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『アイネア・バラダン伯爵に、下記の領土を下賜する』
国王の署名と印の押された委任状を受け取り、その時をもってアイネアは正式にバラダン領の十五代目領主となった。うら若き女性が就任するのは珍しく、少なくともバラダン家の歴史では初めてのことであった。しかしながら、領民からは不満の声が上がるどころか、かえって温かな声援と期待を受け、引き継ぎはつつがなく終了した。
アンドリューの書斎は、そのままアイネアの仕事場となり、扉の向こうにはきびきびと指示を飛ばし、書類を捌いていく美しい領主の姿があった。
「失礼します。アイネア様にティミオス学園から手紙が届きました」
「ご苦労様、バート。この間のお返事かしら。それにしても、みんなから名前で呼ばれるのはちょっと新鮮ね」
領主となった方を、いつまでもお嬢様とは呼べない。バートの一声により、使用人達は呼び方を改めた。唯一の例外はクーザだ。彼だけは未だに「お嬢」と呼んでいる。
「おいおい慣れていくでしょう」
「そうね。あら…」
「どうかなさいましたか?」
「学園長が『前倒しで単位を取って、あとは休学の形をとるのはどうか』と提案してくださったのよ」
領地から離れられなくなったアイネアは、自主退学を検討していた。その旨を書面にしたためて学園長へ提出したのだが、特例措置として単位の早期取得が認められ、送付した課題をこなせば、講義は免除されることとなった。
【アイネア様が模範生だったからですよ】
お茶を準備していたパルメナが、誇らしそうにそう語るものの、アイネアは否定的だった。
「どうかしら?勉強は精一杯やったけれど、模範的ではなかったと思うわ。だって、問題ばかり起こしたじゃない」
【問題を起こしたのは周りの方々であって、アイネア様は巻き込まれたに過ぎません】
「そうですよ。学園長が良いと言うのなら、あとは乗ったもん勝ちです」
「バートったら…でも、せっかくのご提案ですもの。ありがたくお受けしましょう」
ユニアスやビルガの影に隠れてしまっていたが、アイネアはこれでも成績優秀者なのだ。あっという間に課題を片付けて送り返せば、後は卒業式まで休学となる。
【少しお休みになられては?】
「平気よ。それに、こっちの書類がまだ手付かずなの。今日中に終わらせないといけないから。パルメナは先に休んでていいわよ」
領主が代変わりしてからというもの、アイネアは日々忙殺されていた。いや、むしろ自ら望んで仕事に打ち込んでいる。本当に仕事が多いというのもあるが、気を抜くと、ふとした瞬間に父やユニアスと過ごした思い出が蘇り、胸がつまって窒息しそうな気がして怖かった。だから仕事を詰め込み、迫り上がろうとする感情を忙しさで紛れさせているのだ。
パルメナが心配するのも無理はないが、下手に止めようものなら、今度こそアイネアの心が壊れてしまうと誰もが感じていた。
唐突に変化した生活、そして領主という責任。アイネアの細い肩にかかる重圧はどれほどのものか。それらを一切悟られないよう、気丈に振る舞う彼女だが、以前のように笑うことはなくなった。微笑んではいても、それは心からの笑顔ではなかった。皆が愛した輝くばかりの笑顔は、もはや面影すら残していない。
(どうしてこの方ばかりが、こんな苦しみに遭わなければならないの。いつだってお優しく、情け深い方が…)
我が主の不幸を全てこの身に背負わせてほしいと、パルメナは神に祈った。アイネアのためなら命だって捧げられるのに、今のパルメナにできるのは、ただ側でお世話することだけだった。
哀しみに暮れながら書斎を出たパルメナを、ビルガが待ち構えていた。
「…アイネアは相変わらず?」
彼女はアイネアを案じて、ここ数日はこの屋敷で寝泊まりしているので、アイネアの異様な仕事ぶりも目にしていた。パルメナが小さく頷くと、ビルガは「そう…」と言ったきり黙り込んだ。
翌日、仕事が一区切りついた折に、アイネアは静かにこう呟いた。「お父様にご挨拶に行きたい」と。
実はアンドリューが亡くなってからまだ一度も、墓所を訪れていなかったのだ。単に仕事に追われていたということもあるし、心の整理がつけられなったという理由もある。
【ですが今日は…生憎のお天気ですし、別の日になさった方が…】
パルメナの言う通り、空は雨雲で覆われ、遠くから雷鳴が聞こえる悪天候だった。何もこんな日でなくても、と誰だって思う。
「…いいの。長居するつもりはないし、誰もいない方が落ち着けるから」
【……かしこまりました。準備致します】
案内役はビルガが買って出た。
常ならばアイネアのお喋りで賑やかになる馬車の中が、今日は沈黙が流れるだけであった。同乗するビルガもパルメナも、ぼんやりと外を眺めるアイネアに、声をかける気にはなれなかった。
