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6
「どこだここは」
チィは瞳を開いて、そんな事を呟いた。
正直に言おう。
「あたしは死んだんじゃなかったのか」
あの激痛だ。そしてちらりと見えた脇腹の、炭化した部分。
あれで生きながらえている方が、おかしくないか。
それ位、あれはひどい火傷だったというのに。
自分は目を覚まし、呼吸をしている。いったいここはどこなのだ。
チィは警戒心でいっぱいになりながらも、何とか上体を起こそうとした。
しかしながら、体は動かそうとした途端に、かなりの痛みをもたらした。
「っぁ……っ」
チィはその痛みのあまり、口を開き、かはっ、と息を漏らした。
痛みにも怪我にも慣れっこな、かなりひどい生活を送ってきた彼女でも、これだけの痛みは想定外、と言っていいほどだ。
体は治りきっていないらしい。
チィはこの短時間でそう判断した。
ならば多少は大人しくしておくべきではないか。
チィは色々な場合を頭に思い浮かべた。
そして結論を出した。
「逃げよう」
どこのだれがどういう目的で、チィを助けたのかは知らないが、チィは薄汚いこそ泥でスリの達人である。
それがお日様の下で、許されている事ではない事も十分に分かっているのだ。
助けたどこぞのお人よしだって、チィの両手足じゃきかない罪業を知れば、途端に手のひらを返したように豹変するに違いない。
ならば、逃げるしかないではないか。
というのがチィの理論だった。
しかし、この激痛では逃げる逃げないの前に、動けない。
動けるようになったらすぐさま逃げ出す、とチィは予定を立てた。
そして、隙あらばこの家の金目の物をいくつか拝借してやろうとも。
善良な大人に殆どあった事のないチィは、自分もかなり最低野郎だと自覚はしていた。
助けてくれた誰かの物を盗むなど、ちょっとでも良心があればためらうだろう。
だが、チィにそれはない。
チィにあるのは、生き抜くにはどうするか、と言った事である。
チィが子分だと認めている子供たちを守り、そして彼らと生きるためにはどうするか、どうやって飢え死にしないように食事を手に入れるか、が最重要だったのだ。
そのため、チィは善良とはいいがたい思考回路を持っていたのである。
まず手始めに、この部屋の貴重品を調べてみるか……とチィは目標を決めた。
「……綿の布団なんて初めてだ」
ごろりと寝転がったまま、手探りで布団の布地を触り、チィはその手触りの良さに驚きながら、変な気持ちを味わっていた。
チィのねぐらは、藁かよくて麻の布団だった。毛布は虫食いで捨てられていたぼろぼろの物で、枕はその辺で拾ってきた丸太に上着を巻いたもの。
それに皆で身を寄せ合って眠っていたのだ。
そのため、一人分の立派な寝具など、気分が変になってしょうがなかった。
「ぅぁ……」
少なくとも。
運ばれる程度には、安全圏と言ったところか。
また少しばかり、体力を回復するために目を閉じたって、大丈夫かもしれない。
ならば眠るだけだ。
逃げ出すために。
子供たちともう一度、パンを水なのかスープなのかわからない物を囲むために。
「まってろよ……必ず戻る」
子供たちがもう受け入れなかったら、その時は一人でまた生きていこう。
そう言う時が来てもおかしくないのだから。
一人人間が増えるという事は、分け前が一人分減るという事でもあるのだ。
チィは目を閉じ、数秒で眠りに落ちた。
眠りについたと思ったのだが。
チィはすぐさま、視線を感じて跳ね起きようとした。
しかし痛めつけられた体が、言う事を聞くわけもなかったが。
襲ってきた激痛により、チィはうめく事も出来ずに、身もだえした。
「大丈夫だろうか、あれだけの怪我をしていただろう」
身もだえしているチィに、もっともな声がかけられた。
チィは涙を浮かべながら、男を確認した。
そして驚く。
男が、お伽噺のように銀色の髪をして、真っ赤な瞳をしていたからだ。
貴族や選ばれた人種の中には、そう言う髪の色をしたやつもいれば、瞳のやつもいる。
吟遊詩人の歌の中で、最も美しいと形容されるのは、こう言った銀髪赤目の人間だ。
それは、教会の話によれば、神に選ばれた人間の特徴だかららしいが。
とにかく、あの緑の花弁の中では、一度もお目にかかった事のない色味に、チィは口をぽかんと開いた。
「痛むのか」
男はそんな事を言いながら、布団の外にあるチィの腹部に触れる。
急所を触れられているチィは、反射的にその頬をはたいた。
「触るんじゃねえ!」
叩いた事でまた激痛が走り、そして怒鳴った事で腹のあたりがぐっと痛む。
涙を浮かべたチィを見て、叩かれた頬が真っ赤になった男が、困ったようにチィを見た後に、謝ってきた。
「それはすまない。傷が痛むかと思ったんだが」
チィはぎっと相手を睨み付けた。動く事ができない以上、反抗的な態度はこれ位しかできない。
「火傷の殆どは治したんだが。完治はできなかったんだ。ずいぶんと酷い火傷で、おまけに何日も放置されていたから。大した生命力だ、普通は死んでいるほどの怪我だった」
チィは言われた言葉に、ああ、やっぱり普通は死ぬんだな、と知った。
しかし、チィは無駄に頑丈なのだ。生命力も強いし、並大抵の事では死なない体をしている。
それを自慢げに語る事もまた、体が痛すぎてできないため、チィは男を観察してみた。
