20
近頃、ユニアスは次兄に連れられて、領外へ出る機会が増えていた。今回もその帰りであり、バラダン領の近くを通りかかったので、少し遠回りになるがアイネアに会っていこうと思い立ったのだ。会えなかった分、あの笑顔が恋しくてたまらなかった。次兄はさっさと帰ったので、ユニアスは心置きなくバラダン領へ向かった。シャレゼル領側から入ればもう少しはやく着けたのだが、それは言っても詮無いことだ。
バラダン領は長閑な良い土地だ。しかし今日はどうにも様子が変だった。胸が騒ついたユニアスはバラダン家へ急いだ。その道中でバートを見かけて声をかけたのだが、まさかアイネアが誘拐されたという信じ難い状況を知る羽目になるとは思わなかった。
(検問所で引っかからないとしたらまだ領内にいるはず。いくら急いだところで人質を抱えていたら限界がある。となると…)
馬を走らせながらユニアスは思考を巡らせ続けた。
「河川か!」
国境線である大河に近いバラダン領には、大小様々な川が通っている。農業に利用されるのはもちろんだが、運河として使われている場所もある。
(バラダン領の運河はそう多くない。川下の方角…屋敷からの距離…人質を連れていても目立たないのはどこだ?)
ユニアスの頭の中で地図が展開される。驚異的な集中力で導き出された答えを頼りに馬を加速させたのだった。
───時は少し遡る。
ガタガタと揺れる車輪の音と振動で、アイネアは目を覚ましていた。目の奥が霞むような感じがして、頭もすっきりしない。口に何かを押し付けられると理解した瞬間、咄嗟に息を止めたのだが、少し吸い込んでしまったみたいだ。それだけでもこの効果なのだ。まともに吸い込んでいたらどうなっていたか。
(……っ、パルメナは!?)
アイネアの記憶はパルメナが倒れているのを見たところで途切れている。ただの気絶薬なら大事ないと思うが、かなり強い薬のようなので心配だった。
麻の大袋でも被せられているのか、荒い編み目の間からほんの僅かに外の明るさが感じられるだけで、周りの状況がまったくわからなかった。手足をロープで縛られたまま転がされて、身動きも取れない。
(どうなっているの…?まだネーヴェルも見つかっていないのに…)
霞みがかった頭でも、誘拐されたという現状は理解できた。どうしたらいいのか途方に暮れるアイネアだったが、不意に父の言葉が耳に蘇る。
『いいか、アイネア。私たち貴族は標的となりやすい。中でも女性と子供は特にだ。お前に何かあっても、私は領主という立場上、すぐには動けぬ時もあるだろう。貴族である以上、ある程度のことは覚悟しておきなさい。…例え有事に巻き込まれたとしても取り乱すな』
アイネアの思考が次第にクリアになっていく。
(『非常時こそ冷静さを欠いてはならない。己を律し、視野を狭めず、機転を利かせよ』……お父様の言う通りね。考えるのを止めてはいけないわ)
限られた状況でも、何かできる事があるはずだとアイネアは思い直す。恐怖も不安も絶望も今は必死に飲み下し、現状を打破する策を練ることに専念した。
正確なことは何一つわからないが、すぐに殺される訳ではなさそうだ。こんな厳重に縛り上げ、人目から隠すように運ばれているのだから、何かするにしてもアイネアを利用してからに違いない。人質にとって金品を要求するのが誘拐の常套手段だ。
(自力で逃げられないなら助けを待つしかないわ。せめてわたしの居場所を知らせることができたら…)
そこまで考えて、アイネアは自分の耳元で揺れるイヤリングの存在に気付いた。これをどこかに落とせば目印になるかもしれない。見つけてもらえなければそれで終いだが、やらないよりはマシだろう。重要なのはどこに落とすか、だ。残念ながら今は袋に包まっている状態なので落としようがない。
(きっとチャンスは来るわ。その前に何とかしてイヤリングを外さないと)
神経を研ぎ澄ませてみるが、近くに人の気配は感じられない。大方、薬が効いて眠っていると高を括っているのだろう。だったらそう思い込ませていた方が都合がいい。アイネアは音を立てないように細心の注意を払いながら、耳を肩に擦り付けた。何度か繰り返すうちに、イヤリングがころんと外れる。これだけの動作でもどっと嫌な汗をかいた。そのイヤリングを唇で咥えて、訪れるかもしれない好機を待つ。少々はしたないが、非常時なので勘弁してほしい。
陽が傾き始める時刻が迫っていた。暗くなれば捜索はより困難になる。ユニアスは流れる汗を拭うこともせず、一心不乱にアイネアを捜していた。自分の考えは的外れで本当は逆の道だったんじゃないかと、不安に押しつぶされそうになるユニアスだったが、その目の端で何か光るものを捉えた。
馬から降りて、それを拾い上げる。
(……イヤリング?)
