22
アンドリューが誘拐事件の報告書を受け取った時の顔ときたら、恐ろしいの一言に尽きる。書簡にはアイネアは無事であるという顛末まで記されていたのだが、アンドリューの殺気立った気配を鎮める効果は無かった。
会議が終わると同時に、速やかに王都を出立し、帰途に予定していた宿を丸っきり無視して猛然と帰還した。それこそユニアスが帰る間もなかったくらいだ。もっとも、今のうちに恩を売ってこいと言ってくるようなシャレゼル侯爵なので、はやく帰ろうという気も起きなかったのだが、それはさておき。
「お父様!おかえりなさいませ」
「アイネア…!駆けつけてやれず、すまなかった。無事で何よりだ」
礼儀に厳しいアンドリューが、出迎えの挨拶に答えず娘の身を案じるあたり、彼の動揺の大きさが伺える。
「それは仕方ありませんわ。背中に羽が生えている訳ではないのですから。お父様は前々から注意するよう仰っていたのに、わたしの心構えが甘かったのです」
アンドリューはアイネアの表情や声の調子から、無理を押していない事を見てとり、胸を撫で下ろした。
「ご無沙汰しています。バラダン伯爵」
「これはユニアス殿。娘を助けていただいたこと、心より感謝する」
容貌が変わったことに驚きつつも、アンドリューは深々と頭を下げて感謝を表した。ユニアスは密かにアンドリューのような男性を自分の目標としていたので、急な辞儀に恐縮してしまう。さらにはアイネアまで父に倣い、改めてお礼を述べたので、くすぐったさは倍増だ。何だか居たたまれなくなったユニアスは、食事の準備が整っていることを早口に告げて、話題を逸らしたのだった。
ところが…
「三対一という不利な状況だったのに、ユニアスはあっという間に倒してしまいましたのよ!」
「ほう」
「バートの話ですと、馬を走らせるのがとても速かったとか。きっと颯爽となさって格好よかったに違いありません!今度、わたしも乗せていただきたいですわ」
「ユニアス殿は馬術も得意なのだな」
本人を前にして、褒めちぎるばかりの報告会が繰り広げられる羽目になろうとは。ユニアスは食事を味わうどころではなかった。だいたい、褒められる事にも、和気藹々とした食卓というものにも、慣れていないのだ。嬉しいのか恥ずかしいのか、もうよくわからない。しかし、得意げに喋るアイネアを静かにさせ、どこか嬉しそうに相槌を打つアンドリューを止める手段を持たないユニアスは、贅沢な羞恥に耐え続けるしかなかった。
食事後、チェスをしようという話になったアイネアとユニアスは仲良く出て行き、一方のアンドリューは書斎にバートを呼び出し、捜査状況の説明をさせていた。
「犯人達の証言から、誘拐を依頼した人物は東方の伯爵領に住む貴族、というところまでは絞れたのですが、それ以上の進展は見込めません」
「あそこは広大な領地だ。いくつの貴族が屋敷を構えていると思っている」
「それは存じております。怪しいと思われる貴族はいますが、如何せん証拠がございません」
「構わん。話せ」
「はい。リット子爵家の噂をお聞きになったことはありますか?」
「ああ…耳にしたことはある。以前から破産の危機で、近年いよいよ没落しそうだと」
「それがお嬢様の誘拐に繋がったのではないかと、私どもは考えております」
「そうか。では子爵について徹底的に調査し、監視を怠るな」
「承知致しました。そのように伝えておきます」
逃走経路の確保といい、証拠の追及逃れといい、逃げ足だけは速い犯人だ。捕まえられないのは大変腹立たしいが、ならば二度と手を出せないようにしてやると、アンドリューは静かな怒りを滲ませた。
「して、バートよ。今回の件についてだが、お前にしては失策だったな」
「…返す言葉もございません。お屋敷への侵入を許し、お嬢様を誘拐された責任はすべて私にあります。どのような処罰も受ける所存です」
バートは固い表情のまま、頭を垂れた。
例えこの首を差し出せと命じられても、逆らうつもりは毛頭なかった。バートが主人と仰ぐ人が、どれだけアイネアを愛し慈しんできたか、間近で見てきたからこそよく知っている。知っていながらこの度の不始末。解雇は免れないに違いない。いや、厳罰の後バラダン領から追放されるかもしれない。アンドリューもさぞかし怒っていることだろう。
しかし、主人の返答は意外すぎるものだった。
「…アイネアがしきりにお前の処遇について心配していてな。お前を追い出したりしたら、私が怒られてしまう。それは御免こうむりたい」
