明日のかけら
今日子は公園のベンチに一人で座っていた。
大きな分岐点であろうこの日、今日子は死んでしまうのかもしれなかった。
たぶん何かあるだろうが、もしかしたら何もないかもしれない。
最悪を回避したいと祈る彼女の感覚の中で、ある場面が生じ、去ってゆく。
それが起こる時間は夕方の五時半。
一人で座っている今日子の後ろから、友人が声をかけるところから始まる。
「今日子、待った? 遅くなってごめんね。行こう」
「うん」
今日子は友人と一緒に歩き出す。二人は買い物に出かけて夕食をとっておしゃべりをする、そういう予定を立てている。
だが、突然一台のトラックが暴走し、歩いている二人の方へ突っ込んでくる。
友人の叫び声と、跳ね飛ばされる自分自身を見せつけられても、彼女は平然とベンチに座っていた。
本日三度目にもなる『それ』の情景で、今日子はもう驚かなかった。諦めるしかなかった。
一度目は、驚愕を周囲に悟られないよう、強い意志でもれそうになる声を抑えたものの、内心大いに取り乱した。二度目には涙が浮かんだ。駄目押しのように、今また三度目を見た。もはや変えられないのだろうか。これから自分は死ぬのだろうか。
今日子が時計を見ると、五時二十分だった。
今日子に最初の『それ』が起こったのは五歳にも満たないうちだった。
「あのねえ、おばさんがくるの。おかしのはこ、もって」
ままごと遊びの玩具を散らかしながら、しばしぼんやりと手の動きを止め虚空を見つめていた今日子は、我に返ると傍らで雑誌をめくっていた母に告げた。
「そう、今日子はおばさんが好きだものねえ」
笑って母がそう答えたのを、今日子は覚えている。
「おばさんがねえ、とちゅうで、しらないおじさんに、えきはどっちですか、っていわれるの。だから、うちにくるのは、おやつのじかんおわってからなの」
そのとき母は、今日子の言葉など本気に取らなかった。ただ、お話が上手になったわね、とだけ言った。
そして、その日実際に叔母が予告もなく突然に訪れたのは、三時を過ぎてからだった。おしゃべり好きの叔母は、クッキーの詰め合わせセットを手渡しながら言った。
「たまたまこれ、知り合いにいただいちゃって。今日子ちゃんこういうお菓子好きでしょう? 思いついて姉さんのところに寄ってみたの。ごめんねいきなり来て。あっ、本当はね、三時前に来るつもりだったのよ。でもね、途中で男の人に駅までの道順をたずねられちゃって、もう、説明なんて慣れてないから、すっごく時間がかかっちゃったわ」
にこにこする叔母の横で、母はどこかひきつった笑顔をはりつけて立っていた。
今、今日子は一人暮らしだ。全寮制の高校を卒業後、『それ』の中で見た大学を受験し入学した。そして、現在は大学二年生だ。
今では『それ』が起こっても誰にも話さないし、誰も今日子が見る特殊な幻影のことなど知らない。 母を除いては。
中学の頃、母はよく今日子にきいた。
「帰りは何時?」と。
すると今日子は『それ』を感じ、知る。
部活の帰り、今日子は友人に頼まれて一緒に本屋に行くことになる。目当ての本が入荷しているのでそれを買う。店員が釣銭を間違えるので注意する。家に着くのは六時二十三分になる。釣銭を間違えないパターンも見た。その時は六時二十一分になる。
だが、決して正確には言わないことにしていた。
「六時頃には帰るわ」
今日子の言葉が正確でないと、母は安心する。
今日子は六時二十三分に帰宅した。
ベンチに座ったまま、今日子は虚空をぼんやり見つめる。彼女の中でもうひとつの『それ』が生じて流れ去る。
「今日子、待った? 遅くなってごめんね……」
友人が皆まで言い終わらないうちに、暴走したトラックが突っ込んでくる。友人は気が付いて叫び声をあげる。居眠りしていた若い運転手が正気に返った時にはブレーキが間に合わない。今日子は宙に跳ね飛ばされた友人を見ている……それを、見ている。
こんなのは嫌だ、と思う。一方で自分でなくて良かった、とちらりと思った。そしてそんな自分を嫌悪する感情がすぐに湧き上がる。それから友人が犠牲になるくらいなら自分が、と思い直したりもする。けれど、やはり死ぬのは、怖い。
「今日子は、この子は私の子じゃない。ちがうんでしょ、ねぇ」
頭を抱えて泣く母。なだめる父。帰宅したばかりの父は何も知らずにうろたえている。母の肩をたたきながら父は言う。
