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その日のアイネアは朝から上機嫌だった。
また夢の中で新しいボードゲームを見たからだ。マス目が書かれたボードの上に駒を置き、ダイスの目の数だけ進めていく『双六』という遊びだった。マス目に書いてある指示の内容や双六という名前は、アイネアの記憶からさっぱり消え去ってしまっていたが、ダイスを振って駒を進めるという概要は覚えていた。
(そうだわ!ダイスで決まる人生なんてどうかしら?あり得ないからこそおもしろそうだわ)
名案を思いついた風なアイネアだが、それは『人生ゲーム』という夢の世界では既存の人気商品である。アイネアの意識が及ばない、頭の奥深くに記憶していたのかもしれない。ただし、使われるのはダイスではなくルーレットだ。曖昧にしか覚えていないアイネアが、その違いに気付く事はなかった。どの道、マス目に書く指示については一から考えないといけないので、完全に一致させるのは不可能だろう。
(さっそくクーザと相談ね。レギオンが帰ってきたら三人で考えましょう。楽しみだわ)
レギオンは今、屋敷を留守にしている。米を粉にする技術を身につけるべく、小麦粉をひいている農家へ弟子入りに行ってしまったからだ。戻ったら二種類の米の研究をすると息巻いていたが元気だろうか。大福の皮作りは前途多難である。
「あら?この声は…」
うきうきと廊下を歩いていたアイネアの耳をかすめたのは、女性の美しいハミングだった。音の聞こえる方へ歩を進めると、そこには一人のメイドがいた。明るい髪をポニーテールにした彼女を、アイネアはよく知っている。
「やっぱりネーヴェルだったのね!」
「あっ!お嬢様。おはようございます」
ネーヴェルは以前、トランプと四色カードの試遊をした時にエルザが連れてきた後輩だ。それ以来顔を合わせれば談笑するようになっていた。
「申し訳ありません。うるさかったですよね」
「いいえ、ちっとも!ネーヴェルの声ってほんとうにきれいで、大好きだもの。小鳥の美しいさえずりのようだわ!」
「えへへ、ありがとうございます。じつは鳥の鳴き真似って私の隠し芸なんですよ〜」
「そうなの?ぜひ聴きたいわ!」
アイネアが強請ると、ネーヴェルは少し恥ずかしそうにしながら、朝方によく鳴いている鳥の鳴き声を真似してみせた。本物と遜色無い音色にアイネアはびっくりする。
「すごいわ!そっくり!」
「あんまりやると先輩に遊ぶなって怒られるんですけどね」
「ふふっ。じゃあまたエルザのいない時に聴かせてね」
二人で笑い合っている時に、廊下の向こうからエルザがやって来るのが見えたので、ネーヴェルはバケツを持って急いで退散していった。
「こんな所にいらしたのですか。もうすぐ朝食ですよ。それと、今日はピアノの先生がいらっしゃいます。くれぐれもお忘れなく」
「だ、大丈夫よ。今日は覚えていたわ」
「…今日"は"ではなく、いつも忘れないでください」
正直に言うと忘れかけていたが、もう忘れまいとアイネアは今日の予定を頭に刻んだのだった。
決して練習の手を抜いている訳ではないが、アイネアのピアノはまだまだユニアスに遠く及ばなかった。別に及ばなくてもいいのだが、ユニアスに弾いてほしいと言われた時に恥ずかしくない腕前にはしておきたかった。
「難しいわ…」
「お嬢様には楽器の演奏よりも、ダンスの方が向いていらっしゃるみたいですね」
「そうね。音楽は弾くよりも聴いている方が好きだわ」
エルザの慰めなのかよくわからない言葉にアイネアは頷く。もともと行動的なアイネアは、体を動かすのが好きだった。だから失敗が多くても、ダンスの方がレッスンにも身が入るのだ。
「でもがんばるわ。途中でやめるのは嫌だもの。今度のパーティーの時に演奏してほしいって、お祖母さまにも言われたし」
「そういえば、お嬢様のお誕生日パーティーにユニアス様は来られるのですか?」
「ええ。お父さまが招待状を送ったとおっしゃっていたわ」
「そうでしたか。楽しみですね」
「またチェスをしたいわ。ユニアスのお誕生日の時は、トランプだけで終わってしまったから」
アイネアが今までよりも自分の誕生日を楽しみにしているように見えて、エルザは気合いを入れなおした。当然、アイネアを一層可愛らしく仕上げるための、である。
(それにしても、一年が過ぎるのはあっという間ですねぇ)
エルザには、アイネアの衣装のリボンを緩く結んだのが、ついこの間の事のように感じられた。それでもこの一年で、アイネアを取り巻く環境は大きく変わった。
専属画家、お抱え料理人、そして婚約者候補の登場と劇的な変化が訪れた。
(まだまだ何か起こりそうな気がしますけど)
またしてもエルザの予感は見事に的中することとなる。
午後のお茶の時間を堪能したアイネアは、書庫へと赴いた。『ダイス人生』と命名予定の双六製作に、何か役立つものがないかと探しに来たのだ。あまり難しい本はまだ読めないが、昔、母が読み聞かせてくれた物語くらいなら問題無い。
(どんな内容ならおもしろいかしら?)
