3
クーザと出会った日の晩、アイネアは父の書斎に呼び出された。椅子に腰掛ける父の顔はいつになく硬い。アイネアの体に緊張が走る。
「わがままを言って、もうしわけありませんでした」
仕事の邪魔はしないと約束したのに、これではもう二度と連れて行ってもらえないかもしれない。父の怒りが少しでも収まるよう、アイネアは深く頭を下げて、反省していることを言葉と態度で表した。
「それはもう良い」
「えっ?」
「もう許可した事だ。それより私が言いたいのは、専属を持つことの責任についてだ」
「責任…」
「そうだ。お前の専属になるということはつまり、互いの力量が互いの評判に繋がる。彼が画家としての才能を開花させても、お前にそれを生かす能力が無ければ、彼の努力は無意味になる。逆も然りだ」
その指摘にアイネアは冷水を浴びせられたような心地になった。
夢の中で見た書物を再現してみたい、そんな甘い考えだけで決めていい事ではなかったのだと悟り、アイネアは顔色を悪くした。
クーザには画家としての才がある。それは間違いないと思う。だが果たして自分はどうだろうか。彼の才能を発揮させられるだけの力があるか。
(…自信がないわ)
黙りこくってしまったアイネアを見つめて、アンドリューは幾分か声色を和らげた。
「今回は少し性急すぎたな。今後は決断の前によく考え、自分の行動に責任を持てるようにしなさい」
「はい…お父さま…」
「戻って休みなさい」
しょんぼりと項垂れたアイネアは力なく一礼をした。アンドリューは咳払いを一つすると、とぼとぼと出口に向かう背中に向かって声をかけた。
「…それから、ドレスも宝石も必要ならちゃんと言いなさい。子の必需品を揃えるのは親の役目なのだから、そんな事で遠慮しなくていい」
いつもより早口なのがおかしくて、アイネアは少しだけ笑い「おやすみなさいませ」と扉を閉めたのだった。
絨毯の敷かれた廊下を歩きながら、アイネアは考えに耽っていた。
(夢の世界を追いかけるなんて、やめた方がいいのかしら…)
アイネア一人で出来る事なら、迷わずにとことん追求しただろう。でも、他の人を巻き込んでまでやる意味はあるのか。貴族の娘としてやるべき事に集中した方が良いのではないか。
(でも…もったいないわ)
夢の中の世界は、心躍るもので満ち溢れていた。すべてが新鮮で、強く興味をそそられた。そんな素晴らしいものを、アイネアの夢の中だけで終わらせてしまうのは本当に惜しいと感じたのだ。
(やっぱり、わたしはやりたい)
改めて考えてみても、結論は変わらなかった。きっと、やる後悔よりもやらない後悔の方が大きい。
アイネアは己の意志を再確認する。そして、それを貫くならば、相応の覚悟を決めなければならない事も理解していた。俯きがちだった顔をしゃんと上げる。
手を貸してくれた者達の信頼を背負えるだけの人間になりたい。アイネアに新たな目標ができた。
翌日になると、アイネアはクーザの部屋の支度について、てきぱきと指示を出していた。朝早くから屋敷を管理している家令と話し合い、アトリエを兼ねた続き部屋を作ることにしたのだ。屋敷内には空き部屋がいくつかあり、好きなようにしていいと父から許可も下りたので、少しでも居心地の良い場所にしようとアイネアは一生懸命だ。
「クーザが来るまでに間に合うかしら?」
「ご心配なく。必ずそれまでには終わらせますので」
「ありがとう」
「しかし、画材などが一切ありませんが、いかがなさるおつもりで?」
「彼が使う道具ですもの。彼にえらんでもらうわ」
「かしこまりました。商人に伝えておきます」
「ええ。おねがいね」
昨晩の落ち込んだ様子から一転し、アイネアの瞳には闘志のような強い決意が宿っている。そんな娘の姿にアンドリューは人知れず満足そうに頷いた。
「ところでお嬢様。今日はお嬢様のお誕生日ですが…」
「みんなの仕事をふやしてしまって、ほんとうに悪いと思っているわ。今日だけガマンしてもらえないかしら」
「いいえ!そうではなく。そんな事はいいのです。それよりもお嬢様はご自分の支度を…」
「あら、だいじょうぶよ。支度なんて、選んだドレスを着るだけだもの。すぐおわるわ」
リボンを緩くしてもらうのも忘れていないわ!と明るく言い放つアイネア。今日は彼女が主役の日なのに、肝心のアイネアがこの有り様で、家令のバートも失笑を禁じ得ない。
「あっ、お父さま」
少し離れた場所にいる父に気が付き、アイネアはぱたぱたと駆け寄った。
