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開いた窓から微かに聞こえてくる、アイネア達の笑い声を耳で拾いながら、アンドリューは長椅子に腰掛けるシャレゼル侯爵と対面していた。
隣接する領地だが、領主同士の親交は薄い。とはいえ、社交界で会えば話くらいはするので、性格はわかっている。シャレゼル侯爵は抜け目の無い男だ。奥方と揃って人情味が薄く、アイネアとは真逆の貴族らしい思考の持ち主だった。得か損か、ある意味でわかりやすい人間でもある。
正直なところ、アンドリューは二人の婚姻に賛成するつもりだった。ユニアスは家柄も申し分ないし、婿入りの条件を満たしている。それに、友愛以上の想いを寄せているのが明白で、彼ならばアイネアを悪いようにはしないだろうと確信できた。アンドリューが返事を渋るのは、親馬鹿的な理由が無きにしも非ずだが、一番の理由は目の前にいる男である。
「ユニアスが気に入らないと言うのであれば、次男を婿入りさせても構わんが?異性に騒がれるほどの見目だが、本人は武術に夢中で歯牙にもかけてないのでな。移り気の心配はない」
自分の子は物同然。その性根に反吐が出そうだった。貴族の子として生まれた時点で、家名も地位も政略的な役割も背負う。そういった意味では、シャレゼル侯爵の行ないは貴族として満点に違いない。
(だがアイネアは、私と妻の宝だ)
他人の目には、シャレゼル侯爵もアンドリューも同じことをしているように映るのだろう。しかし、アンドリューが願うのは我が子の幸せだ。しがらみが多い世界で、幸せを掴むのは容易ではない。だがアンドリューは父として、その蜘蛛よりも細い糸を手繰り寄せてやりたいのだ。
「……ユニアス殿との婚姻を認める事は吝かではありません。ただ、アイネアは私のたった一人の娘です。慎重になるのもご理解いただきたい」
「何か条件がおありで?」
「はい。十五を迎える者はティミオス学園に入学するのが貴族のしきたりです。その時まで貴殿と御子息のお気持ちが変わらないのであれば、誓約書に署名致します」
アイネアとユニアスはそれぞれ八歳と九歳。先に十五歳になるのはユニアスだが、それまでは口約束に留めておくとアンドリューは言った。今後、シャレゼル家がどのような動きを見せても、逃れ道を設けておけば被害は少なくて済む。
「…其方の意向に沿おう」
「寛大なお心に感謝申し上げます」
「今後とも良い付き合いをお願いしたい」
シャレゼル侯爵が握手を求めると、アンドリューは無言でそれに応じた。
話し合いを終え、子供達のところへ行くと、二人とも無邪気に遊んでいた。自分達の父親に気がつくと、アイネアはパッと表情を明るくし、反対にユニアスの顔には影が落ちた。そんな息子には一瞥もくれず、シャレゼル侯爵はアイネアに近付く。
「息子の遊び相手になってくれてありがとう。これからも息子と仲良くしてほしい」
「はい。侯爵さま」
「すっかり長居してしまいましたな。我々はこれで失礼する」
父親の後に続こうとしたユニアスだったが、控えめに袖口が引っ張られたので足を止める。
「アイネア嬢?」
「今日も楽しかったですわ。またチェスのお相手をしてくださいますか?次こそは一勝してみせます」
ユニアスが口にするのを躊躇ってしまう「次」の約束を、アイネアはいとも簡単にとりつけてくれる。
「アイネア嬢が望むなら、何度でも対戦しますよ」
「うれしいですわ!チェスもピアノも腕を磨いておきます」
アイネア達に見送られ、ユニアスは往路と同じく父と二人で馬車に乗り込んだ。手を振り返してくれる姿が見えなくなると、ユニアスの心は再び陰気なものに支配されていく。
「随分と親しげだったな。その調子であの娘を掴まえておけ」
「………」
「お前が十五になるまで婚約は保留にしたいと彼方に言われたのだ。お前の気持ち次第と伯爵は宣っていたが、此方とてアイネア嬢が見込み違いであれば切り捨てる」
互いに互いを縛る綱を握っているようなものだ。
「流石はバラダン伯爵と言ったところだな。しかしあの娘もお前のどこが良いのか」
