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チィはオードリーが脇に張り付いた状態で、膝を抱えていた。
その脇では、オーガストが円座に座っている。最初はチィに円座を渡したのだが、いらないと拒否されたのだ。
静かな夜だ、と心底思う夜だ。水の流れる音がしない。地下水路で、水が流れて反響する、そんな音は何一つ聞こえてこない。
「静かな夜だ」
「そうだろうか」
「静か、だろう」
チィが呟いた辺りで、外の人の騒ぎが遠く聞こえている。
「これで静かなのだろうか。今日はことのほかうるさい夜だろう」
「ねぐらにしていた場所は、もっとうるさいんだ。……みんなよく眠っていて、ありがたい」
チィはルルの額の髪をかき上げてやり、むづがっているスザクの上に乗り上げる、ディンを退かしてやった。
「この子たちが、眠れないとあたしは嫌なんだ」
「……何度も思っている事を、言ってもいいだろうか」
「なんだ?」
チィは相手を見返した。軽い明かりの中で、彼女の痣はひどく濃く映る。火傷の痕だ。
二度と消えないだろう、そんな傷の痕である。
それの中で。
星の明かりに反射するように、きらきらと瞬いている浅葱色の瞳は、この地方で貴重な物とされている、透き通った水を思わせた。
同時に、魔性のような複雑な色味だとも思わせる。
「君はまるでこの子たちの、母親の様だ」
「姉じゃなくてか。こんなにたくさん、子供産めないぜ。月のモノだって、この最近になってようやく来たんだから」
何でもない事のように告げる言葉は、とても意外な物のようだった。
「普通、月のモノは……十三歳から十四歳くらいで、来ると聞いているのだが」
「食べれない生活で、大人として成長できるわけないだろう。歳を重ねただけで、大人の体になれると思ったら大間違いだ。食わなかったら、背丈も何も伸びない。……ここ数年は腕が上がったから、食えるだけの量が一気に増えたんだ」
腕とはこの場合、盗みの腕である。褒められた事ではないと知っているチィは、そこを詳しくは説明しない。
だが、彼女の生き方を聞いて、彼女を妻にすると決めたお人よしは察したらしい。
「そうか。……よかったというべきなのか、それともそんな事に腕をあげなくていいと叱るべきなのか」
「あんたはそれは間違っている、と言っていいだろうよ。間違った道なのは知ってんだ。実はな。……でも、教会で学ぶ事、文字を読む事、初歩の計算を習う事、商売の事……なにも教えてもらえる余裕がない子供の行く先は、あたしみたいなものなのさ。たいてい、何処かでへまをして死ぬ奴の方が多い」
チィはまっすぐにオーガストを見たまま、迷いなどなく語っていく。
「あたしは、自分の道が間違っていると知っていても、この道を選ばなかったら、死んでいた。だからあたしは、あたしだけは、この道を悪だとは言わない」
「間違っているのに、悪ではないと?」
「悪は何をもって悪なんだ? 世間一般で悪と言われているからなのか? あたしは生きたかったんだ。生きなきゃいけないんだ。毎日の食べ物を手に入れる事、それの手段がこれしかないのにそれを、悪だというのはあたしには、出来ない」
ごそりとオードリーが動いた。そしてチィの膝の上の、良い所に頭がおさまったようだ。
また寝息をたてはじめる。
「……だから、あんたの嫁さんになる事に同意したんだ」
「ああ、そうだな」
オーガストは何か彼女の言いたい事を察したようだ。かすかに笑う。
「この屋敷ならば、必要な勉学は教える相手をつけられるからな。……この子たちに何を教えたいんだ、君は」
「文字を読む事を最初に。それから、計算を。後は、この子たちができる限り、生きる道を選択できるようにししたいんだ。あたしみたいな、これしか道がないっていうのは、終わらせたい」
「その物言いがまるで母親だな。子供には生き方を選べるようになってほしい、というあたりが」
「……この子たちは、あたしが何とか守り抜けた子供たちなんだ。本当はあと十人から十三人くらいいたんだけれど」
「その子供たちは」
「死んだ。今年の流行り病は強力だったからな。体が弱っていたり、疲れていたり、酷い怪我をしていたり、もともと体が弱かったりした子供たちは、死んだ。……寝ないで看病してさ。でも、気付いたら冷たくなってんの。一瞬目を離したその隙に、死神に魂とられちまってんの」
チィはその時を思い出す。するとひどく胸が痛み、苦しい、というほかない感情がせりあがる。
地下水路で、皆で看病したのだ。それでも間に合わなかったし、助ける事は出来なかった。
幼い子供たちが、何度も仲間の名前を呼んでいるのに、躯になった彼らは答えない。
その光景は、チィにすさまじいほどの無力感を与えたものだ。
守り切れなかった、という絶望も重なり、チィはなんとしてでも、今いる子供たちだけは、大人になるまで守り切ろうと決めたのだ。
彼女自身も病に侵されていたのだが、彼女は自力で回復した。おそらく体力があったからそれが可能だったのだ。
という事実も、少女は認識していた。幼いという事はそれだけで、病気に負けやすいのだとも。
幼いのは罪なのだろうか?
