18
長雨が終わり、初夏に差し掛かろうという時にアイネアは体調を崩した。ごく普通の風邪であったが、咳と微熱がしつこく、お誕生日パーティーをやっている場合ではなくなった。報せを受けたユニアスは見舞いに飛んで行こうとしたが、感染るといけないからとアイネアが頑として首を縦に振らなかったのだ。
そして年が明けて見れば、今度は互いの身内に不幸があったりと呑気にパーティーを開く暇がなく、そうこうしているうちに二年が経ってしまうのだが、ユニアスに会えない間も、アイネアは怒涛の日々を送っていた。
「…ついに、ここまで来たわね」
「長かったっす…」
全快したアイネアはレギオンと共に、一枚の皿を見下ろしていた。正確には皿の上に乗った『苺大福』を、である。アイネアのお抱え料理人となった当初から作り始め、失敗作から予定外のお菓子が出来上がったり、煮詰まって別のお菓子作りに走ったり、紆余曲折を経てようやく完成にたどり着いた。
「いざ!」
「尋常に試食っす!!」
コーンスターチをまぶした苺大福をつまみ、記念すべき一口目を齧る。
大福の皮はレギオンの苦心の傑作だった。普通の米ともち米を丹念にひいて粉にし、丁度良い歯ごたえになる、最適な配合分量を調べるのに何ヶ月もの時間を割いた。不慣れな食材を、アイネアの記憶通りの食感に仕上げられたのは、レギオンの並々ならぬ熱意と根気、そして常人離れした味覚があってこそだった。底抜けの不器用でも、諦めずにとことん追求すれば道は拓けるのだ。
もちもちの皮に包まれた餡子は優しい甘みを持ち、摘みたて苺の甘酸っぱさとの相乗効果を生み出していた。じゅわっとほとばしる果汁の爽やかさ、滑らかで舌触りの良い餡子、それらを覆う真っ白で弾力のある皮という絶妙な三重奏が、口の中いっぱいに広がる。
美味しいとか、そんなレベルの話ではない。これはまさに至福だった。
「………」
「…………」
アイネアとレギオンは、目をまん丸にしたまま無言で見つめあった。その状態のまま暫し固まり、そして…
「〜っ!!」
「!?!?!?」
声にならない歓喜の叫びを上げたのだった。
(感激だわ!!ずっと食べたくて仕方がなかった、夢の世界のお菓子が…本当に…っ!ああっ!なんて美味しいの!)
アイネアは恍惚とした笑顔になって苺大福を頬張った。それを隣で見ていたレギオンの瞳から、ぽろっと涙がこぼれる。幸いにもアイネアは苺大福に夢中で、レギオンの涙には気が付かなかった。
(やっと満足できる品を出せた…)
料理人の道が閉ざされる寸前だったところを、アイネアに拾われ、彼女が望む一つのお菓子を極めようと我武者羅に突き進んできた。今までの努力がついに実を結び、最高の笑顔を目にすることができたのだ。レギオンは感無量な気持ちで胸が熱くなる。
「美味しくて五個でも十個でも食べられそうだわ!レギオン、何てお礼を言ったらいいのかしら」
「お礼なんてとんでもない!オレはお嬢様のお抱え料理人ですから、美味いもんを作るのが仕事っすよ!」
第二厨房からは、幸せそうな笑い声がいつまでも聞こえていた。
苺大福を食べたアンドリューや他の使用人達からも絶賛の言葉が返ってきた。そして今まで作ってきた品々も含めて、売り出す事となった。使用人を集めて試食会を行い、手始めに人気の高かった五品を商品化し、その後徐々に品数を増やしていく手筈だ。
「アイネア。今回からはお前の名前で販売するのだ」
ブランド権は最初の白黒ゲームからアイネアの名前で取得しているのだが、実際に売り出す際にはバラダンの家名を使っていた。その方が売れると考えたからだ。しかしアンドリューはこれを機に、本人の名前を用いることを決めた。
