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夢を追いかける令嬢の友人も王道を行く①

 太陽が真上に昇ったのを見計らい、ビルガは教本を閉じた。


「今日の勉強はここまでにしましょう」

「せんせー!ありがとうございましたっ!」


 すっかり教師役が板についたビルガは、子供達に笑顔で手を振り返す。漫画の効果は依然として絶大で、毎日大勢の生徒がやって来る。顔と名前を覚えるのも一苦労だった。出したままになっていた本や筆記具を片付けると、ビルガも昼食を摂るために市場へと向かった。


「あら…」

「こんにちは。ビルガ様もお買い物ですか?」

「ええ。これからお昼をいただこうと思って。エルザさんも?」

「私は旦那が作った野菜を卸しに来ただけですよ」


 ビルガとエルザはこうしてばったり出会うことも多く、顔を合わせれば世間話を交わしていた。しかし本日はもう一人、乱入者がやってきた。


「あれ!?ビルガ様と先輩?」


 非番を使って、食べ歩きを楽しんでいたネーヴェルだ。女性が三人、しかも滅多に揃わない面子。ごく自然に、折角だから一緒にランチをしようという流れになった。

 近くの大衆向けのレストランに入り、料理が運ばれてくる前から、三人は話に花を咲かせる。エルザとネーヴェルの会話に相槌を打ちながら、時折自分も口を挟んでビルガもお喋りを楽しんでいた。


「あの…以前からお聞きしたかったのですが、アイネアとユニアス様って喧嘩をしたことはあるんですか?」


 アイネア達の結婚式以降、ビルガとクーザの関係は随分と穏やかなものになった。ところが、どういう訳かビルガの胸中は、まったくもって穏やかではないのだ。彼といると…いや、いなくても、心臓のあたりが落ち着かない感じがして困る。最近は特に顕著で、このままではクーザと仕事の打ち合わせをする際に、支障をきたしてしまいそうだった。

 それを素直に口に出すのは何となく憚られて、友人のことを話題に出してみた。喧嘩ばかりしていた自分達と違い、普段から仲睦まじいアイネア達が仲違いをしたらどうなるのか興味があった。


「少なくとも私が勤めていた頃は、見たことがありませんね」

「あっ!私はありますよ。というか、ついこの間のことなんですけど、アイネア様が怒っていらして…」

「ユニアス様が怒らせたの?アイネアを?」


 自分で尋ねておいてなんだが、あのユニアスがアイネアを怒らせることをするなんて、ちょっと考えにくい。


「…楽しみにしていた新作のお菓子を食べられた、とか?まさかね…」

「ビルガ様も言うようになりましたねぇ」

「さすがにそれは……いや、どうだろう…まあ喧嘩と言っても、五分と持たないようなものでしたよ」


 それははたして喧嘩と呼べるのだろうかとビルガは首を捻ったが、ネーヴェルがその時の状況を語り出したので、口を噤んだのだった。




「見損なったわ!ユニアス!」

「アイネア、待ってくれ!誤解だ!」


 ネーヴェルは最初、いったい何のお芝居が始まったのかと思った。一旦仕事の手を止めて、声のした方へ様子を見に行くと、チェス盤を挟んで立っているアイネアとユニアスがいた。息抜きだと称して、お茶をしながら二人で仲良くチェスをしている光景は、バラダン家の屋敷において日常茶飯事。使用人達は静かに退散し、遠くから微笑ましく眺めるのが暗黙の了解だった。それなのに今日はどうしたのだろうか。


「相手に失礼だから手は抜かないって、ユニアスが言ったのよ!それを違えるなんて…わたしへの侮辱ととるわ!」


 それとなく遠くから見守っていたパルメナによれば、チェスの勝負でユニアスがわざと負けたらしい。アイネアの戦績は見事に全戦全敗。可哀想になってくる気持ちもわかる気がする。しかしながら、アイネアは真剣勝負を好むたちだ。それはユニアスだって重々理解しているはず。

 ネーヴェルはますます訳が分からなくなってきた。


「そんなつもりじゃ…!」

「…やっぱり、わたしでは力不足なのね」

「ん??」

「あなたにこてんぱんにしてもらえないほど、わたしは弱いってことでしょう!?」

「んん!?」

「それならそうと言ってくれれば良かったのに!」


 どうやら訳が分からないのは、ユニアスも同じみたいだ。おかしな方向に暴走する予感がしたので、慌ててユニアスが軌道修正にかかった。


「アイネアとチェスをさすのは、僕の楽しみだよ。本当だ」

「それならどうして…」

「…僕に勝った君が、どんな顔で笑うのか見てみたくて、それでつい…」


 薄っすらと頰を赤らめたアイネアからは、すっかり怒気が消え失せていた。このあたりで、ネーヴェルはどっと疲れを感じた。妻の可愛い反応が見たくて悪戯するのはいいが、匙加減を間違えないでほしいと、使用人達は切に願うのであった。