弱いというのは、それだけで罰を受けなくてはいけないのだろうか?
そんな事も、度々思ったものだ。教会では誰もそれの答えを説法で、話したりしない。
「……泣くな」
オーガストが手を伸ばしてくる。そして抱き寄せられて、囁かれてようやく、チィは自分が涙を流していると気付いた。
「涙がもったいないな。泣いてもあの子たちは還ってこないのに」
から元気の様だ、と思いながらも、彼女は気丈な声でいう。
「……泣いてもおかしな事ではないだろう。君の家族が、何人も死んだのだから」
抱きよせて、頭を撫でている男が呟く。
「それほど、何人もの家族を一気に失っていると、正気を失いそうだ。私だったらとても耐えきれないかもしれない。……大事な家族だったんだろう。そんなに亡くして……君は強いのだな」
「馬鹿野郎、あたしが正気をなくしたら、誰が残った子供たち食わせていくんだよ」
「そうだな」
オーガストが頭を撫でている間だけ、チィは涙をこぼしていく。
「手を離してくれよ。涙が止まらなくなる」
「それでいいと思うが。……遠い昔、私は涙が心の薬だと聞いた事がある。君はこれからのために、一度は涙を流して、心を癒した方がいい気がするのだが」
「……あー、くそ、あんたが手を離さないのは分かった。だから」
チィは力の差やその他もろもろから、男の腕の中を脱する事をあきらめて、こういった。
「今だけ、泣かせてくれ」
「……そこまで気を許してくれて、ありがたい」
「あんたが、あたしの子供たちの話を馬鹿にしたり、当然だと言わなかったからだ」
「……」
「教会でも、当たり前の不幸ってあつかいだったからな。あたしたち弱者の中の弱者が、そうして死ぬのは教会の中でも当たり前だったのに、あんたはそう言わなかったから。……少し見直したんだ」
真顔で呟いた少女に彼は、言った。
「ただ私が君だったら、馬鹿には出来ないし当然だとも言えない。当たり前だろう。……君ほど死に物狂いで生き抜いて、守り抜こうとする人間の戦いを」
「……そうなのか。あんたの言い方はよくわからない。……一つ聞いてもいいか」
「答えられる答えを、持ち合わせていたら」
「あんたの嫁って、一体何すりゃいいのさ。……悲しいかな、あたしはそういう常識を知らないし、こんな環境の当たり前なんてもっと知らないし、でも、あんたが約束を守っているんだから、あたしも約束を守るのは当たり前だからな」
「昨日の今日で、守っていると?」
「ここであたしを除いて、あんたは子供たちを殺せる」
チィの言葉に、男は仰天した顔になる。まさかそんな事を言われるとは、という表情だ。
「あたしだって邪魔なら殺せる。油断したところで、っていうならもうとっくに。あたしたちを売り飛ばすんだったら、何日がかりでもだますなんて言う選択肢は、まず取らない。無駄だから。ほんの一瞬、油断しただけであたしたちはあんたの好きなようにできる。何故か? あんたの方が、たくさんの人間を好き勝手に、命令できるからだ。数の暴力って侮れないんだぜ。それをあんたは取らない。追い出す事もしない。あたしを側に寄せて、油断を狙って喋っているにしては、あたしが急所をとらえやすい抱え方をしている。……普通油断を狙っているんだったら、急所なんて見せられっこないんだ。隙を狙って反撃されたら、困るから」
チィの言葉は的確で正確であり、場数を踏んでいるとしか思えない言動だった。
男が彼女の判断や観察眼、そしてその他の目の良さに驚いていれば、続く言葉があった。
「それをあんたはしない。あんたは約束を守っている、ってあたしが判断するには、材料が多い位だからな」
これで多少、見直さなかったらあたしはただの傲慢だ、と少女は唇だけで笑って見せた。
子供たちが起きてしまうので。