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 バートからの手紙を読んだアイネアは、ほっと息を吐いた。カフェで一緒にお茶をしていたユニアスが、それだけで手紙の内容をだいたい把握する。


「良い返事だったみたいだね」

「ええ。これで漫画の出版も捗るわ」


 三年前から調査に携わってきたバートが提出した報告書に、アイネアも目を通していた。そこには、リット子爵が困窮を理由に、娘をレーサンテス家へ養子に出した事が記されていた。移った先で行き過ぎた躾を受けている、というのも後の調査でわかっていた。要するにアイネアは、ビルガに声をかけられた時点で、概ねの実情を掌握していたことになる。嫌がらせが始まったのは、完全に予想外ではあったが…

 そこへ加えてビルガの侍女ナンシーからの密告。ビルガに文芸の才能があることは青天の霹靂だったが、もともと彼女を気にかけていたアイネアは、これ幸いにと引き抜くことにしたのだった。それが「追い出す」発言に至った訳である。当初はビルガときちんと話し合ってから行動に移すつもりだったのだが、まったく聞く耳を持ってもらえず、予定よりも大ごとになってしまった。でもビルガをレーサンテス家から引き離すこともできたし、こうして漫画の原作担当も引き受けてもらえたし、結果オーライと思うことにする。


「…君がそれでいいのなら、僕は何も言わないよ」


 アイネアの読み通り、貴族街で襲ってきたのは追い詰められたリット子爵本人であり、レーサンテス家は関与していなかった。子爵が嘘の供述をしたのは、苦し紛れの言い逃れだったのだろう。養子に出した娘の学園での行いを耳にし、罪をなすりつけてやろうとでも考えたに違いない。そんな言い訳がいつまでも通用する訳もなく、リット家は取り潰しが決まった。


「ようやく三年前の事件の片がついたのね。バートも大変だったでしょうから、何か労いの品を贈りたいわ」


 ユニアスはあの家令が誘拐犯を絶対に捕まえると、執念を燃やしていたのを知っているので、犯人逮捕の報せだけでも充分な気がしたが、楽しげに贈り物の候補を考えるアイネアに水を差すのはやめておいた。


「それはそうと、ビルガは大丈夫かしら。環境ががらりと変わって、さぞ苦労しているでしょうね…」

「…アイネアはどうしてビルガ嬢と友人になりたいと思ったんだい?」


 ビルガの置かれていた状況は同情の余地がある。助けたいという心情は理解できなくもないが、嫌がらせをしてきた相手と友になりたいとはそうそう思わない。少なくともユニアスはそうだ。ところがアイネアは積極的にビルガと友情を築こうとしている。向こうだって困惑しているに違いない。


「お友達になりたいって思うのに、明確な理由は必要無いと思うけれど…そうね、強いて言うなら…」

「言うなら?」

「ユニアスが声をかけてくれた時と状況が似ていたから、かしら」


 誰も話しかけてくれなくて、ぽつんと独りぼっちだったアイネアに、ユニアスとビルガは一緒にいようと言ってくれた。それがただ純粋に嬉しかった…いたって単純な話である。

 二人とも自ら好んで声をかけた訳ではない。ユニアスは母親から、ビルガは養父から、仲良くしておけと言われて仕方なくアイネアに近づいたのだ。しかしアイネアはそんな動機など知ったことではなく、彼女の心を占めていたのは感激だった。そこで抱いた気持ちをいつまでも忘れないのが、アイネアという人間だ。気がつくと、ユニアスは目元を和らげて、優しい表情を浮かべていた。




 その頃、王都から離れたバラダン領では、ビルガが慣れない暮らしに奮闘している真っ只中であった。何もかも使用人にやってもらっていた生活から一転、何もかも自分でやらなければならなくなったのだ。流石に着替えくらいは一人でできるが、炊事、洗濯、掃除などの家事全般はさっぱりだった。伯爵家の令嬢が家事をこなせたら、それはそれで逆に怖い。


(やっていけるのかしら私…)


 来週からは教師としての仕事も始まるのに、先行きには不安しかない。レーサンテス家であてがわれた自室よりも狭い借家で、ビルガは深い溜息をついた。アイネアの指示なのだろうか、小さな部屋はきちんと整えられていた。天蓋は無いが寝心地の良いベッド、書き物をするのに必要な紙とペンは充分に用意されており、教本も揃っている。窓の外は緑が広がっていて、執筆作業にはもってこいの静かな環境だ。あと足りないのは、ビルガ自身の生活力である。そうは言ってもどうしたらいいのか。


 ───コン、コン。

「はい?どなたですか?」

「バートさんからの依頼でやってまいりました」

「今、開けます」


 途方に暮れていたビルガのもとへ、救世主が現れる。扉の向こうにいたのは、以前バラダン家で侍女として働いていた人物だった。


「初めまして。ビルガ様でいらっしゃいますか?私はエルザと申します。数年前までアイネアお嬢様の侍女をしていた者です。ビルガ様が新たな生活に馴染めるよう、お手伝いを任されました。何卒、よろしくお願い申し上げます」


 アイネアはビルガのために使用人を一人、屋敷から送るようにとバートに頼んであった。ビルガの借家が、エルザの居住区に近いこともあり、バートはダメ元で話を持ちかけた。するとエルザはあっさり了承し、今に至るという訳だ。

