15
「楽しい時間ってほんの一瞬に感じるわね」
「そういうものですよ」
誕生日パーティーが終われば、当然ながらユニアスもシャレゼル領の屋敷へ帰ってしまった。いつもよりちょっとだけ夜更かしして、たくさんお喋りしながら遊んだ。あんまり楽しかったものだから、それらがなくなってしまうと、寂しさもひとしおだった。花瓶に挿した花を眺めながら、アイネアは頬杖をついてため息を吐く。
(こんなこと、初めてだわ…)
祖母や従姉妹が帰ってしまうのだって寂しかった。別れるのが惜しいと思うのは毎年のことだったが、今回はその度合いが全然違う。初めての感情に戸惑うものの、アイネアは頭を振って気持ちを切り替えることにした。
(…くよくよするのはやめましょう。それよりも今日はネーヴェルとの約束の日よ!)
誕生日当日は、使用人達が忙しく走り回って仕事をしているのを知っている。だからアイネアは、仕事がひと段落して落ち着く日を待っていたのだ。
「エルザ、ネーヴェルを呼んでくれる?」
「かしこまりました」
エルザと入れ替わる形で、ネーヴェルがアイネアの私室へやって来た。ネーヴェルは今日早上がりで、午後から半休だそうだ。
「疲れているのにごめんなさいね」
「とんでもない!お約束しましたし、素人の歌なんかを楽しみにしてくださってありがとうございます。お誕生日からだいぶ経ってしまいましたが、精一杯心を込めて歌わせていただきます!」
「ネーヴェルの歌をひとりじめできるなんて、ものすごい贅沢ね!楽しみだわ!」
拙い歌声を披露するのは恥ずかしいが、歌う前からこんなにも絶賛してくれるお嬢様のために、とネーヴェルは奮起した。数回だったがアイネアの厚意により師事を受けられたのだ。あの時の感謝の気持ちを伝えたいと願いながら、ネーヴェルは一音一音に感情を乗せて歌った。曲は誰もが知っている賛美歌だ。
耳にする機会の多い賛美歌だが、ネーヴェルが歌うと神々しさが増すようだった。呼吸や発声の仕方は素人の付け焼き刃なのに、彼女の歌には聴く者を惹き込む何かがある。
「なんて…なんてすばらしいの!!」
歌い終えたネーヴェルに、アイネアは惜しみない賞賛と拍手を送る。
「そんな、言い過ぎですよ〜えへへ…」
手放しで褒められたネーヴェルは、満更でもなさそうな様子だ。アイネアがアンコールを求めようとしたその時。短い「入るぞ」という言葉と共に、アンドリューが扉を開けた。突然の来訪者に、アイネアもネーヴェルも目を見開いて固まる。
「今しがた歌っていたのは…」
「は、はいっ!私でございます!お騒がせして大変申し訳ありません!」
「わたしがわがままを言ったのです。ネーヴェルは悪くありませんわ。お叱りならわたしが受けます」
アイネアは青ざめながら深く腰を折るネーヴェルを庇った。ますます恐縮そうに縮こまるネーヴェルに、アンドリューはそうではないと首を横に振った。
「アイネアから歌の稽古をつけたい者がいると聞いていたが、君だったのか」
「はい…ですが私にはもったいないお話でしたので辞退させていただきました」
「ふむ…ならば当主として命じる。稽古は続行だ。メイドの仕事を減らす故、空いた時間を歌の練習に充てよ」
ぽかんと口を開けて同じ顔をする二人。暫し無言の時間が続いた。アンドリューの言葉の意味が飲み込めた直後、二人して素っ頓狂な声を上げた。
「お父さま!?」
「そそそんなおお恐れ多い!!私の身の丈に合いません!!」
「私の命令が聞けぬと?」
「あ…う…」
バラダン家に仕えるメイドが、当主に逆らうことなどできない。ひとたび命じられたなら、ネーヴェルに許される返答は「はい」のみだ。
「お待ちください。お父さま」
困り果てているネーヴェルに代わり、アイネアが一歩進み出る。
「お前も、この者に才能を感じたから講師を呼んだのだろう?何故止める」
「わたしは無理強いしたくないのです。本心から『やりたい』と思えることでないのなら、ネーヴェルが辛い思いをするだけです」
「ならば聞こう。ネーヴェル、君は歌うことが嫌いか?」
アンドリューの威圧的な視線は、ネーヴェルをさらに竦ませた。嫌いか好きかで問われたら、勿論好きだ。けれども、今までネーヴェルの歌と言えば、機嫌が良い時に気ままに口ずさむ程度のもの。それを当主命令で指導を受けるとなると、お遊びなんかでは済まされない。
「嫌いでは…ありません。が…私には荷が重すぎます」
