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 伯爵位の中で最大の領地を司るレーサンテス家。しかしこの家には令嬢がいなかった。ビルガが除名されたから、という意味ではない。レーサンテス家には跡継ぎとなる男の子はいたが、女の子は生まれなかったのだ。貴族社会における女性は、政略結婚の大きな役目を担っている。とりわけレーサンテス家のような高位貴族は、娘を嫁がせることで他家との繋がりの強化を図る。婚姻ほど強い結びつきはないからだ。

 その大役を担う娘が授からなかったレーサンテス伯爵は、養子を迎えるという手段に出た。それが今から十二年前、ビルガが三歳の時であった。


 ビルガが本来名乗るはずだった名はビルガ・リット。お金に困っていたリット子爵夫妻により、多額の謝礼金と引き換えに、レーサンテス家へ養子に出されたのだった。

 リット子爵は無類の賭博好きで、妻と共にギャンブルにのめり込んでいた。ただお金だけが消えていく日々へ舞い込んだ思わぬ話。それに乗らないリット夫妻ではなかった。二つ返事で了承し、ビルガは一夜にして背負う家名が変わることとなった。

 生みの親から碌に愛情を注がれなかったビルガには、別れを惜しむ涙は無かった。ただ、この家に帰ることはないんだなと、思っただけだった。


 しかし本当の苦悩はここからであった。

 レーサンテス家の大きな屋敷に移ったビルガを待ち受けていたのは、厳し過ぎる貴族教育だった。まだ三歳のビルガには難しいレッスンの数々を強要され、失敗すればその都度、硬い木の鞭で打たれた。泣けばさらに打たれるので、ビルガはひたすら耐えるしかなかった。食べる物、読む物、付き合う友人、ありとあらゆるものを制限された。何をするにしても伯爵や使用人達に監視され、決められた時間通りに動かなければならない、そんな毎日だった。

 ひと時も気が休まらない日々を何年も経て、ビルガ・レーサンテスという非の打ち所がない令嬢が出来上がったのだ。

 当然ながら、婚約者についてもビルガの与り知らないところで決定していた。ライリー・エルベリトは身分こそ侯爵家で申し分なかったが、ビルガは一生かかっても好きになれる気がしなかった。かと言ってビルガは、知らぬ間に破談になっていたユニアスの事も嫌いだった。ぽっちゃり太れるほど好きなだけ食べられる、そんな自由が許されている癖に、ガーデンパーティーで見かけた彼は、陰鬱な面持ちをしていた。嘆き叫びたいのはビルガの方なのに、この場にいる誰よりも不幸だという顔をしているユニアスが気に食わなかったのだ。

 だからティミオス学園に入学した時、再び目にしたユニアスに心底驚いた。体型の変化もさることながら、どんよりとしていた雰囲気が見事に払拭されていたからだった。代わりに浮かぶのは、幸せそうな笑顔。その彼の隣には、アイネアがいた。


 アイネア・バラダン───見目が良いという理由だけで養子に選ばれたビルガに、勝るとも劣らない美しい令嬢。同じ伯爵家と言えど、賜わった領地の大きさは比べるまでもなく、常に一番を求められてきたビルガの方が学科でも良い成績を残していた。だが、アイネアはそれ以上のものを、ビルガが望んでも得られなかったものを、たくさん持っていた。宿舎では自分の侍女ととても親しげに過ごしており、たまたま聴こえてきた会話は自領での楽しそうな出来事ばかり。父親からまめに文が届いているのを、また、それを受け取るたびにアイネアが嬉しそうにしていたのを、ビルガは知っている。婚約者であるユニアスに、頬を染めて寄り添う姿を見た時には、強烈な羨望と嫉妬に駆られた。

 同じ伯爵家なのに、容姿だって劣っている訳じゃないのに、婚約者も父が決めた侯爵家の男性なのに。どうしてアイネアは皆から愛されて、ビルガは誰からも本物の愛を向けてもらえないのか。


(私だって貴女のように生きたいわよ…っ)


