19
アイネアは十二回目の初夏を迎えていた。
それと同時に今年は、王都で四年に一度の定例会義が開かれる年だった。各地を治める領主が召集され、余程の理由が無い限り欠席は許されない。当然ながらアンドリューにも召集がかかっている。
「しばらくの間、留守を頼むぞ。何かあればバートに言いなさい」
「はい。どうかお気をつけていってらっしゃいませ、お父様」
丸みを帯びた輪郭が、徐々に大人のそれへと変化していく途上にあるアイネアは、予想を裏切らない美少女に成長していた。軽いお辞儀一つにも気品が溢れている。ふわりと揺れる空色の髪には、相も変わらず真珠の髪留めが光っていた。
父を見送ったアイネアは、パルメナへと向き直り今日の予定を尋ねた。
【午前中にダンスのレッスンが入っています。午後からは歴史家の先生がお見えになります。あと、クーザさんからお話があるとのことです】
「そう。忘れていたらまた教えてちょうだいね」
【かしこまりました】
アイネアはパルメナの手話を完璧に理解できるようになっていた。それこそ、自身も手話で流暢に会話できるレベルだ。晴れてアイネア付きの侍女となったパルメナは、エルザのように主人の予定を正確に把握し、生活上の世話も事欠かない有能な侍女へと着実に近付いている。
「ネーヴェルに続いてお父様も王都へ行ってしまったから寂しいわね」
【そうですね。先輩がいないと静かです】
バラダン領で開催されるコンクールで、ことごとく優勝を掻っ攫っていったネーヴェルは、ついに著名な音楽家の目に留まり、王都の一番大きな劇場で行われる伝統あるコンクールへの出場を推薦されたのだ。久しぶりに緊張のあまりあたふたするネーヴェルを、アイネアがいつかのように励まして送り出したのが数日前。
「わたしも聴きに行きたかったわ」
アンドリューの召集が無ければ、アイネアもガーデンパーティー以来となる王都へ行っていたに違いない。
「残念だけれど、愚痴を言っている場合ではないわね。レッスンまでまだ時間があるから、クーザのところへ行くわ」
【承知しました。時間になってもお戻りにならなかった時は、呼びに参ります】
「ありがとう。パルメナがいてくれるおかげで、心置きなく話してこられるわ!」
子供っぽさが抜けてきたとは言え、アイネアはアイネアのままだった。
少し寂しくなった屋敷で、いつも通りの日常が始まる、と皆が思っていた。
あの事件が起きるまでは───
アンドリューがバラダン領を発ってから、はや四日。爽やかな風が吹き抜ける屋敷で、アイネアはどこか物憂げな表情で硝子のチェスをいじっていた。
(去年も一昨年も、ユニアスに会っていないわ…)
手紙のやり取りは途絶えることなく続いていたが、やはり直接顔を合わせて話がしたいと思う。
レギオンはどんどん新しい品を開発しており、最近では自分で創作料理を作り始めた。クーザに頼んだ漫画製作も、まだ完成には至っていないがすこぶる順調である。夢の世界の品々が次々に再現されて、アイネアも嬉しい限りだった。
しかし最近、何となく物足りないというか、上手く表現できない感情に悩まされていた。
これほど恵まれていながら、まだ足りないとは、自分はなんて欲が深いのだと嫌気が差しそうだった。いったい原因は何なのかと考え、ふと思い至ったのがユニアスだった。毎年、お互いの誕生日には会いに行って、たくさんお喋りをしていたのに、この二年というもの、それが無かったのだ。お喋りといっても、話しているのはほとんどアイネアで、ユニアスは相槌を打っているのが常だったのだが、熱心に耳を傾けてくれる彼の優しさが嬉しかったのを覚えている。
(また前のように、話を聞いてくれるかしら?)
話したい事は山のようにあるのに、それを話す相手がいないというのは、ひどく寂しかった。
アイネアはユニアスが自分の婚約者になるのではないかと、薄々勘付いていた。流石にこの歳になれば、そういう話が嫌でも耳に入ってくるものだ。アンドリューからは何も聞かされていないが、茶会に参加するよう煩く言われることもなく、婚約者を探す素振りすら見せないことから、何となく察せられた。ユニアス以外に親しい異性を作らせないのは、つまりそういう事なのだと。
(それならそうと言ってくださってもいいのに…)
貴族としての役割を幼い頃から叩き込まれてきたアイネアは、父の決めた相手と結婚する事に大して疑問も反発も抱いていなかった。父を信頼しているし、気心の知れたユニアスが相手なら、なおさら文句の付けようがない。
もし正式な婚約者となっていたら、それを理由に会いに行けたのに、とアイネアは残念がった。特に理由もなく一人で屋敷を訪ねるなんて、とりわけ女性が男性に対してできるはずがなかった。それが単なる友人だとしてもだ。もう無知な子供ではないのだから、そのあたりの分別はつけなくてはいけない。
(次に会えるとしたら、年が明けてからね)
今はまだ夏が始まったばかり。先は長い。
らしくない溜息を吐いたアイネアに、バートから一大事の一報がもたらされた。
「お嬢様!たった今、帰還途中のネーヴェルが何者かに拐われたとの知らせが入りました!」
「何ですって!?」
穏やかな昼のひと時は、一転して張り詰めた緊張感に包まれる。
青褪めたアイネアはバートに詰め寄った。
「どういうこと!?どうしてネーヴェルが…っ!護衛はつけていたはずでしょう!?」
「詳細は不明です。私は今から騎士団へ掛け合ってきます。落ち着かないでしょうが、お嬢様はここに残っていてください」
「っ……わかったわ。頼むわね、バート」
アイネアにできる事は何も無い。それがわかっていたからこそ無念だった。
(無力でごめんなさいネーヴェル。どうか無事でいて…!)
