21
『私の可愛いアイネア。どうか泣かないで』
いくら乞い求めても、もう聴くことのできない声が、頭の奥で優しい響きを奏でる。
(……これは…夢…?)
しかしいつもの夢ではない。幼かったアイネアが見ていた、在りし日の懐かしい情景だ。
(…お母様が亡くなる少し前、かしら)
ぐずぐずと啜り泣く小さなアイネアと、その背中を撫でることすらできなくなっていた母リィサ。泣きたかったのは母の方だろうと、今なら思う。だが、当時のアイネアに母の気持ちを汲めと言うのは無茶な話だった。日に日に痩せて弱っていくリィサを見ながら、母の死という耐え難い恐怖に襲われていたからだ。
『お母様はね、アイネアの笑った顔を見ていると、とっても幸せな気持ちになれるの』
相手が泣けば自分も悲しくなる。
逆に相手が笑えば自分も嬉しくなる。
母はそう教えてくれた。
(だからお母様はいつも笑顔でいらした…)
病気で苦しい日もあっただろう。それでも、死を目前にした時でさえ、アイネアの前で辛そうな表情を見せたりしなかった。アイネアが部屋を訪れると必ず笑顔で迎え、励ましてくれた。
『ね?だから、あなたのすてきな笑顔をお母様に見せてちょうだい』
優しい顔をした母を見上げたところで、場面が変わる。
母を亡くしたばかりの頃、アイネアは四六時中涙に暮れていた。何もしていなくたって勝手に涙が流れ出てきた。泣いて泣いて、父や使用人達からどんなに慰めてもらっても、泣き止まなかった。
ある晩、泣きながら眠ってしまったアイネアだったが、夜中に目を覚まし、喉の渇きを潤そうと自室を出た。父の部屋の前を通った時、僅かに扉が開いていることに気付く。何となしに覗いたアイネアが見たのは、月明かりの下で泣く父の姿だった。いつも毅然としている父が声を殺して泣いている様子は、幼いアイネアに強いショックを与えた。それこそ鈍器で殴られたかのような衝撃だった。
喉が渇いていた事など忘れ、アイネアはとって返してベッドに潜り込むと、自分の顔を強く枕に押し当てた。
(ないたら、だめ。おとうさまが、よけいにかなしくなってしまう)
自分が泣いてばかりいる所為で、その哀しみが父にも移ってしまったのだとアイネアは思った。
(おかあさまみたいに、わらわなきゃ…)
溢れてくる熱い雫を、歯を食いしばって必死に堪える。母がそうしていたように、自分もそうならなければ、周りを哀しませるだけ。アイネアは懸命に笑顔を作ろうとした。しかし全然上手くいかない。それどころか、次第にどうやって笑えばいいのかすら、わからなくなってしまった。
娘の異変に気付いたアンドリューが、数年かけてあの手この手を尽くして立ち直らせるまで、アイネアは笑う事も泣く事もできなくなってしまった。そしてその時作り上げられた性向は、依然としてアイネアの心の中に根強く残っている。
彼女は喜怒哀楽の"哀"を表に出すことができない。無意識のうちに感情を押さえ込むだけ押さえ込んで、上手に発散させることができないのだ。アイネア本人は気付いていないが、今回高熱を出したのは、それが原因だった。
アイネアは瞼を開けてぼんやりとベッドの天蓋を眺めていた。体は火照り、倦怠感が纏わり付いている。起きようとするも、体が重たくてひどく億劫に感じた。
「…アイネア?」
父のものとも母のものとも違う、けれども二人とよく似た温かさを含んだ声が、柔らかく耳を打つ。緩慢な動作で首を動かせば、星が上り始めた夜空よりも綺麗な紫紺の瞳が、アイネアを見下ろしていた。
「薬があるけど、飲めそうかい?」
「…あとで飲むわ。…ごめんなさい。今は…ひとりにしてもらえないかしら」
昔の両親の夢や、昨日の出来事が思い出され、アイネアの心は色んな感情でぐちゃぐちゃだった。高熱のせいか、さっきから胸がつっかえたように苦しいのだ。こんな状態でいつもの笑顔なんてできっこない。でも必ず普段通りに振る舞えるようにするから。今だけは少し放っておいて、という思いを込めながらアイネアは懇願した。
深くかぶり直した毛布からのぞく、白魚のような手が小さく震えているのを見てとったユニアスは、そうっとその手に触れる。
「ごめん。そのお願いはちょっときけない」
「ユニアス…」
