる花束との奇妙な共同生活が非日常である気がして、面白味を感じていた。


 花に造形の深いわけでもない私では、この花が一体どういう種類のものなのかも分からなかったが、相手の意図を知りたいとは思わないでもなかった。


 仕事も忙しく、家には眠りに就くためだけに帰っている。


 地元から遠く離れているこの町では数少ない友達に会うこともできない。それに私の連絡不精も相まって、すっかり誰とも疎遠になってしまっていた。


 会社以外から連絡が来ることなど、せいぜい年に数回家族からあるかないか、というレベルだ。

 残念ながら、恋人もいない。強いて言えば、大学を卒業して以降、八年ほどの付き合いがある仕事がパートナーだ。


 自分で考えておきながら、少しだけおかしくなって口元が緩む。くだらない冗談を思いついて、一人で笑うようになったのは、この味の薄い暮らしのせいかもしれない。


 明日も仕事だ、さっさと食事を済ませて寝る準備に移ろう。


 そう考えていた三咲の耳に、聞き慣れたアラーム音が届いた。


 どうせまた職場からの連絡だろう、と辟易した気持ちでリビングに戻り、バッグの中から携帯を取り出す。


 しかし、ディスプレイには着信を知らせる表示は出ておらず、アプリやメールを開いても新しいものはなかった。


 ファントムバイブレーション、という言葉を思い出しながら、肩を竦めてベッドに携帯を放る。

 どうやら仕事三昧の日々のおかげで、幻聴まで聞こえてきたらしい。


 正直なところ、ストーカーかもしれない相手から送られてくる花束より、仕事先から毎日もれなく貰えるストレスのほうがよっぽど迷惑だった。


 それでも、生きていくためには働くほかない。


 私にもう少し可愛げがあれば、誰か養ってくれる相手でも探して、専業主婦でも始めればいいのかもしれないが、そういう期待を自分の未来にするのは、とっくの昔にやめている。


 ふと、気になることがあって、三咲は再び携帯を手にした。そして、連絡先から『白川』の名前を選んで、メッセージを送る。


『お疲れ様。大竹だけど、今日の資料とても分かりやすかったよ。これからもこの調子でね。ただ、少しだけ記載が足りない箇所があるから、明日また、職場で伝えるね』


 絵文字の一つでも入れようかと思ったが、自分らしくないことも分かっていたので、思いとどまって送信を押す。


 それから携帯を放り投げたのだが、すぐに返信が返ってきて、しょうがなくまたそれを拾い上げた。


『お疲れさまです!嬉しいです、ありがとうございます!三咲さんは褒め方が上手なので、とってもやる気が出ます!不足の点、すみませんでした。また明日、楽しみにしています!』


 絵文字が入っていないことが、私の文章よりも俄然気になるメールは、今年の新入社員で、もうじき一年目が終わろうとしている白川菜々のものであった。


 ぽん、と連続で送られてきたスタンプを見て、苦笑いが浮かぶ。


 褒め方が上手も何も、別に普通だろう。能力に対する正当な評価を行っているだけで、しかもそれは、上司である私にとって当然の仕事なのだ。


 それにしても、楽しみにしていますって…。指摘されることが楽しみだと言えるのは、かなり得な性格なのではないか。


 白川はとても優秀な社員だった。それに加えて容姿も可憐で、性格も今どきの若者にしては抜群に素直で忍耐強い。労働環境について、夢見がちな新入社員が多いこのご時世、彼女はかなり貴重な人材だった。


 その天真爛漫さにどれだけ助けられたことか、数え始めるときりがないほどだ。


 彼女が私を気に入ってくれている原因は分かっていた。


 新入社員の歓迎会のときに、私が白川を課長のセクハラから守ったからだろう。

 だが、これまた守ったというには大袈裟なもので、私はただ、やたらに酌をさせようとすることを咎め、やたらと距離の近い課長から白川を引き剥がし、自分の隣に座らせただけである。


 もう一度、彼女から送られてきた文面に目を落とす。キラキラした光さえ見えてくるのではと思えるこの文章も、もしかすると、白川なりの処世術なのかもしれない。


 自分を守ってくれそうな人間をそばに置くことは、上手に仕事を行う上で効果的なこととも思える。私が白川から『癒やし』を頂戴していることもそれに似ているのだろう。


 それを考えれば、私と白川は共生関係ともいえるかもしれない。


 また白川から連絡が送られてくるが、仕事とは関係のないことで、自分が育てているサボテンの話についてだった。


 興味ある話題とは言い難いものの、白川が送ってきた、サボテンと笑顔の彼女の写真に肩の力が抜ける心地がして、それを少し考えてから保存する。


 多少気持ちの悪い行為かもしれなかったが、深い意味はない。


 彼女は職場で自分の送った写真の話題を頻繁に口にするため、保存していつでも思い出せるようにしておかないと、すぐに口を尖らせてしまうのだ。


 そういう彼女もまた可愛らしくはあったが、機嫌を戻すのに時間を要するため、対応策を打って損はない。


 それから色々とするべきことを済ませた後に、寝る前の紅茶でも楽しもうとキッチンへ向かうと、玄関のほうで何か小さな物音が聞こえた。


 体を停止させ、音のしたほうに注意を向ける。数秒経ってから、躊躇なく足を玄関のドアへと向かわせると、素早く覗き穴に顔を近づけた。


 狭苦しい視界の中には、暗闇以外は何もなく、隣の民家との間にある虚ろなコンクリートの壁だけが寡黙に立っているばかりだった。


 気のせいだったのか。最近はストーカーといい、仕事といい、精神的に疲れる、考えさせられることが多かったため、神経が過敏になっているようだ。


 そう思い、体をドアから離そうとしたとき、ふと、レンズの隅に映った自分の家のポストに目線が吸い寄せられた。


 錆びてしまった金属製の蓋が、音もなく静かに揺れているのを、三咲の目はハッキリと捉えていた。



(2)