バラダン家の名を背負い、聴衆の前に立つ光景を想像しただけで、ネーヴェルは卒倒しそうになった。メイドとして細々と生きていくつもりだったのに、寝耳に水もいいところだ。アンドリューの反応が怖くて、ネーヴェルは顔を上げることができずにいた。そんな中、固く握り締めた両手に触れる温もりがあった。
「お嬢様…」
「ネーヴェルがどうしても嫌だと言うなら、わたしもいっしょにお父さまに抗議するわ。でもそうではないのなら、練習をやめないでほしいの。ネーヴェルの歌は本当にすてきなのよ?わたしだけのコンサートも捨てがたいけれど、それではもったいないわ」
「ですが私はお二人の期待にお応えする自信が無いのです」
「あら、わたしもお父さまも『コンクールで優勝しなさい』なんて言ったかしら?」
「え…?」
「わたしはネーヴェルの歌が大好きだから、もっともっと聴いていたいの。すてきな歌声だから、みんなにも聴いてもらいたいの。トロフィーなんてあってもなくても、どうだっていいわ!」
どうでも良くはないだろう、とネーヴェルは心の中で独り言ちた。結果を残さなければ、単なるメイドに投資する意味が無い。少なくともアンドリューはそれを期待しているに違いない。
だが、アイネアはただ純粋にネーヴェルの歌声が磨かれることを願っていた。栄光も名声も取るに足らないものだと言い切って、屈託なく笑っている。
正直、ネーヴェルは歌声を褒められても、絶対音感があると言われても、いまいち実感が湧かなかった。生まれた時からこういう声だし、一度聴いた曲が耳から離れないのも昔からだ。ネーヴェルにとって当たり前だったことを、今更特別だと言われてもピンとこない。
(…だけどここまで背中を押されたのに、引き退ったりしたら、大きな悔いが残る…気がする)
相変わらず自信は持てないままだったが、それでもネーヴェルは恩情に報いる決心を固めた。
「…承知致しました。不肖ネーヴェル、全力を尽くして練習に励みます!私の歌はすべてお二人に捧げることを誓います!」
「よくぞ言った。詳細は追って知らせる」
「うれしいわ!ネーヴェル、ありがとう!わたしの伴奏でネーヴェルが歌う、なんて考えただけでもぞくぞくするわね!」
「恐縮です!お嬢様」
早くも曲目を相談し合う少女達を残し、アンドリューはその場を後にした。扉の外で待機していたバートが、にやにやとした笑みを向けてくる。
「…何だ」
「お嬢様がああ言うのをわかっていて、あんな言い方をしたんでしょう?」
アイネアの部屋の前を通りかかったのは偶然だった。そして耳にした歌声。たった数度のレッスンでよくあそこまでと、感嘆するしかなかった。歌の講師を呼びたいとアイネアから相談された時は、ここまで才能のある者だとは思わなかったのだ。
しかしネーヴェルに断られたとの話を聞いて、アンドリューは一計を案じた。エルザの後輩というだけあって、ネーヴェルは芯の通った性格をしている。一度断った案件に、素直に頷くとは思えなかった。
「あの子の廉直さなら、説得も可能だと思った」
「あれだけストレートに来られて、簡単に打ち勝てる人はそうそういませんよ」
後日、ネーヴェルの才能の片鱗に気付いたきっかけを訊いたところ、アイネアから返ってきた答えは「鼻歌」だった。
「尚のこと、私には無理だったな」
「そうでしょうね。旦那様の前で鼻歌を歌いながら仕事をやれる猛者はおりません」
「…お前ならできそうだがな、バート」
「いえいえ、そんなまさか」
またしても原石を発掘したアイネア。ところがこの一件は、思いも寄らなかった問題に発展する事となる。
その問題が浮き彫りとなったのは、ネーヴェルが熱心に稽古に取り組み始め、めきめきと実力をつけていた、とある秋の日だった。
「わたし付きの侍女がいない…ですか?」
書斎にはいつもの顔ぶれに加えて、申し訳なさそうなエルザもいる。そこへ呼び出されたアイネアは、ぱちりと瞬きをした。
エルザが妊娠を機に暇を出されることを知ったのが十日前。ものすごく寂しく思ったが、おめでたい事なのだからとアイネアは自分に言い聞かせ、涙をのんで新たな命を祝福したのだ。
「本来なら私の後任として、ネーヴェルを据えるつもりでした。そのように教育もしてきましたし、あの子も承諾していたのですが…」