「疲れているんだよ。お前は。もう休め、な?」
今日子はどうしたらいいかわからずに立ち尽くす。言ってはならない言葉だったのだ。お腹の大きい母には。ひたすらに後悔した。
「病院にはお父さんと行かないほうがいいよ。だってお父さん、妹はもうやってこないよって悲しそうに言うんだもの」
今日子はまだ小学校入学前の幼さだ。何もかも、実行してから失敗に気づくばかりで、その逆は少ない。
「ごめんなさい。もう言わない。ごめんなさい」
今日子は謝ったが、妹は生まれてこなかった。
もうすぐ五時二十五分だ。
公園は夕日に照らされているがまだ明るい。雲を追うように空を見上げた。過去に見たたくさんの、それ。今までどれほどのそれらを見てきたことか。
ほとんどの場合、それは起こるべくして起こる。現実は全く同じでないときもあるが、非常によく似たことが起きた。
そして、またしても『それ』を見る。友人は少し遅れてくる。それの中ではいつも遅れてくる。同じセリフ。同じ動き。
「今日子、待った? 遅くなってごめんね。行こう」
「うん」
二人は歩く。暴走するトラック。公園内のベンチに突っ込む。続けて炎上。あわてて友人は電話をかける。警察と消防に伝えるために。今日子は見る。若い運転手が横転したトラックの中で燃えていくさまを。
やっぱり、これから誰かが確実に犠牲になるのだろうか。
例えば、足元に咲いている花がある。この花はいつか実を結ぶかもしれない。だが、花を気に入った誰かが手折るかもしれない。あるいは、花に気づかず踏み潰す人がいるかもしれない。その場合、花は実を結ばない。
実を結んでも、無事に芽吹くとは限らない。たくさんの可能性のうちの、そうなる割合が高い場面の断片を、今日子はごくリアルに細部まで見てしまう。もしくは想像できてしまう。
ただ、それだけのこと。
けれど見たいと思ったところで自在に見れたことなどなかった。そして見たくなくても勝手に始まるそれ。たとえ目を閉じても耳をふさいでも、ふいに現れるのだ。今日子は自分でどうすることもできず、諦めの境地で可能性の欠片を拾っている。
今日子とひとまわり年の離れた弟が生まれたとき、今日子は既に弟が生まれてくることを知っていた。
弟は健康で、普通で、可愛がられることも知っていた。母がそれ以降、今日子にかまわなくなることも知っていた。その一方で、母の過干渉からだんだん息苦しくなってきた弟が、逃げるように家から出て行くことも、その後、出奔先で失敗して自己嫌悪に陥り、母に謝り、結局家に打ちひしがれて戻ってくることも、見た断片を繋ぎ合わせて知ってしまった。よく似たそれらを、何度も見て。きっと大筋は変えられないことなのだろう。
だから今日子は何も言わなかった。母は生まれたばかりの弟を抱いて、楽しそうに言う。
「いい子ね。大きくなったら立派な男の子になりそうじゃない?」
「そうかもね」
そっけなくあいまいに今日子は答えた。なぜなら、とりわけ母が聞きたくないと思うような、嬉しくない予想の通りに事が運んでしまうと、いつも今日子の立場は不利になると知っていたから。今日子は弟に関しての口をつぐんだ。
一瞬の積み重ねで現在がある。毎日毎日、人は何かをするたびに何かを選び取っている。それは他の何かを捨てることだ。右の道に行けば、同時に左の道を通ることはできない。三叉路のどれを進むかで終点が変わる。右足から出るか左足から出るか。一分の時間差で変わる何かもある。その可能性の高さが『それ』となって現れる。
これから起こることも、つまり、そういうことの一つなのだ。
今日子はもうすぐ死んでしまうかもしれないし、生きているかもしれない。
午後五時二十七分。
もうすぐだ。今日子は腕時計を見る。これから何が起こり、その後どうなるのか。もうすぐ、判明するだろう。
今日子はまだ現れない友人を目で探す。そしてあのトラックも。
今回は『それ』の現れる頻度が異常なほど多い。今までこんなにたくさん現れることはなかった。せいぜい一度か二度だったのに。
今度のトラックを運転していたのは年取った男だった。ゆっくりと、本当にゆっくりと走り抜ける。助手席の若い男は公園で話している二人の女を少しまぶしそうに眼を細めて見やり、他の風景と同じようにすいっと流して目を離す。そして再び道の先へ、仕事へと意識を向ける。トラックは通り過ぎて行く。今日子はその場面を、安堵と共に見る。