 山積みになった書類を整理し、引き出しの中にしまう。だが三段とも既に中身はいっぱいで、三咲の手は資料を掴んだまま空中で静止してしまっていた。


 片付けは苦手だ。家には不用品は持ち込まないため散らかるということはないが、会社のデスクはまた違った。


 不要物が多すぎるのだ。そのくせ、自分の独断だけでは捨てられないものばかり。このペーパーレスの時代に…。


 非効率なシステムに飽き飽きする傍ら、そんな言い訳ばかりを頭に浮かべて、掃除をサボってきた自分にため息を一つ零す。


 三咲が息を漏らすのを聞いていた隣のデスクの同僚が、どうかしたのかと問いかけてくる。それを適当にいなし、片付けを諦めて仕事に戻る。


 オフィスは異様なまでに涼しかった。寒い、といったほうが的確だろう。夏場はこれが困るのだと、真上にあるエアコンを睨みつけてから両腕を静かに擦る。


 すると、いくつか向こうの島から、猫なで声が聞こえてきた。


「あのぉ、エアコンの温度少しだけ上げてもいいですか?私、冷え性で…」


 彼女の周りにいた男性社員は、そのお願いを喜んで聞き入れ、我先にと立ち上がり、冷房のスイッチへと急ぐ。


 温度操作のスイッチぐらい自分で押させればいいものを…。


 彼女が笑顔で感謝してくれるのを知っている男たちは、まだ寒いときはまた言うように告げて、そのデスクから離れていった。


 自分よりも十歳近く若く見える女性は、今年の新入社員である白川菜々だ。


 実際の年齢差は五、六歳差であろう白川は、世話をしてくれた男性陣に手首だけを左右に動かしてみせると、くるりとこちらを振り返った。


 反射的に顔を逸らす。切れていく視界の隅に、私に笑顔で手を振る彼女の姿が見える。


 どうして自分がそんな逃げ出すような真似をしたのかは分からなかったが、時折こういうことが私にはあった。


 学生時代からあの手の人種には、頭を悩まされた。


 彼女らは頼んでもないのに絡んできて、私を自分たちの青臭いメモリーの一部に吸収しようとしてくるのだ。


 当然、白川はそういったことをしてくるわけではなかったし、前にも言ったように私にとっての癒やしであることに間違いはない。


 ただ…、みんながいる昼時のオフィスではやめてほしかった。


 三咲がやるせない気持ちを胸にボールペンを片手でくるくると回していると、いつの間にかそばに来ていた白川が声を発した。


「三咲さん」私の名前を呼ぶ柔らかな発音に、不思議と体がむず痒くなる。「…どうしたの?白川さん」


「もう、寒くないですか?」


 その一言に、一瞬言葉を詰まらせる。そんな三咲の反応が面白かったのか、白川はいたずらっぽい微笑みを浮かべると、ぐっと身を寄せてきた。


「ちょっと、やめなさい」今にも抱きついてきそうな様子だ。


「えへへ、ごめんなさい」


「謝るくらいなら、早く離れてくれる?白川さん」


「そんなこと言わないでくださいよぉ、寒かったんですよね?冷房」


「まぁ…」


 素直さにイマイチ欠ける三咲の返答に、白川は体を揺らして喜んだ。


 彼女は仕事に関しては基本的に有能で、難しいタスクであっても、決して無理だと簡単には口にしない人間だった。つまり、仕事面については誰からも評価されるタイプの人間というわけなのだ。


 ただ、こうして学生気分が抜けきれていない言動があることだけが、玉に瑕だった。


 白川の体を軽く押しのける。苦笑いのままで拳二つ分ほどの距離を取った彼女に、引き出しの中から取り出したA4用紙を渡す。


 彼女は目をぱちぱちとさせた後、その紙が何なのかを悟ったようで、突然頬を膨らませて言った。


「えぇ…。改訂ですか」


「何?貴方が渋るなんて珍しいわね、白川さん。不服なの?」


「不服です」と胸を張って口にする彼女。


 これは上司として、しっかり毅然とした態度を取らなければなるまい。


「いくら先方にお渡しする資料ではないとはいえ、これは仕事なのよ。文句を言わないで」


「え、あぁ、違うんです。改訂はもちろん行います。ただ…」


「ただ?」


 そう三咲が短く問いかけると、白川は少し恥じらうように視線を背け、何となく掛け時計のほうを見ている様子で口を開いた。


「折角、三咲さんと話せているのに…。すぐ仕事の話かぁ、と思いまして…」


 こちらの顔色を窺うように、白川が上目遣いで見上げてくる。


 彼女のこういうところも苦手なのだ。

 同性さえも唸らせる、自分自身の容姿について十分に理解している。さらに、それを発揮させる方法も。


 彼女の言っている事自体は、仕事をする者として、些か遂行意識に欠けるものだった。そのため、あえて険しい表情を作り、ビシッと低い声音で叱る。


「あのね、白川さん。私たちはここにお友達になりに来ているわけではないのよ。貴方の好きなスイーツの話や、可愛いお洋服の話は、帰ってからにしなさい」


 三咲に睨まれ、しゅんと肩を落とした白川は消え入るような声で、「すみません」と呟いた。


 その弱々しい姿に罪悪感を覚えるが、その気持ちを胸に立ち入らせないように腕を組み、もう一度彼女を見やる。


「白川さんはいつも真面目にやってくれるし、優秀だからあまり何も言わずにいたけれど…。こういうことは別。きちんと公私は分けて仕事に臨みなさい」


 白川はもう一度小さな声で謝罪すると、あからさまに顔を俯けて落ち込んだ様子を見せた。


 それを目の当たりにした周囲の同僚、とりわけ男性社員が、何事かと近寄って来る。


 三咲は、そうした鬱陶しい羽虫みたいな連中を睥睨し、追い払うと、粛々と自分の言葉を聞いている白川を観察した。


 伏せた瞳にかかるまつ毛は長く、後ろでひとまとめになった黒々とした長髪は艶があって若々しい。平均より少しばかり低めの身長も、活発で小動物みたいな彼女の性格にマッチしていた。総評して、人から可愛がられるタイプの人間であることは間違いない。