「わたしの?」
「そうだ。それに伴い印形を作らねばならんな。バート、手配しろ」
「かしこまりました」
「アイネアはクーザに依頼し、印形のデザインを考えてもらいなさい」
これからはバラダン家の家紋ではなく、アイネアのブランド権を表す新たな印が必要となる。
「わかりました。クーザにお願いしておきます。それとお父さま、四色カードと同じように、下準備をしておいた方が良いかと思うのですが、いかがでしょう」
レギオンが作ったお菓子は、どれも馴染みのない食材や味付けを用いている。そういったものは、口に入れるのに抵抗を感じるのが普通だ。常々夢の中で見ているアイネアが特殊なだけである。
「ふむ。具体的な案があるのか?」
「はい!『餅つき大会』ですわ!」
大きな木臼と棒を使って、参加者達に餅をついてもらい、そのまま試食もしてもらう。炊いたもち米が変化していく様子は見ていて面白いし、自分達の手でついた餅なら安心して食べられるに違いない。無論、餅つき大会と銘打つだけでは集客できないので、人気を博している白黒ゲームの最強決定戦を開催する傍ら、トーナメントに参加しない人達向けに敢行する計画である。これはクーザ達と意見を出し合って考えたものだった。
「貼り紙製作はクーザが、ネーヴェルは宣伝してくれると請け負ってくれました。ただ予算の計算がわからなくて…」
領ぐるみの催し物は、アイネアにとって初の試みだ。予算の組み立て方を知らないのも無理はない。
「…成程。やってみる価値はあるな。輸入は工芸品が主だった故、上手くいけば食料品の輸入増加も見込める。予算の算定は、まだお前にははやい。が、私がやっているのを見ていなさい」
「はい。お父さま」
独り善がりになる事なく、謙遜に下の者達の協力を請うアイネアの姿勢は好ましかった。だからといって他人に任せっきりにするのではなく、己の力で出来ることをやろうとする積極性も持ち合わせている。娘の成長ぶりがアンドリューは心底嬉しかった。
第一回白黒ゲーム王者決定戦は、予想を超える盛り上がりを見せた。年齢別と無差別の二種類のトーナメントが用意され、子供からお年寄りまで白熱の対戦が繰り広げられた。
会場となった広場の片隅で、アイネア達は予定通り餅つき大会を開いていた。
「こちらは隣国の主食であるお米の中でも、粘り気の強いものです。このまま食べるのも良いですが、今日は『お餅』にしたいと思いまーす!」
ネーヴェルのよく通る声は遠くまで届き、すぐに人集りができる。
「あっ!アイネアさまだ!」
「こんにちはー!」
孤児院の子供達もこの催しにやって来ており、アイネアの姿を見つけるや否や、元気よく手を振って駆け寄ってきた。アイネアも笑顔で手を振り返す。
「よかったらお手伝いしてくれる?」
「うん!」
「いいよー!」
「ぼくもやる!」
子供達の手を借り、餅つきのデモンストレーションを行う。レギオンとパルメナが補助しながら、子供達は餅をつく。
見慣れない道具や作り方は人々の興味を引くことに成功し、ネーヴェルが「やってみたい方はいませんかー!」と一声かければ好奇心をくすぐられた者が続々と手を挙げた。
つきあがった餅は準備してあったきな粉、餡子、黒蜜、あとはチーズやケチャップ等のトッピングを各々自由に盛り付けて食べる。
食べやすいように小さく切られたつきたての餅は、瞬く間に人気を呼んだ。歓声に釣られて次から次へと民達が押し寄せてくる。クーザが描いたレシピを見ながら、家でも作ってみようかしら、という声もちらほらと聞こえてきた。
人々の顔が驚きから笑顔へ変化していく光景を、アイネアは飽きることなく嬉しそうに眺めていたのだった。
