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いつも以上に、父親から素っ気なく送り出されたアイネアは、学園に戻りそこで夏季休暇を過ごした。謹慎していた分の講義を受けるには丁度良かったが、勉強に集中できるかと聞かれれば答えは否だ。アンドリューからの厳命で、学園から一歩たりとも出ることもできず、アイネアは鬱屈とした日々を送っていた。
世間ではアンドリューの冤罪にて一件落着とされているが、とんでもない。
(いつまでじっとしていればいいの…)
王妃を狙った爆破、虚偽の訴え、消えたユニアス…何ひとつとして解決に至っていない。確かに「待つ」とは言ったものの、ここまで身動きのとれない状態で、と前置きが付くとは思わなかった。ユニアスが同じ空の下で苦しんでいることを考えると、気が狂いそうになる。学園にいる時を除き、一度として途絶えなかった手紙のやり取りもなくなり、哀しみはいっそう募った。いつも浮かない顔をしていることを、パルメナが案じていると気付いてはいても、気遣う言葉の一つもかけられなかった。
ユニアスの失踪から、ひと月が経過したある日。アイネアのもとに"ルビー"と名乗る人物が面会に訪れた。そのような名前の知り合いはいなかったが、アイネアは瞬時に察した。はやる気持ちを抑えてルビーなる人物に会いにいけば、そこにいたのは変装したビルガだった。
「まるで別人のようだわ」
「ネーヴェルさんがやってくれたのよ。やけに手慣れてる様子だったけど、どうせ貴女の仕業でしょう?」
「ご名答。パルメナの変装技術も達人級よ」
「本当に何をやらせているのよ…」
家と学園から追放されたのに、こうして再び戻ることになろうとは、ビルガ自身も思わなかった。和やかな再会を果たしたのも束の間、長椅子に腰かけたビルガは重たい口を開く。
「…なるべく早く知らせた方がいいと思って。先日、シャレゼル家がユニアス様の死亡宣告を提出したわ」
「……そう。思っていたより、はやかったわね…」
南の王国の律法では、生死のわからなくなった者を、死亡していてもおかしくない状態だった場合に限り、遺体の確認ができなくても死亡したと届け出ることが可能だ。
しかしそれは、ユニアスの捜索が打ち切られアイネアとの婚約も白紙になる、ということを意味していた。
「シャレゼル侯爵様らしい判断だけれど、一概に悪いとは言えないわ。これ以上、ユニアス様が狙われることはないのだから」
死亡宣告をしないのはすなわち、ユニアスが生きていると公言しているのも同然であり、依然として捕まらない犯人が、執拗に彼の命を狙い続ける危険がある。もし仮に、現在ユニアスが追っ手から逃げている最中なら、死んだ者として扱った方が彼にとって有利に働く。
それでも、ユニアスとの繋がりが断たれた気がして、アイネアの胸は張り裂けそうだった。彼はもう、婚約者"だった"人に過ぎないのだ。
「アイネア」
「…大丈夫。諦めないって誓ったもの。宣告が受理されても、わたしは待っているわ」
「……私、自分が心底憎いわ。どうしてもっとはやく…いいえ、出会った時から貴女を信じていればここで今、独りぼっちになんかさせなかったのに」
ビルガは己の愚かさを悔いて唇を噛んだ。あのお家騒動でビルガは天職と自由を手にしたが、アイネアが得たものといえば、不名誉な呼び名と噂だ。アイネアなら「わたしが得たのは、優れた作家と最高の友よ!」と真っ向から反論するに違いないが、それはあくまで彼女の主観である。
「わたしの親友を憎むなんて、いくらあなたでも許さないわよ?」
「…ちょっと。真似しないでくれる?」
「本音を言っただけだわ。それが偶然、ビルガの台詞と被ってしまったのよ」
しばし互いに目線を合わせた後、くすくすとどちらともなく笑い出す。
バラダン領からここまで五日半。そんな遠くから友が駆けつけてくれた、その事実がアイネアはただただ嬉しかった。
「あっ、そうだわ。折角ここまで来たのだから、会っていくといいわ」
「誰に?」
「会ってからのお楽しみよ。パルメナ、お願いできる?」
【かしこまりました。少々お待ちください】