 事態がよく飲み込めないビルガは、ぱちぱちと目を見張った。


「さて、まずは洗濯から始めましょうか。お嬢様のご友人といえど、遠慮なくやらせてもらいますよ」

「え…えっ?」

「お腹の子が生まれるまでの間に、ひと通りはできるようになっていただかないといけませんので」


 第一子を無事に出産したエルザは現在、第二子を妊娠中だった。臨月まではビルガの借家に通い、家事を仕込むことになっている。あのアイネアを相手にしていただけあって、エルザは諸々の手腕に優れていた。右往左往するビルガを、優しく且つ丁寧に指導していく。もともと器用で要領の良いビルガは、戸惑いながらも教わった事を次々と吸収していった。


「お料理はまだ難しいでしょうから、近くの食堂をご利用なさったらいかがですか?食費の手当ては出ると聞いておりますし」

「当分の間はそうさせてもらいます。でも、いずれは自分でできるようになりたいですわ」

「それは良い心がけだと思います。でしたら、ごく簡単なお料理からお教えしますね」

「お願いします。エルザさん」


 ビルガは自分の立場をよく弁えていた。降格した今の身分を真正面から受け入れ、下らないプライドは持たなかった。エルザを元使用人などと見下さず、相応しい敬意を払う。その潔い姿を見ていたエルザはくすりと笑った。


「どうかしまして?」

「いえ、すみません。さすがはお嬢様が選んだ方だなぁと思ってつい」

「??」

「休憩がてら、少しお話しましょうか。そういえばお聞きしていませんでしたが、学園でのアイネアお嬢様はどんな感じですか?」


 ビルガは学園で対立していたアイネアを頭に思い浮かべた。


「…凛となさった姿が印象的でしたね」


 周囲の人間は"氷の令嬢"だと呼んで近寄ろうとしなかった、とは言えなかった。付き合いが浅くても、エルザがアイネアを心から敬っていることがわかっていたからだ。


「それはそれは。猫をかぶるのが更にお上手になられたようで。ビルガ様が見ておられたのは、社交用の仮面を被ったお嬢様ですよ」


 折角ビルガが気を遣ったのに、エルザときたらこの言い様。ばっさりしすぎていて、ビルガは唖然となった。


「そのご様子ですと、お嬢様の破茶滅茶ぶりはまだご存知ないようですね」

「はちゃ…?アイネア様は懐の深い方だと思っていますが…」

「まあ確かに、懐は深いんでしょうねぇ」


 優しく笑うエルザは、ビルガの知らないアイネアについて語ってくれた。お腹のリボンの締め加減とか、いきなりの胡瓜宣言といった間抜け話から、誰も目に留めなかった者達と共に作り上げてきた作品の数々といった話まで。聞けば聞くほどビルガの中のイメージが、音を立てて崩れていくようだった。


「人前ではお淑やかなご令嬢を演じていらっしゃいますが、本来のお姿は好奇心のままにあらぬ方向へと突っ走っていく、そんな方なんですよ」

「あのアイネア様が…?」


 胡瓜の刺さったフォークを持って突然立ち上がるなんて真似をするとは、にわかに信じ難いビルガだった。


「最初は驚かれるでしょうけど、慣れればビルガ様も笑えてきますわ」

「そ、そうでしょうか」

「そうですよ。ですからお嬢様が戻って来られたら、今のような話し方ではなく、もっと馴れ馴れしく喋ってあげてくださいね。きっと…いえ、絶対に大喜びなさいますから」

「……でも私はアイネア様に酷いことを…」


 狂おしいまでの嫉妬に支配され、嫌がらせを繰り返した挙句、その相手にここまで助けてもらって、どの面下げてそんな態度がとれるのか。アイネアは友人としてやり直したいと言ってくれたが、ビルガからすれば友人だなんて対等な立場は烏滸がましい気がした。あんな行いをしていた己が恥ずかしくてたまらず、ビルガはきまりが悪くなって俯いた。


「ビルガ様。大丈夫ですよ。どうせ今頃は、ビルガ様が苦労していないか、自分とお友達になってもらえるか、そういう心配しかしていませんよ。お嬢様は私達が心配するのとは全く違うところを気にする、少々ズレた方ですから」


 アイネアの前でも、エルザはこういうズバズバとした物言いだったと聞き、ますます驚く。それでも一度として叱られた試しはなく、笑って同意されるだけだったという。


「ちょっと変わったお嬢様ですけど、惹かれずにはいられないんですよねぇ。不思議なことに」

「…ええ。そうですね」


 のんびりと紅茶を啜るエルザに、ビルガもゆっくりと頷く。

 アイネアの取り繕った姿しか知らず、本質を見ようとしなかったことを後悔する。ビルガの侍女だったナンシーにしてもそうだ。自分の置かれた状況に悲嘆するばかりで、周りのことなどまるで見えていなかった。見えていたら、もっと良い関係が築けたかもしれない。


「…エルザさん。私、手紙を書こうと思うんですけど、今からでも遅くないでしょうか」

「全然。お友達を作るのがお嬢様の悲願でしたから、飛び跳ねて喜びますわ」


 そんな大袈裟なと少し笑ったビルガだったが、エルザの推測が外れたことはない。後日それを裏付けるように、手紙を読んだアイネアはその場で踊るように跳ね回っていた。


「パルメナ!見て見て!『許してもらうのは私の方よ。アイネアが望んでくれるなら、喜んでお友達になるわ』ですって!嬉しい!やっと女の子のお友達ができたわ!」

【おめでとうございます、お嬢様。良かったですね】


 かなり遠距離な友人関係ですが、と言わなかったのは、パルメナの優しさである。

 すぐにでも飛んで帰りたかったが、講義を欠席する訳にはいかず、ビルガとの再会は冬季休暇まで持ち越されたのだった。

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