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「ごきげんよう、アイネア様」
艶やかに微笑みながら挨拶を送ってきた一人の令嬢。くるくると巻かれたボブカットの真紅の髪が、軽いお辞儀の際に揺れる。髪色と同じ紅を引いた唇には、自信が満ちていた。
アイネアは席から立ち上がり、負けず劣らずの優雅な挨拶を返す。
「ごきげんよう、ビルガ様。昨年のお茶会では大してお話しもできず、残念に思っておりました」
赤い髪の令嬢はビルガ・レーサンテス。レーサンテス家と言えば、伯爵家の中で最も大きな領地を賜っている、格式高い貴族だ。アイネアが今までに参加した数少ない茶会でも会った事がある。
「私もです。アイネア様のお名前は、我が領でも有名です。そのような方と、こうして机を並べられるのは光栄ですわ」
「お上手ですね。ビルガ様のような聡明な方に、そのように言っていただけて、わたしの方こそ光栄です」
ビルガも長身な方であり、アイネアとほとんど差はない。容姿端麗でスタイルも抜群、そんな二人が並べば、場の煌びやかさは桁違いである。
「アイネア様さえよろしければ、午後の授業は一緒に座りませんか?」
「まあ!喜んでご一緒しますわ」
その言葉の通り、アイネアは大喜びだった。
隣にビルガがいると、気が引き締まり、アイネアは普段よりも授業に集中することができた。何しろアイネアは、授業中によく意識が逸れてしまうのだ。「これをどうにかして、夢の世界の発明品に活かせないかしら?」と気付けばそればかり考えている。頭は良いのに、ケアレスミスがちらほら目立つのはその所為である。だから隣に誰か座っていた方が、夢想の世界へ飛び立つ余裕が無くなって助かるのだった。
「アイネア様、これからも仲良くしていただけると嬉しいですわ。明日は昼食もご一緒にいかが?」
「ありがとうございます。ですが、先約がございますので…明後日でしたらご一緒できますわ」
「…もしや先約というのは、婚約者のユニアス様ですか?」
ビルガは視線をカフスボタンに落とす。少しだけ気恥ずかしい心地になったアイネアは、はにかみながら首肯した。
「でしたら、お邪魔はできませんわね。明後日を楽しみにしていますわ」
にこりと笑ったビルガは、これまた上品に一礼をして去っていった。
やっと同級生から声をかけてもらえたアイネアは、嬉しさのあまりパルメナに喋るだけでは飽き足らず、翌日のランチの席でユニアスにも話して聞かせた。ちなみに学園の食堂はレストランのように給仕がつき、事前に申請をすればシェフがバスケットに料理を詰めてくれて、中庭で食べる事も可能だ。
「ビルガ嬢ですか…」
「ユニアス様もお会いになったことがあるのですか?」
食堂には大勢の生徒達がいるので、二人の口調は固いものになっている。
「話をしたことはありませんが、顔くらいは知っています。あのガーデンパーティーにも参加していたはずですよ」
「…お茶菓子ばかり見ていて、どなたがいたか全然覚えていませんわ」
「アイネア嬢らしいですね。まあ、レーサンテス家には縁談を断られたので、覚えていたというのもありますが」
アイネアがぎょっとしたのも無理はない。
いくらレーサンテス家が高貴な貴族だとは言え、伯爵家が侯爵家からの縁談を簡単に突っぱねるなど、普通は有り得ないからだ。
ユニアスの見た目にも問題はあったのだが、アイネアに言わせれば「何も問題ありませんわ!」であるので、そこを掘り下げるのは割愛する。
「僕はまたか、くらいにしか思わなかったんですが、母上がかなりご立腹で…何せ会おうともせず、書簡だけで断ってきたものですから」
どの貴族も渋々ながらユニアスと会う事だけはしてくれたのだが、唯一レーサンテス家だけはそれすらも拒んだ。格下の家に無礼な態度をとられた侯爵夫人の怒りは当然と言える。顔合わせをしたところで、嘲笑されるのがオチだったので、ユニアスとしてはホッとしたくらいだ。