 自分が彼女と同じ歳の頃、こんなにも世渡り上手だっただろうか。あるいは、こんなにも艶やかな容姿だっただろうか。


 自分もこんなふうだったなら、家と会社を行き来するだけの人生から逃れられただろうか…。


 考えても仕方がない。逆行しない時間の流れには、大人しく従う他ないのだから。


 三咲が考え事をしているうちに、白川が顔を上げた。


 くりくりとした丸い瞳が、蛍光灯の光を宿して燦然と輝いている。三咲は、それを真っ向から見返しながら、彼女が何か口を開く気配を察し黙った。


「あのぉ…。業務時間中に、三崎さんと、仕事とは関係のない話をするのが駄目なんですよね」


 どうしてそこを再確認する必要があるのか。頭の良い白川なら、そんなこと聞くまでもなく理解できるはずだ。


「ええ、一切するなとは言わないけれど…、節度は弁えなさい、ということよ」


「そうですか」


 また落ち込むかと思われた白川だったが、むしろ彼女の表情にはちょっとした喜びのようなものが灯っていた。


 白川は顔を動かし、周囲が自分たちを遠巻きに観察しているのを確認すると、再び三咲のほうへ体と顔を寄せた。


 ストーカーらしき人物が送ってきている、あの花の匂いに負けないぐらい甘い芳香だ。


 三咲が文句を言う暇も与えず、至近距離まで顔を近づけてきた白川は、三咲の耳元でぼそぼそと囁いた。


「じゃあ、プライベートならば大丈夫なんですね?」


「そうなるわね」さすがに聞き分けが良い、そう三咲が思っていた矢先、白川が当然のことのように笑って言った。


「良かったぁ。それなら今度からはそうしましょうね、三咲さん」


「…えっと、白川さん」彼女のほうを振り向く。すると、思っていた以上に近い位置に彼女の顔があって、びっくりする。それを表に出さぬよう気を付けて、声を発する。


「どういう意味かしら?」


「言葉通りですよ」


「というと…、プライベートで話をするの?」


「はい」


 歯切れの良い返事だ。先ほどまでの囁き声とはまるで違う。


 どうにも白川の言う言葉の意味を理解しかねていた三咲は、困惑したような面持ちで眉間に皺を寄せて尋ねた。


「えっと、誰と?」


「え?」今度は彼女が困っていた。


「誰とプライベートで話すの?」


「誰って…、三咲さんですよ…ね?」


「どうして私に聞くの」


「いえ、だって、三咲さんが変なこと聞くから」


「最初に変なことを口にしたのは白川さんでしょ。というか、私とプライベートで話すの?何故?」


「仕事中は駄目だって言われたので」一見すると苛立ったように見える三咲の表情に、物怖じせず白川は答える。


「いえ、そこではなくて…。どうして私とプライベートで話したいの?」


 その問いかけに、一瞬目を丸く見開いた白川だったが、すぐに頬を赤く染め、視線を左右に振った。


「どうしてって、えぇ…、いいじゃないですか、今は、とりあえず」


「良くはなくない?」


「いいんです!はい、この話はお終い!」白川が、そう言いながら手を叩いた音で、周囲の視線が再び自分たち二人に注がれる。「あ、すいません」


 白川は、愛想の良い声と態度で謝った後、小さく舌を出した。


 あざとい仕草にも思えたが、彼女にはそうした所作の中にも、反感を感じさせにくい自然さがあって、とても堂に入っていた。


 三咲は、そんな白川の顔を見ながら思った。


 赤い。真っ赤な舌だった。生命の躍動を感じさせるような、そんな鮮やかな赤だった。


 自分は、彼女と比べるとどうだろう、あんなに赤々と、色づいているだろうか、とわけもなく考える。


 そんなどうでもいいことを考えていたせいで、彼女が、「それでは今夜あたりにでも、電話しますね」と告げて遠ざかっていくのを止めることが出来なかった。


 胸の前で組んでいたために、伸ばすことも出来なかった手が、ほんの少し体から離れる。


 少し離れた場所で、いつも仲良くしている同僚が私を見ていた。彼女は自分の手でメガホンの形を作り、わざとかすれた声で私に言った。


「鬼の三咲も、白川さんには敵わないわね」


「うるさい、しばくわよ」


 同僚とは違い、普段の声量を出して答えた三咲のほうを、周りの社員がまたじっと見やった。ごほんと咳払いしてから、「失礼」と呟く。


 どうにも調子が狂う。今朝、家を出る前に起こったことも相まって、私の中のメトロノームが正常に機能を果たしていないようであった。


 無意識で、少し離れた席にいる白川へと視線を向ける。すると、彼女も注目を集めていた三咲を見ており、誰にでもするような愛想笑いを浮かべて、手首だけ動かす奇妙な合図を行ったのだった。



(3)