数分後、首を傾げていたビルガは、パルメナが呼んできた人物を見た途端、目を見開いた。
「……ナンシー!?」
「お久しぶりでございます。ビルガお嬢様」
ビルガの侍女だったナンシーは、アイネアと密かに協働し、レーサンテス家からの解放に一役買っていたという経緯がある。その後どうなったのか、ビルガも与り知らないところではあったが、よもや再びまみえるとは。足下から鳥が立つとはまさにこの事である。
「ナンシーさんはレーサンテス家の使用人を辞して、現在はこの学園の掃除婦をなさっているのよ」
「そうだったの…久しぶりね。元気そうで良かったわ」
「私もこんなに生き生きとしたお嬢様を拝見できて、嬉しゅうございます。本当に安堵致しました」
レーサンテス家の令嬢だった頃はナンシーの細い目が不気味で、常に監視されているのが苦痛だった。しかし、いま対面している彼女は、まるで母親のような優しい表情をしていた。これが本当の姿なのだと、ビルガはしみじみ感じた。
「もう会うことは無いと思っていたから、直接お礼を言える機会に恵まれて嬉しいわ。ナンシー、私の味方でいてくれて、本当にありがとう」
「とんでもありません…もっとはやく行動を起こしていればと、悔やむばかりです」
「主人に似たのね。私も今しがた、同じようなことを話していたわ」
アイネアは気を遣ってすでに退席していた。短いひと時ではあったが、ビルガはナンシーと二人で色々な話をすることができた。話の最後に「アイネアの力になってあげて」と締めくくる。すぐさま了承したナンシーを見て、ビルガも笑みを深めた。
遠ざかっていく馬車を窓から眺めるアイネアの横顔は、はたから見ても寂しそうだった。
ビルガが乗った馬車が見えなくなっても、アイネアはしばらくその場所から動かなかった。
【…お嬢様。お望みとあらば私、いつでも生徒に扮します】
緊急事態でもない限り、生徒に同伴してきた使用人は宿舎から出ることはできない。入学したばかりの頃、友人ができないと嘆いていたアイネアは、パルメナに制服を着せようかと言いかけたことがあった。
「まあ……ふふっ、ありがとう。寂しさに耐えられなくなったらお願いしようかしら」
パルメナは本気だった。当時のアイネアだったら一にも二にもなく喜んだだろう。しかし今、パルメナの目の前で微笑むアイネアが、寂しいからといってお願いすることは最後までなかった。
休暇が終わりに近づくにつれて、アイネアのもとに手紙が届くようになった。数は一通か二通なのだが、普通でないのはそれが毎日のように続いていることだ。
「…また届いたのね。お屋敷からの手紙はある?」
パルメナが首を横に振った途端、アイネアは肩を落とし、なんとも言い難い表情を浮かべた。バラダン領から届いた手紙だったら、こんな顔にはなっていない。
「……この方からお手紙をいただくのは二度目だわ。きっと今頃、お屋敷の方にも何通か届いているのでしょうね」
差出人を確認したアイネアは、小さく息を吐いた。手紙を送ってくる相手は貴族か、富豪の商人達ばかり。言い回しは違えど、書かれている内容は同じである。要するにユニアスが死亡したとされることで、空席になったアイネアの婚約者という立場を得ようと、躍起になる者があとを絶たないのだ。いい加減、断りの返事を出すのも億劫になってくるほどだった。ユニアスへのお悔やみもそこそこに、長々と綴られている口説き文句が、アイネアの心を掴めると、本気で思っているのだろうか。しかし、それだけバラダン家の娘というのは魅力的であるという証だ。アイネアを手に入れれば、バラダン領の富が転がり込むのだから、皆が目の色を変えるのも無理はない。中には、婚約者ではなく養子を迎えてはどうかと、勧めてくる者までいた。
「すぐに返事を書くわ。ちょっと待っていてね、パルメナ」
【かしこまりました】
もう何通、断りの返事を出したかわからない。アイネアは机に向かうと、さして文面に悩むこともなく、さらさらと羽ペンを動かしていた。手紙が仕上がったのとほぼ同時くらいに、扉がノックされる。
「あら、ナンシーさん。どうかしました?」