「それが割と印象的だったので覚えていただけです」
「何と申し上げていいのか…」
「昔のことですから笑ってください。そこで断られていなかったら今、アイネア嬢との婚約もないと考えると、逆に良かったくらいですよ」
気にしていないとばかりに微笑むユニアスだったが、すぐに表情を引き締めて声を潜めた。
「…それよりレーサンテス家と言えば、例の…」
「ええ。承知の上です。でもそれが、親しくしてはいけない理由にはなりませんわ」
同じく小声ながらも悠然と構えるアイネアに、ユニアスは瞠目する。
アイネアは少々ずれたところもある箱入り娘だが、世間知らずではないし愚直でもない。ユニアスが言わんとしている事は、アイネアもとうに察していた。突拍子のない言動ばかりが目立つが、こう見えてアイネアは聡い娘だった。伊達にアンドリューに厳しく教育されてきていない。
「…危険なことだけはしないでください」
「バートと同じようなことを仰るのですね。そうそう、忘れていましたわ。明日はビルガ様と約束したので、ユニアス様とお昼はご一緒できませんわ…もしやユニアス様がお一人になってしまいますか!?やはりここはパルメナを、」
「パルメナをどうすると!?大丈夫です!そういう心配は無用です!」
本当に大丈夫かと少々不安がよぎるが、ユニアスは余計な口出しはしないことにした。
そのまた翌日、生徒達の視線は、食堂の一角にあるテーブルに注がれていた。席についているのはアイネアとビルガ、二人の伯爵令嬢である。花が咲き誇る幻想が見えそうな光景に、遠巻きに眺めている生徒達は羨望の眼差しを向けていた。
「見てあそこ…"氷の令嬢"と"炎の令嬢"よ」
「正反対っぽい二人なのに、絵になりますわ」
一人で静かに本を読んでいることが多いアイネアとは逆に、ビルガの方は交友も華やかだ。アイネアの笑い方が清楚な白ゆりだとすれば、ビルガは大輪の薔薇である。
「アイネア様の考案なさったお菓子は、私のお気に入りですのよ。餡子を初めて口にした時の衝撃は忘れられませんわ」
「お褒めいただき嬉しいですわ。そういうビルガ様も、ご自身が手掛けたドレスは、流行を作ると言われております。女性として憧れますわ」
「まあ、そんな」
お喋りを楽しみつつも食器を持つ手は優美なままで、手付きに見惚れているうちに料理が消えているといった感じだ。
「私とアイネア様は似ているところが多いですね。私達は良い友人同士になれそうですわね」
「まあ!わたしも是非お友達になりたいですわ」
「似ていると言えば、私にも侯爵家の婚約者がいますのよ」
「そうでしたの?存じ上げませんでしたわ…」
アイネアはつい相手のカフスボタンを見るが、そこには学園の校章が彫られたボタンが付いているだけだった。それだけで意図を汲んだビルガは、わざわざ訊かずとも教えてくれた。
「私の婚約者は年が離れておりますので、こういった伝統に興味が無いのでしょう。ユニアス様のように細やかな気配りをするのが苦手な方ですし。ですが父の決めた方ですので、文句を言っても仕方ありませんね。アイネア様方も政略結婚ですか?」
「そうですわ。わたしが八歳の時に婚約の話を纏めたと聞きました」
「八歳ですか。どうりであれほど仲睦まじいご様子なのですね」
これぞアイネアの思い描いていた、女らしい会話というやつである。アイネアの大好きな美味しい食事と相まって、楽しい時間を過ごした。
その傍ら、ユニアスは一緒に食事を摂っていた友人達から、美しい婚約者がいる事を羨ましがられたり、妬まれたりしていたのだった。
尊貴な学校と言えど、休日は市井の学校と同じだ。学校の外に出る事も許可されている。品位を損なう真似をしなければ、大概のことは自由なのである。
【今度のお休みは、いかがなさいます?】
「手紙を出しに行くわ。クーザに原稿を送らなくてはいけないし、新しく思いついたお菓子もあるの」
【かしこまりました。準備はお任せください】