「君の寝室に勝手に入った事なら、あとで殴ってくれて構わない。でも、それよりも今は、アイネアを独りで泣かせたくないんだ」
アイネアは泣いてなどいなかった。多少、目は潤んでいたが、それは熱による生理的なものだ。
「わたしは、泣かないわ。泣いたらいけないもの…」
「どうして?」
「…だって……」
すでにたくさん迷惑も心配もかけてしまった。これ以上、誰かの負担になりたくない。ここで泣いたりしたら、またみんなを哀しませてしまう。
ぐっと口を噤んだアイネア。いつだって朗らかで、可憐に笑う姿しか見てこなかったユニアスは、彼女が初めて見せた弱りきった表情に、どうしようもなく心が疼いた。
「アイネアは僕にこう言ってくれたね。二人でなら辛いことも半分になる、と。いつだって君はその通り、僕の苦しみを半分どころか綺麗さっぱり消してくれた」
「え…?」
身に覚えのないアイネアは、ぱちりと目を瞬かせる。
「だから僕も君の支えになりたいんだ。僕じゃあ頼りないかもしれないけど、君の苦しみをどうか僕にも分けてくれないかな」
ユニアスはどこまでも優しく、そして熱心に告げた。
一心に注がれる視線を受けて、アイネアは胸の奥がきゅうっと締め付けられるのを感じた。それは先程までの嫌な感じではなく、くすぐったいというか…とにかく味わったことのない感覚だった。
何と返事をしていいのかわからなくて、あの、とかえっと、という曖昧な言葉しか出てこない。
「それに僕は……どんなアイネアでも、好きだよ」
アイネアは大きく目を見開く。微かにわなないた唇から小さな吐息が漏れ、それと共に普段の彼女からは想像がつかないくらい、か細い声がぽつりと溢れた。
「……わたしのせいで…ネーヴェルとパルメナに、もしものことがあったらと思うと…こわかった」
「うん」
「どうしたらいいのか、わからなくて…お父様がいなくて、本当は心細かったの」
「うん」
「覚悟していたつもりだったのに…わたし、ぜんぜんだめで…」
そしてとうとう、蒼海色の瞳から真珠のような涙の粒がひとつ、転がり落ちる。 自分の頬を滑っていくものが何かわかったアイネアは、絶望にも似た表情になった。
「っ!…やっぱりわたしは、お母様のように笑えない……どうしたら、いいの…っ」
母のようにどんな時も微笑むことができる、強い人間になりたかった。間違ってもこんな、弱った姿を晒したくなかった。それは、枕を涙で濡らしたあの日で最後にするはずだった。
縋るようなアイネアの手を、ユニアスはしっかりと握り返した。
「大丈夫だよ。アイネアと君の母上は同じじゃない。違って当然なんだ。アイネアはアイネアらしく、それでいいんだよ。確かに君の笑顔は一番すてきだけど、だからって辛い事を隠してほしくない。一人きりで泣くより、二人でなら哀しみは半分に、幸せは倍になるって僕は思うよ」
その言葉には、アイネアの心にすとんと落ちる何かがあった。意識せずとも、口元に微笑が浮かんでくるのがわかる。
ユニアスとなら本当に、幸せが倍…いやそれ以上になるような気がした。
「とっても、すてきな考えだわ…!」
ようやく、アイネアに陽だまりのような笑顔が戻ってくる。そして、熱があるのも忘れ去って飛び起きた。
「どうもありがとう!ユニアス!」
「わっ!?まだ安静にし…」
「わたしも、どんなユニアスだって好きよ。だからわたしにもあなたの気持ち、半分こさせてね」
アイネアの熱がうつったかと錯覚するくらいに、ユニアスは繋いだ指先からのぼせ上がっていく。未だ友情と恋の区別がついていないアイネアとは違い、ユニアスの言った「好き」は完全に恋慕なのだ。
仮に今、アイネアが平熱の状態だったら、自分の顔が真っ赤な薔薇のように染まり、心音が異常なまでにうるさい事に気付いただろう。だがしかし、くらりと甘い目眩がしたのも何もかも、熱のせいだとアイネアは信じて疑わなかった。
その後、口ごもってしまったユニアスの代わりに、彼の腹の虫が場違いな音を響かせ、アイネアは今度こそ声を上げて笑ったのであった。
正午を過ぎたあたりから、アイネアの熱は徐々に引き始め、夕方になる頃にはすっかりよくなっていた。まだ安静にしていてくれと嘆願するバートには耳を貸さず、アイネアはパルメナを見舞うと言ってきかない。もしも、この事件に巻き込まれたのがアイネアだけだったなら、こうはならなかっただろう。だが、アイネアは自分の『大事なひと』が被害を受けて、じっとしていられる性格ではなかった。