 ささやかな趣味さえ許されず、受けるべき愛すら与えられなかったビルガ。ぎりぎりのところで保っていた心の均衡が崩れたのは、夏の定期考査が終わったあたりからだった。

 学年一位の座を名も知らない生徒に奪われ、休暇時にレーサンテス家に帰れば、振るわれなくなって久しかった鞭が風を切った。そんな傷心の折に届いた一通の手紙。それまで何の音沙汰も無かったリット子爵、つまりビルガの生みの親からの便りだった。長らく離れていた実の娘を気遣う言葉は無く、ただただ身勝手な要求だけが書かれていた。その内容を要約すると、三年前に誘拐未遂を起こしてから未だに監視の目が緩まない。こちらは身動きがとれないから、お前が目障りなバラダン家の令嬢を消してくれ、という事だった。

 しかし、育ての親であるレーサンテス伯爵からは、近年力をつけてきたバラダン家と親しくしておけと懇々と言われており、ビルガは二人の親から相反する要求を迫られる状況となった。


(みんな口を開けばアイネア様のことばかり。だったら私の存在は何なの…っ!私とアイネア様と何が違うって言うのよ!!)


 ビルガはずっと我慢してきた感情を爆発させてしまった。それが、アイネアへの嫌がらせへと繋がっていった。

 ビルガは元来、義理堅い性格である。長年に渡る養父からの苦痛に耐えてきたのも、育ててもらっているという恩が心のどこかにあったからだ。陰湿な虐めなど、彼女の生来の気質には合わない。正面切って報復を宣言し、誰の手も借りずビルガ自身が直接嫌がらせをするという稚拙な行動に、アイネアが不信感を抱いたのはそのためである。ビルガほどの頭脳があれば、権力や他人を使って、もっとずる賢く立ち回ることもできたはずだ。結局のところビルガがしていたのは、嫉妬から来る八つ当たりだったのだ。

 すべてが終わった今、もはや何をしたかったのか、ビルガ自身もわからない。だけどどうだって良かった。あとはどこかで野垂れ死ぬだけなのだから。




 ───そう思っていたのに、何故かビルガは陥れようとした相手の領地で、丁重な挨拶を受けている。彼女の頭をもってしても、その意図を量りかねた。


「実はここバラダン領では現在、民に無償で勉強を教える人材が不足しておりまして。お嬢様に相談してみたところ、とても優秀な方がいらっしゃるとお聞きしたのです」

「は…?」

「何でもその方は、文才にも秀でておられるとか。講師を務めるかたわら、物書きとしても活動していただけないかと、交渉に参った次第です」

「どうしてそれを…っ!?」


 作家───それは誰にも明かした事のなかった、ビルガのたった一つの趣味であり、叶うはずもない夢であった。

 夜、ベッドに入って一人きりになった後、こっそり物語を書く時間が、息の詰まる生活から抜け出せる瞬間だった。空想を巡らせ、色んな話を考える間だけは嫌な事を忘れられた。徐々に心の余裕を失くしてからは、書けなくなってしまったが、どうしてひた隠しにしていた秘密を、アイネアが知っている?そもそも何故、宿敵であったビルガを助けるような真似をするのか?ただのビルガとなった今の自分に、恩を売る価値は無いはずだ。


「お嬢様が我々の理解の範疇を超える事をなさるのは、今に始まったことではありませんから。ですがこれだけは知っています。アイネアお嬢様は、埋もれた才能を見過ごすことができない方なのですよ」


 茶目っ気たっぷりに笑うバートは、二通の手紙を差し出した。一通はアイネア、もう一通は無記名だった。可能なら今読んでくださいと言われ、ビルガは恐る恐る封を切る。アイネアからの手紙は、学園にいた頃とは違う、砕けた口調で書かれていた。伯爵令嬢から平民へ向けての手紙なのだからそれが当たり前だが、見下されているという劣等感は、まったくと言っていいほど感じなかった。その代わりに何か熱いものが胸に込み上げてくるだけだった。


『あなたを追い出したわたしが、頼み事なんて図々しいわね。でも、それを承知の上でお願いしたいの。バートから聞いたと思うけれど、ビルガならきっと、素晴らしい先生になれるわ。それにあなたが書いた物語をちょっとだけ見せてもらったのだけど、あんなに続きが気になるお話って他に無いわ!あなたさえ良ければ、好きなだけ書いてくださらないかしら?

