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アイネアの父が治める領地があるのは南の王国である。大陸を横断する大河を国境線にして上半分が"北の王国"、下半分が"南の王国"と呼ばれている。歴史を見ると長きに渡って争い続けた両国であるが、今では少しずつ友好的な関係が築かれ、互いの特産品の輸出入も着々と増えてきた。
バラダン伯爵家が国王から賜った領地は、大きくはないが活気があり気候も穏やかなところだ。南の王国と聞くと、年中夏のイメージを持ちそうなものだが、実際のところは違う。春夏秋冬がはっきり分かれる国であり、バラダン伯爵領は大河に近い為、比較的涼しい環境にある。
爽やかな初夏を感じさせる風が吹く頃、バラダン家の屋敷は、一人娘の誕生日を祝う準備で大忙しだった。
「お嬢様、明日のパーティーでお召しになるドレスをお選びください」
「どれでもいいわ」
「そう仰らずに」
「それなら、おなかいっぱい食べても、苦しくないドレスにするわ」
アイネアの要望に彼女付きの侍女であるエルザは思わず苦笑した。
明日、八歳になるご令嬢は貴族らしくない。勉強もレッスンも真面目に励み、子供ながらに品のある佇まいは一見すると立派な貴族である。しかし、気を許した者の前ではこのように、どこか抜けたような姿を見せるのだ。普通の上流貴族の令嬢なら、お腹の締め付けよりも、ドレスの可愛らしさを優先するだろう。
「どのドレスも、お嬢様の体にぴったり合わせてお作りしていますから、それは難しいかと」
「そう…ざんねんね…」
料理人達が腕によりをかけた食事を、存分に楽しめない無念さがエルザにも伝わってきて、微笑ましい気持ちになった。
アイネアは相手が例え使用人であっても、きちんと礼節を持って接する。だから、自分のために作られた食事を残してしまったら、作ってくれた者達に申し訳ないと思うのだ。そんなお嬢様の心中を察した侍女は、優しく目尻を細めた。
「お腹のリボンは緩く結びますから、お嬢様はお気に入りのドレスをお召しになってください」
そう伝えると、アイネアはありがとうと笑った。
それから大して悩むこともなくドレスを選んだアイネアは、父のいる書斎へと向かった。今日は明日の準備と、もう一つ楽しみがある。かねてより、領地を見て回りたいとお願いしていたのだが、ようやくそれが叶うのだ。視察について来ても良いと、言ってもらえた時のアイネアの喜びっぷりといったら。
(わたしの夢を叶える、きっかけになるかもしれないもの!)
屋敷の外はアイネアの知らないもので溢れている。その中にはきっと、アイネアの夢を現実の形にする手がかりがあるに違いない。そう考えると、書斎の扉をノックする音も軽やかになる。
「お父さま!いつでも出発できますわ!」
期待を全面に滲ませながらやってきた娘を見た父───アンドリュー・バラダン伯爵は胸に込み上げてくるものを感じた。
アイネアの母親であるリィサ・バラダン伯爵夫人は美しく、そして愛情に満ちた人だった。政略結婚ではあったが互いを想い合い、アイネアが産まれた時は二人して温かな涙を流したものだ。ところが、アイネアが一歳を迎える前に夫人は病に倒れ、四年の闘病生活の末、亡くなった。
大切な妻を亡くした痛みは鋭く、辛いものだった。だが、彼女との宝物であるアイネアから笑顔が消えてしまった事は、アンドリューを哀しみの淵から引き戻す契機となった。
アイネアは子供らしい我儘をほとんど言わなかったので、我が子を喜ばせるにはどうしたら良いのか、堅物のきらいがあるアンドリューにはわからなかった。そんなある日「お父さまのお仕事についていきたいです」と言われたら、それはもう叶えてやりたかった。けれどもアイネアはまだ幼い。数日がかりになることもある視察に付き合わせるのは、体力的に酷である。そして大変可愛いアイネアに万が一があってはならないのだ。
母親譲りの整った顔立ちに、空色の緩やかな巻き毛。目元は父親に似て少しばかりキツめだが、最高級のサファイアよりも美しい蒼海色の瞳を持ち、将来、素晴らしい美貌の女性へと成長することは疑いようがなかった。
屋敷の外へ出て不埒な輩に目を付けられたらと思うと心配だったが、輝く笑顔が見られたのだから、アンドリューはこれで良かったと思うことにした。
「アイネア。わかっているとは思うが、遊びに行くのではない。場に応じたふさわしい態度をとれないのであれば、すぐに屋敷に帰らせる。そのつもりでいなさい」
「はい。お父さま」
アンドリューは甘やかす事がイコール愛する事ではないと知っている。胸の内とは裏腹に厳しい姿勢で接するのは、親としての愛情の表れである。今後、再婚する予定のない自分の後を継ぐのはアイネアとその婿だ。領主として民を治める度量を培うためには、まだ子供だからと教育を疎かにしては駄目なのだ。
