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アイネアが二年生に進級してからの学園生活は、怒涛の一年が嘘だったかのように平穏なものだった。氷の令嬢としてのイメージが定着してしまったため、ビルガ以外の友人はもはや見込めそうになかったが、ユニアスとの仲は不変であった。二度目の創立祭では、仕立て直した紫色のドレスを着て、心ゆくまで踊って食べた。他の者が立ち入る隙も無いほどに親密な二人は、学年を問わず有名になっていた。
しかし、お揃いのカフスボタンを付けた二人を見られるのは、今日が最後である。ユニアスは晴れてティミオス学園から卒業する。
式は卒業生と二年生が同席し、その後の卒業記念パーティーには、卒業生の家族か婚約者のみが参加を許されている。アイネアはどちらにも出席できる権利があり、当たり前のようにそうしていた。
「卒業おめでとう、ユニアス。寂しくなるけれどその分、勉強に打ち込むことにするわ」
「ありがとう。僕もバラダン伯爵から、できるだけ多くを学べるよう頑張るよ」
卒業記念パーティーでも二人は常に一緒だった。最後だったから余計にかもしれない。いつもだったら美味しい料理に気を取られるアイネアも、今夜は食事よりもユニアスの傍にいる時間を大切にしていた。ユニアスの方は言わずもがなである。彼の最優先事項はいつだってアイネアだ。
そんな二人のもとへ、挨拶にやって来た人物がいた。
「初めまして、になりますわね。わたくしはベリア・クラウディウス。こちらは息子のレナルドですわ。本日はわたくしの甥が卒業ということで、夫に代わり参りましたの。以後お見知り置きを」
クラウディウス家は、王家に最も近いとされる公爵家だ。貴族の頂点に君臨していると言っても過言ではない。公爵夫人であるベリアは、成人した息子がいるとは思えない、若々しい女性だった。そのような貴い人間から声をかけられる理由が浮かばず、アイネア達は挨拶を返しながらも内心困惑していた。しかし、その理由はすぐにベリア本人の口から明かされる。
「わたくし是非一度、アイネア様にお会いしてみたかったのです。アイネア様は侍女の方と手話でお話しなさるとお聞きしましたが、本当でしょうか?」
「はい。パルメナは発声することができませんので、手話で会話をしております」
「なんて素晴らしいのでしょう。と言いますのも、わたくしの息子は三歳の時分に酷い熱病を患い、聴力の一切を失ってしまいまして…以来どなたとも親交を持てずにいたのです。しかし最近になってアイネア様のお話を耳にし、もしかしたら息子の話し相手になっていただけないかと思い、厚かましくもお願いに参上しましたの。ユニアス様のお気持ちもあるでしょうし、無理にとは申しませんが、考えていただけませんこと?」
クラウディウス公爵家の嫡男は、二十歳を過ぎても社交界にほとんど顔を出していなかったため、様々な憶測が飛び交っていたのだが、こういう事情があったのかと合点がいく。
アイネアはちらりとユニアスを見上げた。婚約者以外の異性と必要以上に親しくするべきではない。しかしこのような事情を知ってしまえば、無下に断るのも良心が痛む。気遣うような視線を向けられたユニアスは、微笑みながら小さく頷いた。彼の意図を汲んだアイネアは、クラウディウス親子の方を向き、姿勢を正す。
「わたしに気の利いたお話ができるかわかりませんが、ユニアス様も手話がわかりますから、三人でお喋りできたら、きっと楽しいと思いますわ」
そう口を動かしながら、アイネアは手話でもレナルドに話しかけた。レナルドはわずかに目を見開き、ベリアは感極まった声を上げる。
「まあ!なんと感謝を申し上げて良いのやら…!ユニアス様も手話を会得なさっておられるとは、存じ上げませんでした」
