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 ベリアが訪れてから日も空けずに、今度はレナルドが学園にやって来た。挨拶が済むなり謝罪の姿勢を示し、公爵子息にいきなり頭を下げられたアイネアは仰天する。


【先日の母の非常識な行動をお詫びしたい】

【ベリア様は善意で提案してくださったのですから、そんな風に謝らないでください】

【いや。傷心のアイネア嬢に言うべきことではなかった。本当にすまない】


 母親の行動に怒りが収まらないのか、レナルドは美しい顔を歪め、拳を握りしめていた。


【わたしは気にしていませんから。それに、ご迷惑だったのはレナルド様の方でしょう?】


 アイネアがそう手話で表した瞬間の、彼の形容しがたい顔といったらない。

 この度の話がベリアの独断ならば、レナルドとて寝耳に水だっただろう。突然の縁談に異を唱えたくなるのも頷ける。ところが、彼の返答はアイネアの予想だにしない内容だった。


【…正直に白状すると、婚約自体には反対していない。私はアイネア嬢のことを、ひとりの女性として好いている。しかし、貴女への想いは墓場まで持っていくつもりだった】


 好いている、のあたりで手話のスピードが遅くなったが、レナルドは率直な気持ちを吐露した。予期せぬ告白をする羽目になり、きまりが悪そうな様子だ。一方でアイネアはというと、中途半端な位置で手を止めて、完全に固まっていた。


【ユニアス殿との仲を引き裂こうなどとは断じて思っていなかった。信じられないかもしれないが嘘ではない】


 動揺して相手の手話を読み取るので精一杯なアイネアは、レナルドの言葉を何とか理解しようと、必死に頭を働かせる。


【貴女の心がユニアス殿に向いたままでも構わない。クラウディウス家の威光が貴女への助力となるなら、遠慮なく使えばいい。私は貴女が望む通りにする】


 レナルドの灰色の瞳は本気だった。真剣な想いを汲み取ったアイネアはひどく戸惑う。その様子を見ていたレナルドは、これでは母と変わらないな、と自嘲的な笑みを浮かべた。


【詫びに来たつもりが、余計に混乱させてしまったな。日を改めて出直そう】


 どうやって彼を見送ったか覚えていない。気がつけば、自室のベッドに倒れ込んでいた。具合が悪いのかとパルメナが青ざめるが、アイネアは疲れたように力なく首を振った。


「大丈夫よ。ただちょっと…色々なことがありすぎて、気持ちがついてこないだけ」


 それから三日と経たない間に、どこから漏れたのか知らないが、クラウディウス家がアイネアと懇意にしており、結婚を申し込んだという噂が、学園内に広まっていた。中には心無いことを囁く者もいた。


「さすが氷の令嬢だわ。あれだけユニアス様と仲睦まじくしておきながら、こうもあっさり公爵家に寝返るなんて」

「お金儲けに目が無い方だもの。人としての情など二の次なのよ」

「それにあの美貌ですからね。殿方を手玉にとる方法を熟知しておられてもおかしくないわ」


 常ならば陰口など意に介さないのだが、精神的に参っている今のアイネアには、彼女達の言葉が鋭利な刃となって突き刺さる。胸に痛みを感じながらも、アイネアはひたすら前を見据え、決して項垂れなかった。辛くても、苦しくても、一緒に背負うと言ってくれた彼がいなければ、アイネアは独りで我慢することしかできないのだ。それ以外の方法を知らないが故に。

 だが、悪い事ばかりでもなかった。レナルドとの噂が広まったおかげで、送られてくる手紙の数が減ったのだ。まだ正式に婚約を交わしたわけでもないのにこの影響力とは、さすが筆頭貴族の公爵家といったところか。


(……少し、疲れたわ…)


 ひと気の無い中庭の四阿で、アイネアはゆっくりと瞳を閉じた。カフスボタンを指先で弄るのが、いつの間にか癖になっており、今も無意識に触れていた。すると不意に、星空の見えるバルコニーで告げられた彼の言葉が、アイネアの耳に蘇る。


「『たとえ遠く離れていても、想い続ける』……わたしも同じ気持ちよ、ユニアス…」


 掠れた呟き声は、風にさらわれ消えていった。

 レナルドは日を改めると言っていたが、それよりも前に、アイネアには王都を去らなければならない事情が生じた。彼女に降りかかる悲劇は、まだ終わってはいなかったのだ。




 その日は、秋本番も近いというのに、嫌に暑かった。生徒達はじっとりと汗ばむ陽気に顰めっ面をしていたが、アイネアだけは顔色を失くし、一滴たりとも汗なんて流していなかった。むしろ、急速に熱の引いた手が震えている。


