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「石鹸なんて、夢のまた夢の代物だと思ってたなー」
「俺らこんなに、きったなかったんだな……」
「すごい、本当に泡が白くなる!」
風呂は十人以上の人間が収容できる、巨大な湯船を持った風呂だった。
そしてそこのお湯を使い、髪や頭を石鹸で洗う、という仕組みだった。
チィは手始めに自分が手本を見せた。おそらくそうでなければ、子供たちは風呂に入れないで立ち往生するからだ。
手桶で頭から湯を被り、おそらくこれを使うのだろう泥のような色の塊の、匂いもそんなにしない石……こすったら泡立ったので、石鹸とわかった……を泡立てて、髪や頭や全身を洗い、また手桶で頭からお湯を被る。
自分はどうやら、気を失ったりしていた間に、一度くらいは風呂に入れられていたらしく、お湯はそんなにドロドロにならなかった。
しかし、子供たちはそうはいかない。
多分、もう、二年はまともに体を洗ってない奴も多い集団なので、彼らは二、三回は洗い直さなければならない。
しかし子供たちは、泡の色が変わったりするのが面白いらしい。
いたって平和に騒ぎながら、手伝いあって体を洗っている。
オードリーなどは、子供の世話程慣れた事はない、と年下の仲間たちを洗っているし、チィも同じだ。
年長組に、かまってもらうよろしく洗ってもらっているので、下の子供たちも大人しい。
そして全員で最後に、湯船につかってみれば、これは大変な贅沢だなという、意見が一致した。
「ボス、このお風呂は毎日じゃなくていいです」
「それは俺も思う。そんなに毎日体洗ってどうするんだ」
チィが苦笑いしていると、子供の何人かは泳ぎ始めている。
下水で生きてきた子供たちは、足を踏み外して溺れた時の対処法、として泳ぎ方を知っているのだ。
基本的に、チィが教えたものは素直に覚える、そんな子供たちだった。
一番年下の、ルゥが顔を赤くし始めたので、チィは風呂を出ると号令をかけた。
年下の調子の悪いのに合わせる、という基本を知っている子供たちは、すぐさま文句も言わずに、騒いでいたのが嘘のように風呂から上がった。
そして脱衣所で、彼らはまた自分たちの常識と違う世界を、見せられた。
何故か、召使……それも女性が何人もいたからだ。
「っ!」
知らない人間相手には、とっさに防御姿勢をとるのが、このスリ集団の基礎である。
子供たちはすぐさま、自分より弱い相手を背中に庇う。チィですら、知らされていない事のために、子供全員の真ん前に立ち、攻撃態勢をとってしまったのだから仕方がない。
召使たちは怪訝な顔をしているが、オードリーが物騒な光を両目に宿し、チィに問いかける。
「ボス、どういう事か知ってるか」
「しらね。ちょっと聞くわ。……あんたがた、何したいの」
チィの言葉に、召使たちは言う。
「お着替えのお手伝いを」
「着替えをその辺においてくれればいい。あんたらは、出て行って」
「まあ、お着替えは手伝う物ですよ」
「話が通じないな……あたしらは、まだ、あんたらがなにものなのか、ちゃんとわかってないんだ。わかってないから、あー、不気味でしかないんだ。もうちょっと、こっちのやり方の詳しいの、聞いてからあんたらに手伝ってもらう。だから今日は引いてほしい。この子たちは、体が弱っているんだ。むやみに気を張らせたくない」
「弱っていらっしゃるなら……なおさら、お手伝いを」
一人の若い女が言うが、その女の上からの調子に、チィは救えないと息を吐きだした。
「あんたは、見ず知らずの、何考えているかもわからない野郎どもに、裸の体を任せる類の女性?」
「なっ……!!」
彼女はまさかの暴言に、息をつめた。ほかの召使たちも同じだった。
それを見渡して、チィは言った。
「言っちゃいけない説明や、例えばなしだとは、思う。でもこの子たちにとってはそれとほぼ同じか、それ以上の気を許せない相手なんだ、まだあんたがたは」
「ミューリア、ここは彼女の言う通りにした方がいいでしょう」