これがいい。なにも、何も起きない平和が一番いい。
時計が小さく音を立てて示した針先は五時半だ。
改変された平和な現実がおとずれるのではないか、と今日子は思っていた。しかし、またしても『それ』が始まる。今日子は我知らず身構えてしまう。
もうやめて。さっきの何もなかったやつでいいじゃない。
心の中で拒否しても、無慈悲に繰り広げられるそれ。
一度目に『それ』を見てすぐ、今回の約束はやめにしようと、あわてて友人に連絡を入れようとしたが、何故か友人をつかまえることが出来なかった。電話がつながらない。メールもエラーになる。よほど強い運命に強いられているとしか思えない。その証拠のように『それ』が何度も現れているではないか。今日子、友人、トラック。何度も何度も。
またトラックが突っ込んでくる。トラックは二人の目の前で急ブレーキをかける。反動でハンドルがさらわれる。ぐるりと急回転する車体。運転手は若い男だった……。宙にはじき飛ばされる友人の体、自身の目の前にバンパーが迫る。こわばった若い男の顔。衝撃、圧迫感、恐怖、恐怖。
もう一度。
友人が遅れて来た。軽く駆ける靴音が後ろから響く。
「今日子、待った? 遅くなってごめんね。行こう」
今日子は振り返って「うん」と返事をする。と、やはりトラックが突っ込んでくる。そして友人の叫び。
トラックは急ブレーキをかけ、派手にタイヤを軋ませながら九十度回転して反対車線に出たところでギリギリ止まった。今度のは死んでいない。今日子も、誰も。
運転席から出てきたのは若い男だった。友人は安堵から一転して怒り出し、今日子はただただ泣いている。彼は何度も何度も謝り、名を名乗った。
ここで終わったかに見えたこの『それ』には、続きがあった。
彼と今日子は知り合いになる。彼は今日子に一目ぼれしたのだと言う。
やがて交際が始まり、それから何年かが過ぎて、同じこの公園で、彼は今日子に緊張しながら結婚してくれと言った。
今日子は見続ける。その場面を。その後の欠片を。
ささやかな結婚式を。郊外の家で小さな子供と笑い、彼と微笑みあう自分を。
そしてなにより。結婚後、憑き物が落ちたように、もう、嫌な幻影に悩まされなくなった自分を。
穏やかな幸せに繋がるそれらを。驚きに満ちつつ。その示す未来の欠片を、拾う。
そして。今日子は現実に引き戻された。
少し遅れて、待っていた友人が来たのだ。
(そして私は声をかけられる「今日子、待った? 遅くなってごめんね。行こう」)
「今日子、待った? 遅くなってごめんね。行こう」
(私は振り返って返事をする。)
「うん」
(立ち上がる。二人で歩き出す。それから、トラックが。)
トラックが。
……トラックは、来なかった。
暴走して突っ込むトラック。急ブレーキをかけ、横転し、ベンチにぶつかり、通り過ぎて行き、対向車線にはみ出て止まる、そのどれかを行ったあのトラックはこのタイミングで
来なかった。
今日子は足を一瞬とめる。そして車道を確かめた。何も、無かった。
(ああ、)
知らず、今日子の頬を涙が伝った。
(ああ。)
友人がぎょっとして慌てだした。
「やだ、ちょっと、今日子。どうしたの?!」
今日子は涙をぬぐうと苦く笑い、首を力なく振った。
「なんでもない。あなたが少し遅刻してきたから、なにかあったんじゃないかって、いろいろ悪い想像しちゃってて、なんでもなくて、良かったなって、そう思ったら、つい」
眉を下げた友人は、すまなそうに手を合わせて謝った。
「あー、ごめんね。急にバイト先で忙しくなっちゃってさ。電話もできなかったんだよ。約束あるからって大急ぎで片付けてきたけど、ほんと、ごめんね」
それから、今日子の隣に来ていいわけを始めた。
「それに、二つ手前の交差点で交通事故があって、道路が閉鎖されててさ。遠回りしてくる羽目になっちゃったんだよ。なんでもトラックがぶつかったらしいって。救急車もきててね。運転してたの若い男の人だって……。やだ、なんで泣いてるのよ。遅刻しただけであたしは無事だってば。ほら、こうしてピンピンしてるし。今日子、今日子。どうしちゃったの、そんな、泣かないでよ。ねえ、」
読んでいただきありがとうございました。 2014.09.10
行間などの修正 2020.09.07