銀で誂えたイヤリングは、小ぶりだが上等なものだった。嵌め込まれた上質なサファイアが、彼女の瞳を彷彿とさせる。間違いない、アイネアのものだとユニアスは確信した。イヤリングが落ちていた場所には、空っぽになった馬車の荷台があった。
馬車と運河の二つを上手く使い分けて、ひと気の無い道を通ってきたようだ。
(この先は森があるだけ…森の中を流れる川を使って逃走するつもりか)
農作にも運河にも利用されない川。ひっそりとバラダン領から出て行くのには最適だった。
ユニアスは腰に帯びた剣を差し直すと、森へと続く小道を走り出した。
足音を立てないよう気をつけながら進んでいると、遠くから人の声が聞こえてきた。音の方へ近付くと、何やら揉めている様子だった。
「それはまずいんじゃねぇの」
「俺たちはより多く金を出してくれる側につく。いつもそうだっただろ?」
「でもなあ…」
「金ももらっちまったし…」
「こういう上玉は変態の金持ちに売ったほうが儲かるんだよ。あんな端金しか出せねぇ貧乏人よりな」
「それにしてもこの娘、すんげえ別嬪だよな。ちょっとくらい俺達が楽しんでもいいんじゃね?」
ユニアスはそれ以上、聞いていられなかった。怒りでどうにかなりそうだったが、不思議なことに冷静だった。いや、頭に血が上るあまり、冷徹になれたと言うべきか。
(汚らわしい手でアイネアに触れるなっ!!)
ユニアスから容赦という概念が消えた瞬間だった。
まず一人の背中にナイフを投擲し、混乱すら生ませぬままもう一人を仕留める。本当にあっという間の出来事だった。アイネアの手前、殺しはしない。だが、簡単に立ち上がれないよう、足を斬りつけておくのに余念は無かった。最後に残ったのは、ぐったりとしたアイネアを担いでいる男だった。
「アイネアを離せ」
「おっと動くなよ。妙な動きをしたらお嬢ちゃんの命はないぜ」
「………」
「ったく、これじゃ割に合わねぇ。せめてもの腹いせにてめぇを殺すのも悪かねぇな。不意打ちでもしなきゃ、小僧独りで俺にっ!?」
「アイネア!!」
男は下品な薄ら笑いを浮かべてまだ何か言おうとしていたが、突然抱えていたアイネアが暴れだした。完全に油断していた男は反応に遅れ、縛られたままのアイネアはドサリと地面に落とされた。その隙を逃さず、ユニアスは一瞬で間合いを詰め、男に斬撃をお見舞いした。膝をついた男の鳩尾に、すかさず足をめり込ませて気絶させる。見た目は細身のユニアスだが、武神の生まれ変わりではないかと評される次兄を相手に、鍛錬を積んできたのだ。例え小僧だろうが、傭兵紛いの男に負ける道理は無い。血の滴る剣を持つユニアスは、大して息も乱していなかった。
「ユニアス…?」
彼らしくない苛辣な雰囲気を纏うユニアスに、アイネアはおずおずと声をかけた。
とっくに意識を取り戻していたアイネアは、眠ったふりをしながら助けが来るのを待っていた。そして自分の名前を呼ぶ声を聞いて耳を疑った。だってここにいるはずのない人物のものだったからだ。変声した声がユニアスだとすぐには結びつかなかったが、アイネアのことを敬称をつけずに呼ぶのは父を除けば一人しかいない。彼を殺すという不穏な単語に、アイネアは全力の抵抗を見せた。何とかして男の意識をユニアスから逸らそうと思ったのだ。結果、それは奏功した。
鋭く冷たい目をしていたユニアスは、アイネアに呼ばれた途端にいつもの彼へと戻る。
