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それは、アイネアが順調に手話を習得していく最中のことだった。随分と取り乱した様子のネーヴェルが、アイネアの私室に転がり込んで来た。
「ネーヴェル!?どうしたの?」
「お嬢様っ!私には…私には無理ですぅぅぅ…!」
パルメナの頼れる教育係として振舞っているネーヴェルからは、想像もできないほどに混乱している。アイネアも戸惑ったが、一つずつ問い質していくと、こういう事だった。
「…つまり、先生からのすすめでコンクールに出ることになったのね?」
前々から出場を勧められていたのだが、ネーヴェルは首を横に振り続けていた。アイネアは気にしないと言ってくれたが、ネーヴェルとしては将来必ず、何らかの賞を取って恩に報いる気概でいる。だからいつかはコンクールに出場するつもりだった。あくまでも"いつか"であり、決してこんな早すぎる将来だとは考えもしなかった。
ところが業を煮やした先生が、勝手に申し込みを済ませ、勝手に参加費を払ってしまったのだ。もう後戻りできない状況に、ネーヴェルは真っ青になった。
「先生が大丈夫だと言ってくださったのでしょう?もっと自信を持っていいと思うわ」
「まだレッスンを始めて半年と少しですよ!?何も大丈夫じゃありませんよ!」
涙目になっているネーヴェルが可哀想だったので、アイネアはコンクールの辞退金(=キャンセル料)を渡そうかと提案した。そこで少しだけ落ち着いてきたネーヴェルは、項垂れながら断りの言葉を述べた。
「…いいえ。これ以上、私にお金を使っていただくわけにはいきません。その代わり、当日はお嬢様も来てくださいませんか?お嬢様がいてくださったら、頑張れそうな気がするんです」
「もちろんよ。ネーヴェルの歌声を劇場で聴けるなんて、とっても楽しみだわ」
「うぅっ…緊張で意識が…」
「そんなに重たく考えないでいいのよ!ネーヴェルー!!」
一体全体どうなってしまうのか。練習風景を見るたび、一切の余裕が無い顔で歌うネーヴェルがいて、アイネアの心配は加速した。大勢の人前で歌うのは誰だって緊張する。でもネーヴェルはそれだけでなく、余計な重圧まで感じているようだった。順位がつくコンクールにおいて、優勝を目指す闘志はあるべきなのだろうが、やはりアイネアはそれがさして重要だとは思えなかった。勝ちに固執しながら歌って、本当に心から美しい声が出るのだろうかと、そう考えてしまうのだ。
(きれいなドレスを着て、楽しんで歌ってくれれば、それで充分なのに…)
アイネアの願いも虚しく、ネーヴェルは血色を失った顔のまま、コンクール当日を迎えた。比較的規模が小さく、アマチュアの参加者が多いコンクールだったが、そんなものはネーヴェルの緊張に関係無い。少しでも緊張に慣れる練習になればと、アイネアが使用人達に声をかけて、屋敷でプチコンサートを開催してくれたが、慣れた場所で歌うのとでは大違いだ。劇場の雰囲気だけでも圧倒されてしまう。これのどこか小さいんだと、意味不明な怒りが湧きそうだった。
「伴奏者として同じ舞台に立てたら、少しはネーヴェルの力になれたかもしれないのに悔しいわ」
ネーヴェルの懇願を快諾したアイネアは、舞台裏までついてきてくれた。部外者は立ち入り禁止の場所に入れたのも、バラダン家の令嬢だからに他ならない。「職権濫用というものかしら…?」と真剣に悩む様子が微笑ましい。
「…ありがとうございます。お嬢様」
少しだけ緊張がほぐれたかと思ったが、いざネーヴェルの番が迫ってくると、ガタガタと震えが止まらなくなった。
(どうしようどうしようどうしよう…っ、いや大丈夫っ、大丈夫!先生も今回は慣れる練習だと思ってやりなさいって言ってたじゃない!)
