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レナルドの求婚にアイネアが了承した、それだけ聞けば喜ばしい出来事のはずなのに、彼は驚愕の表情を見せていた。それは嬉しさからくる類いのものではなく、どちらかといえば悪い意味での衝撃を受けた顔だった。
アイネアの意図を問い詰める前に、彼女の方からそれが伝えられる。
【ただし、ひとつだけ条件がございます。父の命を奪った犯人を捕らえるのに、お力を貸していただきたいのです】
アイネアが取り出した二枚の書類。一枚はすでにアイネアの署名がなされた婚約の誓約書。もう一枚はジョアンナの供述をまとめた文書だった。それに目を通したレナルドは、二度目の大きな衝撃を受ける。
愛する女性の婚約者を消し、疑惑を抱いた彼女の父を殺した、その首謀者が自分の母親だったなんて。生まれてこのかた、これほど最悪な気分を味わった試しが無い。耳が聴こえないとわかった時の絶望感の方が、まだましに思えてくる。レナルドは一切の顔色を失くした。
【…お祖母様の証言だけではまだ足りません。言い逃れできない、確実な証拠がほしいのです。婚約をお受けしたのは、実のお母様を追い詰めるために、レナルド様を利用してしまう事への、せめてものお詫びのつもりです】
そこまで伝えると、アイネアは手を膝の上に重ねて深く頭を垂れた。
ユニアスへの想いを封じてでも、彼を害した罪人に裁きの鉄槌を下す。愛する人のために、アイネアは自分のすべてを差し出そうとしていた。ユニアスがアイネアのために命をかけたのと同じように───
ユニアスもレナルドも、この領地の民も犠牲にできないアイネアが、唯一手放せるものは自分自身だった。敵を油断させるだけなら、婚約を偽装することもできただろう。そうしなかったのはひとえに、それがアイネアだからという理由に他ならない。ベリアのように人の純粋な想いを利用するだけ利用して棄て去る、そんな真似はアイネアには到底できなかった。
(貴女は優しすぎる…)
そして、ひたむきすぎた。
犯罪者の息子など捨て置けば良いものを、自分の心を殺してまでアイネアはレナルドのものになると告げたのだ。すべては真に愛するユニアスを想うが故。それでいてレナルドの"言葉"に、真剣に応じずにはいられない彼女は、壮絶な覚悟の末にこの結末を選んだ。
【…自分が何を言っているか、わかっているのか。罪人の息子と婚姻を結ぶ事になるのだぞ】
【はい。理解しております】
【それでなくとも……彼が帰ってきた時、貴女は必ず後悔する】
【その時は幼馴染として、彼の無事を喜びますわ】
たとえ幼馴染という立場に戻ろうとも、二度と隣に立つ事が叶わなくなろうとも、ユニアスが生きて戻るのを信じて待つことに変わりはない。その迷いの無い瞳に、レナルドの方が気圧される。
(人間はここまで誰かを…愛すことができるのだな)
自身の幸せをかなぐり捨ててでも、ユニアスを助けようとする懸命な姿は、見ているこちらの涙を誘うほどだった。目頭が熱くなってきたレナルドは、それを誤魔化すように大きく息を吸い込んだ。
【…アイネア嬢に協力しよう。しかし、家の者がしでかした事だ。私自身の手で片をつけたい。貴女は領主としての仕事で忙しいだろうし、物証集めは私に任せてくれないか。誓って貴女の悪いようにはしない。約束する】
【それで構いません。わたしが動くより、怪しまれないでしょう】
【では、沙汰は追って知らせる】
【はい。お待ちしております】
レナルドは婚約の誓約書だけを受け取り、文書の方は暖炉に放り込んだ。その後、部屋の外で待っていたケイル達に婚約を結んだことを報告する。無論、二人ともはにかんだ笑顔を浮かべて、である。
そんな話は聞いていなかったパルメナは呆気にとられたものの、ケイルが歓声と拍手を送った音で我に返り、やや遅れておめでとうございますと何とか取り繕ったのだった。