 時計の短針は、既に夜の十時を回っていた。


 とりわけ仕事が長引いたわけでもなかったが、ぼうっと考え事をしているうちに、一駅降り過ごしたことが原因だった。


 生まれて初めてのミスに、呆れ混じりのため息を吐きながら家の玄関を開けた。だが、すぐに踵を返して、一度ポストの中を覗き込んだ。


 中には何もない。


 その事実に、ほっとする反面、ほんの少しだけ残念な気持ちにもなる。


 自分の部屋に戻った後、買ってきたコンビニ弁当を十分ほどで完食した。たまに食べると、コンビニ弁当も悪くはないものだ。


 それから風呂に入り、髪を乾かしていると、不意に携帯が鳴った。


 ドライヤーを一度止めて、携帯を握る。ディスプレイには『白川菜々』の文字が浮かんでいた。応答をタップする前に、掛け時計を見やる。時刻は夜の十一時。


 少々常識外の行動ではないか、と思ったが、正直、こちらが就寝までの準備を済ませてからかけてくれるのは非常にありがたかった。


 …そもそも、私は電話することに同意していないのだが。


 今更誰に言い訳しているのかと、自分自身に閉口しながら着信に応える。


「あ、こんばんは、三咲さん」


 やたらと元気の良い声がスピーカー越しに聞こえてくる。


 会社で良く耳にする白川の声だった。正しくは、その肉声を真似た機械音である。


「こんばんはぁ、じゃないでしょう?今何時だと思っているの」努めて、面倒そうな声音を演じる。


「えぇ、私そんなに馬鹿みたいな喋り方してませんよぉ」


「してますよぉ」


「三咲さん、面白い」


「ちょっと、真面目に話を聞きなさい」


「ふふふ、何か良いですね、こういうの」


 三咲の注意もろくに聞こえていないのか、彼女は能天気にそう告げて、本当に昼間話していた通りスイーツの話を始めた。


 やれどこの和菓子屋が美味しい、ここのケーキがSNSで話題だ、三咲さんの好みは何ですか、と舌がモーターで回転でもしているのか、決して留まることなく会話は続いた。


 自分と五歳程度しか変わらないというのに、彼女の感覚はかなり若者に近いと感じる。いや、もしかすると、その差というのは、既に世代として大きく隔てられた間柄なのかもしれない。


 自分には縁のない内容だと思い、適当に聞いていたのだが、いつの間にか話に引き込まれていた。

 白川のオーバーな話しぶりが、自然と興味をそそるようだった。


 そして白川は、一通り自分の話を終えると、今度は私に向けて何か話題はないのかと尋ねてきた。


「そんなこと、急に言われてもないわ…」


「何でもいいんですって、ほら、三咲さんの好きなものとか、美味しい食べ物屋さんとか」


「好きなものなんてないもの…、休日だって、基本的に家に籠もりきりだし」


「好きなものがない人なんて、いるんですか?」


 何気に失礼な言葉だったので、ムッとした口調で返事をする。


「それはいるでしょう。世の中、貴方みたいに、『好きなものばっかりですよぉ』って人のほうが少ないんじゃないかしら?」


「え、今のも…、私の真似ですか?」


 電話越しの彼女の声が、本当に驚いた様子だったので、急に彼女の口調を真似たことが恥ずかしくなって、言葉に詰まる。


「な、何…。ごめんなさいね、似てなくて」


「あ!違いますよ、三咲さん、今のとっても可愛いなぁって思っただけです!」


 それは遠回しに、自分の喋り方が可愛いと自負しているのだろうか、と不思議になる。このまま黙っているのも気恥ずかしいので、適当な相槌を打って誤魔化す。


「あぁ、そう。ありがとう」


「どういたしまして」と白川が告げる。


 本当に、色々とやりづらい相手だ。こちらの皮肉も冗談も、その天性の明るさでかき消してしまう。


「ということは、インドア派なんですねぇ、三咲さんは」


 急に話が戻ってびっくりするが、自分のことなのでそんなに考えることもなく返事をする。


「インドア派かと言われると、それも違う気がするけれど…」


 煮え切らない三咲の言葉に、白川がブーイングのような声を発する。それから一転、高く大きな声を出したかと思うと、三咲が反応する前に捲し立てるように一息で言った。


「そうだ!今度、三咲さんの家に行ってもいいですか?DVDプレーヤーくらいはありますよね?何か映画でも見ましょう!それが嫌なら…そうですね、何か雑誌とか、ゲームとか持ってきます!」


