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バラダン領へ帰る道程は、通常よりもゆっくりだった。心身共に疲弊していたアンドリューと、体は平気でも心労が重なっていたアイネアへの配慮であった。
「そういえば、ずっとお聞きしたかったのですが、お父様はお母様のどういうところを好きになったのですか?」
のんびり馬車に揺られていたアンドリューは、娘の爆弾発言に盛大にむせた。パルメナは御者と共に外の席にいるので、馬車の中は二人きりだ。こういう気恥ずかしい話をするにはもってこいなのだが、厳つい見た目の通り、アンドリューはこの手の話が苦手だった。
「………いきなりどうした」
「だって…わたしも、あと一年と経たないうちにつ、妻になるんですもの。参考までにお父様とお母様のお話が聞きたいと思って…」
何を想像したのか、アイネアは頰を押さえてかあっと赤面する。その無垢な可愛らしさに、アンドリューは嫁にやるのが今更ながら惜しくなった。バートがいたら「それ何度目ですか。あとしつこいようですが、あちらが婿に来るのです」とツッコミを入れてくれただろう。
「お父様達も政略結婚だったのですよね?」
「……そうだ。三度目に顔を合わせたのが、式の日だったな」
期待の眼差しからは逃れられず、アンドリューは目線を窓の外に向けながら語り始めた。
「結婚したからには、それなりに折り合いをつけてやっていこうというのが私の考えだった。相手は大人しい性格のようだったし、あまり勝手な事をしなければいいと、そのくらいにしか思っていなかった」
アイネアの母であるリィサは、女性慣れしていなかったアンドリューから見ても大変美しい人だった。それでいて気位が高い訳でもなく、おっとりとした気質で、無愛想なアンドリューにも気を悪くした様子はなかった。
アイネアに呑気なところがあるのは、母親に似たのだろう。とは言え、彼女がアイネアのように突飛なことを、言ったりやったりすることは一度も無かったので、そこは誰に似たのかアンドリューも不思議に思っている。
「だがリィサはそう思っていなかった。少しでも私の支えになろうと、気遣ってくれた。その姿を見ているうちに…まあ、絆されたんだろうな」
当時、家督を継いだばかりで、日々忙しく動き回っていたアンドリューは食事の時間もまばらで、出掛けたら夜遅くまで帰って来ない日もあった。そんな中でもリィサは必ず夫と共に食事を摂り、どんなに遅くなっても夫を出迎えるために寝ずに待っていた。
見るに見兼ねたアンドリューは、苦言を呈した。しかしリィサはふんわり笑うと、とても優しい声でこう言ったのだ。
『私はアンドリュー様のために努力することを、苦だとは思いません』
彼女だって初めからアンドリューに愛情を抱いていた訳ではない。夫婦になったのだからと、ただその一心で相手に尽くそうと決めていたのだ。アンドリューみたく"それなりに"ではなく、家族のためならばどこまでも"ひたむきに"なれる人間だった。
「それからだったな。リィサの誠意に答えようと、私も努力し始めたのは」
「わたし達もお父様達のような夫婦になれるでしょうか」
「それはお前達二人の努力次第だろう。まずは自分が、惜しみない労力を払ってもらえるような人間になる事だな。だからといって気負いすぎないように。夫婦なのに弱音も吐けなくては、疲れ切ってしまうだけだ」
「お母様もそうだったのですか?」
「当たり前だ」
強い母の姿しか見たことがなかったアイネアは、アンドリューに即答されて心底驚いた。
「容易に涙を見せない人だったが、お前が生まれた時と、不治の病だと宣告された時は泣いていたよ。『あなたとアイネアをおいて死にたくない』と震えていた。あのリィサだって泣きたい時には泣いていたんだ。だからお前も泣いたらいけないだなんて我慢しなくていい。ユニアス殿がいるから、もう大丈夫だろうが念のため言っておく」
「はい…っ」
父からの優しいエールに、アイネアは胸がいっぱいになる。
「ユニアスと一緒に、すてきな夫婦になりますわ!」
大切に育ててきた娘が自分の手を離れていくのは寂しいが、眩しいほどの笑顔を見ているとその気持ちも徐々に薄れていく。どうにかして、幸せへと繋がる細い糸を手繰り寄せることができたようで、アンドリューも一安心だった。太っていた気弱なユニアスと、手を繋いでいるのを見た時は唸らざるを得なかったが、内面も外面も変化した今の彼なら、娘を渡すのも吝かではない。