必死に暗示をかけようとするが、握り合わせた指先から熱が引いていくのがわかる。練習してきた事も頭から吹っ飛んでしまった。
「ネーヴェル」
「…っ!」
優しい声に囁かれて、ネーヴェルはハッと我に返った。
「あなたの心がこもった歌なら、どんな歌にだってわたしが必ず盛大な拍手を贈るから。ネーヴェルのファン1号として約束するわ」
返答しようとした直後、ネーヴェルの番号が司会者に呼ばれる。そっと背中を押されたネーヴェルは舞台袖から足を踏み出した。
(…私がすべきなのは、今できる最高の歌をお嬢様に届けることよ。無様な歌声なんか絶対に聴かせられない!)
ネーヴェルは思い出したのだ。自分の歌を誰に捧げると誓ったのか。その他大勢の聴衆ではない。自身も気付いていなかった歌の才能を見出し、楽しさと奥深さを教えてくれた恩人に、だ。こんな稚拙な歌でも大好きだと言ってくれるお嬢様が聴いている、そう再認識するとネーヴェルの震えは止まった。
アイネアの誕生日を祝うために歌った時と同じように、精一杯の気持ちを声に乗せる。どうかお嬢様に届きますようにと、強い願いを込めて歌う。
澄み渡るような声が小さな劇場に反響する。
高音の伸びといったら、以前とは比べ物にならない。あれからさらに清浄さを増した歌声と、心の底から音楽を楽しんでいる表情に、聴衆は釘付けとなった。
歌が終わった余韻に浸って会場中の人間が放心しているなか、一人の拍手の音が響く。それが誰かなんて言うまでもない。そして続くように割れんばかりの喝采が沸き起こった。
優勝は来場者の投票によって決まるが、圧倒的多数でネーヴェルがその座を手にしたのだった。
偶然居合わせていた有名な楽団の指揮者が、トロフィーを持ったネーヴェルのところへやって来て、是非我が楽団へと引き抜きの話を持ちかけたのだが、彼女は頷かなかった。
「大変光栄なお話ですが、私はバラダン家のメイドですので」
有名な楽団だろうが何だろうが、ネーヴェルにはバラダン家のメイド以上に光栄なことはないのだ。笑顔で断られた指揮者は、唖然とするしかなかった。
「もう本当にすてきだったのよ!ネーヴェルの歌声が絶賛されてうれしくてうれしくて!」
「そうなんだ。僕も聴いてみたかったな」
季節は巡って真冬。ユニアスの誕生日を祝う為に、アイネアは今年もシャレゼル領を訪れていた。ユニアスもすっかり標準体型となり、子豚のようだった二年前の面影はもう無い。適切な栄養管理は思わぬところにまで功を奏した。くすんでぱさついていた髪が、深みを帯びたブロンドへと変わったのだ。
「いつかわたしが伴奏者をやるって約束したのよ。どうせならユニアスみたいに上手に弾きたいわ。また今度練習をみてくださる?」
「もちろん。何なら今から弾こうか?」
「あら、だめよ。ユニアスのお誕生日なのに、わたしが贈り物をもらったらおかしいじゃない」
「僕は全然構わないんだけどな…」
むしろアイネアが望むなら、年中いつだって何でも贈りたいと思っているくらいだ。アイネアの髪に留められている、真珠の髪飾りを見て、ユニアスは目を細めた。アイネアが喜んでくれれば、それだけユニアスも嬉しくなる。
この頃になると、ユニアスは自身の恋心をはっきりと自覚していた。彼の目には初めからアイネアしか映っていないのだから、必然の帰結である。
(あと四年か…)
婚約者候補というどっちつかずの立場は、ユニアスが十五歳になった時、はっきりしたものに変わる。ユニアスが拒絶する事は天地がひっくり返ってもあり得ないので、あとはアイネアが何と返事をするかにかかっている。
(嫌われてはいないんだろうけど…)
良い友人関係は築けているに違いないが、婚約者として受け入れてもらえるかどうかは別問題である。ユニアスは、アイネアの笑顔を傍で見守ることを切望してやまなかった。
「ユニアス?」
「…何でもないよ。それより、手話を覚えたんだってね。僕にも少し教えてくれないかい?」
「いいわよ。でもまだまだなの。ちゃんと教えられるかわからないわ。パルメナも連れて来られたら良かったのだけど…また今度きちんと紹介するわ!」
寒い冬が去り、春がやって来たらすぐにアイネアの誕生日だ。その時にまた会えると互いに思っていたのだが、この後、まさか二年近くも顔を合わせることが叶わなくなるなんて、誰が予想できただろうか。