「いえ、僕は彼女ほど達者ではありません。会話の内容が何となくわかる程度です」
「充分ご立派ですわ。お二方とも、どうか息子をよろしくお願い致します」
母親として息子を深く案じていたのだろう。最後の方は安堵のあまり声が震えていた。
ベリアが別の人と談笑している間、二人はレナルドの話し相手を務めた。ユニアスの言葉はレナルドの侍従であるケイルが通訳してくれる。
【母が不躾なお願いをしてしまい、申し訳ない】
「ベリア夫人のご心配はもっともなことです。そのように気に病まないでください」
【覚えた手話を活用できる機会が増えて、わたしは嬉しいです】
アイネアがにこやかにそう伝えれば、レナルドは憂いを帯びた表情を少しだけ和らげた。白金の髪にグレーの瞳という淡い色彩が、レナルドの儚げな雰囲気を助長している。ユニアスとはまた違った特有の色気を感じさせ、聴覚障害を差し引いても、言い寄ってくる女性は大勢いそうな麗しい風貌である。
【本当に手話がお上手だ】
【お褒めの言葉、嬉しいですわ】
アイネアが他の男性と打ち解けているのを見るのはユニアスとて面白くないが、相手は王族の方々とも親しくしている公爵家なのだ。下手に逆らうことはできない。それに、とユニアスは隣にいるアイネアを見遣った。今の彼女は、エルザの言葉を借りるなら"社交用の仮面"を完璧に被っている。"いつもの"アイネアを知っているという事に、ユニアスは優越感を覚えていた。我ながら子供じみているとは思うが、今なお続く初恋の相手なのだから狭量になるのも許してほしい。
【アイネア嬢が考案したボードゲームの数々、私も興じたが時間も忘れて夢中になってしまった。どこからあんな発想が浮かぶのか、とても興味深い】
【どこから…と言われましても、わたしの頭の中としかお答えのしようがありませんわ】
誰もそんな当たり前のことは訊いていない。少し困った様子でアイネアが返答すると、ユニアスはずっこけそうになった。レナルドもしばし目を見開いた後、くすっと可笑しそうに笑う。
(でも言われてみれば、僕も聞いたことがないな…)
アイネアが発明した品々のルーツは何なのだろうと、ユニアスは俄然気になり始めた。ボードゲームに漫画、未知だった食材を使ったお菓子、初めて聴く曲調の音楽…クーザ達のようにひとつの道を極めていくのならわかるが、アイネアの思いつきには全くと言っていいくらい共通項が見当たらない。考えれば考えるほど不思議である。
【お二人の時間をこれ以上邪魔するのは忍びない。私はこれで失礼する】
レナルドは頃合いを見て退散していく。至って良識のある態度だ。
「ふぅ…物腰の柔らかい方だったけれど、どうしても緊張するわね」
「そんな風には見えなかったけど?」
「そう見せなかっただけよ」
小声で囁きあう時のアイネアは"いつもの"彼女だった。
「そろそろラストダンスみたいだ。アイネア、お腹は空いてないかい?」
「パルメナにコルセットを締め上げられたおかげで、食欲は半分くらいどこかへ行ったわ。だから大丈夫よ」
どうやら半分は健在であるらしい。ユニアスは口元を優しく緩めた。
「それじゃあ、踊ろうか」
「ええ。ついに極めたステップを披露するわ」
「(極めた…?)」
アイネアは可憐に頬を染めて、軽やかなステップを踏み始める。あなたと踊ることができて幸せです、と全身で訴えているかのようだった。くるっとターンをすれば、美しい髪とドレスが優雅に舞い、それを特等席で目にしたユニアスは飽きることなく見惚れていたのだった。
学生最後のダンスを踊りきったアイネア達は、バルコニーに出て火照った体を夜風に当てていた。輝く星空を見上げ、学園生活を思い返しながら、とりとめのない話をした。ユニアスが微笑を浮かべて相槌を打ってくれるのが嬉しくて、アイネアの話し声はいっそう明るいものとなる。