「王都にしかないお菓子を買ってきて、二人で食べましょうね!パルメナ」
【えっ、私とですか?ユニアス様とではなく?】
「だって男性用の宿舎には入れないわ。持っていきようがないじゃない?あっ、男装を…」
不穏な事を言い出す気配がしたため、パルメナは両手を振って遮った。
【お二人でお出掛けしては?】
「ユニアスは別件で用事があるそうよ」
【そうでしたか。お召し物はどれになさいますか?】
「どれでもいいわ」
【では、動きやすいものを選んでおきます】
「さすがね」
そして週末、アイネアとパルメナは王都の街に繰り出した。街と言っても貴族街なので治安もかなり良く、悪質な犯罪が起きる事は滅多に無い。故に、学生達も大した護衛をつけずに出掛けられるのだ。
貴族達が買い物を楽しむ場所というだけあって、どこも店構えが立派で、取り扱っているのは高価な品ばかりだった。
「便箋と、あとインクも欲しいわね。どのお店に売っているのかしら」
【あちらの雑貨屋さんはどうでしょう】
「入ってみましょう。あら、お隣はお菓子を売っているみたいね。あそこも後で寄るわ」
軽やかな足取りで店を巡るアイネア達。
休憩のためにと立ち寄ったカフェで注文したケーキが絶品で、アイネアは口元を綻ばせた。流石は王都、お菓子も一級品である。
【申し訳ありません…私まで…】
「パルメナを立たせたまま、わたしだけケーキを食べたって美味しくないわ」
パルメナの遠慮が普通なのだが、そんなものは今更だ。
【お嬢様…ありがとうございます】
「ふふっ、いいのよ。このお店のケーキも美味しいけれど、やっぱりレギオンの作ったものが一番ね」
【そうですね】
「今から夏季休暇が待ち遠しいわ」
程よくお腹を満たして店を出たところで、アイネアは意外な人物とばったり遭遇する。
「あら…?アイネア様。奇遇ですわね」
「ごきげんよう。ビルガ様もお買い物ですか?」
校外で出くわしたことに驚き、二人とも目を見開く。ビルガの方は侍女ではなく、一人の男性と連れ立っていた。甘いルックスだが、どれだけ少なく見積もっても三十路は確実そうな男だった。もしかして先日話していた婚約者だろうかとアイネアは推察する。
「ビルガ。こちらの女神のような方はどなたか、紹介してもらえませんか?」
優しげな声だが、気取った言い方はあまり好きではないとアイネアは思った。ビルガに紹介してもらうまでもないと、アイネアは進み出て挨拶をした。
「お初にお目にかかります、アイネア・バラダンと申します」
「おお、貴女が噂のバラダン家のご令嬢でしたか。私はてっきり、春が来る前に帰りそびれてしまった冬の女神かと思いましたよ」
「アイネア様。この方が私の婚約者のライリー・エルベリト様ですわ」
エルベリト侯爵家のライリーと言えば、浮き名を流す遊び人として有名だ。婚約者の目の前でアイネアを褒めそやす態度が、いい証拠である。きっとライリーは、ビルガの絶対的な美しさに惹かれたのだろうが、肝心のビルガの方はどうなのだろうか。艶やかな笑みを絶やさない彼女からは考えが読み取れない。
「ビルガも人が悪い。こんな美人と友人になったことを隠しているなんて」
「アイネア様は婚約者のいらっしゃる身。ライリー様のような女好きを近づける訳にはまいりません」
「失敬な。誰彼構わず口説くような真似はしないさ」
軽口を叩き合う様子を見る限り、険悪な仲ではなさそうだが、やはり真意のほどはわからなかった。
「レディ・ビルガが拗ねてしまう前に、デートの続きに戻ります。それでは失礼、アイネア嬢」
「失礼致しますわ。また学園で」
ビルガとライリーが去って姿が見えなくなった途端、パルメナは憤慨を露わにした。
【何なんですかあの男は!お嬢様をいやらしい目つきで見て…!汚らわしい!】
「噂通りの方みたいね。ビルガ様も苦労されていないと良いけれど…」
一抹の不安を覚えるも、アイネアが口を挟む問題ではない。自分は婚約者に恵まれたことを幸福に思い、感謝するほかなかった。