 怒涛の展開と、間髪入れない饒舌に押され気味の三咲だったが、自分の住処が白川に荒らされそうになっていることに気がついて、慌てた口調でその提案を断った。


「駄目、駄目よ。絶対、駄目」


「えぇ?」と明らかに残念そうな声を漏らす白川。「何でですかぁ?減るもんじゃないでしょ」


「そういう問題じゃないの。散らかってるし、そもそも、私は自分の生活圏内に自分以外を入れたくないの」


「わぁ、クールですね」若干、揶揄するような響きを含ませた彼女は、考え直した様子で、「というよりかは、ドライ?」と一人で呟いていた。


「何とでも言って頂戴」


 三咲がシャットアウトするように言った言葉にも、白川はしばらくの間、不服そうに唸っていた。そんな電話の向こうの白川を想像しながら、三咲は口元を綻ばせる。


 会社で会話しているときよりも、随分と子どもっぽい物言いをするものだ。


 自分は彼女と大して歳も変わらないつもりだったが、やはり、自分が想像しているよりもその差は大きいようだ。


 別に、年齢に精神的な成熟が宿るとは思わないけれど。


 白川の良い意味での幼さをそばで感じている身としては、それを言い訳にしてしまいたいぐらい、彼女と私は違ったのだ。


 あまり自分から話題を振らない三咲に退屈さを感じたのか、白川が、何か最近のあった面白い出来事はないのかと聞いてきた。


 そんなものあるわけがない、と口にしかけた三咲だったが、ふと、今朝のことを思い出して、それを説明することにした。


「面白くはないけれど…。そうね、今朝、ポストの中を見たら、変なものが入ってたの」


「変なもの?」白川はオウム返しでそう言った。


「そう、何かね、花冠?っていうのかしら。これ…、何という名前の花だったかな…」


 三咲が頭を捻りながら、その花の名前を思い出そうとしていると、白川が早口で割り込んだ。


「え、待って、待ってください。花冠が入ってたんですか?」


 噛みつくような勢いに、怯みつつも三咲が答える。


「…そうだけど」


「ポストに?」上司であることを忘れたかのような口調である。「ええ」


「誰から?」


「さあ、知らない。差出人不明だもの」


 淡々とした口調で応じる三咲に、白川は大きなため息を吐いた。目の前に誕生日ケーキの蝋燭でもあって、それを吹き消そうというかのようなため息だった。


「ええと、それって、いわゆる…」


 顔を見ずとも、彼女が今顔をしかめているのが想像できる。もちろん、彼女が何を言いたいかも。


「手が込んでるわよね、しかも、メッセージカード付き」


「え?」白川が発した一際大きな声に、思わず携帯を耳元から遠ざける。「メッセージカード?え?何て書かれていたんですか?」


 彼女は興味津々という口調だった。


 若い感性を持った白川の興味をくすぐるような話題を用意できたことや、自分が期待していた通りの驚き振りに、三咲は内心、満足げな気持ちでいっぱいになる。


 そうして上機嫌なままで、三咲は腰かけたベッドから立ち上がり、窓際まで移動した。


 分厚い硝子の花瓶の中で、白い小さな花たちがたむろしている。水を入れてあるものの、心なしか昨日よりも元気がないような気がする。


 当然のことだ。根を刈り取られた時点で、この名も知らぬ花は、緩やかに、だが確実に死に向かっているのだから。


 この花の死に場所は、この硝子の花瓶だ。


 そこで、管理された余生を過ごす。


 そこには不穏の影は一切ない。あるのは、冷徹で優しい時間の流れだけだ。


 それが花にとって幸せなのかは分からないが…。


 贈られてきた花束の最期を、こうして見届ける義務が私にはあるように思えてならない。


 三咲は白の花弁の表面を、人差し指でそっとなぞると、電話の向こうで回答を催促している白川へ、何でもないふうに言った。


「別に、面白くもないことよ。ディア、三咲。そう書いてあっただけ」


「何ですか、そのディアミサキって。花の名前みたいですけど」


 不貞腐れた口調で妙なことを尋ねた白川に、思わず三咲は吹き出してしまった。


「ふふ、違うわよ。英語のディアに、三咲。『親愛なる三咲へ』っていうこと」


 そう告げた三咲は、てっきりすぐに白川がびっくりして大きな声を出すのだと思っていたのだが、予想外にも彼女は静かに黙り込んでいた。


 たっぷり数十秒の沈黙に、電話が切れたのかと思ってディスプレイを見るが、画面にはしっかりと白川奈々の文字が表示されていた。おかしい、と三咲が白川の名前を呼ぼうとした瞬間に、ぼそりと彼女が声を出した。


「それ、ストーカーなんじゃないです?。やばいですよ」


 初めて耳にする白川の、真剣味を帯びた言葉に、少し浮かれていた熱が冷める。


「どうだろうね、確かに花束も贈られてくるけど…」


「何を呑気な…、警察に連絡しましょうよ」


 最初は面倒だったからその助言も適当に断ったのだが、あまりにも白川がしつこかったため、渋々承諾する。


 今まで実害がなかったのだから、心配しすぎだと思うのだが、白川に言わせてみれば、私は警戒心が薄すぎるとのことだった。


 気が付けば、時刻は零時に突入しようとしていた。こんなにも誰かと電話することなんて、今まで一度もなかったので、三咲は目をぱちぱちさせながら時計を見ていた。


 まるでタイムスリップしたみたいだ。


 明日は金曜日、お互い残業などしたくないため、電話もそろそろ終わりにして、明日に備えて寝ることとなった。


 電話を切る直前まで、白川は私を心配している様子だったが、ほとんど無理やり電話を切り、支度をしてから部屋の電気を消した。


 掛け時計から聞こえてくる秒針を刻む音に、三咲は無意識のうちに、今もこんこんと水を吸い上げる白い花のことを思った。



(4)



 次の日も、大していつもと変わらない時間が流れた。


 白川も、朝突然、営業先に直行することを願い出た以外は普段通りに振舞った。おそらく、ストーカーされているということを、周りに知られてしまうのを私が嫌がると思ってのことだろう。


 今日は花の金曜日。その言い方は少し古臭いと白川にからかわれたものの、私にとっては死語などではなく、まだまだ現役の言葉なのだから、少々心外である。


 まあ、この言葉も、あの花瓶に生けられた白い花と同じで、後は枯れ行くのみなのだろうが。


 仕事を終えると、オフィスの出入り口で白川が自分を待っていた。お得意の妙な手の振り方で挨拶したところで、晩御飯でも一緒にどうかと誘ってきた。


 普段ならば、九割九分九厘断るのだが、折角仕事終えて自分を待っていた彼女を、無下にすることはさすがに忍びない。


 どうしよう、と迷っていた三咲は、白川の勢いに押されて結局その頼みを受け入れることとなった。


 エレベーターでオフィスがあるフロアから降りる。小さなホールを抜けて、バイパス沿いに出る。


 瑠璃色の夜空に星はなく、ふてぶてしくもその代役を務めようとしている街路灯が辺りを照らしている。その光に導かれるようにして、三咲と白川は通りに面したイタリアンに入った。こんな洒落た店は嫌だと伝えたものの、白川は持ち前の強引さで意見を通した。


 食事は驚くほどスムーズに行われた。仕事の愚痴を零すこともなく、白川は昨夜したような会話を繰り返した。


 ただ、繰り返したといっても、つまらないものではなく、やはり自分とは対称的な彼女の話題チョイスは新鮮なものが多かった。


 入店時はお酒を飲むつもりはなかったのだが、あまりにご機嫌な様子で白川が進めるものだから、ついつい何杯か飲んでしまう。


 ふわふわとした心地のままで食事を終えた三咲は、元々お酒を飲まない白川に車で送ってもらうことになった。


 正直、イタリアンの味なんてほとんど覚えていない。


 一週間が終わったという開放感と、久しぶりに会話が盛り上がる相手と巡り会えているという嬉しさ、それから、酒による昂揚感。


 そういうことで、私は何の疑いも、遠慮もなく白川の車にお世話になることとなった。


 彼女が会社の近くに借りている駐車場に向かい、白の軽自動車に乗り込む。車内は整然としており、何となくファンシーな飾り付けでもしているかと考えていた三咲は、ほんの少し意外そうに中を見渡す。