アイネアの下した決断に、バート達はその真意を図りかねた。ユニアス以外の男がアイネアと連れ添う光景を、思い浮かべることができなかったのだ。真っ先に異を唱えたのはクーザだ。彼がアイネアに強い反感を覚えるなど、初めてのことだった。けれども、隣国でたった独り、他でもないアイネアのために、今も捜索を続けているビルガの志を唯一知る者として、黙っていられなかった。自分の選択を責められたアイネアはというと、小さく笑っていた。その顔が、笑っているのにひどく哀しげで、クーザの怒りも徐々に萎んでいく。
「ユニアスの気持ちも、レナルド様の気持ちも踏みにじったわたしは、最低な女ね」
「わかってんならなんで…」
「ユニアスを守る、それだけは絶対に譲れないからよ」
凛と言ってのけたアイネアに、皆は閉口せざるを得ない。
(レナルドとかいう奴なんか、ほっとけばいいじゃねぇか。領主様を殺した奴の息子だぞ。情けをかける必要もねぇだろ)
ベリアの悪行を未然に防げたかもしれない立場にいた癖に、と歯噛みするクーザの気持ちはもっともだった。だが、アイネアが冷徹になろうとしてもなりきれない、情にもろい人間でなかったなら、いまクーザはここにいない。クーザだけではない。レギオン、ネーヴェル、パルメナ、ビルガ、そしてユニアスも、アイネアの心根の優しさに救われてきた。
(そのお嬢が報われなきゃ、意味ねぇだろうが…っ)
こんな哀しい顔で笑う人ではなかったのに、アイネアを変えてしまった連中が、クーザは心底憎くてたまらなかった。
バラダン領に舞った初雪は、例年と比較しても随分と早かった。
「いつもより寒い冬になりそうね…」
雪雲で覆われた空を窓から見上げて、アイネアは独り言を呟いた。北の王国はなおのこと、厳しい冬になるだろう。アイネアが切なげに目を細めている頃、クーザもまた浮かない表情をしていた。ビルガが書き溜めていった原稿は、とっくに残り半分を切っている。
(…いつになったら、お前は帰って来るんだよ)
ビルガからは何の音沙汰も無かった。進捗状況どころか、無事かどうかの確認さえ取れていない。
(お前がはやくユニアス様を連れ帰って来ねぇと、お嬢があの野郎と結婚しちまうぞ)
レナルドとアイネアの婚約が成立した後、ベリアから祝いの品が贈られ、数ヶ月が経った現在でも、二人の仲を尋ねる趣旨の手紙が届く。着々と進められる婚姻に、使用人一同は悶々とした気持ちを抱えていた。
【アイネア様。レナルド様からお手紙とお品物が届いています】
「…贈り物?」
仲の良い婚約者を演出するため、レナルドとは頻繁に文通をしていたが、彼から贈り物が届くのは初めてだった。何かあると察したアイネアは、すぐさま箱の包みを解く。中身は普通のネックレスだったが、その下に敷かれていた布を除けると、隠されたもう一枚の手紙が出てきた。レナルド直筆の手紙には、物証が集まった事と、断罪の舞台はアイネアが出席する卒業パーティーとなる事が記載されていた。
『私の父もかねてより母を公爵家から追放することを決めていたらしく、助力は惜しまないと言ってくれた。母の下僕であるケイル共々、パーティーの場で今までの罪を暴露する。あともう少しだけ、辛抱してほしい』
クラウディウス公の協力があれば百人力だ。
手紙を読み終えたアイネアはペンを取り、返事を書く。
『とても綺麗なネックレスをありがとうございます。確かに受け取りましたわ』
レナルドにはこの一文だけで充分に伝わるだろう。
「パルメナ、卒業式までに制服のボタンを付け替えておいてくれる?あと、ドレスの準備もお願いね」
【承知致しました】
「…あなたは何も言わないのね」
【私はアイネア様についていくだけです。このお屋敷に来た時から、そう心に決めていました。ですから、アイネア様はご自身の思うままに進んでください。行き着く先がどこであれ、最後までお伴します】
「…ありがとう」
パルメナが微笑むと、アイネアも一緒になって表情を明るくした。以前の比ではないが、それは久々に見せるまともな笑顔だった。