眉目秀麗、そして体つきも素晴らしい物なんだろう。整った感じがする。
しかし緑の花弁にいる、荒くれた屈強な男たちとは、何処かが違う気もする。
多分育ちの違いだな、とチィは観察して判断した。
「どういう事情かは知らないが、傷が治るまではゆっくり休んでおけ」
男はそう言った後にふっと思い出したように、こう言った。
「私の名前は、オーガスト・ヒューヴァ―という」
チィは名前を名乗るつもりもなかった。
名前を名乗るほど、慣れあうつもりもなかったのだから。
そしてそんな、警戒心を丸出しにしたチィを見て、男が苦笑した。
「名前を名乗る気になったら、いつでも名乗ってくれてかまわないからな」
言った後男は、チィの脇に座り、机の上に置かれていた書類をまくり始めた。
「……」
見張っているつもりだろうか。
しかし、チィが何をしたのかこの男はわかっていないだろう。
そうなると、チィの容態が急変するのを恐れているのか。
だとしたらそれは何ゆえだ。
利益は何だ。
チィは、思いやりや、気遣いと言った物とはとんと無縁な生活をして生きてきた。
子供たち相手に、自分がそれを持っている事も、与えている事も無自覚なまま、チィは生きてきたわけだ。
そのため、男の優しさや気遣いと言った物が、チィには理解できない物でしかない。
彼女の中では、利益になるか不利益になるか、と言った天秤しか、ないに等しいのだから。
チィは男のまくっている用紙の束を見て、これはどうやら、寝首を書かれる心配はしなくていいと判断し、今度こそ体を治すために目を閉じた。
目を閉じる際に、男がこちらに気付き、何かを思っているかのように観察している事に気付きながらも。
7
変過ぎる。
チィはそう結論付けた。何故ならあまりにも、自分がかいがいしく看病されているからだ。
体液のにじむ傷は、毎日のように包帯を代えられている。
更に、体にいい、滋養のあるおいしい物をたらふく与えられている。
チィは、あまいお粥なんてものを初めて食べた。
それが世間一般では、病人食と呼ばれるような、あまりおいしいとはいいがたい物でも、緑の花弁の中でも底辺の生活だったチィからすれば、おいしい物だった。
そしてぜいたく品であった。
何しろ緑の花弁では、お目にかかった事がないお乳がたっぷりを入れられているのだから。
チィはもらえる物はいくらでも貰う事にしていたので、毎日用意されるその食事を、たっぷりたらふく食べていた。
チィがここ数日やっているのは、食べて眠る事だ。
これは大変に贅沢な物であり、チィは今頃必死に盗みをしているだろう、子供たちに申し訳なく思ってもいた。
どれだけ体が辛くても、休む事なんてできないのが、底辺の人間なのだ。
しかし。
「もうそろそろ大丈夫だ」
チィは、完治などしていないにも関わらず、体が痛まなくなった辺りで、そろそろ逃亡するべきだと結論付けた。
逃げ出さなければならないのだ。
正体が露見する前に。
露見したが最後、どう扱われるかわからない。貴族は気まぐれで、チィのような身分の人間など、ゴミくずのような扱いなのだと知っていた。
そのためチィは、体の準備を整えて、男がどこかに行ったのを幸いと、立ち上がった。
そして、部屋にあった一番金目の物らしい、金の飾り物を掴んだ。
金が含まれている割合が高いらしく、それはずしりと重い。
これがあれば、一週間は食っていける、と判断したチィは、それを与えられた衣類のポケットに突っ込んだ。
だが。
「おい、おちびさん……そろそろ体の様子を……」
男がいきなり入ってきて。チィを見て固まった。
やばい。
見つかった。
チィの血の気はひき、しかし彼女は離れしていた。
そのため何をしたかと思えば、すぐさま男の脇をすり抜けて、逃げ出そうとしたのである。
脇を通ったチィを見た男が、はっとしてすぐに、追いかけてくる。
「待つんだ!」
待ってたまるか。こちらは命あっての物種だ!
チィは内心でそんな事を思いながら、全速力で走った。
しかし、食って寝てしかしていない、怪我人の体では、きりが知れていた。
まして、あれだけの重傷の後だ。
普段の半分以下しか、本領を発揮できない。
更に運が悪く、チィはこの建物の造りを知らなかった。
そのため、男にいつの間にか、行き止まりまで追い込まれていた。
絶体絶命、とチィが唇を引き結んだ時だ。
男がチィの肩を掴むほど近付き、実際に掴んで、怒鳴った。
「あんな怪我をしていたんだから、もっと大人しくしていろ!」
叱られたわけである。
その予想外の事に、チィは数秒黙り、男はチィの胸ポケットの、飾り物に気付いた。
「これは……」
終わった。
チィは子供たちに、内心でお別を告げた。
俺は生きては戻れない……死んでも戻れないわけだが。
「……ちょっとこっちに来るんだ」
そう言った男が、体力不足でふらふらとする彼女を、当たり前のように抱きかかえ、歩き出す。
なんで怒らないんだ。
チィからすれば訳が分からなかったが、男からすれば理由のある態度のようだった。
そして彼女は、先ほどの部屋に連れ戻されて、問いかけられた。
「いつもこんな事をしているのか?」
嘘を言ったら最後、もっとひどい目に合うかもしれない。チィはそんな判断をして、こくりと頷いた。
「普段はどんな事をしているんだ」
男の問いかけに、チィは正直に口を開いた。