 そのまま白川に住所を告げ、運転してもらう。三駅分ほど運転してもらうだけなので、大した距離はない。ものの十分ほどで自分の住んでいるアパートの前に辿り着いた。


 白川は適当な路肩に車を駐車すると、ハザードランプを点灯させて隣に座る三咲へ声をかけた。


「ここで良いんですね?三咲さん」


 建物の中の光が、薄っすらと白川の整った可愛らしい顔を照らす。社内では髪を結んでいる彼女だったが、外に出てからは解いていた。


 こんなにも髪が長かったのか、と感心するような気持ちで白川を見返す。


「うん、ここで大丈夫、ありがと」


 少しだけうとうとしていた目蓋を擦り、伸びをしてから車から降りる。


 日を跨ごうとしている時間帯に、白川のような可愛い女性を一人で帰らせるのは気が引けたが、自分が言葉に迷っている間に、白川が大人びた微笑みを浮かべて言った。


「それでは三咲さん。今日はこの辺りで」


「え、あぁ、うん…」昨夜部屋に上がりたがっていたので、そんなふうなお願いをされると思っていたから、些か意外だった。


 三咲の表情からその感情を読み取ったのか、白川は交差させた腕と顎をハンドルに乗せて上目遣いになってみせた。


「あれれ?もしかして、まだ私といたいですか?」


 心を見抜かれたような驚きと羞恥で、三咲は気の利いた言葉も出ぬまま助手席のドアを力強く閉める。


 黒壇の闇が広がる住宅街に、くぐもったような音が響く。


 ドアウィンドウの向こう側で、白川が笑いながら肩を竦めたのを見て、三咲は恥ずかしさを振り切るように体の向きを反転させた。


 そのままの足でアパートの階段を上がり、廊下を進み、自分の部屋の扉の前に立った。


 少し、冷たすぎただろうか。


 鍵を開け、中に入る。部屋の中は真っ暗だったが、毎日通る場所だ。目を瞑っていても進むことぐらいできる。


 壁に手を這わせて、照明のスイッチをオンにする。フラッシュを焚いたような白い光が部屋中を包み込んで、ゆっくりとその明るさに目が慣れていく。


 少し飲みすぎたかもしれない。周りと比較して、アルコールに強いタイプではないことは、自分でも重々承知だ。しかし、今夜は久しぶりの飲酒ということもあって、少々気が緩んでしまっているようだった。


 血液中を巡るアルコールが、彼女の体の支配権を脅かすようにあちらこちらで猛威を奮っている。別に今すぐ気を失いそう、ということはないが、冷静になりつつある今、酒に弱い人間特有の、酔うより先に来る頭痛が三咲の感覚を鈍らせていた。


 そのためか、美咲が部屋の異常に気が付いたのは、酔い覚ましのつもりでシャワーを浴びた後であった。


 三咲の部屋は十畳ほどのワンルームだった。


 部屋の隅に黒の脚付きマットレスが置いてあり、その反対側に32型のテレビが設置してある。ただ、このテレビはかなり口数の少ない奴で、基本的に黙ったまま部屋の情景を暗く映しているばかりである。


 ベッドの縁に腰かけて、ぼうっとした頭のままその黒の鏡を見つめていると、不意に違和感を覚え、目を凝らした。


 テレビの画面が大きく横に傾いている。いくら使っていないとはいえ、これではベッドからテレビがよく見えない。


 自分はこんな置き方をしていただろうか…。


 何となく不思議に思い、立ち上がり、その周辺を覗き込む。


 すると、テレビの裏側にあるコンセント周りが酷く散らかっているのが分かった。


 差し込んであったはずのテレビやプレーヤーの電源ケーブルが抜かれている。役目を放棄したようなコンセントの下には埃が溜まっている。


「んん…?」


 思わず首を傾げていると、携帯が短く鳴った。こんな時間に何だろうかと確認してみると、画面には白川の名前が表示されていた。


 メッセージを開いてみると、そこにはコンビニで可愛い雑誌を見つけた、というどうでもいい報告が載せられていた。


 変わりのない白川の様子から、思わず笑みが浮かぶ。しかし、続けて携帯に表示されたメッセージに三咲はまた首を捻った。


 それは、携帯の残りの充電が一割を切った、というアラートだった。


 おかしい。お風呂に入る前から携帯は充電ケーブルと接続してあるのに、全く充電が出来ていない。


 まさか壊れたかと、何度もケーブルを挿し直すも、一向に充電開始になる様子はない。


 もしやと思い、スタンドライトの電源に触れたところ、案の定、そちらもライトが点く気配はまるでなかった。


 体をしゃがみ込ませ、ベッドの下にあるコンセントをチェックすると、やはりこちらもケーブルが全て抜かれていた。


 こんなところのコンセントは、絶対に扱った覚えはない。ここはベッドを移動させなければ、手が届かない位置にあるのだから、その手間を忘れるはずがない。


 ぼんやりとしていた頭の奥で、回路が切り替わるような感覚が走る。その不穏な予感は、慌ててもう一か所のコンセントを確認しに行ったことで、より強烈なものに変貌した。


 どれもこれもコンセントが抜けている。


 誰が、何のためにこんなことをしたのかは分からない。分からないが、そんなことよりも重要なことが一点だけある。


 それは、抜いたのは自分ではないということだ。


 背筋を撫で上げられるような、ぞわりとした悪寒。


 一気に口内の水分が干上がる。


 ギアを上げる心臓の音が、ますます三咲を不安にさせて、彼女は意味もなく部屋の中をあちこち歩き回った。


 例のストーカーが、遂に行動に移したのか。


 実害はないなどと余裕ぶっていた自分が憎たらしくなる。こんなことなら、白川が言っていたようにさっさと警察に連絡していれば…。


 そこで、三咲はハッと思い至り、無意識のうちに声を発した。


「そうだ、警察…」


 その瞬間、ガタン、と何かを落としたような物音が鳴った。


 ひゅっと、息が止まる。


 今の音は、ウォークインクローゼットのほうから聞こえてきたのではないか?