そうやって考えるのも、わくわくして楽しかった。夢中になって読んでいると、どこからか陽気な歌声が聴こえてきた。ラララ…と旋律をなぞるだけだが、その透き通るような声質で、アイネアは声の主がネーヴェルであるとわかった。どうやら鼻歌まじりに庭掃除をしているらしい。
(……この曲は…)
ハッと思い至ることがあったアイネアは、読んでいた本を仕舞うと書庫を飛び出した。そのまま廊下を走って庭へ出る。ネーヴェルの名前を呼べば、彼女は驚いて振り返った。
「お嬢様!?そんなに慌ててどうなさったのですか?」
「今の…いま、ネーヴェルが歌っていた曲!」
すぐに息が整わないアイネアの言葉は切れ切れだった。しかしそれだけでも何とか察したネーヴェルは「ああ…それでしたら」と説明し始める。
「たまたまお嬢様のレッスン中にお部屋の前を通りかかりまして。その時に少しだけ聴こえたのですが、良い曲だなぁと思い出したらつい…」
「曲名は、知っているの?」
「まさか。初めて聴きましたけど、有名な曲なんですか?」
「初めて……?」
「お嬢様?」
ネーヴェルが口ずさんでいた曲は、確かに今日のレッスンでアイネアも耳にしていた。でもそれは先生がお手本で弾いた、たった一回きり。作曲家は有名でも、ピアノを習っていなければ知らないような練習曲。それを今ここで歌えと言われても、アイネアには出来ない。ネーヴェルがやったように、寸分も違わず完璧な音程を取るなんて不可能だった。
「ネーヴェル!」
「はっはいぃ!?」
「声もきれいだけど、すばらしい音感もあるのね!」
「え?え?音感?」
鳥の鳴き真似が相当なクオリティだったのも、優れた音感の為せる技なのかもしれない。アイネアの瞳がきらりと輝いた。
「ネーヴェル、歌のレッスンを受けてみない?今度、先生におねがいしてみるわ」
「えぇぇえ!?そんな!とんでもない!私、音楽なんて習ったことありません!」
「習ったことがないから、習うのよ?」
「そういう事が言いたいんじゃありませんよ!」
「ネーヴェルの声で歌を歌ったら絶対にすてきよ。間違いないわ」
「そう言っていただけるのは光栄ですけど…」
お仕えするメイドの身分で恐れ多いと、ネーヴェルは辞退を申し出たが、アイネアの熱心な勧めに根負けし、お試しで一度だけレッスンを受けることになった。
アイネアの見込みは正しく、ネーヴェルには天性の絶対音感があると判明した。レッスンを受け持った講師からも是非と強く言われ、断り切れないまま、何度か歌唱指導は続いた。
歌うこと自体は嫌ではなかったし、むしろ楽しかったがやはり分不相応だと、ネーヴェルは再度アイネアに断りの旨を告げた。アイネアは心底残念に思ったが、強制するつもりは無かったので、彼女の意思を尊重した。
「でも気が向いた時でいいから、またネーヴェルの歌が聴きたいわ」
「それでしたら、僭越ながらお誕生日の時にでも…」
「ほんとう?約束よ、ネーヴェル!」
「お嬢様の前だけですよ!?人前でなんかとてもじゃないですけど歌えません!」
「わたしひとりだけのコンサートね!特別な感じがしてドキドキするわ!」
そんなこんなで、胸を躍らせて迎えた誕生日。
またしても祖母のジョアンナが大量のドレスや宝石を持って来たのには困ったが、それよりも今年は初めて領外から訪れる友人の方にアイネアの意識は向かっていた。
「おめでとう。アイネア」
会うのはシャレゼル家でのパーティー以来だったが、その時よりもユニアスは更に一回り痩せていた。穏やかな笑顔を見せるユニアスの手には、小ぶりな花束がある。
「まあ!なんてかわいい花束!やっぱりかすみ草があると、華やかさが倍になる気がするわ!ごめんなさい、わがままを言ってしまって…」
「誕生日に願い事を我慢しなくてもいいって言ったのは君じゃないか」
「そうだったわね。どうもありがとう、ユニアス。とってもうれしいわ!」
一ヶ月ほど前、ユニアスから届いた手紙には『誕生日プレゼントは何がいいか教えてほしい』と書かれていた。アイネアは自分がプレゼント選びに悩んだのを思い出し、希望を言ってもらった方がユニアスも楽だと考え『かすみ草の入った花束がいい』と返事を出したのだ。『もっとわがままを言っていいなら、ひと言だけでもかまわないので、メッセージカードも書いてほしい』と付け加えて。と言うのも、花はいつか枯れてしまうが、カードは保管しておける。それを見ればプレゼントを貰った感謝を忘れずにいられると思ったからだ。アイネアの希望通り、ユニアスは薔薇とかすみ草の可愛らしい花束を用意してくれた。勿論、綺麗なメッセージカードを添えることも忘れていない。
ユニアスからすれば、アイネアのお願いは慎ましすぎて我儘のうちにも入らないものである。むしろ、なぜ花束なんてありふれた物が良いんだろうと、首を傾げたほどだが、何て事はない。「花束をもらうと『特別な日』って感じがするわ!」という、アイネア独特の感性が起因しているだけだ。
侯爵夫人はもっと大きくて派手な花束にしろと文句を言っていたが、きっとこれで良かったのだとユニアスは思った。あんまり仰々しいものは、アイネアの性分に合わない気がしたのだ。
「食事のあとでチェスの対戦を申し込むわよ。新しい作戦を思いついたの。ユニアスをびっくりさせてみせるわ」
「そこは僕に勝つって言うところじゃないかい?」
こういう機会でもない限り顔を合わせることが無いので、アイネアもユニアスも喜びで浮かれている。それとなく様子を見ていたアンドリューの片眉が動く。
(顔つきが変わった…心境の変化でもあったのか?)
少し前までのユニアスはおどおどと自信なさげで、アイネアに引け目を感じているのが傍目にもわかった。だが、今の彼はどこか吹っ切れたような清々しい顔をしていた。以前と変わらないのは、優しさが溢れる眼差しだけだ。
(何にせよ、良い傾向だ。アイネアを支えられる甲斐性が無ければ話にならん)
心の中で盛大な親馬鹿を発揮するアンドリューであった。