「お見舞いには昨晩行ったじゃないですか!」
「その時は眠っていたんだもの」
「そもそもお嬢様が使用人部屋に行く事がすでにおかしい事なんですよ!まあ今更ですけどね!そんなに仰るならパルメナをここに呼びますから」
「病み上がりのパルメナを呼びつけるなんてできないわ」
「病み上がりはお嬢様の方でしょう!」
元気になった途端、この有り様である。
「パルメナはいつもわたしのために、頑張ってくれているのよ。それなのにこんな目に遭わせてしまって…せめてお見舞いくらいしたいわ」
「でしたらパルメナの気持ちも考えてやってください。お嬢様を目の前で拐われて、不甲斐ない思いをしているはずです。その上、病み上がりのお嬢様に見舞われたら、申し訳ない気持ちでいっぱいになるに違いありません。それはお嬢様も本望ではないでしょう?」
事実、バートがそうだった。
アンドリューから留守を預かった身として有るまじき失態を演じ、ユニアスが居なければアイネアも無事だったかどうか…もはやアンドリューに合わせる顔がない。
「…そうね。わかったわ」
「ご理解いただけて何よりです」
「じゃあ、犯人探しを手伝うわ!まだ主犯が誰かわかっていないのよね?被害者の一人として捜査に協力するわ!」
「ですから安静にしてくださいってば!」
騎士団の仕事をとらないであげてくださいと、何とか宥めすかしたバートは、謎の疲労を感じながら退散したのだった。
一悶着を経た翌朝、パルメナはきっちりとメイド着を着込み、アイネアの前に現れた。パルメナが来たことは、ノックのリズムでわかる。それは二人で最初に取り決めた事だった。
「パルメナ!大事がなくて良かったわ。大丈夫?無理はしていない?」
パルメナが謝罪を述べるよりも、アイネアが安堵の声をかける方が早かった。パルメナは悲痛に顔を歪めながら項垂れる。
「やっぱりまだ本調子ではないの?」
【いいえ。体は何ともありません。ただただお嬢様に申し訳なくて…】
なす術なくアイネアを誘拐され、熱を出した際には看病もできず、心配をかけただけ。これほど情けない事があるだろうか。
「パルメナったら、そんなの気にしなくていいのよ。あなたもわたしも無事だったのだから。ね?」
【はい…】
気遣うようなアイネアの声が、ますますパルメナを消沈させる。
(情けない…本当に情けない。この方にすべてを捧げてお仕えすると誓ったのに…っ!)
貧しかったパルメナの家。家族の誰一人としてパルメナを穀潰し扱いなどしなかったが、苦しい家計をさらに圧迫していた事は、自分自身がよくわかっていた。仕事に就こうにも一向に見つからず、棘のある言葉や態度に、心が疲弊していくばかりで、余計に家族に心配をかけてしまった。そんな折に差し伸べられた救いの手。パルメナとその家族を助けただけでなく、アイネアの方から進んで歩み寄る姿勢を示して、パルメナの心までも救ってくれたのだ。その感謝を忘れた日はない。むしろ日に日に積み重なっている。命を賭けるのも厭わないほど、パルメナはアイネアに心酔していた。
だというのに、アイネアをみすみす誘拐されるとは、何たる体たらく。口惜しいなどでは到底言葉が足りない。パルメナは悔し涙を浮かべ、それをこぼすまいと唇を噛み締めた。
(もう二度と…絶対にこんな醜態は晒さない。私はお嬢様をお守りする盾にも剣にもなってみせる!)
一介の侍女が抱くような類いではない、雄々しい誓いを立てたパルメナは、この日を境に武術を磨く鍛錬に励むようになる。女性騎士になる訳でもないのに、空いた時間を見つけては体を鍛える光景に、眉をひそめる者もいた。しかし許可を出したアイネアは、怪我には充分注意するようにと言っただけであった。それどころか「戦うメイドなんてかっこいいわ!」と賛成の姿勢を見せていた。
後にパルメナは武闘家としての秘められた才能を開花させ、男が束になっても敵わないほどの強さを誇るようになるのだが、この時点では誰も、アイネアをもってしても、それを知る者はいなかった。




