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護衛はいらない。チィはオーガストの与える物を拒み、まだ怪我の後遺症でふらふらとしている体の、背筋を伸ばした。
立っていられないわけにはいかない。
あの子たちに、ようやく毎日、食べ物と勉学を与えられるのだから。
善は急げとよく言ったもので、チィはなんだかんだ言いつつ、オーガストが自分を追いかけている事実に気付いていた。
お優しい男だ。
こんな得体のしれない娘を、見ていられないからと、たったそれだけで妻にするのだから。
しかし、そのお綺麗なお優しさという物を、チィは存分に利用させてもらう。
そんな自分は、純白の花嫁衣装など決して似合わない。
せいぜい溝色の、薄汚れた、安物の娼婦の着るような衣装がお似合いだ。
そんな物すら手に入れられない、環境で生きてきたわけだが。
チィは人どおりに交じって、緑の花弁の門の近くまで着いた。
彼女はあたりを見回して、見ている人間がいない事を確認し、ひらりと足に力を込めて、ひょうと軽々飛び上がった。
その身のこなしがあるから、チィという少女が、スリを生業とする子供たちのボスになれたわけだったが。
そして飛び上がった場面を、誰にも見られることなく着地。
周りを見回してから、チィは人知れない排水のための穴のふたを開け、中に滑り込んだ。
中は真っ暗だ。当然だ。下水の穴に明り取りの何かは必要ない。
しかしチィは、いいや、チィたちは、この下水管の、張り巡らされたような迷路のごとき配線を、しっかりと覚えていた。
チィたちの敵が現れた時に、暗がりから一撃を見舞うために。
もっともそれを行っていたのは、一番年長の自分以外いないが。
チィは壁の一部を探り、その一部に刻んである図形をなぞった。
そしてここが、自分たちの縄張りのどこかを、頭の中で確認する。
それからそっと歩き出すが、その物音は、反響しやすい地下水道の中でも、全くなかった。
これはチィを含めた子供たちが、皆覚える足の運びだ。
気付かれないように、気配を殺して進む方法を覚えれば、スリも盗みもかっぱらいも、非常にやりやすいのだ。
気付かれないという事を覚えるためには、この地下水道はうってつけだったと言えよう。
そんな中を、自分の頭の中の地図を頼りに進んでいったチィは、壁に耳を押し当てた。
そこから、子供たちとチィのねぐらとの距離を測る。
あとちょっとだ。
待っていろ、お前たち。
あたしが、お前たちをちゃんと食わせてやるから、な。
チィは、オーガストの前では浮かべた事のない、慈母の表情を顔いっぱいに浮かべ、また先を進んでいった。
そして進んでいけば、さすがに生活のための音が、かすかに聞こえてくる。
チィは暗闇の中になれた瞳で、かすかな灯りを見つけ出す。
そして、地下水道のなかに、隠れるように存在している、人が一人登れる程度の梯子に飛びつき、ぐいぐいと上がった。
上がってから彼女は、頭上にある丸い扉をひねり、かぱりと持ち上げた。
開けた途端に、貴重な灯りがチィの視界に飛び込み、その空間が自分のねぐらだと知らせてきた。
「ボス……?」
問いかけてきたのは、留守役の一人だった。
「よう、あたしだよ、って、本物かどうかもわからないってのが普通だけど」
「ボスだよ」
留守役の一人が、チィを見て涙を浮かべた。
「ボス! 生きていてくれた! 皆に知らせなくちゃ!」
「大丈夫、皆が戻るまでここにいるから」
「お金を取りにいかないの?」
「それよりも大事な話があってここに来たんだ」
「うん」
「それよりも、また誰か死んだのか」
「……まだ死んでない。稼ぎに行ってるけど、スザクが体を壊してる」
「ああわかった」
チィはそう言うと、自分たちのねぐらを見回した。
そこはおそらく、地下水道の備品などをため込んでおくための、空間だったのだろう。
しかしそこをチィたちは、ねぐらとして利用していた。
ずっと敷かれている薄い麻布と藁に、煮炊きもできない環境から、買い求めるしかない食料を入れておくための箱。
そんな物しかないねぐらだった。
だがそこは、チィが十年近く生きてきた場所である。
チィが留守役と待っていれば、その日の金を稼いできた子供たちが、続々と帰ってくる。
全員が、チィを見て、幽霊でも出たように絶句した後に、泣きながら喜んでくれた。
子供たちがそろったので、チィは真面目な声と調子で、提案があると持ち掛けた。