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「……信じられんのか、その男」
言ったのは、チィの右腕、オードリーだ。
チィもそうだろうなと頷き、言う。
「だからこれは命令でも何でもなく、ただの提案だ。あたしはたぶん、このままお前たちと暮らしていても、あの男に見つかれば、そっちに連れて行かれるかもしれない。危ないから嫁になれっていう、とんでも男だ。もしかしたら、閉じ込められて一生を送るかもしれない」
チィの知る世界では、気に入った女を自分の屋敷に閉じ込めておく、割と危ない男も存在していた。
あの、オーガストがそうしないとは限らない。
「だから、あたしはあっちに行く。まあ……借りもあるから。だからお前たちも、一緒に来るかって言う提案。お前たちが嫌なら、ここで生きるの死ぬも自由だ。あたしたちが持っている、たった一つの自由は、死ぬ事だからな」
緑の花弁の外で生きる事の難しい、底辺の子供たちに、チィはただ問いかける。
その、青すぎるほど青い、夜明けの青空の瞳で。
「……俺は行く」
口を開いたのは、意外にもオードリーだった。
「あんたを、そんな男の所に一人では置いておけない。あんたを守るのはこの俺、右腕のオードリーだ」
言い切ったその潔さや、決意の強さに、チィは苦笑した。
そして、子供たちは我先に、皆チィに続く事を表明した。
「……まあ、いざとなったらあたしが体を張って、お前たちだけは守って見せるからな」
チィは言い切った。その言い切るさまは強く、間違いなくそれはボスの風格を漂わせたものだった。
そして善は急げと言わんばかりに、チィは子供たちを引き連れて下水管を抜けた。
その際に、大事な物は皆持って行くように指示を出した。
だが、大事な物は自分の命と仲間ばかりと言った子供たちが持ち出すものは、本当に少なかった。
音を立てずにチィを先頭に歩く子供たちは、入口の一つに到着した。
まずはチィが入り口のふたを微かに開けて、外の安全を確認する。
うまい具合に人がいなかったので、チィはふたを開けて子供たちを、次々引き上げていく。
やはり日の光の下にいると、子供たちの栄養失調が見受けられる体と、日向にいられない生活のために白い肌色が痛々しい。
チィは自分もそうだと思いながら、しっかりと子供たちを連れて、緑の花弁からするりと出た。
そうして少し歩いていると、あの銀髪赤目のオーガストが、チィを探して首を巡らせていた。
彼は彼女を見つけた途端に、ほっとしたように駆け寄ってきて、子供たちを見て顔をしかめた。
チィはそれが嫌悪からだったら殴って、そのまま逃走する予定だったのだが。
「子供たちは大丈夫なのか? 顔色が真っ青だ」
そんな風に心配されてしまったので、こいつ阿呆だなと思いながらも、言った。
「死んでないし、まだ病気でもないから問題ないに決まってんだろう」
口は悪い。チィは口の悪い女の子だった。
しかしオーガストは気にせずに、子供たちに挨拶をした。
「初めまして、だな。ちびたちのボスの旦那になる予定の男だ。名前はオーガスト」
「……ボスの? あんた、ボスの事幸せにしてくれるのかよ」
オードリーが先陣を切って、そんな事を言いだす。
そうすると我先に、子供たちがボスを幸せにするのかどうか、というチィからすれば背中がむずがゆくなる事を言いだし始めた。
本当に俺は愛されてるのだな、とチィはかすかに思った後に、子供たちを順繰りにひっぱたいた。
「安心しろ、お前たちの幸せがあたしの幸せだ」
「……そうなの?」
スザクが弱々しい声で言う。スザクは風邪気味だったから、オードリーが背負っていた。
「当たり前だろう? あたしの幸たち」
にやりと笑ったチィを見て、オーガストが目を見張っていた事を、彼が背後にいたからチィは気付かなかった。
屋敷についてまず初めに、チィが絶対命令と言わんばかりに言ったのはこれである。
「風呂」
「は……?」
「風呂の支度を手伝え、あの子たちが薄汚れていると、あんたの家の使用人たちに軽んじられるんだろう? お前がどうだか知らないが使用人たちの視線が、あんまりいいもんじゃないのはすぐに分かる」