「ああ。幸せになりなさい」
「大丈夫ですわ!もうすでに幸せですもの!」
好きな相手と結ばれるということが、貴族社会においてどれだけ恵まれているか、アイネアは自覚している。だからこそ、心から幸せだと断言できた。
そしてその幸せが続くと、信じて疑わなかったのだ。
紆余曲折はあったが、無事にバラダン領へ帰って来ることができたアイネア達は、屋敷へ向かう道すがら、馬車を見かけた領民達から喜びと労いの言葉をたくさんかけてもらえた。アイネアが窓から手を振れば、子供達が一生懸命に振り返してくれる。あちらこちらから、アンドリューとアイネアを呼ぶ声が上がるのを、二人は心温まる気持ちで聴いていた。
屋敷の人間はもちろん、諸手を挙げて迎えに出て来た。使用人達に混じって、いの一番に走り寄ってきたのはビルガだった。
「アイネア!思ったより元気そうで良かった…!」
「ありがとう、ビルガ」
「出来ることなら貴女とアンドリュー様の釈放を嘆願しに、王都まで飛んで行きたかったわ」
バラダン家に仕える人間は全員、領外へ出ることを禁じられていたのだ。ビルガは憎々しげに眉根を寄せた。使用人一同、同じ思いだったようで不満の声をもらしている。「国内きっての平和な領地が、お祭り以外で騒がしくなるのは初めてでしたよ」とはバートの弁である。
クーザ、レギオン、ネーヴェルに囲まれて、笑顔をみせていたアイネアだったが、肝心の人物がいないことに気がつく。こういう時、誰よりも先に来てくれるはずなのに。
「……ユニアスがいないみたいだけれど…?」
「ユニアス様なら半月くらい前から出掛けているわ。調べたいことがあるって仰って」
つまり密かに会いに来てくれたあの日から、戻っていないということだ。アイネアの顔が不安で曇る。どんな顔で会えばいいという悩みなど、もはやどこかへ消えてしまっていた。
「他に何か言っていなかった?どこへ行くのか、とか」
「いいえ、私が聞いたのはそれだけで…」
ビルガが申し訳なさそうに謝罪を口にした、まさにその時。
騎士団の伝令役が息を切らしてやって来た。何事かと、皆の意識がその騎士に向けられる。
「ご報告します!北の王国の山地にて、ユニアス・シャレゼル様の私兵が全員、遺体となって発見されました!!ユニアス様ご本人の遺体はまだ確認できませんが、こちらが現場に落ちていたそうです!」
騎士が抱えていた布の包みを開けると、そこには切り落とされた人間の腕があった。防腐剤が塗ってあるのだろうか、肌の色は変色している。メイド達から悲鳴があがり、ビルガでさえも口元を押さえていた。
アイネアはというと───微動だにしなかった。
騎士が告げた一報も、内容は聞こえていたのだが、脳が理解することを拒絶していた。視線だけが生気を失った腕に集中する。肩と肘の間で無残に斬られた腕は、大量の血と泥に汚れていた。
あれは誰の腕?まさか……いや、そんなはずはない。何度も繋ぎ、一緒に踊り、力強く抱きしめてくれた、彼のものである訳がない。違う、違う!違うっ!!
しかし無慈悲にも、アイネアの瞳はずたずたになった袖口を捉えてしまった。血みどろの中、鈍い光を放っていたのは…愛を告げられたあの日の夜、月明かりに照らされていたのと同じカフスボタンだった。
『僕はアイネアのことがずっと前から好きだった』
ティミオス学園の風習を知った彼が、真っ直ぐな告白と共に贈ってくれた、思い出のボタン。あの時はまだ恋を知らなくて、ちゃんと返事ができなかった。
『君が卒業するまではお揃いがいいなと思って』
そう言って卒業後も離れた地で、お揃いのボタンをしていたことも知っている。
ふと彼が恋しくなったら、ボタンに触れて勇気をもらっていた。だから、見間違えるはずがない。
あれは…あの腕は、ユニアスのものだ。
導き出された結論は、到底受け入れられるものではなかった。アイネアは立っていられなくなり、崩れ落ちるように膝をついた。咄嗟にパルメナが支えようとするも、間に合わない。隣ではビルガ達が必死に呼びかけていたのだが、その声は一切アイネアに届いていなかった。
(……どうして…っ、どうしてなのっ…ユニアス…!ユニアスッッ!!!)
心臓のあたりが苦しくて苦しくて、息が詰まりそうだった。
「いかん!!過呼吸だ!!」とアンドリューが叫ぶ。
(息、が…できない……あなたがいない、なんて…耐えられない……)
そうして、目の前が真っ暗になった。