「あの…それは、つまり…?」
「今まで通りという事だ。が、何も罰しないというのも周りに示しがつかん。ということで、これから十日、私の仕事を肩代わりしろ。勿論、通常の業務も免除しないからな。その間、私もアイネアとチェスにでも興じるとしよう」
アンドリューはバートの肩を軽く叩くと、部屋を後にした。一人残されたバートは、しばしぽかんと放心してから、不意に笑い出した。片手で目元を覆いながら、肩を震わせる。
「まったく…お嬢様も旦那様も、お人好し過ぎるってもんですよ…っ」
後日、大量の書類仕事に追われたバートは「前言撤回…旦那様は鬼畜であらせられる」と愚痴めいた小言を呟いたという。
会えなかった二年間を埋めるかの如く、アイネアとユニアスはお喋りを楽しみ、クーザ達は我らがお嬢様の恩人としてユニアスを尊敬するようになった。このままでは逆ホームシックになりそうだと思うユニアスであったが、いい加減戻らないと、変な噂が立つ。
出発の前夜、客用寝室を訪れる者がいた。アンドリューである。この部屋に来るのはアイネアばかりだったので、ユニアスは驚いた。
「ユニアス殿に話しておきたい事があるのだが、時間はいいかね」
「はい。もちろんです」
断る理由など、はなから持ち合わせていない。少し緊張しながら、ユニアスは部屋の中へと招き入れる。椅子に座るよう言われ、アンドリューの対面に腰かけた。
「それでお話というのは、何でしょうか」
「婚約の件はシャレゼル侯爵から聞いているか?」
ユニアスは無意識に姿勢を正していた。
「はい。僕がティミオス学園に入学するまで、双方の意見が変わらなければ…と聞いています」
「そうだ。私は一度口にした約束を違えることはしない。故に署名する時期を早めたりはしないが、私の意思は固まった。君との婚姻を認めよう。ユニアス殿、娘をよろしく頼む」
「え…」
「アイネアを誘拐犯から奪還してくれた感謝の表明でもあるが…それよりも、あの子が心から笑えるようにしてくれた君になら、安心して任せられると思ったからだ」
ユニアスは唇をわずかに開けた状態で、半ば呆然と聞いていた。
「少しだけ昔話に付き合ってもらおうか。アイネアは妻が…あの子の母親が生きていた頃は、今よりも感情豊かな子供だった。よく笑い、よく泣く子だったよ。癇癪はあまり起こさなかったがね」
ところがアイネアは次第に、病弱な母を困らせないよう子供らしい我儘も言わなくなり、泣く日も減っていった。
「それでも妻が亡くなった後は毎日のように泣きじゃくっていたのだが、それがぱったり止んだ時から、あの子はおかしくなっていった。表情が作れない、とでも言えばいいのか…」
泣かなくなったアイネアは、笑おうとしても笑えず、中途半端で歪な格好のまま唇が固まってしまうようになった。それから更に悪化すると、表情そのものが消失した。
「どうにか今の状態までは回復したんだが、それからというもの、アイネアには頑固な我慢癖がついてしまったのだよ」
ユニアスは"母のようにできない"と、絶望の色を見せていたアイネアを思い出していた。どんな気持ちで「泣いたらいけない」と絞り出していたのだろう。いったい何度、そうやって涙を耐えてきたのだろうか。あの明るい笑顔を向けられるまで、どれだけの苦衷を独りで飲み込んできたのだろう。考えただけでも胸が抉られる。
「アイネアを慕う使用人は多いが、どれだけ親しく見えても、あの子は彼らの前では雇い主としてしか振る舞えない。だからこそ、自分の弱みを見せられる相手が見つかったことは、娘にとってこの上ない僥倖だ」
「僕はただ…アイネアがそうしてくれたから…同じようにできたらと思っただけです」
家族から見向きもされず、外へ出れば嘲りに遭う、つまらない無感動な生活が、アイネアと出会って一変した。ユニアスが抱いていたコンプレックスは、彼女にかかれば何てことのないものに変わり、誰からも与えられなかった幸せを運んできてくれた。アイネアに何度救われたことか。だからユニアスはアイネアのためならどんな重荷を背負うことも躊躇わない。
「それはアイネアとユニアス殿だからできる事だ」
アンドリューは、やや厳つい目尻を下げて微笑んだ。こうするとアイネアの笑い方によく似ていた。
「さて、長話が過ぎたな。私は失礼するとしよう」
「…伯爵っ!あの、ありがとうございます」
「礼などいい」
こうして、アイネアの与り知らないところで、二人の婚姻は約束されたものとなったのである。