「………いま…なんと、仰いましたか…?」


 アイネアは瞬きも忘れて、自分を呼び出した教師を見つめた。落ち着いて聞いてほしい、そう前置きをした教師は、言いにくそうに再び口を開いた。


「…先刻、アンドリュー氏が亡くなったとの訃報が届いた」


 それ以降の、バラダン領に帰るまでの記憶が一切無い。後から知ったが、五日半かかる旅程を一日短い四日半で駆け、バート達を驚かせたらしい。


「お、お嬢様っ!?」


 突然、玄関の扉が開け放たれたため、屋敷で働く者達はびっくりして棒立ちになった。しかもそこに居るのが、酷い顔色をしたアイネアであれば尚更。バートが体調を気遣う言葉を述べるより先に、アイネアは彼の執事服の襟を掴む。


「おじょ…」

「バート、何かの間違いよね…?お父様が亡くなったなんて…っ」

「それは…」

「間違いだと言って!!!」


 空気を震わすような、絶叫だった。

 力を入れすぎて、もとから色白なアイネアの手は真っ白になっていた。バートはぶるぶると震える手をそっと外すと、目を伏せて首を横に振った。


「…誠に残念ながら、事実でございます。私の目の前で、旦那様は息を引き取られ、この手で亡骸の埋葬も致しました」


 アイネアはアンドリューの遺体を見てもいないのに、父の葬儀は済まされ、現在は冷たい土の下にいるだなんて…信じたくもない。でも、バートの赤くなった目元、あちこちから聞こえるメイド達のすすり泣く声が、現実から逃避することを許さない。

 アイネアの腕がだらりと下がる。

 異様な声を聞きつけて、屋敷の奥にいた者達も玄関にやって来る。そこには、今日たまたま訪れていたビルガの姿もあった。

 ビルガはばっさりと表情を削げ落としたアイネアを見て、アイネアはビルガの纏う黒い喪服を見て、互いに言葉を失った。

 突然、アイネアの体がふらりと動いた。ユニアスの報せを聞いた時のように、倒れるのではないかと誰もが思ったが、違った。誰の姿も見えず、言葉も聞こえていないかのように、アイネアは無言で歩を進め始めた。そうして行き着いたのは、アンドリューの書斎だった。

 この扉を開ければ、いつものように書類を捌いている父がいる。

 そう信じてドアノブを捻った。


「………お父様…?」


 しかし、淡い期待は無惨に砕け散る。

 追いかけてきた使用人達は、酷く虚ろな瞳でこちらを見るアイネアに、思わず後退った。その痛ましい姿に、バートだけは見覚えがあった。母リィサを亡くした頃の幼いアイネアとそっくりだった。あの時はアンドリューがいたから事なきを得た。では、そのアンドリューすらいなくなってしまったら、彼女はどうなる。いったいどんな慰めの言葉なら、彼女に届くというのか。

 その時、たったひとり進み出る者がいた。ビルガだ。赤い髪をなびかせながらアイネアに近寄り、そして───


「しっかりしなさい!!」


 微かに揺れる怒声、続いてパンッと乾いた音が響いた。ビルガがアイネアの頰を平手で打ったのだ。そこでようやく、アイネアの目の焦点が合う。張られた頰を押さえることもしないで、呆然とビルガを見ていた。


「アンドリュー様が亡き後、領主は貴女なのよ!領民が不安に包まれている時に、貴女が倒れてどうするのっ!!」


 アイネアの両肩をきつく掴み揺さぶる光景に、我慢ならなくなったクーザは、ビルガ以上の剣幕で怒号を浴びせる。


「ふざけんなっ!!てめぇには人の心ってもんがねぇのか!!いま一番哀しい思いをしてんのはお嬢だろうがっ!!」

「よせって!クーザ!!」


 クーザが今にも殴りかかりそうな勢いだったので、レギオンは渾身の力で羽交い締めにする。しかし、もがき暴れていたクーザは急に大人しくなった。それは、一瞬見えたビルガの横顔が、涙で濡れていたからだった。

 見ていることしかできなかったネーヴェルは泣き崩れ、彼女の背中をさするパルメナも肩を震わせながら泣いていた。


「民のために、領主としてしゃんと立ちなさい!!」


 ぼろぼろと溢れる涙をそのままに、ビルガはなおも叱咤した。

 アイネアの感情が激しく揺れ動くのも、あるいは奮い立つのも、自分ではない誰かのためである。それを身をもって理解しているビルガだからこそ、敢えて追い詰めるような言い方をした。アンドリューの死という絶望にではなく、残された民達に目を向けさせることで、アイネアの心の均衡を保たせようとしたのだ。あのままでは友が壊れてしまうと、ビルガは直感していた。そんな身を切るようなビルガの行動は、どうにか功を奏する。


「……っ、だめなままね…わたし。己を律するようにって、何度もお父様に注意されてきたのに…」


 アイネアは両の手をぐっと握りしめて、顔を上げた。蒼海の瞳には確固たる意志が宿るだけで、潤んですらいない。すぐそばにいたビルガはその事に気が付き、彼女の代わりとばかりに、更に涙を流した。


「みんな…ごめんなさい。不安にさせたわね。こんな頼りない領主だけれど、これからも力を貸してくださるかしら」


 姿勢を正し、厳然と立つ姿は、否が応でもアンドリューを彷彿とさせる。

 皆の返事はひとつだった。

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