 最後にもうひとつ、ビルガが「良い友人になれそう」って言ってくれた時、本当に嬉しかった。いつかわたしを許してくれる日が来たなら、その時は今度こそお友達になりたいわ』


 追い出したと言うが、ビルガはどちらの家に対しても、未練など欠片も持ち合わせていなかった。絶縁についてアイネアを恨む気持ちは一切無い。因果応報、当然の報いである。むしろ、あの家から解放してくれたことを感謝したいくらいだった。

 暴漢に襲わせたのはビルガではなかったものの、アイネアにしてきた理不尽な嫌がらせは事実だ。この一件でアイネアには不名誉な噂が立ってしまった。それなのに彼女はビルガに希望の手を伸ばすことを差し控えなかった。この期に及んでもまだ、ビルガを友と呼びたいと願っている。何度目かわからない「どうして…」という掠れた声がこぼれる。


『追伸:ビルガにもすてきな侍女がいるのね』


 追伸を読んだビルガは、急いで名無しの手紙を開けた。差し出し人は、レーサンテス家に来てからずっとビルガに仕えてきた、メイドのナンシーだった。彼女の見張りの目が嫌で仕方がなかったのだが、手紙には長年ビルガの監視役をやっていた事に対する謝罪の旨が綴られていた。


『……お屋敷から離れた学園では、少しでものびのびと過ごしていただけたらと思っておりました。ですが、日に日に追い詰められていくお嬢様を見ていて、何か助けになれることはないかと愚考し、アイネア様に事情を打ち明けたのです。お嬢様のお力になってはいただけないかと。アイネア様は既にレーサンテス家とリット家の内情をご存知でした。お嬢様の暮らしぶりも知っておられ、私がお頼みするまでもなく"助けたい"と言ってくださいました。お嬢様がお書きになった原稿を無断で持ち出し、保管していたのは私です。お嬢様のことですから、きっと書き終えたら暖炉に投げ入れてしまうと思ったからです。勝手なことをして申し訳ありませんでした。

 私にできるのはこんなことだけですが、どうかこれからは自由に生きてください。お嬢様の書かれたお話が本になる日を、心待ちにしております』


 手紙を読み終える頃、ビルガの頰は涙で濡れていた。全てを失ったと思った時は一滴も出てこなかった涙が、今は止め方を忘れてしまったかのように溢れてくる。こんなにも身近なところに、ビルガが渇望していたものはあったのだ。

 今ならアイネアの言動の意味がわかる。

 ペーパーナイフを握りしめた際、ビルガは自分にその刃を向けるつもりだった。どの道、レーサンテス家には戻れないだろうし、いっそのこと自分の命でケリを付けようと自暴自棄になっていた。それにいち早く勘付いたアイネアは駄目と叫び、ビルガを止めようとしてくれたのだ。ビルガが言った「良い友人同士になれる」という心にも無い言葉を、アイネアは本当に喜んでいた事が、すべてが終わってみて、やっとわかった。


「……甘すぎるわよ…っ、馬鹿じゃないの…」

「そうかもしれません。ですが、誰彼構わず優しさを振りまく方ではありませんよ。ビルガ様はそんなお嬢様が"お友達"と呼ぶ方です。我々がビルガ様をお助けする理由はそれで充分なのですよ。それで、このお話は受けていただけるのでしょうか?我が領では、無償の講師を務めてくださる方の衣食住を保証しております。執筆作業が軌道に乗るまでは、全面的にサポート致しますが、いかがですか?」


 今までの水準からはかけ離れた暮らしが待っているだろう。それでもビルガの心は翼が生えたかのように軽かった。もう、ビルガを縛るものは何もなく、本当の自由を手に入れたのだ。


「…そのお話、謹んでお受け致します」


 泣き濡れていながらも、ビルガの表情は晴れ晴れとしていた。

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― 新着の感想 ―
[一言] なるほどー! やっぱり量産するには作家がいるからどこから連れてくるのかと思っていましたが、なるほど~。 そして作家と言えば教師ですもんね。 目指そう夏目漱石…!
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