「正午を過ぎれば客人達が来る。熱中するのは構わないが、時間になったら切り上げるのだぞ」
「はい。わかっています。お父さま、あそこに飾ってある絵を描いた方にお会いしたいのですが、お住まいをご存じですか?」
「あの肖像画の…?知っているが、会ってどうする」
「クーザの絵の先生になっていただけないかと」
バラダン家の屋敷には、各所に絵画が飾られている。その中の一枚に、父と赤子のアイネアを抱いた母の肖像画がある。微笑む母が生き生きと描かれていて、アイネアはその絵が大好きだった。そんな大好きな絵を描いてくれた人に、クーザの師匠を任せたかったのだ。考えるそぶりを見せた後、父は首肯してくれた。
「ならば、私の方から依頼の手紙を送っておこう」
「ありがとうございます!お父さま!」
「お嬢様〜!そろそろ戻ってきてください〜!」
エルザから呼び声がかかり、今度はそちらへ駆けていった娘を見送って、伯爵は「やれやれ」と呟いた。それを聞いていたバートがにやりと笑った。
「旦那様、嬉しいならお嬢様にそう仰ったらいいではないですか」
「甘やかしてはあの子のためにならん。お前も余計な事は言うなよ、バート」
「甘えたい年頃でしょうに。そのうち『臭い、近寄らないで』とか言われますよ」
「お前…言われたのか」
「ええ…自分の子供はそんな事言わないと信じていましたが例に漏れず、ですよ」
「そうか…」
もし仮に、アイネアから冷たい蔑んだ言葉をぶつけられたら、そのまま失神しそうだとアンドリューは目眩を覚えた。そして遠い目をする家令の肩を軽く叩いて労ってやるのだった。
十二時を知らせる鐘が鳴ると、バラダン家に親族達が続々と集まってきた。
エルザの手によって可憐な姿に変身したアイネアは、あどけない笑顔を見せて、お祝いの言葉に応えていた。
「おばあさま、こんにちは」
「おお、可愛いアイネア。久しぶりね。風邪などは引いていない?」
「はい。だいじょうぶです。おじいさまは今日はいらっしゃらないのですか?」
「ええ。急用が入ってしまって来られないの。でも貴女宛にプレゼントを預かっているわ」
「まあ!かわいいキャンディ!」
「うふふ、あたくしからはあれよ」
とても齢六十を超えるとは思えない、悪戯っぽい笑みを浮かべた祖母ジョアンナは、外に停めてある荷馬車を指差した。首を傾げるアイネアに「あれはね…」とネタばらしをする。
「ピアノよ」
「ええっ!?」
「そろそろ楽器を習う頃でしょう?確かヴァイオリンはこのお屋敷にもあったはずだから、別のものをと思ってね」
上流階級の人間は、楽器を演奏できる事が一種のステータスとなっている。有り体に言えば親による我が子自慢の為だ。孫に甘い祖母であるが、父の言葉を借りるなら貴族然とした夫人で、恐らく弾ける楽器が多いほど良いと思っているのだろう。
「あ、ありがとうございます」
「あたくしの知り合いにレッスンをお願いしておいたわ。弾けるようになったら、ぜひ聴かせてちょうだいね」
「がんばります…」
想定外の贈り物に、笑みが引き攣りそうになる。
(…ピアノよりも、絵の具や絵筆がほしいと思うなんて、わたしったら薄情ね……)
でも、楽器なら母の形見のヴァイオリンだけで充分だと思っていたのだ。ちらりと隣に立つ父の顔を窺うと、微妙な表情をしていた。どうやら父もアイネアと同意見のようだ。
「そうそう。今、王都で流行りのドレスをいくつか持ってきたのよ。あと、そのドレスに合わせたアクセサリーもあるから、それも運ばせるわね」
「そんなにたくさん…っ!?」
ちょっと遠慮したいと思うアイネアの言葉は、最後までジョアンナに届くことはなかった。
祖母のプレゼントには驚かされたが、パーティーの時間は楽しく過ぎていった。エルザのおかげで、デザートのケーキまでしっかり食べてもお腹は苦しくならなかった。
そして、従姉妹と食後の紅茶を味わっている時に、その話題は持ち出された。
「そういえば叔父様から聞いた?宮殿でガーデンパーティーが開かれるって」
「ガーデンパーティー?」
従姉妹によれば、来月、王族が住まう宮殿の庭園で、選ばれた貴族のみが招待されるパーティーが開催されるらしい。
「聞いてないの?伯父様とあなたが招待されてるって、我が家じゃその話で持ちきりよ」
「知らなかったですわ…」
「これは噂だけどね、そのパーティー、王子の婚約者候補を探すためなんですって!」
そんなお話聞いていませんが!とアイネアは悲鳴を上げそうになった。