アンドリューの墓碑は、共同墓所の一角に設けられた、先祖代々の領主が眠る場所にあった。生前にアンドリューは「死んだ人間に、必要以上の金と時間をかけなくていい。大切なのは今を生きる者達なのだから」と話していたらしく、彼の墓碑は簡素なものだった。その代わり、周りを取り囲むようにして、色とりどりの花々が添えられている。死を悼むために、ここを訪れる者があとを絶たない証拠だった。実に父らしいと、そのひと言に尽きる。
「……しばらく、ひとりにして」
「…わかったわ。でも、十分経っても帰って来なかったら、呼びに戻るから」
雨と雷がひどくなってきたため、アイネアを独り残すことをパルメナは躊躇ったのだが、ビルガはさっさと踵を返してしまった。仕方なくパルメナも後ろ髪を引かれる思いで、その場を離れた。
独りきりになったアイネアは、無言のまま父の名が刻まれた墓碑を見下ろしていた。その時、一層強い風が吹き荒れ、持っていた傘を飛ばしてしまう。だがアイネアはそれを拾いに行こうともせず、冷たい雨に打たれながらもそこを動かなかった。そして、裾が泥水で汚れることも厭わずにしゃがみこむと、冷え切った手でそっと父の名前を撫でた。
「…別れ際まで情けない姿をお見せして、申し訳ありません…っ」
突き放すような言い方をしたアンドリューに腹を立てた挙句、厳しく叱られた。まともに言葉を交わしたのは、あれが最後だったと思うとあまりに遣る瀬無い。
アンドリューはアイネアを教えることに関して、まったく厳しかった。でもそれが、愛情の裏返しである事も、彼の娘として存分に愛を注がれていた事も、アイネアは知っていた。幼い頃から教えられ、鍛えてくれたからこそ、未熟なアイネアでも領主として指揮を執ることができたのだ。それが無ければ、今頃は右往左往していたに違いない。
まだその感謝を伝えていなかったのに、父は逝ってしまった。今際の際に立ち会うことも、見送ることも叶わず、アイネアが報せを聞いたのはすでに埋葬された後だった。正直なところ、墓を目の前にしている今だって、あまり実感がわいてこない。
「…お父様の娘で、良かったと…心から思っています。本当に感謝の気持ちで、いっぱいです…」
アンドリューは外出中、刺客からの毒矢を受けて亡くなったという。急所は外していたものの、屋敷に戻る頃には毒が全身にまわり、手遅れだったそうだ。視察の予定も無かった父が、何故外出していたのか。考えるまでもなくわかることだった。
「大好きなお父様っ……こんな風に、おいて逝かないでほしかった…っ!!」
アイネアは空を仰いで嘆きの咆哮を上げた。
しかしその悲哀に満ちた声は、直後に轟いた雷鳴によって掻き消され、誰の耳にも届くことはなかった。
きっちり十分で戻ってきたアイネアを見て、ビルガとパルメナは青ざめた。何せその二人よりも、アイネアの顔色は悪く、ずぶ濡れだったからだ。ただでさえ無理に忙しく働いているのに、秋の冷たい雨に晒されては、アイネアの体がもたない。慌てて馬車に押し込め、ぐっしょり水を吸ったコートを脱がせて用意してあったタオルをかける。
「傘は差すためにあるのよ!まったくもう!ほら、私の上着を着ていなさい」
「…濡れてしまうわ」
「そんなの洗濯すれば済む話よ。貴女が熱を出して寝込む方が嫌だわ」
ビルガは問答無用で自分が着ていたコートを押し付けた。のろのろと袖を通すアイネアを見ながら、ビルガは眉根を寄せる。
(頑固にもほどがあるわよ…)
雨に濡れたとでも言い訳すればいいのに、アイネアの目元は何ら変わらない。目蓋も腫れていなければ、充血すらしていない。頰を濡らしているのは雨だけだ。
アンドリューの墓の前でなら思いっきり泣けるだろうと思って独りにしたのに、天の助けを借りても上手くいかなかったようだ。しっかりしろと叱ったのはビルガだが、誰も見ていない時くらいは泣いてもいいのに、とも思う。というより、それが普通だ。あの時はああでも言わなければ、アイネアがどうにかなってしまいそうだっただけで、何もここまで我慢しろとは露にも思っていない。
第一、アイネアが自然に泣いて発散できる性格だったなら、気が済むまで共に泣き、泣き止むまで背中を撫でてやることができたはずだ。そうではないから、ビルガとてこんなに苦しいのだ。
ビルガはアイネアの過去に何があったのか知らない。母との死別と父の涙を目の当たりにした幼いアイネアが、頑なに泣くことを拒むようになってしまったなんて、知る由もなかった。
雨の中、馬車を急がせ屋敷に帰ると、すぐさまアイネアは湯浴みに連れて行かれた。その姿が見えなくなってから、ビルガは屋敷の中にあるアトリエへと向かう。
控えめにノックをすると、扉の向こうから部屋の主のぶっきらぼうな声が返ってきた。
「…何の用だよ」