わなわなと震えている女は、ミューリアと言ったらしい。彼女に声をかけた年長の女性が、チィを見て言う。
「不愉快な思いをさせてごめんなさいね……ご主人様が、手厚くとおっしゃったから、わたしたちもそうするつもりだったのだけれど……あなたがたは……まあ、あなたたちの体の傷は……いったい……どういう生き方をすれば、子供でもそんな傷が……」
年長の女性は、チィと、それから彼女の脇に立ち、くまなく周囲を睨んでいるオードリー二人の、体中に刻み込まれた大小も種類も様々な傷に、瞠目する。
オードリーは、チィほどではないのだが、やはり子供のために体を張っているのでひどい傷を持っているのだ。
「……生き延びるのに、毎日毎日、命を懸けている生活と言えば、伝わるか」
オードリーが低い調子で言いきった言葉と、その中身に、召使たちは理解できる次元のものではないと、ようやく知った。
そしてさらに、自分たちの主人の頭の中身を疑った後、こういう過酷な境遇の子供たちを保護する、英断に至った主人に、尊敬の念を抱く事になった。
「オードリー、あんま喋るな」
チィは釘を刺した。自分の素行が知られるのはいいが、子供たちにとばっちりが来る事は回避したい。
そのためには、やってきた事を喋らない方がいいのだ。
更にそろそろ、着替えられないため、体が冷めてきた誰かがいる。
顔色の悪いスザクが、くしゅんとくしゃみをしたので、チィは言った。
「着替えを置いて、ここからいったん出てほしい」
着替えさせろ、いつまでも裸でいさせるな、この気候で、と匂わせた意味は伝わったようで、召使たちはそうそうに出て行った。
そこで彼らは、すぐさま、自分たちの寝床の布よりも上等な布で体をぬぐい、すぐさま着替えた。
着替えが、やはり自分たちが一生かかっても着られないはずの、上等な物だった事に、チィは戦慄しそうになったが。
ボスがここで不安がってはいけないから、堂々とした調子を維持した。
シャツにセーターという物に、それから厚い生地のズボン。
下着なんてめったに装備しないのに、当たり前に用意されていて、チィは息を吐きだした。
「すごいな、金持ち」
そして、あの男が約束を守っている事実を感じていた。
「すごいね、ボス。ここで一日だけ泊まるにしても、すごい値段だよ」
邪気のない声で年少組のマリがいい、チィはそうだな、と返した。
「ここで、ボスと生きていけるの? そんな夢みたいな話があるの、ボス、身売り?」
「人聞きの悪い事言わない。身売りに近いけど、違うから」
「へー」
全員が着替えたのを確認し、チィは青くなり始めたスザクを背負って扉を開けた。
「……手伝いの女たちを追い出したと聞いたんだが」
扉を開ければ、オーガストが困った顔をして待っていたので、仕方なしに説明する。
「まだまだ、ここは信用できる場所じゃないからな。下手に身を任せたりは出来ないんだ」
「……早く信用できる場所になってほしいものだ」
「それはそっちの対応による」
「善処しよう」
頷いたオーガストが次に問いかけてくる。
「後は、今日は何が必要だろうか」
「体に優しい飯」
「は……?」
「大鍋一杯分くらいの、パンがゆとかがいい。……一人ひとりにお皿を出す料理は、正直あたしたち全員、まともな食器を持った事ないから食べる前に食べ物がなくなる」
食器で食べ物を食べられないと、言う事実を伝えたチィは大真面目だった。
さらに、同じ鍋から食べれば、毒の場合全員に回るから、そういう馬鹿はしないだろうという判断もあったのだ。
「わかった……厨房に用意させよう。もしや、全員眠る場所は同じがいいというのか」
「この子たちを分けろっていうのか? 殴るぞ」
チィが、まだ完全には回復していない体を踏ん張り、こぶしを握ると、オーガストは首を振った。
「そんな、不安がらせる事はしない。……どこか大部屋に、大量の寝具を運ばせよう」
「あ、それ頼むわ」
チィはそこで笑った。ほっとして笑ったのだがオーガストは、目を見開いていた。
それは、チィが彼に向かって初めて笑ったから、だった。