「アイネア様にお会いしたいと、クラウディウス夫人がお見えです。応接室でお待ちになっています」
「ベリア様が…?わかりました。すぐに行きます」
一瞬、またビルガかとも思ったが、前回の来訪からそれほど日が経っていないのに、さすがにそれは無いと、浮き立ちかけた気持ちを鎮める。
応接室に入ると、ベリアが優雅に微笑みかけてきた。
「ベリア様。その節は大変お世話になりました。本来ならばわたしが出向くべきでしたが…本日はどのようなご用件でしょうか」
「およそふた月ぶりですわね。とりあえず、お掛けになって」
「失礼致します」
「ユニアス様のことは、本当に残念でなりません。アイネア様もさぞ、お心を痛めておいででしょう。パーティーの折、何てお似合いなお二人なのかしらと思ったばかりですのに……シャレゼル侯爵家は合理的なお方ですから。あまり気を落とさずに」
「…励ましのお言葉、ありがとうございます」
「それで本題ですが…アイネア様、正直に仰ってください。今、縁談の話がたくさん舞い込んで、辟易しておられるのではありませんか?」
ベリアの言う事はまさしく図星であるのだが、何故そのようなことを訊くのだろうとアイネアは訝しむ。
「わたくし、アイネア様が息子の話し相手になってくれると快諾してくださって、この上なく嬉しかったのです。ですからどんなことでもお力になりたいのですわ」
「それは…とてもありがたいのですが、わたしの縁談と何の関係があるのでしょうか」
「アイネア様を煩わせている方々と、同じことを申し上げるのは気が引けますが……息子のレナルドと婚約なさいませんこと?」
「え……?」
「ここだけの話、クラウディウス家を継ぐのはレナルドではなく甥ですのよ。ですから、息子が婿入りすることも可能なのです。当家が婚約を申し込んだとなれば、手を挙げていた者は身を引かざるを得ないでしょう。家名というのは、相手を黙らせるのに効果的ですもの。こういう時こそ、利用すべきだとわたくしは思いますわ」
確かに、筆頭貴族であるクラウディウス家が婚約者として名乗りを上げれば、格下の貴族は押し黙るほかない。
「アイネア様がユニアス様をお慕いしておられることは承知の上ですが、先程も申した通り、わたくしはただお力になりたいだけなのです。お気持ちの整理もあるでしょうから、お返事は急ぎませんわ」
それきり黙り込んでしまったアイネアは、ベリアが退室した後も、ひと言として喋ることはなかった。
自室に戻ってからも黙りこくったままの主人に、パルメナも何を話せばいいかわからず、重たい沈黙だけが落ちる。
(……アイネア・バラダンなら、ベリア様のご厚意を受けるのが最善…なのでしょうね)
クラウディウス公爵家の嫡男が婿入りしてくれるなんて、客観的に見れば素晴らしい話だった。バラダン家が持つのが豊かな富だとするなら、クラウディウス家にあるのは王家に次ぐ権力だ。その二つが揃えば、小さな領地は強大な力を得ることになる。
ユニアスかレナルドか、貴族としてとるべき選択は明白だ。それでもアイネアは、頷くことができなかった。むしろ、どうあっても頷くことなどできないとさえ思っていた。信じて待つと決めた際、ユニアスが帰らないという懸念は捨て去った。だが、アンドリューに言われた『お前がアイネア・バラダンである限り、その身に背負うのはお前だけの命ではない』という言葉が重くのしかかってくる。ユニアスをとった場合、アイネアは後継を産んで育てる責務を放棄することになる。親族か養子に自分の後を託すという道はあるが、果たしてそれがアンドリューの…いや、アイネアの本願なのか。本当にそれが、バラダン領のためになるのか。
(……わからない)
ユニアスへの信頼か、バラダン領の繁栄か。
究極の選択を前に、アイネアは苦悩せずにはいられなかった。どちらを選んでも後悔しか得られない、そんな気がする。
(お父様に助言を求めたら、怒られるかしら…)
重大な決定を他人に委ねるなと叱られるだろうか。でも現当主に相談もせずに決めていいことでもないため、結局アイネアは手紙をしたためた。
しかし、いくら待てども父からの返信はなかった。