「…つい熱く語ってしまったわ」
「まあ確かに、この学園で出される料理は美味しいからね。君が夢中になるのもわかるよ。メニューに順位付けをしてるのは知らなかったけど。しかも季節別」
「おすすめは秋よ。でも、ユニアスと一緒じゃないと、その美味しさも半分になってしまうわね」
美味しいものは好きな人と食べると特別美味しくなる、というのがアイネアの持論である。ユニアスと仲良く食べていた、昼食の時間が無くなるのは、寂しさを通り越して辛いとさえ感じた。入学する前までは年に二回会うだけでも満足していたのに、毎日顔を合わせる日々に慣れてしまった今はもう、以前と同じでは物足りなさすぎる。一度、手にしたものを手放すのが惜しくなるのは、人間の欲深さの表れだ。しかしそれはユニアスも同様だった。
どことなく悲愴感を漂わせるアイネアに、ユニアスは手を伸ばす。そして、まるで宝物を扱うように薄い肩を抱き寄せた。アイネアの身体が固い胸板にとん、と当たった途端に彼女の心臓が大きく跳ねる。
「ゆ、ユニアス…っ?」
「たとえ遠く離れた場所にいたとしても、僕はアイネアを想い続ける。一年経ったら、僕たちはもう離れることはないだろう?あと少しの辛抱だよ」
アイネアが卒業したら、ユニアスはバラダン家の籍に入り、めでたく夫婦となるのだ。その言葉の意味を噛み締めたアイネアは、顔が異様に熱くなるのがわかったが、どうすることもできなかった。同時に、幸福が波のように押し寄せてくる。
「だいぶ冷えてきたね。中に戻ろうか」
ユニアスは肩を抱いたまま歩き出そうとした。惚けていたアイネアは我にかえり「待って、ユニアス」と引き留める。
「アイネア?」
「…あなたに話しておきたいことがあるの」
胸の前で手を組むアイネアの瞳は不安で揺れていた。あまり見たことのない姿に、ユニアスは息を呑む。そして、アイネアは意を決して口を開いた。
「さっきはレナルド様にああ言ったけれど……わたしが見ている『夢』について、ユニアスには隠しておきたくない」
父にさえ語ったことのない秘密を打ち明ける。
眠っている間だけ現れる別世界。憧れてやまない幻を実現するために、周りの人達の協力を得ながら『夢』を追いかけてきた。アイネアが覚えた感動を誰かと分かち合いたくて、それが『すてきなこと』だと信じて───
「…これまでたくさんの賞賛の声をいただいたわ。でも本当に凄いのは、わたしの曖昧な記憶を頼りに、懸命な努力をしてくれたみんなよ。わたしはただ夢を見ているだけだもの」
アイネアから語られる知られざる真実に、ユニアスはじっと耳を傾けていた。次々と飛び出すユニークな発想の根源は、彼女の夢の中にあったのだ。俄かには信じられない事であろう。だが、ユニアスは実に彼女らしいと、すんなり納得できた。
「だから誰かから褒められるたび、狡いことをしている気がして心苦しかった…」
「狡くなんかないよ。アイネアが見た夢をどうするかは、アイネア次第なんだから」
「ユニアス…」
「シャレゼル領に初めて来た時、君は新しいトランプゲームを披露してくれたよね。僕はあの光景が忘れられない。退屈そうにしていた子供達の表情がどんどん輝いていって、終いには大人達まで笑顔に変えてしまった。あの時からずっと思っているよ。君自身も、君がしていることも『すごくすてき』だって」
ユニアスの言葉はアイネアの心に優しく響いた。じんわりと温かいもので満たされていくのを感じる。
「…ありがとう。あなたはいつも、一番ほしい言葉をくれるのね」
「それはアイネアの方だよ」
「わたしは思ったことを言っているだけよ?」
「僕もそうさ。ところで、アイネアの見ている夢について、もっとたくさん聞かせてくれるかい?」
「ほら、やっぱり」と顔をほころばせたアイネアは、とびっきりの笑顔を向けたのだった。