シャレゼル侯爵は自分の息子をしげしげと眺めた挙句、あからさまな溜息を吐いた。父親に何を言われようが今更だが、アイネアがどう思っているのかはユニアスも気になって仕方がない。だが、気にはなっても尋ねる勇気は無かった。
親子はそれきり口を噤み、車輪の音だけがやけに大きく響くのだった。
ユニアスを見送ったアイネアは、出しっ放しにしてあったチェス盤を片付けていた。駒を一個ずつ念入りに拭きながら仕舞っていく。硝子製の為、指紋が付着していると目立つのだ。
「それにしても、どうして急にシャレゼル侯爵さまがいらっしゃったのかしら」
「…どうしてでしょうねぇ」
婚約の件について何も知らされていないアイネアは、不思議そうに首を傾げる。まさか自分の口から言えるはずもなく、エルザは適当にはぐらかした。
バートからの情報によると、向こうが気変わりしなければ、学園に入学する前に正式な婚約を結ぶらしい。
(気変わりって…あり得ないでしょう)
エルザは今日初めてユニアスに会ったが、どれだけ控えめに見ても彼はアイネアに惚れている。二人ともまだ恋だの愛だのという年齢ではないものの、あれは完全に恋する男の子だった。もっとも、アイネアの方は仲良しな友人としか思っていないだろう。大事なお嬢様の相手が、そばかすぽっちゃり男だったのはちょっと残念に思わなくもないエルザだった。
(まあでも、お嬢様が自分を出せる相手みたいだし、大丈夫ね)
貴族らしくないアイネアだが、それはあくまでも気を許した人間の前だけだ。聞けば、初対面の時から素で接していたらしい。容姿はいまひとつでも、彼にはアイネアがのびのびと振る舞える何かがあるのだろう。
「ねえ、エルザ。今日はほかになにか予定があったかしら?」
チェス盤を仕舞い終えたアイネアが尋ねる。貴族としての教養、領主に求められる幅広い知識の習得など、アイネアは幼いながらに多忙な身だ。夢中になれる事があると、頭から予定がすっぽり抜けてしまうのがたまにキズだった。
「いいえ。この後は自由な時間ですよ。クーザさんの所へ行かれますか?」
「今日は出かけるって言ってたわ。先生といっしょにスケッチをしに行くんですって」
「そうでしたか。ではお昼寝でもなさいますか?お夕食までまだ時間もありますし」
「夕食……あっ!わたし、厨房に行ってくるわ!」
「はい!?ちょっとお嬢様ー!?」
厨房なんて滅多な事でも無い限り、アンドリューでさえ足を運ぶことのない場所だ。いったい何の用事があるのか、尋ねる隙さえ与えないまま、アイネアは素早い動きで出て行ってしまった。
「……つまみ食いでもなさるのかしら」
それぐらいしかエルザの頭には浮かばなかった。
エルザを置いてきぼりにしたアイネアは、庭に出て窓から厨房を覗こうとしていた。忙しくしている時に邪魔をしたらいけないと思い、ひとまず中の様子を見てみようと考えたのだ。ところがアイネアの身長では、窓枠にぎりぎり手が届くだけで、窓の向こうを見るなんて到底無理そうだった。
(こまったわ…)
庭師に木箱でも借りて足台にしようかと思案した矢先、アイネアは水場に少年がぽつんと一人でいるのを見つけた。もしかしたら厨房が暇な時間を知っているかもしれないと、その少年に接近していく。
(あら?どうしたのかしら…)
近付いてみると、茶髪の少年の横顔が涙で濡れているのが見えて、びっくりしたアイネアの足が止まる。少年は唇を噛み、悔しさを押し込めようとしているみたいだった。心配になったアイネアは再び足を進め、そっと気遣うように声をかける。
「なにかお辛いことでも?」
少年は濡れた顔をそのままに、バッと跳び上がった。それはそうだ。今まで見かけた事すらないこの屋敷のお嬢様が、こんな場所に来るなんて誰が思うのか。少年は大慌てでお辞儀をしようとしたが、アイネアがそれを留めた。
「いいのよ。わたしこそ驚かせてごめんなさい。どうぞ使って?」
「そっ、そんなきれいなハンカチ使えないっす。服でじゅうぶんっすよ」
少年は恐縮して、捲っていた袖で乱暴に顔を拭った。
「そんなに強く目をこすったらいけないわ」
「大丈夫っす!オレ、頑丈なんで!」
「そう?でも…」
「ところでっ、お嬢様がどうしてこんな所にいるんすか?」