「お仕事のじゃまはしません。お会いする方々に失礼なこともしないと、約束します」
「いいだろう。ついてきなさい」
「はい!」
今日の視察は屋敷からそう遠くない場所に建てられた孤児院だ。視察というよりは慰問と言うべきか。理由は何であれ初めての外出を心待ちにしていたアイネアは、急ぎ足で父の背中を追いかけた。
バラダン領に一つだけある孤児院は、良く言えば歴史がある建物で、悪く言えば古くてボロボロだった。老朽化が進んでいたため、アンドリューは資金を援助し補強工事を命じていた。その工事が完了したとの報告が上がったので、慰問を兼ねて見に行くことになったのだ。
「ようこそおいでくださいました。領主様のおかげで雨漏りにも隙間風にも悩まされることはなくなりました。本当に感謝しております」
アイネア達を出迎えたのは初老の夫婦だった。夫が院長を、妻がその補佐をしている。二人とも孤児院を切り盛りするのに相応しい、優しい雰囲気があった。
「今日はご息女もご一緒だとか」
「はじめまして。アイネア・バラダンともうします」
淀みない動きでお辞儀をした小さなレディに、院長夫妻は思わず笑顔になる。
「これはこれは。ご丁寧にありがとうございます」
「急な事で申し訳ない」
「とんでもございません。こんな愛らしいご令嬢に来ていただけるなんて光栄ですよ」
「そう言ってもらえて良かった。アイネア、私は院長殿と話をするから待っているように」
「わかりました」
「ではご息女は僭越ながらわたくしが院内をご案内致します」
「夫人、有り難い申し出に感謝する」
「ありがとうございます。よろしくおねがいします」
ぎしぎしと音が鳴る板張りの廊下を歩きながら、アイネアは物珍しそうに辺りを見回した。子供達の寝所は相部屋となっており、一室に四人分のベッドがある。一人部屋で天蓋付きのベッドしか知らないアイネアには、二段に重なったベッドがとても斬新に見えた。
「こちらは食堂です。昼食を終えたばかりなので、皆庭へ遊びに出ています。食事の時間になると、とても騒がしくなるんですよ」
「そうなのですね」
食事は静かに摂るのが貴族のマナーだ。勿論、無言で食べ進めるなんてことはしないが、喋りすぎは忌避される。でも、そうやってワイワイ盛り上がって食べるのも楽しそうだ。
アイネアの送ってきたものとは全く違う暮らしぶりに、驚かされてばかりだった。ふと、廊下の壁に無造作に貼られた絵を見つけて、アイネアは足を止めた。
「先生。こちらの絵はどなたが?」
アイネアの目を惹いたのは、麻の布切れに木炭の破片か何かで描いたと思われる、黒一色の絵だった。屋敷に飾られている絵画のような完成された美しさは無いものの、濃淡だけでよくここまで表現したなと感心する。
「ああ、これはクーザが描いたものですよ。ほら、あそこの木の下に座っている子です」
夫人が指を差した先にいるのは、深緑の髪色を持つ男の子だった。長めの前髪が俯き加減の顔にかかり、表情を窺うことはできない。
「お話ししてもだいじょうぶですか?」
「ええ。構いませんよ。呼んできましょうか」
「いいえ。自分でいきます」
夫人に断りを入れてから、アイネアは男の子の方へと歩いて行った。よほど集中しているのか、男の子はアイネアがかなり近付いても気付かない。木の板に麻布を当てて、手を真っ黒にしながら、黙々と足元の草花を描いている。邪魔になったら悪いなと思いつつも、アイネアは心の中で断りながら、彼の手元を覗いた。
(……一色しかなくても、りっぱな絵は描けるのね。すごいわ…)
そこでアイネアはハッと思い出す。
夢の世界で何度か見た、絵ばかりの書物。あれも確か、こんな風に白と黒を巧みに使っていなかったか。
「そうだわ!!」
「うわっ!?なんだ!?」
ある着想を閃いたアイネアは、思わず手を叩いて声を上げてしまった。無心で絵を描いていた男の子は、びっくりして手に持っていたものを取り落とす。
「あっ…ごめんなさい」
驚かせてしまった事をアイネアは反省し、すぐに謝罪を口にした。男の子は探るような目でアイネアを見つめている。アイネアは彼が落とした描きかけの絵と木炭の欠片を拾い、それらを差し出しながら微笑んだ。
「わたしはアイネア・バラダンといいます。あなたがクーザですか?」
「…そうだけど」
「絵をかくのがお好きなのね」
「まあ…」
男の子───クーザは居心地が悪そうに、視線を逸らしながら絵を受け取った。
「絵の勉強をしたいと思いませんか?」
「そりゃしたいけど…そんな金ねぇし。先生達に迷惑はかけられない」