 あの空間には、人一人ぐらい余裕で隠れられるスペースがあるはずだ。


 もしや…、コンセントからケーブルが抜けっぱなしだったのは…。


 一歩、後退する。その拍子に右足が小さな折り畳みテーブルに当たり、乗せてあったカップの中の冷え切った珈琲が天板の上にシミを残す。


 …挿し直す時間もないままに、私が帰って来たからではないだろうか…。


 虫のように足をつたって這い上がって来る恐怖が、流れる時間すらもそのおぞましさで凍り付かせる。


 その凍結された空気の中で、ほんのわずかに、クローゼットの戸が動いた。


 中折れ式の扉の隙間から、邪悪で塗り潰したガラス玉のような瞳が見える。


 ぎょろりとした目玉と、確かに視線が交差した。


 私は反射的に駆けだしていた。


 キッチンと廊下が兼用になっている場所を通過した際、そこに置いてある食器棚にぶつかり、折角綺麗に並べていたマグカップやカップ&ソーサーが倒れてしまった。


 それが割れてしまったかもしれない、などという心配をする余裕はなく、私は慌ててトイレの中に飛び込んだ。


 すぐさま鍵を掛けて、扉から離れる。とはいっても、一畳ほどしかない空間では、数十センチの距離を取るのが限度だった。


 いた、絶対に誰かいた。私の部屋のコンセントを荒らした人間が、今も私の部屋の中に潜んでいたのだ。


 激しくなる呼吸を、自分だが、自分ではない誰かがハッキリと聞きながら、震える手で握りしめていた携帯を操作する。


 まずは警察、そう思っていた矢先、ドンドン、と鈍い響きが足元を通して伝わって来た。


 誰かが歩いている。私の家の廊下を、私ではない誰かが…。


 その鈍い足音は、私が立てこもっている扉の前まで来てやんだ。


 まるで今までの音が、幻聴だったかのような、突然の消失。


 しかし、その誰かの気配は逆に強まり、今私の目の前にある扉の向こう側で確かに息づいていた。

 再び、この世の法則を無視して時間が止まる。


 息を呑んで、何者かの気配に全神経を注いてでいた私の視界の中で、固定化されたはずのドアレバーが小刻みに揺れるのが見えた。


 その直後、鼓膜を引き裂くような大きな物音が鳴り響いた。それが自分の悲鳴だと気付くのに、かなりの時間を要した。


 悲鳴と、誰かの怒号と、激しさを増すドアレバーが暴れ回る音。


 私は、それらから自分を守るために耳を塞ぎながら、懸命に携帯を操作した。


 どうして、逃げ場のないトイレに逃げ込んだのだ。


 パニックを起こした私が、どこをどのように操作したのかは分からない。


 とにかく電話のアイコンをタップして、コールして…。そうしているうちに今度はドアレバーが壊れるのではという不安に襲われ、壊れたらどうなるのかと考え…。


 私は、誰も押し入って来ないよう、一心不乱にレバーを抑え付けていた。


 どれだけの時間そうしていたのかは分からない。私の意識は、恐ろしさのあまり、硬直して、現実から逃げ出していた。


 音の洪水に苛まれ、両手でレバーを握りしめながら、その二の腕で両耳を塞ぐ。


 …気付くと、レバーから伝わって来ていた乱暴な振動は消え、体が触れているドア越しに規則的なリズムが響いてきていた。


 ぼうっとそのリズムを頭の中で辿っていると、ふと、それがノックの音であることに気が付いた。


 その瞬間、意味を失っていた混濁の世界に全ての五感が戻って来た。


 目の覚めるように白い便器、クリーム色の扉。


 人工的で、興ざめする芳香剤の香り。


 自分の熱で温もりを帯びた、レバーの感触。


 そして、ごわごわした感触の布地越しに聞こえてくる、高く、澄んだ声。


「三咲さん、もう大丈夫ですよ、三咲さん…」


 何拍か遅れて、私は顔を上げた。


「三咲さん、聞こえてますか…?もう大丈夫、警察が来てくれました。あの男は連れて行かれました…。三咲さん…」


 不安さに満ちた、スローな言葉綴り。


「白川さん…?」


「三咲さん?あぁ、良かった…」


 心底安心した様子の白川の顔を見て、途端に目頭が熱くなってしまう。どれだけ抑えようとしても溢れ出す涙を、白川のか細い指先が拭った。


 そうか、通話履歴の一番上は…彼女だ。


 それでも、どうしてここに、とか、あいつはどこに行ったの、とか、色々と聞きたいことがあった。だが、それらの全ては頭の中を堂々巡りしたまま、いつの間にか、泡のように弾けて消えていた。



(5)



 穏やかな日差しが、出窓に置いてある空っぽの硝子の花瓶に降り注いでいた。その花瓶が反射する輝きで、部屋の中に漂う埃が姿を現す。


 硝子の花瓶の中には、もう何もなかった。あの白い花どころか、水一滴入っていなかった。


 それらは全て、あの夜が明けた後、すぐにゴミ箱に入れて、燃えるゴミで出した。それでも、腹の虫は収まらなかったが、恐ろしい記憶と共に焼却処分になれば、いくらか違うだろうと信じていた。


 今日は第一週の日曜日。今までならば、白い花束が贈られてきていた日だが、もうそれが贈られてくることはない。


 代わりに、今日は白川が遊びに来る予定になっていた。


 例の件以降、彼女には何かとお世話になっており、この日曜日は彼女にお礼をするつもりで家に招待していた。


 もう何度目のお礼なのだと、彼女には笑われたものだが、それこそ、何度したって足りそうになかった。


 扉がノックされる。努めて明るい声で返事をして、玄関の鍵を解錠し、扉を開ける。


「こんにちは、三咲さん」意識していた自分以上に元気な声で、白川が顔を出した。「いらっしゃい、白川さん」


 髪を解いている白川は、丈の短いスカートの裾を揺らしながら玄関先に足を踏み入れた。


 一人暮らし用の狭い廊下は、彼女と並んで歩くと、ほとんど肩を触れ合わせながら進まなければならなかった。別にそれが不服というわけではないので、気にもせず進んだ。


 私に案内され、小さなテーブルの正面に座り込んだ白川は、三咲が立ち上がりお菓子の準備をすると口にしたところ、自分も手伝うと言って腰を浮かせようとしたのだが、何とか座り直させる。


