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 ベッドからゆっくりと身を起こしたアイネアは、朝から重たい息を吐いた。最近は睡眠不足に悩まされ、夢を見るどころではなかった。


(…しっかりしなきゃ。またビルガに怒られるわよ)


 ビルガは新しい物語を書くための取材に出掛けたとクーザから聞いている。彼女が残した置き手紙には『少しの間、留守にするわ。でも貴女がめげそうになってる、なんて聞いたらすぐに引き返すから。今度は平手じゃなくて拳で殴るわよ。私の仕事を邪魔したくないと思うなら、精々頑張りなさい』と、ビルガらしい励ましが書かれていた。アイネアは思わずくすりと笑ってしまった。

 各地を回りながら話の材料を集めているようで、定期的に原稿は届いていた。無論、これはクーザによる工作だ。騙すような真似をするのは心苦しかったが、ユニアスが失踪した国にビルガも行ったなどと知ったら、アイネアの心労は計り知れないものとなる。それがわかっていたからクーザもビルガに同調し、彼女が書き溜めた原稿を、さも遠方から送っているかのように偽装をしていた。字体を真似るなど、クーザには朝飯前である。

 アイネアは二人の嘘を完璧に信じきっていた。時折「ビルガの土産話が楽しみね」とどこか寂しそうに言うのを、クーザは切ない気持ちで聞いていた。


(お前はああ言ってたけど、俺達じゃお嬢に弱音を吐かせることもできねぇよ…)


 やはり友達だと宣言するだけあって、クーザ達には決して見せない姿を、ビルガには見せたのだと思うと悔しかった。けれど今はそんなつまらない嫉妬よりも、せめて友達のお前だけでもこの人のそばにいてやってくれと、クーザは願ってやまない。


 ビルガがどこへ向かったのか、真実を知っているのはクーザだけで、彼も口外したりしなかったのだが、皆考えることは同じだったらしい。

 ネーヴェルが、北の王国で活動している楽団について行くと言い出したのだ。彼女が(アイネアの鼻歌をもとに)作った『アニソン』風の楽曲は、自国のみならず隣国でも大層人気を誇っている。国境を越えて注目される歌姫に、訪問コンサートの依頼が入るのはさして驚く話でもない。ネーヴェルは自分の仕事を果たすかたわら、ユニアスの捜索を目的にして、何度も北の王国へと渡って行った。だが、短期間に仕事をこなしながらの中、しかもビルガと違って向こうの言葉があまり達者でない故に、大した成果はあげられなかった。

 レギオンもまた、知り合いの行商人に片っ端から声をかけ、隣国の状況を知ろうと奔走していた。時には未知の食材を探すと言って、出掛けて行くこともあった。

 ネーヴェルもレギオンも、ユニアスを捜しているとはひと言も言いはせず、アイネアもまた何も聞かずに送り出していた。そして帰ってくると温かく出迎え、またしてもユニアスについては何も尋ねなかった。誰よりも彼を想い、その身を案じているのに、誰よりも静かに待ち続けているのだ。そんな健気で一途な姿を見ているだけで、クーザ達は泣けてきそうだった。


 そんな人の出入りが増えたバラダン家の屋敷に、思ってもみない来客があった。


「えっ!?レナルド様がお見えに?いま?」


 バートが血相を変えて書斎に入ってきたので何事かと思えば、なんとレナルド本人が直々にバラダン領へやって来たと言う。慌ててアイネアも玄関へと向かう。


【アイネア嬢。先触れも出さずに申し訳ない】

【いえ、それは構いませんが…】


 従者のケイル共々、頭を下げられて、いつかのようにアイネアは焦った。


【少しだけでいい。貴女と二人で話がしたい】


 婚約を申し込まれているとはいえ、アイネアはまだ了承していないし、未婚の男女が密室で二人きりになるのは良くない。アイネアが逡巡したのをレナルドは見逃さず、こう付け加えた。


【扉は開けたままで結構。我々の話し声が聞こえることはないのだから】

【それでしたら…】


 応接室の扉は半開きのまま、見えない位置にパルメナとバートを待機させるという条件で、アイネアは話し合いに応じた。


【まずはアンドリュー氏に哀悼を…】

【感謝致します】

【…後悔している。このようなことになるとわかっていれば、貴女を煩わせはしなかったのに】

【煩わせるなんて、そんな…】


 レナルドは自分がした求婚について、再び謝罪した。彼が困らせようと意図してやったのではないと、アイネアもちゃんとわかっている。レナルドは本気で、アイネアの助けになれればと願い出たに過ぎないのだ。それを煩わしいなどと思うアイネアではない。


【レナルド様のお申し出は、その…とてもありがたいことでしたから。謝らないでください】

【ありがたい、か……その言葉が本心なら、】


 不自然なところで、レナルドの手話が途切れる。アイネアは首を傾げた。


【最後にもう一度だけ、貴女に想いを伝えたい】

「え…」


 女性と見紛うほどの美しい青年が、熱心にただ一人を見つめる。アイネアは身動ぎすることもできなかった。


【ユニアス殿の代わりにしろとは言わない。貴女が誰を想おうと構わない。ただ、どうか貴女の隣で、貴女を支えることを許してほしい。私はアイネア嬢を…】


 彼が手話で伝えたのはそこまでだった。

 レナルドの口から、錆びついたような掠れた音が聞こえ始める。何をしようとしているのか察したアイネアは息を呑む。その僅かな物音さえ出さないよう、無意識に口元を手で覆っていた。