なおもハンカチを渡そうとしてくるアイネアを遮り、少年はもっともな疑問を口にした。お嬢様だからという以前に、歳下の女の子に泣いていた事を突っ込まれたくなかったのだ。
「厨房に行こうと思ったのだけれど、いま行ってもじゃまではないかお聞きしたかったのよ」
「厨房に…?それならオレ、案内しましょうか?」
「いいの?」
「はい。オレ一応、厨房勤めなんで…」
「まあ!そうだったのね!いつもおいしいお料理を作ってくださってありがとう」
「あー…はい、どうもっす…」
少年の言い方は何故か歯切れが悪かった。アイネアがどうしたのか訊こうにも、少年はすたすたと歩き出してしまったので、それは出来ずじまいだった。
「ここから入ってください。油で床が滑りやすくなってるんで気をつけて」
「わかったわ」
「あと三十分くらいで仕込みが始まるんで、それまでだったら大丈夫だと思うっす。じゃあオレはこれで」
「待って、まだお名前を…」
「レギオン!!てめぇ皿洗いはどうした!!」
すぐに踵を返した少年を引き留めようとした直後、厨房に野太い怒鳴り声が反響した。アイネアもさる事ながら、それにも増して大きく体をビクつかせたのは、レギオンと呼ばれた少年だった。
「おおお終わってます!」
「包丁研ぎと野菜の選別は!」
「ま、まだっす…」
「ならとっとと戻れ!!てめぇの仕事は厨房にはねぇ…ん?おや?そこにおられるのはお嬢様で…?」
「ええ。この方に厨房まで案内していただいたの。そんなに怒らないであげてください」
アイネアはレギオンを小さな背中で庇うように立つ。思ってもみない来訪者に、料理長は今しがたの剣幕も忘れてたじろいだ。その隙を見て、レギオンは「すいませんっした!仕事に戻ります!」と叫んで去って行ってしまった。
「これは見苦しいところをお見せしまして申し訳ありません」
「気にしていませんわ。それより今の方は…」
「ああ、レギオンですか。あいつはここへ来てそろそろ三年になるんですが、どうにも駄目でしてね」
「だめ、とは?」
「料理人として致命的なくらい不器用なんですよ。野菜ひとつ剥くのに他の連中の何倍も時間がかかる癖に、その出来栄えといったら、とてもお嬢様達にお出しできるレベルではありません。本人は味付けには自信があるなんて言ってますが、包丁も満足に使えない奴が何を言ってるんだって感じで…まあ、やる気だけは人一倍あるので置いてはいましたが、潮時かもしれませんね」
「………」
アイネアの脳裏に泣いていたレギオンの姿が浮かんだ。居ても立ってもいられなくなり、アイネアは料理長への挨拶もそこそこに、厨房を飛び出した。
レギオンはすぐに見つけることができた。料理長の命令通り、倉庫で野菜を選んでいるところだったが、その顔は浮かないままだ。
「レギオン!」
「あれ?お嬢様、もう用事は済んだんすか?」
「とりあえずいいわ。さっき料理長から少しお話を聞いて、それで」
「…オレ、クビっすか?」
「えっ?」
そんなつもりは無いとアイネアが告げる前に、レギオンは膝をついて頭を下げた。突然の土下座にアイネアは呆然と立ち尽くす。
「お願いします!オレ、料理が好きなんです!料理人になるのが夢だったんです!自分が不器用だってわかってます!でもどうかクビだけは勘弁してください!このとおり!!」
その後、頑なに頭を下げ続けるレギオンを何とか宥めすかしたアイネアは、料理長から許可を得て彼と話す時間を作った。少しずつ落ち着いてきたレギオンは、ぽつぽつと自分語りを始める。
レギオンが料理人を目指すきっかけを作ったのは祖父だと言う。
祖父に、どうして料理人になったのかと尋ねた際、こう答えたそうだ。『儂は話下手でつまらん男だとよく言われた。だが儂が何も喋らんでも、美味い飯があれば人は笑顔になる。それを見るのにハマっちまって料理人になったんだ』と。レギオンにはそう話してくれた祖父が、誰よりも格好良く思えた。
「オレもじーちゃんみたいになる!」と決めたはいいが、自分に料理人としての才覚が欠如していると気付くのに、そう時間はかからなかった。料理人でなくても、家事をする者なら当たり前のようにできる程度の包丁さばきすらままならない。絶望的なまでの不器用さだった。レギオンより後に入った見習いでさえ、とっくに厨房に入り仕事をこなしている。未だに下っ端の仕事をやっているのなんてレギオンだけだ。