普通のメイド業務ならいざ知らず、アイネア専任の侍女となると訳が違う。仕事の半分が歌う事に変わったネーヴェルを任命するのは到底無理だった。エルザは職を辞する前に別の人材を見つけておこうと奔走したのだが、すべて不発に終わった。明日、この屋敷を発たねばならないエルザは再度頭を下げる。
「そんな悲しい顔をしないで。お腹の赤ちゃんに伝わってしまうわ。これはわたしが原因で起きたことよ。新しい侍女なら自分でさがすわ!」
事はそんな簡単な話ではない。だが、息巻くアイネアに水を差すのも忍びなく、アンドリューは物言いたげなエルザを目で制した。
「…まあいい。アイネア、十五歳になる貴族がティミオス学園に入学するのは知っているな?」
「はい」
「次、お前の侍女となる者は、学園への付き添いも任せたいと考えている」
王都にある国内最大の学園には、各領地から令息令嬢がやって来るのだが、遠方から出てくる者達のために宿舎が併設されている。バラダン領から学園までは馬車で五日半。必然的にアイネアも宿舎での生活となる。宿舎には世話人が配置されているが、生徒は最大三人まで自分の使用人を連れていくことが認められている。単身で入学する者がいない訳ではないが、大抵の高位貴族は使用人を伴って来るのだ。そういう訳で、少なくともアイネアが学園を卒業するまで、結婚の予定も出産の予定もなく、長期にわたって勤められる者でなければならない。
余談だがアイネアが一人でも構わないと言ったところ、父をはじめバートからもエルザからも「それはなりません!」と止められてしまった。
「入学までまだ六年もありますもの。きっと良い方が見つかりますわ!」
侍女としての教育期間が必要だということをアイネアは失念しているが、アンドリューは特に指摘しなかった。遅かれ早かれ候補者を数人たてるつもりなので、それまでは娘の好きにさせることにしたのだ。
翌日、荷物をまとめたエルザを見送ろうと、アイネアは門の外で立っていた。普通ならば暇を出された使用人の見送りなどしないのだが、アイネアは風変わりな令嬢。そんな常識など知らん顔である。
エルザの両手をとり、わずかに震える声で別れの挨拶を述べる。
「エルザにはたくさん助けてもらったわ。今まで本当にありがとう。元気な赤ちゃんを産んでね」
「私はアイネアお嬢様にお仕えできて、この上なく幸せでした。お嬢様の侍女であったことを誇りに思っています」
「幸せ者はわたしだわ。こんなにも優秀で、心優しい侍女がそばにいてくれたのだから」
アイネアは泣かなかった。泣くまいと気丈に振る舞い、笑顔で出立を見送ろうと一生懸命だった。代わりにエルザの方が堪えきれずに涙を流していた。一緒に見送りに来ていたネーヴェルに至っては号泣である。
「お嬢様のことを頼みますよ、ネーヴェル。それでは、どうかお元気で…」
涙を拭いたエルザは、お手本のようなお辞儀をした後、背筋をピンと伸ばして去って行く。その背中が見えなくなるまで、アイネアはそこから動かなかった。
エルザの後任が決まるまでの間、アイネアの世話は残っているメイド達が交代で担当することになった。それでも長年勤めてくれたエルザがいない寂しさは、そう簡単に消えてくれない。
そんな折、浮かない顔をしていたアイネアのもとに、ユニアスから贈り物が届いた。綺麗な小箱には手紙も添えられていた。
『君がすすめてくれた物語を僕も読んだよ。その本の挿絵に出ているものとそっくりな髪留めを見つけたんだ。喜んでもらえるとうれしい』
確かに、ユニアスに送った手紙の中でそんな話もした。騎士が眠っているお姫様にこっそり髪留めをつけるシーンが気に入っている、と書いた覚えがある。そのやりとりがあったのは結構前の事で、書いた本人であるアイネアでさえ、この手紙を読まなければ思い出さなかっただろう。小箱を開けるとそこには、本の挿絵と本当によく似た真珠の髪留めがちょこんと入っていた。アイネアはすぐさま鏡の前に行き、髪留めをそうっと持ち上げて自分の髪につけてみる。鏡に映る姿を見ていると、物語に登場するお姫様と同じ心地になった気がして、アイネアの口元は自然と緩み、頬は上気した。
大喜びでアンドリューに見せに行ったところ「よく似合っている」との言葉を貰えて、アイネアの嬉しさは益々膨れ上がった。高揚した気分のままに、くるくる踊るアイネアを眺めていたアンドリューは安堵の息を吐いた。哀しみに暮れていた娘にようやく笑顔が戻ったからだ。
その日の晩、アイネアは目一杯の感謝を込めて、ユニアスへの手紙をしたためたのだった。