34
パルメナが持ってきてくれた水で顔を洗い、すっきり目が覚めたら、皺もほつれも無い制服に袖を通す。朝陽を浴びてきらりと輝くカフスボタンを密かに嬉しく思いながら、着替えを済ませる。鏡台の前に座り真珠の髪留めをつけたら、アイネアの朝の支度は終わりだ。
【いってらっしゃいませ】
「今日も一生懸命、勉強してくるわ」
パルメナの見送りを受け、アイネアは宿舎を出る。凛と背筋を伸ばして歩く姿は、一輪の白百合のようだ。新入生は言うまでもなく、在校生の中にも、未だにアイネアに見惚れる者は多い。注目の的であるアイネアは、無意識のうちにユニアスとの待ち合わせ場所だったところへ視線をやっていた。そこに彼はいないとわかっていても、二年の間に染み付いた癖はすぐには抜けてくれない。アイネアは別れ際のやりとりを思い出していた。
『道中の無事を祈っているわ。みんなによろしく伝えてね』
『わかった。アイネアも元気で』
『あら?ユニアス、そのボタン…』
『ああ、これ?君が卒業するまではお揃いがいいなと思って』
ユニアスは照れ臭そうに片腕を持ち上げて、ジャケットのカフスボタンを見せた。ティミオス学園を卒業した今のユニアスは当然私服である。例の伝統は在学中だけのもので、普段着には適用されないのだが、それを知った上での選択だった。お揃い、という単語にアイネアは大喜びする。
『卒業したらわたしも自分の服に付け替えるわ。そうすればずっとお揃いね!』
その笑顔の眩しさにやられたユニアスは、チカチカする目元を押さえながら学園を去って行った。
互いの袖口に煌めくカフスボタンは、離れていても変わらない想いを象徴しているようで、自然と笑みがこぼれてくる。
(ユニアスもお父様からビシバシ指導を受けているはず。わたしも遅れをとらないようにしないと)
今日からアイネアも最上級生だ。
ユニアスと過ごす時間が無くなった今、空いた時間にする事と言えば勉強しかない。他の生徒達がお喋りに花を咲かせている間、アイネアは教本を片手に黙々と自習していた。
唯一の楽しみとなっているのは、バラダン領から定期的に送られてくる小包みだった。
「ただいま、パルメナ!"あれ"は届いてるかしら?」
【おかえりなさいませ。ちゃんと届いていますよ】
わくわくした顔で飛び込んできた部屋の主人に、パルメナは思わず苦笑する。小包みを受け取ったアイネアは、待ちきれないとばかりに封を開けた。その中身はクーザとビルガの二人が描いている漫画だ。
『スポ根』をテーマにした二人の新作漫画は空前の大ヒットを起こし、爆発的な人気を集めている。クーザの画才、ビルガの文才、どちらもずば抜けて優れており、読み手を惹きつけてやまない。無論アイネアもその一人である。ふた月に一回のペースで刷られるのに合わせて、アイネアのところにも届けてもらっているのだ。
【そんなに楽しみでしたら、お二人に頼んで先に送ってもらうのはいかがです?】
続きが気になってそわそわするアイネアを見兼ねて、パルメナがそう進言したこともあった。しかし、アイネアの答えは否だった。
『それはいけないわ。わたしも一読者として、リアルタイムで楽しみたいのよ。それにね、こうやって次の話を待っている時間もなかなか悪くないわ』
つまるところ、アイネアはネタバレしない派だったのだ。そんな訳で、バラダン領から漫画が届く日は分かりやすく上機嫌なのである。
「まさか主人公の幼馴染が敵のチームにいたなんて…ビルガったらなんて面白いストーリーを考えるのかしら!どちらのチームを応援していいのか迷うわ。クーザの絵も相変わらず素晴らしいし、あの二人は相性抜群の相棒ね」
クーザとビルガを思い浮かべたパルメナは、素直に頷くのが躊躇われた。
何せあの二人、顔を合わせるたびに睨み合い、口論に発展するのだ。もともと口数の多くないクーザ、生粋の令嬢であるビルガ、二人ともアイネアや他の人と接する時は友好的なのに、二人きりになるとどうにも駄目だった。それでも仕事だけは完璧に仕上げるので、まったくもって不思議だ。
「ふふっ、何だかんだ言って本当はお互いに認め合っているのよ」
【そうなのですか?】
「ええ。ビルガは『腹立たしいけど、あの男が描く絵は文句なしに凄いわ』って。クーザも『文章を考える力だけは評価してやる。人間性はともかく』って言っていたもの」
【同族嫌悪というやつでしょうか…】
パルメナが遠い目をした頃、バラダン家の屋敷では、話題にのぼっていた二人が言い争っている最中だった。
「原稿置いたらすぐ帰れよ!何で茶なんか飲んでんだよ!」
「レギオンさんがどうぞって勧めてくださったから、ご相伴にあずかっただけです!貴方にとやかく言われる筋合いはありません!」
「断ればいいだろうが!つーかレギオンもコイツをもてなしてんじゃねぇ!」
「なんでオレまで怒られ…っ!?じゃあ言わせてもらうけども!顰めっ面ばっかりのクーザより、美味しいって褒めてくれるビルガ様に出した方がよっぽど嬉しいっす!」
巻き込まれたレギオンも負けじと言い返し、客間は騒がしくなる一方だった。アンドリューがいれば、咳払いのひとつで静かになるのだが、生憎と今はユニアスを伴って出掛けている。徐々にヒートアップしてきた時、仕方ないと言わんばかりにバートが事態を収拾すべく動いた。