画家を生業にして生きていけるのは、ほんの一握りの人間だけだ。指導を受けたくても、教えを請うにはお金がいる。画材を揃えるお金すらないのに、誰かに師事してもらうなんて夢のまた夢だった。クーザは絵を描くのが大好きだ。一日中だって描いていられる。だけど、絵筆さえ持っていない自分に何ができるのか。恨み言を言っても仕方がないと何度も言い聞かせてきた。
「じつは、わたしの求める絵を描いてくださる方をさがしていましたの。もしよかったらクーザ、引きうけてもらえませんか?」
「は…?」
俯いていたクーザは一瞬、何を言われたか理解できなかった。
「今すぐにではありませんわ。たくさん学んで、もっともっと上手になったら、描いてもらいたいものがあるんです。きっとクーザなら、すばらしい画家になれるわ!だってすでにこんなに上手だもの!」
手放しに褒められて、クーザは赤くなる。賛辞の言葉は今までにも何度かあったが、クーザの才能を認め、買ってくれたのは初めてのことだった。
「……でも、そんなの…」
「お父さまがなんておっしゃるかわからないけれど…説得してみせますわ!」
鼻息荒く宣言したアイネアは、戸惑ったままのクーザの手を引き、父のもとへと向かった。ちょうど院長との話し合いが終わったところのようで、二人が部屋から出てくる。アイネアは佇まいを正して父と向き合った。「お話ししたいことが」と前置きをしてから、ゆっくりと口を開く。
「お父さま。お願いがあります。ここにいるクーザを、わたし付きの画家にしたいのです。彼に絵の勉強をさせてあげてください」
「なんだと?」
アンドリューは眉を顰めた。元々、やや厳つい顔立ちなだけに怖さが増す。クーザは出かかった悲鳴を何とか堪えた。それでもアイネアは父をじっと見上げたまま、怯まずに嘆願を続ける。
「クーザの絵を見てください。とても上手なんです。画家の先生から習えば上達もはやいはずですわ。わたし、もう二度とドレスも宝石もほしいと言いません。お父さまの言いつけはすべて守ります。だからどうか、お願いします」
「………」
言葉を選びながら一生懸命に訴えるアイネアを見下ろして、アンドリューは小さく息を吐いた。確かに、年齢のわりには上手い方だろう。だがそれが、ここまで肩入れする理由にはならない。娘が何を考えているのか、理解に苦しむ。とはいえ、アイネアがこんなに必死に強請るのは初めてだ。どうしたものかと逡巡するが、結局のところ娘の真っ直ぐな眼差しには勝てなかった。
「…それならば私ではなく、まずは院長殿に話をすべきではないのかね」
「もうしわけありません…」
「娘が我儘を言って申し訳ない」
「いっ、いいえ!そんな!」
頭を下げた父を見て、アイネアは恥をかかせてしまったと落ち込んだ。
「…ここの子供達は十二歳になったら働きに出るのだったな?」
「はい。その通りでございます」
「こちらの少年はいくつだ?」
「来年の春で十二になります。少し早いですが、働き口が見つかるに越したことはありません」
父と院長の間で交わされる会話を聞いているうちに、アイネアの表情は徐々に明るくなっていく。
「クーザと言ったか」
「はっ、はい」
今度はクーザに視線が向けられる。伯爵の雰囲気に呑まれかけながら、クーザは生唾を飲み込んだ。
「娘は君を専属画家にしたいと言っているが、君の意思を聞こうか」
「俺は……」
クーザは先程から困惑しっぱなしだ。
いきなり貴族の女の子が現れたと思ったら、自分の画家にならないかと誘われて…一度に色々な事が起きすぎて何が何だかよくわからない。
(わからない、けど…)
諦めるしかないと思っていた画家への道が開かれた、それだけはわかっていた。今を逃せばもう一生巡ってこないであろう好機を、手放したくはない。炭で黒くなった手をぐっと握りしめた。
「俺、必死に勉強します!期待に応える画家になります!だから俺に絵を描かせてください!」
声を張り上げ、クーザは勢いよく頭を下げた。少しの間の後、アンドリューは「…許可しよう」と告げた。了承の言葉を聞き、真っ先に感謝の意を示したのはアイネアだった。
「ありがとうございます!お父さま、院長先生」
「いえいえ。お礼を言わねばならないのは我々の方ですよ」
仕事を見つけるのが難しいご時世で、働いてほしいと言われるのは大変有り難い話だ。ましてやその職場が伯爵家ともなれば、院長も安心して送り出せるというもの。
アイネアはクーザへ向き直ると、小さな両手で彼の手を包み込み、笑顔をいっそう輝かせた。
「クーザ!引きうけてくれてありがとう!」
お礼を言うのはこちらの方だと思うものの、胸が詰まってしまったクーザは、口元をもごもごさせることしかできない。
「では五日後に迎えを寄越す。準備しておくように」
バラダン親娘が帰った後も、しばらくクーザは放心したままだった。