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「書庫に入りたい?」
「ああ、あたしが習った文字が本当に使える物なのか、知りたいんだ。どうもいい所の奥様は、あんまり白昼堂々外に出ないんだろう? あたしも昼から外に、顔をさらして歩いている奥様なんて見た事ないし。でも仰々しく目立つように、外に出るの肌に合わないし」
「そうか。……でもいつかは、私の隣を歩かなければならないんだが」
「その時には、もう少し、いい所の奥様としての化けの皮を被っているだろうよ。あたしはまだ、あんたの奥様として外に出たらあんたを辱めるだけでしかない」
「お前は私が知っているどんな女性よりも、ずっと強く気高い」
「そんな嘘は言わなくていいし、おべっかなんていらない。……それに、町で昔聞いたけど、ほいほい外出しない奥様が、貞淑な立派な奥様なんだろう? あんたの奥方になると決めたのだから、あんたの側の流儀に合わせる事も必要だ」
そう生きると決めたのだから、そちらの流儀に合わせる。
それは並大抵の意思で選ぶものではない。
人間、生きてきた場所の生き方が一番楽なのだ。
他者の流儀に合わせる事を、面倒だ、いやだ、自分の流儀が一番正しい、と思ってしまう物なのだ。
そのために、異国に行って、その異国の風習や流儀が自分と違うと、それの意味など深く考えず、馬鹿にするものなのだ。
場合によっては、異国の流儀を無視し、自分の流儀を周りに強いたりする。
しかし目の前の娘は、それではなく、そちらの流儀に会わせたいのだ、とまっすぐに言い切ってみせる。
それが強い、とオーガストは思った。
「それでは、書庫の鍵は私しか持っていないから、お前に渡しておこう」
「大事な物だろうに」
「お前は本を汚さないだろうし、大事に扱ってくれるだろう。見た所物を乱雑には扱わない」
「ありがとう」
チィは、オーガストが手渡してきた立派な鍵の鎖を頸からかけて、言った。
「なくさないし、本だって大事に扱う。もしかしたら、あんたの役に立つ物を覚えられるかもしれない」
「……でも、チィ」
「なんだ?」
「あまり性急に、こちらに合わせようとしないでくれ」
「なんでだ?」
「お前の速度で合わせてほしいんだ。私はお前をそうやって縛り付けるために、求婚したのではないのだから」
チィはにやりと笑った。
「安心しろって、自分の速度じゃないもので物を進めれば、最終的に自分にしわ寄せが跳ね返ってくる。それの痛みは計り知れないし、場合によっては修復不可能。ちゃんと自分で納得できる速さで生きるさ」
ところで、とチィは男をみやる。
「あんた数回、スリに遭いかけているな」
「わかるのか」
「あんたの服の汚れた場所の具合からなんとなく。オードリーだったらそのスリが男なのか女なのかまで見るかもな。あいつそういう目がいいんだ」
「そうか。スリに関しては、あの忠告が実に役に立っているんだ。おかげで、スリを払いのけて地面に叩きつける事をしなくてよくなった」
チィは男を上から下まで眺めて、呟いた。
「あんたを狙うって、よっぽど見る目のないか自分に自信がありまくってる馬鹿だな」
「何故?」
「あんたは戦う事を知っている体と、危害を加えた相手に反撃をする事の出来る目をしている。それに、あんたの見た目から判断できるのは、財布を狙うには分が悪い」
「そんなにも?」
「あたしだったらあんたじゃなくて、あんたの脇にいるかもしれない従者とか、あんたの脇で平和ボケしてるかもしれない上司とか狙うな」
「……実に参考になる意見だな。実際私よりも、私の隣を歩く上司の方がスリの被害に遭っているのだから」
「スリの被害に遭いたくなかったら、周りをちゃんと見て警戒するってのが一番だ。スリの手合いは、警戒しているようないかにもな空気の相手なんて、厄介だし狙いたくない相手だもの」
チィはごろりと寝転がった。
「……あんたはあたしを奥方にしたのに、抱かないのか」
「お前はまだ見るからに、私が抱きしめるだけで骨を折ってしまいそうだ」
「まあ、いつかその時は来るんだろ? 与えられるだけってのは気持ちが悪くてしょうがないんだ」
「覚えておこう」
寝転がった彼女の脇に、オーガストが寝転がる。
「不思議だ」
「何が」
「お前の脇と言うのは、どんな人間でもすぐに眠れるほど、安心するものなのか」
「さあな。あんたが図太いだけなのかもしれないぜ」
彼の方に体を向けた彼女が、相手の腹のあたりに手を置き、ゆっくりとした調子で軽く叩く。
そして唇から、優しい音が始まる。
「その子守歌はとても、温かくて優しい。体から力が抜けて行くし、起きた時もとても気分がいい」
「そりゃあな、子供たちに大好評の子守歌だもの」
それだけではないだろう、とオーガストは思ったのだが、彼女が柔らかな顔をしているのを崩すのがあまりにももったいなかったために、何も言わなかった。
そしてすっと深い眠りに落ちていった。
その姿を見届けていたチィは黙って立ち上がる。身のこなしは音ひとつ立てない、見事な物だった。
貴婦人は物音を立ててはいけない、と言われているので、その点に関してだけ言えば、彼女は合格ラインと言っていい所にいただろう。
それ以外の場所、例えば口の悪さなどは目も当てられなかったわけだが。
「あんたが与えてくれた分だけ、あたしはあんたに返すだけさ、オーガスト」
彼女は小さくそういった。
「それがあたしの流儀だからな」