 冷蔵庫から、事前に購入していたチョコケーキを取り出し、テーブルの上に並べる。白川のほうに大きくカッティングされたものを置く。


「わぁ、私、このお店のチョコケーキ食べてみたいなって、ずっと思ってたんですよぉ」


「そう、それは良かった」


 両手を顔の横で重ね、今にも飛び跳ねそうな勢いで喜ぶ白川を見て、心が安らぐ。


 ストーカー被害の影響か、私はあの日から、誰かと話していたり、触れ合っていたりすることにとても大きな安心を感じるようになっていた。もちろん、気の置けない間柄であることが大前提である。


 まともな友達も家族も、この町にはいない私にとって、その欲求を満たすことは困難であるように思えた。だが白川は、そんな私の事情を汲んで、夜寝る前は毎晩電話をかけてくれて、予定が合った日はこうして会いに来てくれていた。


 ただの職場の上司でしかない自分に、プライベートの時間を犠牲にしてまで尽くしてくれた白川には頭が上がらない。


 満面の笑みでケーキを頬張る彼女の頭を軽く撫でる。


「美味しい?」


「もちろん、美味しいですよ、三咲さん!」


 だから、白川の過剰なスキンシップの裏側に、友愛や親愛、尊敬以外の感情が含まれていることに気付いても、決して拒絶したりはせず、それを受け入れていた。


 彼女が寄せてくる体の熱、重ねられた掌の温み、時折、切なげに見つめてくるときの視線に込められている劣情…。


 私は、そうしたものを感じ取ってもなお、不快に思うどころか、むしろ喜びを感じていた。


 その温かさこそ、今の自分が何よりも欲しているものだから。


 食事を済ませ、片付けるために立ち上がろうとした私の腕を、白川がそっと掴んだ。


 振り返ると、あの劣情に満ちた、美しさと、高い熱量と、それから…、ほんの少しの獰猛さを孕んだ視線とぶつかった。


 日を追うごとにエスカレートしていく彼女の要求を、私は断るつもりもなかった。


 腕を引かれ、再び腰を低くする。


 そうして、ゆっくり閉じられた瞳。


 上気したような朱が差した頬、


 少しだけ突き出された赤い唇。


 私は、彼女の求めに応えた。


 重ねられた瞬きの中には、誰にも理解されることのない昂揚感が蠢いている気がした。


 それでいい、そのほうがいい。


 一度は零になった互いの距離を離し、瞳を開けた白川を見つめる。水底から昇ってきた泡のような涙が、彼女の丸い瞳を宝石みたいに輝かせた。


「大丈夫?白川さん」


「大丈夫じゃないです…」


「嫌じゃ、なかったのよね?」


「そんなの、こっちの台詞ですよぉ」


 困ったような顔で、三咲は白川の頭を撫でた。


「あのね、嫌ならしないわよ。こんなこと」


 短く返事をした白川の名前を、そっと呼びたくなっていたところ、突然携帯の着信音が響き渡った。


 全く、無粋な真似をしてくれる。一体誰だろう。


 三咲は白川に少し待つように伝えると、座ったままの姿勢で携帯を手に取り、ディスプレイを見た。


「…はぁ」


 そこには、事件についての情報共有のために刑事に手渡された番号が表示されていた。


 また後で構わないだろうと、着信を無視していた三咲だったが、あまりにも執拗にコール音を鳴らされていたため、仕方がなく応答のボタンを押す。


「何ですか」と不機嫌さを隠すことなく告げる。


 刑事は抑揚のない声で社交辞令の挨拶を述べると、ようやく例のストーカーが色々と語り始めたことを伝えてきた。


 そんなものに興味がないと三咲が口にするも、刑事は、こちらから確認したいことがあって連絡を入れたのだと話した。


「確認したいこと…?もう、話せることは話しました。私はその男が誰だかも知りません。他人です。もういいですか?大事な人が来ているので」


 わざと苛立った態度を示すも、海千山千の刑事はそれを飄々とした態度で受け流し、こちらの言葉など聞こえなかったように本題に移った。


 三咲は、刑事がいくつかした質問のどれにも、眉間に皺を寄せながら相槌を打った。その不可解さに、次第に眉間の溝は深くなる。


「あの…、いえ、ないです。ストーカーなんて、今回が初めてです。え?守る?誰が?あの男が、私を?誰からですか?はぁ…、そんなもの、妄想でしょう。…盗聴器?そんな…。でも、警察の方が調べて下さったんですよね、この部屋、コンセントも…。はい、はい…そうですよね。怪しい物は何もなかったんですよね。はい…、それでは、はい。失礼します」


 三咲は電話を切った後、大きなため息を吐きながら白川を見た。彼女が電話の内容を気にしているのが、電話している間もありありと分かったからだ。


 肩を竦めて、白川が聞きたいであろうことを伝える。


「大丈夫、何かストーカーの妄想をまともに取り合っているみたい」


「…妄想、ですか?」


「そう。あいつ、自分より先に私をストーカーしている奴がいて、そいつがあの日、私を襲うことを、仕掛けていた盗聴器を通じて知ったから、先に家に入って守るために準備していたんですって」


「へぇ、そうですか。凄い話ですね」


「本当、馬鹿馬鹿しい。盗聴器なんて無かったわけだし…。そもそも二人同時にストーカーなんて、されるわけないでしょうに」


「それもそうですけど、三咲さん、一応気を付けてくださいね?あの白い花束を贈ってきた男の他に、誰かが三咲さんを狙っているとも限らないんですから」


「ふふ、白川さんがそう言うなら気を付けるわ」


 そう答えて三咲は、立ち上がり、出窓のほうへと足を向けた。


 空っぽになった硝子の花瓶。


 そこにはもう白い花はない。


 …白い花は…、もう…。


 あれ、私…。



 白川さんに、花の色まで伝えたかしら。


読みづらかったり、もっとこうしたほうが良い、という意見がありましたら、是非お寄せください!


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