「…包丁を扱うのも、最初に比べたらマシになったんすよ?まだまだひどいっすけど…でもオレ、諦めたくないんです」
どうしても諦めきれない夢、それはアイネアにもある。だからレギオンの気持ちが痛いほどに伝わってきた。そうしていると、ある名案が彼女の頭に浮かんだ。
「それなら、わたしがあなたを雇うわ。お父さまにお許しをもらって、わたしのお抱え料理人にしてもらうのよ!」
もともと今日、厨房に来た目的は、夢の世界の食べ物を再現する協力者を募るためだった。材料すら定かではない品々を、アイネアの頭に残るイメージだけで作らなくてはいけないのだ。必要なのは料理人のスキル云々よりも根気強さである。アイネア同様、諦めの悪い性格のレギオンなら適任だと感じた。
しかしながら、アイネアが思いついた案は、レギオンを驚愕させるには充分すぎた。
「お抱え料理人!?」
それは料理人にとって、大変名誉あることである。通常、貴族の屋敷には複数人の料理人が雇われている。"お抱え"とはその中で最も優れ、且つ最も主人の舌を唸らせた者が得る肩書きだ。いくら幼いお嬢様のお抱えとは言え、野菜の皮剥きに大苦戦するような人間が貰っていい称号ではない。
「いやいやいや無理ですって!だってオレですよ!?」
「料理長も言っていたわよ。あなたのやる気は人一倍だって。わたしはその熱意を買うわ!」
「いや、でもっ…」
嬉しいが身の丈に合わない地位は自分を苦しめるだけだとレギオンは思う。せめてその肩書きに見合う技術を習得してから、と口にしかけてふと考える。それはいったい何年先の事になるのだろうかと。亀の歩みのような上達しか見られないのに、軽々しく将来の約束などできない。言葉に詰まってしまったレギオンはきゅっと唇を結んだ。
やはり断るべきだと決心が固まりかけた時、アイネアがいきなりベンチから腰を上げた。
「わたしもレギオンと同じよ。叶えたい夢があるの」
「お嬢様の夢…?」
「そう。でもわたしひとりではできないわ」
アイネアはレギオンの正面に立つと、ゆっくりと頭を垂れた。一使用人に対して丁寧すぎる礼の仕方に、レギオンは呼吸が止まるほど仰天する。
「レギオン。わたしの夢のために、どうか力を貸してくださいませ」
「あたっ、頭を上げてください!お嬢様ともあろうお方がオレなんかに何してんすか!?」
「あら、わたしがお願いをきいてもらう側だもの。当然の礼儀ではないかしら?」
半ばパニックになっているレギオンとは対照的に、アイネアは落ち着いたものである。
「料理をあきらめたくないって言った、レギオンだからこそ頼みたいのよ。皮むきの上手い下手は、これっぽっちも気にしないわ!」
「いやいや、そこは気にしてくださいよ!」
思わずツッコミを入れたが、どうしてこんなに贔屓してくれるのか、正直なところレギオンには理解し難かった。だって仮に逆の立場だったら、自分みたいなへっぽこ料理人は絶対に選ばない。
(でも、お嬢様は頭を下げてまで…オレを選んでくれた)
アイネアはそこまでする価値を、レギオンに見出したという事だ。是が非でもお抱え料理人にしたければ命令すればいいものを、アイネアはそうしなかった。あくまでも選択権はレギオンにあると示すために、自らへりくだってみせた。やる気だの熱意だの、料理の腕前に全く反映されていない不確かなものを、アイネアは大事だと見なしてくれた。潰えてしまいそうだった夢を繋ぎ止めてくれた。
この瞬間、レギオンの心は決まった。
「…わかりました。今日からお嬢様の夢はオレの夢っす!お嬢様のお抱えとして誇れる料理人になります!どれだけ時間がかかろうと、みんなに馬鹿にされても、必ずやり遂げてみせます!!」
アイネアの両手をガシッと掴み、レギオンははっきりと言葉に出して誓った。それを聞いたアイネアは、諸手を挙げて喜ばんばかりの笑顔になって感謝を述べたのだった。
(じーちゃん。オレはこの人の笑顔のために最高の料理人になるよ)