「こんな所にお嬢様からの依頼書が!」
魔法のひと言でピタリと口論が止まる。全員の意識が、売り言葉に買い言葉を返す事より、アイネアの指示を聞こうと耳に集中する。
「おや、見間違いでした。あんまり騒ぐようなら旦那様とお嬢様に報告しますから程々に」
「申し訳ありませんわ…」
真っ先に謝罪を口にしたのはビルガだった。人様の家で喚き散らすなど、ビルガ・レーサンテスであった頃ならば考えられない醜態だ。しかし見方を変えれば、彼女がそれだけここに馴染んできたという証でもある。すっかりバラダン領での生活にも慣れ、家事もこなしながら教師兼作家という充実した毎日を過ごしている。こんな風にクーザと喧嘩ができるのも、やりたい事がやれるようになって、心にゆとりができたからに他ならない。
「これ以上迷惑にならないよう、おいとましますわ」
「お送りしましょうか?」
「今日は良い天気ですし、歩いて帰ります。お気遣い感謝しますわ。レギオンさんも、ご馳走様でした」
優雅に一礼したビルガが出て行った後も、クーザはむすっとしたままだった。
「もー、なんでそう、いつも突っかかるんすか?だいたい、ビルガ様はお嬢様の友達なんだから、気に食わなくてももっと丁寧に対応しなきゃ…」
「うるせぇ。お嬢の友達だろうが、あの女の身分は俺達と同じだ。丁寧もくそもあるか」
「クーザの口が悪いのは今更っすね…」
「ふん。一応女だと思って、殴らないでおいただけでも感謝してもらいたいくらいだ」
レギオンだって、アイネアが虐めを受けていたと知った時は腹が立った。しかし実際ビルガに会ってみれば、心から反省しているのがわかったし、何よりアイネアが許している…というか欠片も気にしていないようだったので、レギオンも気にしないことにした。だが、クーザだけはいつまで経ってもビルガに怒りを抱き続けている。アイネアを大切に思う気持ちは理解できるが、当事者がけろっとしている以上、部外者は傍観していればいいともレギオンは思う。
「難儀ですねぇ」
お嬢様の親友と、自分の親友。どちらの味方につくこともできない哀れなレギオンを見たバートは、そう締め括ったのだった。
なだらかな小道を歩いているビルガは、快晴の空とは正反対な重苦しい溜息を吐いていた。
(またやってしまったわ…)
バラダン家の屋敷で騒いだのもさることながら、溜息の原因はクーザとの喧嘩が主である。仕事仲間としてもう少し歩み寄ろうと思っても、クーザの無作法な言葉についついカッとなってしまうのだ。これだけビルガを嫌うほど、彼がアイネアを大切に思う気持ちは強いのだろう。
アイネアは「クーザは一見するとぶっきらぼうだけれど、本当はとても優しいのよ」と言っていたが、ビルガにその優しさとやらが向けられたことは無い。別に優しくされたい訳ではないが、最近は苛立ちと同時に微かな悲しみも感じるようになっていた。
(あれほど凄い絵が描ける方と一緒に漫画作りができるって、楽しみしていたのに…)
自分の考えた物語が、クーザの手で漫画へと生まれ変わる。それは予想していた以上の高揚を覚える瞬間だった。そんな素晴らしい仕事の半分を担えて幸せなのだが、相方から嫌悪感を剥き出しにされ続けることが、その幸せを霞ませていた。お互いに、仕事以外の面は期待外れだったのだ。
(私の場合は自業自得ね)
これからは自重しようと、ビルガはひとり反省した。クーザの物言いにムカッとしても、こちらが言い返さなければ、喧嘩には発展しないはずだ。
(でもどうして…彼に対してだけ怒りが抑えられないのかしら)
例えば相手がバートやレギオン、アンドリューだったら、こんなことにはなっていないだろう。喧嘩なんて以ての外だ。それがどういう訳かクーザだけは例外だった。しかしビルガがいくら首を捻っても、その理由はわからなかった。
実はビルガが出て行った後、クーザの方も、もやもやした不可解な気持ちを抱えていた。静かなアトリエで仏頂面の青年が一人、黙々と絵を描いている。
(うぜぇ…)
それがビルガに対してなのか、他の何かなのか、クーザ自身にもわからない。
当初は心の底から怒っていた。どんな理由であれ、大事な恩人であるアイネアを虐め、評判を貶めたと聞き、はらわたが煮えくり返った。そんな女と漫画製作に取り組めと言われた時は、初めてアイネアの依頼を断りたいとまで思ったものだ。しかし、アイネアが望むのならどんなものでも描くという誓いを思い出し、重い首を縦に振った。そうして対面したビルガは、美貌に優れた才女であった。彼女が描く物語は、至極面白いと認めざるを得なかった。活字を読むのが苦手なクーザでさえ、冒頭の文章を読んだだけで次々とページをめくってしまうほどだ。アイネアが是非にと望んだ理由が、否が応でもわかった。そして同時に、死んでも負けたくない好敵手だと認識するようになった。土俵が違うだとか、そもそも仕事仲間だとか、そんなことは関係無い。アイネアの専属画家としての誇りを賭けて、クーザは今まで以上に絵を描く事に熱意を傾けている。
(あの女よりも最高のものを描く…!)
今はその一心で、筆を動かしていた。