「アイネア!!怪我はないかい!?」
二年前と雰囲気が違うユニアスを見たアイネアは、再会の喜びと戸惑いの入り混じった表情を浮かべていた。
颯爽と現れ、瞬く間に大人をねじ伏せていったユニアスに目を奪われ、場違いながら胸の高鳴りを覚えてどぎまぎしてしまう。
「え、ええ。少しくらくらするだけよ。あとは何ともないわ」
擦り傷や泥で汚れているものの、大きな怪我は無い。受け身がとれない状態で落とされたのが、土の上だったのも助かった。
「良かった……君にもしものことがあったらって、気が気じゃなかった」
解かれたロープの下、アイネアの白い肌は赤く擦り剥けていた。それを目にしたユニアスは、きつく眉根を寄せる。怪我の具合を確認するように、優しく指の腹を滑らせる彼の手は微かに震えていた。
「ありがとう…ユニアス。助けに来てくれて」
どうして彼がバラダン領にいるのかわからなかったが、必死になってアイネアを捜してくれたこと、悪漢から助け出してくれたこと、こうしてまた会えたこと、とにかく何もかもが嬉しかった。
痛ましい顔をするユニアスに対して、アイネアは労わるような声色でお礼を述べた。
「本当に…ありがとう」
「…いいんだ。それよりはやく手当てをしないと」
「この人達はどうするの?」
「ちゃんと騎士団に引き渡すよ」
ユニアスは胸のポケットから小さな笛を取り出すと、変わった抑揚をつけながらそれを吹いた。
「騎士達はこうやって笛の音色を使い分けて、遠くにいる仲間にメッセージを送るんだ。騎士団が使う本物の笛は、もっと独特の音が出るんだけど、これでも充分伝わるはずだ」
「ユニアス…もしかして騎士団に入ったの?」
「そんなまさか。兄上から聞いただけだよ」
ほどなくして駆けつけた騎士団の中にはバートもおり、アイネアの姿を見つけるやいなや走り寄って謝り倒した。
「申し訳ありません!お嬢様をこの様な目に遭わせてしまい、お詫びのしようもございません!」
「何を言っているの、バート。あなたが誘拐した訳ではないのに。そんな事よりネーヴェルは?パルメナは無事なの?」
「まずご自身の心配をなさってください!」
「わたしは平気よ。ユニアスが助けてくれたもの。それで二人は大丈夫?」
「ああもう…お話は馬車の中でしますから、とりあえず乗ってください。ユニアス様も何と感謝を申し上げて良いか…お疲れでしょう。どうかお嬢様とご一緒に馬車へどうぞ」
馬車に乗り込んだ後、手当てが先だと言うバートと、二人の安否が先だと言うアイネアで意見が真っ二つに割れた。どちらも折れなかったので、手当てをしながら状況説明もするという折衷案が採用される。
「ネーヴェルは無事が確認できました。お嬢様の事を聞いて、夜通し馬を走らせてでもすぐ帰ると大騒ぎだったそうです。先ほど伝書鳩が飛んで来ました。パルメナについてですが、意識が戻ったという報告はまだ届いていません」
パルメナの容態を案じ、アイネアは顔を曇らせた。ユニアスはそんな彼女の肩にそっと手を置いた。
「大丈夫だよ。アイネアがそうだったように、彼女も必ず目を覚ます」
「…そうね。きっとそうだわ。悪い事ばかり考えるのはやめましょう」
ユニアスの手を借りながら屋敷へ戻ると、アイネアの帰りを気を揉んで待っていた使用人達がわっと押し寄せた。
「お嬢!」
「酷いことされなかったすか!?」