オーガストはあっけにとられた後に、使用人たちを呼び、風呂の支度をさせ始めた。
「家じゃろくに風呂なんて入れなかったから、綺麗ってものはどうでもよかったのに」
「ばかやろう、このぴかぴかの家を汚しまくったら掃除の代金やばいだろ!」
「そっちかー」
オードリーの言葉にチィが突っ込めば、子供たちがあー、と言いたげに納得した。
実にチィらしい物言いだった結果である。
それを見やったオーガストは、彼らの信じられないほど連携のとれた動きや、突っ込み方や態度に、この子供たちは軍の養成所に所属していたのだろうか、と、ふと考えてしまった。
チィという少女一人を頂点にしている、にしてもこれはどこか違うのだ。
しかし子供たちはそんな物を気にせず、騒ぎあいながらぱっと一様に同じ速度で、オーガストを見やった。
「おじさん、風呂どこ?」
そろった声も見事な物で、大なり小なり音の違いはあれど、抑揚も同じと言っていいだろう。
オーガストはその、子供たちの旋律に衝撃を再び受けていた。
「君たちは、何処かで正式な音調を習ったのか?」
「正式な音調? って何」
「知っている、ボス?」
「ええっと何だったかな。なあ、オードリー覚えてないか」
「ボスが前に、神様が与えた音が正式な音調……とか言っていたような」
「あ、それだそれだ。思い出した! この国というか大陸で正式な音調っていうのはとても大事なんだ。って教会で言っていたんだっけな。天の神様と地の神様の二柱が、自分たちに届く声の調子や響きを、正式な音調って決めたんだ」
「普通はそうじゃないの、ボス」
「訛りとか、地方の調子とかあるんだってさ。ほら、たまに残飯くれる店あっただろ、あそこの優しい人たちの喋り方、なんか違うなって思った事ないか」
「ある。ふわふわした喋り方だなあって思いました」
「それが訛りだ。どこを正式っていうのか知らないけど、基準からずれてたら訛りの扱いなんだよ」
「へー」
子供たちとチィのやり取りは、非常識と常識の境目を行き交う物だったのだが、それ以上にオーガストを驚かせ続けていたのは、子供たちの喋り方が、正教の規定する正式な音調そのままだという事だった。
言葉遣いは悪い方だが、抑揚というべきものがまさに、正式な音調それなのだ。
この子供たちは一体どこから……とオーガストは考えながらも、やってきた召使に風呂の用意を頼んだ。
「すまない、大人数で入れる風呂を用意してくれ」
「あ、大きめの桶が三つとやかん二つ分の煮えたぎったお湯と、樽いっぱいぶんの水だけでいいわ」
チィが風呂の事で口を出すと、オーガストが怪訝そうな顔になった。
「風呂だぞ?」
「うん、そうに決まってんだろ、風呂」
ここでチィは、あれ、と思った。なんかすげえ、常識の違いを感じないか、この感じは。
もしかして、風呂ってこのあたりじゃそんな装備じゃないとかか。
緑の花弁の風呂ってそんな感じだった、え、なに、違うとしたらどんな風呂なんだ。
訳が分からなくなりつつあるチィだが、それでも我を失ったりはしない。
すぐさま自分の困惑を置きなおし、弱みなど見せない調子で言った。
「そう、風呂だ。もしかして、このあたりの花弁の風呂は、そんな物じゃないのか」
「湯船の概念を知っているか?」
「しらね」
「ボスが知らないんじゃ、俺らが知るわけないな。えっと、旦那はどういう物として言っている?」
オードリーの問いかけに、オーガストが言う。
「見た方が早いだろうな」
「んじゃ、その、こちらの流儀の風呂に案内してくれ」
チィが締めくくり、子供たちはぞろぞろと、彼女の後に続く。オーガストは彼らを案内しながら、問いかけた。
「まさか全員で入るのだろうか」
「そりゃそうだろ、ここはまだ、絶対に安全という領域じゃないってあんた、分かってんのか」
けろりとした声でいうチィは、その薄青い瞳を光らせた。
まるで猫の瞳だ、とみる物に思わせる輝きの双眸で、自分の夫になる男を見て彼女が言う。
「分離されたら、何が起きるかわからない状態で、別れて入りましょなんて、無防備極まりない事やってたまるか」
オーガストは何も返せなかった。
彼らの、そう考えなければいけない生き方を、知らされた気がしたので。