 三歳で聴力を失ったレナルドが、必死に言葉を紡ごうとしている。手ではなく、長いこと発声してこなかったであろう喉をふるわせて。そして、万感の想いをアイネアに贈る。


「愛してる」


 実のところ、そこまではっきりと聴こえはしなかった。唇の動きを見ていなければ分かるかどうか、という程度の発音だった。しかし、たったこれだけの音を出すために…アイネアに伝えたい、その想いだけで果てしない努力を積んだことは明白だった。

 アイネアは何も言葉が出てこなかった。ただただ、胸が締め付けられるように苦しかった。


【…私とケイルはしばらくバラダン領に滞在する。アイネア嬢の心が決まったら、答えを聞かせてくれ】


 アイネアは依然として動けなかった。見送りもしない無礼な態度を咎めることなく、レナルドは静かに立ち去った。

 いつまでも応接室から出てこないアイネアを心配して、待機していたパルメナとバートが雪崩れ込んでくる。


【大丈夫ですか!?】

「随分とお疲れのように見えますが…レナルド様に何か言われたのですか?もしや、再度婚約を申し込まれた、とか…」

【っ!どうして誰もかれも、アイネア様の気持ちを蔑ろにするんですか!?アイネア様がこんなにお心を痛めておいでなのに、好き勝手に口説いて…っ、厚かましいにもほどがあります!】


 パルメナは怒りの形相でまくし立てた。しかし、当事者であるアイネアがそれを諌める。


「…パルメナ、わたしのために怒ってくれるのは嬉しいけれど、レナルド様のことをそんな風に言わないで?あの方はただ……わたしの力になりたいと、純粋な気持ちで仰ってるだけよ」

【それではアイネア様があまりにも…っ】

「いいの。本当にお辛いのはレナルド様の方だから。わたしは…いえ、なんでもないわ」


 先程、レナルドから真摯な愛を捧げられた際、アイネアの頭をよぎったのは、同様の言葉を告げたユニアスだった。同じ五文字といえど、紡ぐ人が変われば、受け取るアイネアの感情も全く異なった。胸が苦しいのは変わらないが、ユニアスに言われた時は確かな幸福で溢れていた。しかしレナルドの場合は、ひたすらに苦しいだけで、もはや悲しいとさえ感じた。それは、あれほど純真無垢な愛を向けられても、アイネアが同等の想いを返すことは無いと、残酷なまでにはっきりと悟ってしまったからだった。


「…きちんと考えて、お答えするわ。それがきっと、わたしが示せる唯一の誠意だもの」

「アイネア様がそうと決めたのなら、我々は反対しません。パルメナも、いいですね」

【……はい】


 力なく笑ったアイネアは、少し部屋で休むと言い残し、一人で自室へと歩いていった。




(腹をくくる時が来たのね…)


 アイネアの本音を言えば、断る以外の選択肢は無い。心などとうの昔から決まっている。しかし、バラダン家当主としては、レナルドの申し出を「お断りします」と一刀両断することはできないのだ。アイネアが考えなければならないのは領民の幸せである。頭ではわかっているが、簡単に気持ちを切り替えることもできず、結局は堂々巡りだった。

 そんな事を考えていたら、自分の部屋に戻るつもりが、いつのまにかピアノの練習部屋に来ていた。この場所には、ユニアスが初めてくれた贈り物である、硝子のチェス盤が置いてあった。それを見るのが今は辛くて、足が遠のいていたのだが、一度来てしまえば、吸い寄せられるようにチェス盤に近付いていく。


(…カードゲームではわたしが勝つ時もあったけれど、チェスだけは一度も勝てた試しがないわ)


 アイネアは手加減されるのを嫌がるとよく知っていたユニアスは、いつも全力で相手になってくれた。負けっぱなしだったけれど、ユニアスをあっと驚かせるような一手を、あれこれ考えるのが、すごく楽しかった。


(簡単に勝てる相手だと、ユニアスはつまらなかったかもしれないわね)


 だが、どれだけ記憶を掘り返しても、いつだってユニアスは喜んで何度も対戦相手になってくれていた。チェックメイト、と宣言する時の、ちょっと眉尻が下がった彼特有の笑みが忘れられない。

 磨きぬかれているものの、無数の傷がついた盤面に触れる。すると、チェス盤がカタンと僅かに揺れた。


「下になにかある…?」


 どうやら机とチェス盤の間に、折り畳まれた紙が挟まっているようだ。乗っている駒を倒さないよう注意しながら、そうっと紙を引き抜く。開いてみると、それは手紙だった。しかもアンドリューからアイネアに宛てた、最後の手紙であった。

 アイネアは瞬きも忘れて、父からの手紙を読む。


『愛する娘アイネアへ。

 私が死んでも、そう哀しまなくていい。親が子よりも先に逝くのは、ごく当たり前のことだ。お前が私よりうんと長生きするのが、何よりの親孝行なのだからな。

 アイネア、お前はこれから先の人生で、幾度も妥協しなければならないだろう。人生とは選択の連続だ。一方を選ぶということは、もう一方を諦めるということだ。時には苦しい決断を迫られることもある。優しさだけでは通れない道もある。すべてを選び取れるほど、現実は甘くない。だからひとつでもいい、決して揺らがぬものを持ちなさい。どれほどの困難に見舞われようと、その強い決意が心にあれば、真っ直ぐに立ち続けられるだろう。

 最後に、アイネアを娘に持てた私は、世界で一番の果報者だ。お前にもあらん限りの幸福が満ちるよう、祈っている。

 父より』


 記されている日付けは、アイネアが学園から手紙を送るよりも前のものだった。アンドリューはアイネアが思い悩むことを見越していた。直接伝えられないかもしれないという、最悪の事態に備えて道導を残していたのだ。

 父の最後の気遣いに心を打たれたアイネアは、手紙を胸に押し当て、いつまでもそうしていた。

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