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突如として降って湧いた婚約破棄。
アイネアは開いた口が塞がらず、周囲の喧騒など耳に入らないほど愕然としていた。
「我が愚息レナルドは、悲嘆のさなかにあったアイネア嬢を卑怯にも暴力で脅し、婚約の誓いを交わさせた。目に余る行い故、お前を遠戚の家へと預け入れる。生涯中、王都とバラダン領に近付く事はまかりならぬ」
アイネアの動揺をよそに、事実無根の罪がレナルドに言い渡されてしまう。心を掻き乱されながらも、アイネアは彼を擁護すべく口を開きかけたが、それよりも先に女王が「それは真実か」とレナルドに問いかけていた。唇の動きだけで台詞を理解したレナルドは【事実です】と迷うそぶりも見せずに手話で答える。
咎めるような眼差しを向けるアイネアに、レナルドはただ穏やかに微笑むだけだった。その表情はまるで『心配するな。これでいい』と言わんばかりだ。それを見たアイネアの瞳が大きく揺れる。
「ではクラウディウス公、そのように取り計らえ」
「御意のままに」
「祝いの席を騒がせてしまったな。皆の者、妾はこれにて暇するが、残りのひと時はせめてゆるりと過ごしておくれ」
女王に続き、レナルドも場を辞していく。
アイネアに背を向けた彼は、後ろに手を回し【私のために憤慨してくれて嬉しかった】と動かした。その背中を追いかけようとしたアイネアを呼び止めたのは、彼の父クラウディウス公爵であった。
「公爵様…」
「少し良いだろうか。話がある」
「……はい」
「場所を移そう」
アイネアはレナルドが出て行った扉を見遣ったが、公爵から有無を言わせない圧を感じとって、気の進まないまま後に従う。
空き部屋に移動した二人は、机を挟んで向かい合わせに座った。
「まずもって謝罪させてもらいたい」
「…あの方々が法のもとで適正に裁かれるのなら、謝罪は結構です。わたしがお聞きしたいのは、」
「レナルドのことですな」
「はい。何故あのような…レナルド様が泥をかぶるような事をお許しになったのですか。ありもしない嘘でレナルド様の名誉を傷つけてまで、公爵様は何をなさりたいのですか」
アイネアの、哀しみと怒りに満ちた表情を目にした公爵は、ふっと口元を緩めた。
「…成程。息子が惚れ込んだのも頷ける。アイネア嬢、今しがたの婚約破棄はレナルドが自ら言い出したことだ。私はあの子の望む通りにしただけに過ぎない」
瞠目するアイネアは二の句が継げなかった。
レナルドの方から求婚してきたのに、その彼が婚約を破棄するなんて、やっていることが矛盾している。しかも事実を捻じ曲げて公表し、自分に最低な男というレッテルを貼られるのも厭わずに…
すなわち、それはすべてアイネアのためであった。「消えた婚約者を早々に見切り、公爵家に乗り換えた」などという、不愉快極まりない噂話を払拭するために、レナルドは進んで損な役回りを一手に引き受けたのだ。家も尊厳も、愛した女性さえ手放した彼に残ったのは、恥辱だけだった。
心臓のあたりに重い圧迫感を覚えたアイネアは、震える手で胸もとをきつく握り締める。
「もとより私はベリアと共にレナルドもクラウディウス家から追い出すつもりだった。ベリアの腐りきった本性を、貴女も見ただろう。あんな女の血を残す訳にはいかん。だからレナルドが誕生した時、私はいずれ息子を手に掛けなければと考えていた」
女児であれば生かしてやっても良かったが、ベリアが産んだのは跡継ぎとなる男児。その子がクラウディウス家を継げば、ベリアの暴走は悪化の一途を辿るであろうことは容易に想像できた。断腸の思いではあったが、公爵は息子を殺すことも視野に入れていた、と語った。
「あの子が聴覚を失ったのは、私にとって不幸中の幸いだった。だが、レナルドはそれを契機に、すべてのことに無関心になった。ベリアと自分の従者の行いに、気付こうと思えばいつでも気付けたはずだ。耳が聞こえようと聞こえまいと、そのような者はどの道、クラウディウス家に相応しくない。そう思っていた。レナルドが貴女と出会うまでは」
「わたしと…?」
「そうだ。アイネア嬢には感謝している。ベリアのことも勿論だが、貴女は息子に変わる力を与えてくれた」
「…そんな大それた力、わたしにはありません」
「こういうものは、自分ではわからぬものだからな。ああ、そうだ。レナルドから貴女への手紙を託されていた」
宛名も書かれていない真っ白な封筒をアイネアは無言で受け取る。
「詫びには到底足らぬが、望みがあれば何でも叶えよう」
「……何も、要りません。今はただ、自領で静かに過ごしたいです」
「…わかった。何かあればいつでも力になる。それでは、これで失礼する」
独りきりになったアイネアは、のろのろと手に持っていた封筒を開いた。白い便箋には、綴った人間の美貌を映し出したかのような、とても綺麗な文字が並んでいる。
『私は今、耳が聞こえなくなったことに感謝したい気分だ。自分が生き長らえたからではない。アイネア嬢、貴女という人に出会えたからだ。
母の犯した罪は許し難いが、何より許せないのは、私自身が貴女に要らぬ心痛を与えたことだ。はなから私には貴女に愛を捧げる資格など無かった。だというのに母の思惑に乗せられ、深く考えもせず、感情のままに行動してしまった。その所為で貴女は本来なら苦しまなくていいことで苦しむ羽目になった。心の底から申し訳なく思っている。
婚約破棄については、すでに決めていたことであり、私は預かった書類に署名をしていない。よって誓約書は未完成のままだ。成立していない婚約ゆえ、貴女が気に病むことは一切無いので安心してほしい。
貴女のことだから、こんな私のために憂いてくれるのだろう。だが、それは必要無い。私は貴女と同じことをしたまでだ。自分の幸せよりも大切なものを見つけた、それだけに過ぎないのだから。たとえ幻想だったとしても、ほんの一時であろうと、貴女の婚約者になれて幸せだった。ありがとう』
感謝の言葉で締めくくられた手紙と一緒に、アイネアの署名だけが記入された誓約書も同封されていた。
何も言葉は浮かんでこなかった。ありがとうもごめんなさいも、違う気がした。鈍い痛みだけが体の奥で疼いている。アイネアはレナルドからの愛を噛み締め、自分の両腕をきつく握りしめて項垂れたのだった。
───こうして、尊いものを失った代償と引き換えに、哀しい事件は幕を下ろしたのである。