白黒ゲームの優勝者達には賞金と、もう一つ特典があった。
「優勝おめでとうございます。皆さまには、来月から販売を予定しているお菓子を、一足先に召し上がっていただきますわ」
表彰式の舞台で、優勝者達には新商品の試食権が与えられた。アイネア自ら手渡してくれたお菓子を、恐縮しながら食べた彼らは「美味い」としか言葉が出てこなかった。酷使した頭に甘いお菓子は優しく染み渡り、あまりに美味しそうに食べるものだから、見ていた観客の中には涎を垂らす者もいたという。
かくして、市場に出たアイネア印のお菓子は飛ぶように売れていき、アイネアと彼女のお抱え料理人は一躍時の人となった。
これは余談だが、クーザに作らせた印形は胡瓜草がモチーフとなっている。この焼印が施された菓子はアイネアブランドの証となるのだ。
苺大福が完成したからといって、アイネアの夢の追求が終わる訳でも、レギオンの創作意欲が尽きる訳でもなかった。新たなお菓子開発は続行され、それと同時にアイネアは、もう一つの予てからの夢を叶えるために動き出した。
「クーザ、ちょっといいかしら?」
「どうした?お嬢。また新しい図案か?」
「いいえ、違うわ。実はクーザにずっとお願いしたい事があったの。大仕事になると思うけれど、今日からその仕事にとりかかってほしいのよ」
「お嬢の頼みなら何でもやる。で、何を描けばいいんだ?」
「それはずばり『漫画』よ!」
アイネアは『漫画』とは何かを、以前購入した北の王国の書物を見せながら説明する。
「物語をすべて絵で表現するのよ。硬い表紙だと読みにくいから、こういう柔らかい素材を使って、大きさはこれの三分の二ってところかしら。中の絵はすべて白黒よ。色を塗っていたら時間がいくらあっても足りないわ」
この国で書物と言えば、活字がぎっしり詰まった厚表紙本である。物語ならば挿絵が数頁入る場合もあるが、大抵は文字のみだ。豪華な表紙の本は庶民にとっては高級品であるし、それ以前に書かれている内容が理解できないだろう。バラダン領は識字率が割り合い高い方だが、あくまでそれは簡単な読み書き程度。難しい文章を読み解けるほどの教育を受ける時間も、必要性も無いからだ。事実、領民達は文字が習えるだけで満足している。
「難しくて読めないというだけで、知られずに終わってしまう名作があるなんて、もったいないもの!」
「だから絵を使って表現するのか…」
「ええ。もっと簡単な言葉に置き換えたり、文字を減らしたりして、子ども達でも読めるようにしたいの。文章はわたしが考えるわ」
「俺がそれに絵をつければいいんだな?」
前代未聞の試みだった。しかしクーザに否の答えは無い。
(黒一色の絵…俺の原点じゃねぇか)
ボロ布を板切れに当てて、炭の破片で絵を描いていた当時が思い起こされる。その絵がきっかけで、今クーザはここにいる。そしてまた始まりへと戻ってきた。そう考えると何だか不思議な気持ちに包まれた。
「いろいろ描いてみるから、お嬢もどんどん意見を言ってくれ」
「わかったわ。ありがとう、クーザ。あなたの絵が本になる日が今から待ち遠しいわ。でも焦らなくていいから。もっとあなたの好きな絵も描いていいのよ?」
「ああ。それに関しては何の心配もいらねぇぜ」
クーザの描きたいものを描くには、まだ力不足だ。例え師匠に良しと言われても、こればっかりは自分が納得できるものでなくては我慢ならなかった。
「そうなの?どんな絵?」
「まだ秘密」
俺が描きたいのはお嬢だ、なんて言ったらどんな顔をするのだろうかと、クーザは少しだけ気になった。
いつの日か、屋敷に飾られている肖像画を超える一枚を描き上げるのが、クーザの密かな夢だった。