「手を抜いたりして本当に悪かった。もうしないよ」

「…では今後、わたしとの勝負では、完膚無きまでに叩きのめすって、約束してくれる?」

「わかった。全力で潰しにかかるよ。容赦はしない。だから機嫌を直してくれないかい?」

「もう直ったわ!さあ、再戦するわよ!」


 仲直りをしているはずなのに、喧嘩を売っているようにしか聞こえないのが不思議でならなかった。アイネアの珍事件簿に、新たな一頁が加わった日だった。




「…とまあ、こんな感じでした」

「予想外な予想通りと言いますか…」

「さすがアイネアとしか言葉が出ません」


 本人達は真剣にやっているのが、余計に笑えてくる。何か参考になることはないかと思って聞いたが、参考にしてはいけない夫婦だったとビルガは反省した。


「でも考えると貴重な出来事だった気がします。アイネア様を溺愛しているユニアス様ですから、そうそう喧嘩には発展しないでしょうし」

「もし二回目があるなら『喧嘩するほど仲が良いと聞いたわ。という訳で決闘よ!』とか言い出しそうですね」

「先輩の予想ってほぼ的中するので止めてくださいよ…」

「大丈夫ですよ。アイネア様はころっと機嫌が直る方ですからね。それこそ、新作のお菓子でも出せば一発です」


 その光景がありありと目に浮かぶようで、三人は声を上げて笑ったのだった。


 楽しいランチを終え、ビルガは一人でのんびりと小道を歩いていた。


(アイネア達のようになりたい訳じゃないけど

 …ちょっとだけ羨ましい、かな)


 具体的に何がどう羨ましいかは考えないようにしていても、まだ治らない胸のざわつきに、ビルガは悩ましげにため息を吐いた、まさにその時。いきなりガシッと腕を掴まれ、ビルガは驚きのあまり跳び上がりそうになる。


「やっと見つけた…!!」

「きゃ…っ!なに!?………え…ライリー様…?」


 ビルガの細腕を握っていたのは、かつての婚約者ライリー・エルベリトだった。しばらく会わない間に、随分老け込んだように見える。美女を見かければ所構わず口説いていた男とは思えないほど、よれよれになっている。それに、ちょっと汚い。


「ビルガ!愛人になってくれ!」

「………は?」


 かなり低い声が出てしまったが、無理もないことだった。いきなり来ておいて何を言うかと思えば「愛人になれ」なんて、頭の中が腐っているに違いない。ビルガの態度が氷点下になっていることに気付かず、ライリーはべらべらとまくし立てた。その内容を纏めると…

 ビルガとの婚約が消え、遊び呆けていたライリーは、業を煮やした両親に騙されるような形で結婚させられた。その相手というのが年増の女性で、彼曰く全然美しくないらしい。そこで、今まで付き合った女性の中で最も美しいビルガを愛人に迎え、生活を潤したい。

 …とのことだった。

 どうでもよすぎて、ビルガは途中からあまり聞いていなかった。美女を求めて探し歩いた根性だけはすごいが、まったく尊敬に値しない。


「こんな小さくて田舎くさい領地に追いやるなんて、あの令嬢も酷いことをする…ああ!可哀想なビルガ!一緒に来てくれ、君を幸せにするよ」

「嫌です」

「何故だ!」

「私は今の生活にとても満足しています。むしろ、ライリー様の婚約者であった時の方が、よっぽど不幸でしたわ。私の親友と、彼女が大切にしている領地を馬鹿にするような人なんて、死んでも御免です!」


 アイネアがどれだけこのバラダン領を愛しているか。アンドリューが亡くなった後、自分の感情を二の次にしてでも奮起した姿を、ビルガは間近で見ている。だからこそ、ライリーの発言はビルガの逆鱗に触れた。


「お屋敷に帰って、奥様と和解なさってください」

「………そうはさせないよ」

「ちょっと!離してください!!」


 ライリーの目つきが怪しいものに変わったのを見て、ビルガは嫌な寒気を感じた。必死に彼の手を振り払おうとするが相手は男性、しかも遊び慣れた浮気者だ。抵抗する女性を相手取るなど、朝飯前に違いない。


「いや…っ!!」


 ライリーの顔が近付いてくる。恐怖で体が震え、ビルガはぎゅっと目を瞑った。


「あぐっ!?ぅぅおう……くっ…」

「??」


 無体なことをされると怯えていたら、奇妙な鳴き声が聴こえてきたので、そっと瞼を持ち上げてみる。するとどうしたことか、忽然とライリーが目の前から消えていた。いや違う、消えたのではなく、ビルガの足元に蹲っている。事態が飲み込めずぽかんとするビルガの横を、颯爽と擦り抜けた青年がいた。

 画布を張った木枠を持つクーザだった。その角のところで向こう脛を強打してやったらしく、ライリーは脂汗をかいて悶絶している。


「おいオッサン。騎士団に突き出されたくなきゃ、とっとと失せろ」


 領主の専属画家とは思えない、乱暴な言葉遣いだ。けれどもビルガは、どうしようもなく胸が高鳴っていくのが、自分でもわかった。


「まっ…て、ビル…ガ…」

「しつけぇよ。嫌がる女に無理やり手ぇ出すような野郎に、ビルガはやらねぇ!」


 その台詞がビルガの心を貫いた瞬間、彼女は熟れた林檎のように真っ赤になり、両手を胸元で握りしめた。目の奥が揺れるほど、鼓動が全身を押し叩いてくる。


「おい。行くぞ」

「は、はい…」


 顔が上げられないビルガは、俯いたまま歩き出した。


「…泣くほど怖かったのか」

「いえ…大丈夫です。助けてくださって、ありがとうございます」


 確かに怖かったが、今ビルガの肩が震えているのは羞恥が原因だ。案じてくれるクーザには申し訳ないが、弁解できそうになかった。


(……こんな気持ち…どうすればいいのよ…)


 クーザが自宅まで送ってくれた後、ビルガは戸口に背中を預けてずるずると座り込んだ。ライリーがどれだけ美辞麗句を並べても、一度たりともときめいた試しは無い。それなのにクーザのぶっきらぼうな、たったひと言で心臓が破裂しそうになった。露骨すぎる相違を思い知らされたビルガは、心を揺さぶるこの感情が恋だと、悟るほかなかったのである。

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