「…折り入ってお話があります」
最初は顔を合わせれば喧嘩をしていた二人だが、まずビルガが言い返すことをしなくなり、すると次第にクーザも罵ることを止め始め、口論に発展する回数も減っていった。漫画製作の議論が白熱すると、以前のような言い争いが勃発することもたまにあるが、始まりを思えば随分と穏やかな関係になりつつある。
クーザの口の悪さにはもう慣れたビルガは、覚悟の灯った瞳で告げた。
「私、ユニアス様を捜しに北の王国へ行きます。クーザさんには、偽装工作に加担してもらいたいのです」
「……はあ!?」
クーザは思わず椅子から立ち上がり、愕然とビルガを凝視してしまう。
「冗談はやめろっ!」
「大声を出さないでください。他の方に聞かれたら困ります。それに、冗談ではありませんわ」
「…だいたい、お前みたいな箱入りがどうやって…!」
貴族の娘として育てられてきた人間が、言語も文化もまるで違う隣国に単身で乗り込むなど、正気の沙汰ではない。クーザは正論を言っているはずなのに、ビルガは折れなかった。
「私は貴族社会から追放された女。誰も見向きもしないでしょう。だからこそ適任だと思うのです。私を狙う理由も利益もありませんもの」
「無謀すぎるだろ…!」
「向こうの地理なら頭に入っていますし、言葉も話せますわ。バラダン家は動けず、シャレゼル家は動こうとしない…他に誰がユニアス様を助けに行けるのですか?」
死亡宣告をしたシャレゼル家が、ユニアスの安否を確かめに赴くことはもう見込めない。行けるとすれば、この一件に何の関与も無い者か、殺す価値が無いと判断される者のいずれかだった。幸か不幸か、本の出版はペンネームを使用しているため、ビルガという名は知られていない。目立つ赤髪も、変装してしまえばわからないだろう。
「…アイネアを無理矢理立たせたのは私。その私が、何もせずに指を咥えて見てるだけなんてできないわ。弱音は吐いてくれても…私ではアイネアを泣かせてあげることができない…」
何もアイネアは心を閉ざしているわけではない。自分の心への踏み込ませ方が、ユニアス以外にわからないだけなのだ。
「無理を続けていては、いずれ限界が来てしまう。そうなる前に、何としてもユニアス様を捜し出さなければ…」
「お前…」
「漫画のことなら心配しないでください。ちゃんと書き溜めておきましたので。講師の方も代役を見つけてあります。この仕事は私の生き甲斐、クビにされたら困りますから」
中途半端な仕事をしたら即刻クビにすると言ったのはクーザだった。それを覚えていたビルガは艶やかに、かつ不敵に笑ってみせた。
「今夜にでもここを発ちます。アイネアには上手く言っておいてくださると助かりますわ」
「おい…っ!」
ビルガはかつて、女の友情ほど危ういものは無いと考えていた。利用するかされるか、表面を取り繕うだけの関係しか知らなかった。それを変えてくれたのが、アイネアだった。今のビルガはアイネアを心の奥底から信頼しているし、彼女になら例え裏切られたとしても構わないとさえ思っている。苦悩から救い出してくれたアイネアのため、力になれる時が来たのだとビルガは勇み立っていた。
「この事はクーザさんだけの秘密に留めておいてくださいね。それでは」
クーザが呼び止めようとするも、ビルガは振り向きもせずにアトリエを出て行ってしまった。呆然と佇んでいたクーザだったが、突如として拳を壁に叩きつけた。
「………あいつといると、むしゃくしゃして仕方がねぇ…」
いったい何をこんなにも憤っているのか、クーザ自身にもわからなかった。
その日の夜中、ベッドで横になっていたものの、寝付けなかったクーザは飛び起きた。そして密かに屋敷を抜け出し、準備があるからと帰って行った、ビルガの借家へと向かった。雨は上がっていたが、ぬかるんだ道は走りにくかった。
クーザがそこへ着いた時、ちょうどビルガが出立するところだった。満月の下で荒い呼吸を繰り返すクーザを、おっかなびっくり見つめている。
「え…っ!クーザさん!?どうしてここに!?」
クーザは滴る汗を乱暴に拭い、キッとビルガを睨みつけた。
「…絶対に、無事に戻って来いよ」
怖い顔と相まって、クーザの声は唸っているみたいだった。しかしながら、その言葉はビルガの安全を願ったものだった。それがわかった途端、ビルガは言い知れぬ感情を覚える。
「お前がいなきゃ、お嬢の望む漫画は作れない。だから必ず、帰ってこい」
今が夜で良かった。というのも、ビルガは頬を薔薇のように色付かせ、その上、惚けたような顔をしていたからだ。
「あ、あっ当たり前ですわ!まだまだ書きたいお話が沢山ありますもの。貴方に指図されなくとも、死ぬ気は毛頭ありませんっ!」
「そうかよ」
妙に高鳴る胸と、火照った顔に困惑しながら、ビルガはひっそりと旅立ったのであった。