「馬鹿野郎!誘拐って時点で、すでに酷えことをされてんだよ!」
「ごもっともっす!」
「クーザ、それにレギオンも。心配してくれてありがとう」
綺麗な髪にもドレスにも泥が付着し、あちこち擦り傷を作っていても、アイネアはいつも通りに微笑んだ。
「パルメナの様子が知りたいのだけれど、お医者様は何か言っていなかった?」
「どんなに遅くても、朝までには意識が戻るだろうって。頭を打った形跡も無いから安心していいってさ」
「良かったわ…」
「ほら、お嬢様もはやく医者に診てもらわないと!あとで食事をお持ちするんで、ゆっくり休んでてください」
「そうするわ。誰か、ユニアスを客室へ案内して。きちんとしたおもてなしもできなくてごめんなさい、ユニアス」
「そんなの気にしないよ。いきなり来たのは僕の方だしね」
客用寝室へ通されたユニアスは、湯浴みを済ませると、眠気に誘われるまま、皺一つないベッドに身を沈めたのだった。
翌朝、捕らえた犯人達が白状したことで、事件の全貌が見えてきた。
ユニアスが斬り伏せた三人の男達は、国内でお尋ね者となっている盗人だった。各地を転々としながら盗みを繰り返していたところに依頼が転がり込んできたらしい。
「あっさり白状したまではよかったのですが、どうやらその依頼主は偽名を使っていたようで…」
ユニアスは朝食を摂るために食堂へ向かう廊下で、バートから昨夜の報告を聞いていた。
「依頼主は『バラダンの娘は良い金蔓になる』と話していたそうです。お嬢様の噂を聞き、その力をもってひと儲けする魂胆だったのでしょうね」
今やアイネアの名はバラダン領の外にも轟いている。彼女が開発に携わった商品はことごとく大ヒットし、その勢いは衰えることを知らない。
「アイネアが聞いたらきっと否定しますね」
「そういう方ですから」
二人の頭には「ここまで来られたのは、その道の専門家がいたからよ。それも、とびっきり優秀な。わたし一人を攫ったって何にもならないわ!」と笑い飛ばすアイネアの姿が浮かぶようだった。
「しかしながら、顔も名前も不明となると…」
バートがそう口を開きかけた時、パルメナの代役としてアイネアに付いていたメイドが、慌てた様子で走って行くのが見えた。呼び止めて事情を説明させると、今朝アイネアを起こしに行ったら、酷い熱があったのだと言う。
「お医者の見立てでは、極度の緊張とストレスから解放されて気が緩んだ為、とのことでした。安静にしていればすぐに良くなるそうです。私は今から解熱薬を煎じに行くところです。申し訳ありませんが急ぎますので失礼致します」
"極度の緊張とストレス"という言葉に、ユニアスは愕然となる。
(僕は馬鹿か…っ!どうして気付かなかったんだ!)
ネーヴェルの誘拐を聞いた直後に自分も拐われ、長いこと拘束されていたのだ。悲鳴を上げればどうなるかわからない、そんな状況の中でたった独り。目覚めてから助けられるまでのあいだ中ずっと、様々な恐怖に耐え続けて、疲弊しきっていたに違いない。いくら貴族としての心づもりをしていようと、まだ子供の域を出ない少女。何ともない訳がないのだ。
それをあのアイネアという少女は、拍子抜けするくらいいつも通りに振舞っていた。いつも通りすぎて、ユニアスですら見過ごしてしまった。平気などでは決してなかった事、アイネアはただ巧みに覆い隠していただけだったという事を…。