その時、アイネアは自分の後ろで同じように顔色を悪くしているパルメナに気付いた。
(だめよ…わたしが不安な顔をしていたら…)
アイネアの脳裏に生前の母の姿が浮かんだ。彼女のようにならなくては、と頭の中で誰かが囁く。一度目を閉じて、ゆっくりと息を吸い、そうして目を開ければ、アイネアの顔は毅然としたものに変わっていた。
「バートと騎士団の方々を信じて待ちましょう。バラダン領の騎士は優秀よ。きっと大丈夫だわ」
本当はネーヴェルが心配で仕方がないが、アイネアはその気持ちを胸の奥へと押し込めて、騒然としている屋敷の人間達を落ち着かせていった。
一時間、二時間と時間が過ぎてもバートは戻らず、何の報告も入ってこなかった。焦りばかりが募るが、アイネアはそれを顔に出すことはしなかった。
だからパルメナが、一つの光明を伝えに来た時、アイネアが安堵の表情を浮かべたのは当然と言えた。
【お嬢様!先輩らしき女性を見かけたという方がいらしています!】
「本当!?すぐに行くわ!」
転がるように階段を下り、アイネアは玄関へと急ぐ。そこには質素な身なりをした男が二人、所在無さげに立っていた。こんな状態でなければ、アイネアは男達の隠し切れずにいる、ぎらついた瞳の危険さに気付けただろう。
「あ…は、初めてまして。俺達は、」
「挨拶は後で構いません。それよりネーヴェルを見かけたというのは……っ!?」
アイネアの言葉は不自然なところで途絶えた。何故なら男達がその場にいたアイネアとパルメナに襲い掛かってきたからだ。
口元に布を当てられた途端、くらりと意識が遠のく。朦朧とするなかで見えたのは、床に倒れていくパルメナだった。男達の下卑た笑い声を最後に、アイネアは意識を手放した。
アイネアが屋敷からいなくなったという情報がバートの耳に入ったのは、誘拐からだいぶ時間が過ぎた後だった。気絶させられていた門衛が、伏しているパルメナを発見した時、もうどこにもアイネアの姿は無かったという。そのパルメナは、どれだけ強力な薬を嗅がされたのか、一向に目を覚まさないらしい。バートは爪が食い込むほどに拳を握り締めた。
(恐らくネーヴェルが誘拐されたという情報は騎士団を撹乱する囮にすぎない。奴らの目的は最初からお嬢様だったんだ!くそっ!こんな手口に引っかかるとは!)
屋敷の護衛の大半を引き連れて出てきてしまったのも失策だった。手薄になったせいで易々と侵入を許し、アイネアは拐われてしまった。
「他の領に通じる検問所を全て封鎖しろ!絶対に逃がすな!必ずアイネアお嬢様を取り返せ!」
バートの怒号が耳朶を打つ。残っていた騎士達は短い敬礼の後、馬に飛び乗った。
領内を早馬が駆け抜け、検問所は封鎖されたが、犯人を捕縛するには至らない。
(まだこの領内にいる…?だがいったいどこに…)
刻一刻と時間だけが過ぎていく状況に、普段は飄々としているバートも苛立ちを隠せなかった。そんな時だった。背後から声がかかったのは。
「あなたは確か…バートさん?お一人で外にいるのは珍しいですね」
記憶している声よりも低くなっているが、その丁寧な物腰は以前と同じ。しかし、馬に跨ってこちらを見下ろしている少年があのユニアスだと、バートはすぐに信じられなかった。背が伸び、 男らしい体つきになっただけでなく、あんなに散っていたそばかすが無い。よくよく注意して見れば鼻の上に薄っすらと残っているのだが、遠目からではわからなかった。深みのある金髪はさっぱりと整えられており、高潔さを感じさせる。紫紺の瞳とのコントラストが綺麗だった。余分な肉がなくなって、そばかすが消えたユニアスは、非常に端正な顔立ちをしていた。それこそバートが別人ではないかと疑うくらいに。さすがのお嬢様もびっくりするのではないかと考えたところでハッとなる。
「お嬢様が誘拐されたのです!屋敷に侵入したのは男二人。しかしまだ仲間がいるようです。検問所は封鎖し捜索に当たっていますが、未だ何の手掛かりも…」
説明を聞いていたユニアスの顔が、みるみるうちに色を失くしていく。
(アイネアが…拐われた……?)
バートの説明を理解した、その刹那。ユニアスの胸の中で激情が弾けた。
「しかし何故ユニアス様がバラダン領に…」
バートの質問を聞き終える前に、ユニアスは馬の腹を蹴り上げていた。そしてどの兵士よりも速いスピードで疾走し、あっという間にバートの視界から消えたのであった。